身体という空間・「天皇の起源」18



天皇の起源について考えることは、人間は根源において何を祀り上げようとしている存在であるかと問うことだ。
天皇を祀り上げるきっかけは、政治にあったのではない。
政治など知らない原始人だって、人間として何かを祀り上げて生きていた。その延長として、天皇という存在が生まれてきた。
天皇の起源を問うことは、原始的な心性を問うことだ。そこに、日本的な美意識の根源のかたちがある。
人間は進化発展を目指す生き物ではない。
人類七百万年の歴史の半分は猿と同じ知能と身体だったのだし、一万年前までは共同体(国家)持つこともなかった。人間が進化発展を目指す生き物であるのなら、これはあまりにも遅すぎることである。
日本列島の1万3千年の歴史の1万年以上は共同体(国家)を持たなかった。大陸ではすでに6,7千年前からすでにそのシステムが出来上がっていたというのに、日本列島では2千年の歴史しかない。人間が共同体(国家)を持とうとする生き物であるなら、日本列島はあまりにも遅すぎる。日本列島の住民は、べつに大陸よりも知能が劣っていたわけではないのに、である。
知能が劣っているわけではないが、われわれは大陸の人々よりも原始的な行動や思考をより多く引きずっている。
原始的なものをそのまま洗練させてきたのがこの国の文化なのだ。
いや、人間は進化発展しようとする生き物ではないとすれば、世界中の人間がどこかしらに原始的な心性を引きずっているともいえる。
原始時代には、政治も宗教もなかった。根源においては、そんな意識が人間を生かしているのではない。



二本の足で立っている猿である人間は、根源においてその姿勢の居心地の悪さ(=穢れ)を抱えて存在している。そこで人間の根源的な願いとは何かと問うなら、この居心地の悪さ(=穢れ)が癒されることにある。人間の思考や行動は、根源においてここから発している。
では、それは何によって癒されるのか。
二本の足で立っていることを忘れることによって癒される。
人間は気持ちいいことを求める、というが、気持ちいいから忘れるのではない、忘れることが気持ちいいのだ。
人間は、気持ちいいことを求めているのではない。忘れたいのだ。
気持ちいいことを求めるという欲望が先験的にあるのなら、人類700万年の歴史のうちの半分は猿と一緒だった、ということにはなっていない。立ち上がった瞬間から進化発展を開始しているし、もっと早く共同体(国家)をつくっている。
この国にだってもっと早く共同体(国家)が生まれている。
そのようになぜすぐに進化が起きないかといえば、ただ忘れたいだけだからだ。忘れていられるのなら、進化する必要なんか何もない。体をどうこうしたいのではない、ただ忘れたいだけだ。
体のことを忘れたいという衝動によって、体が動くということが起きる。
つまり、身体の物性が忘れられなくなるという窮地に陥って、はじめて進化が起きてくる。
意識が身体に張り付いて引き剥がせなくなるというストレスが募って、なんとか引き剥がそうともがく。そこまで来て、やっと進化が起こる。
人間が二本の足で立ち上がったことにはじまって、地球の隅々まで拡散していったことも、共同体(国家)が生まれてきたということも、根源においてはおそらくこの身体性が作用している。



人間は、体の気持ちよさなど求めていない。体を忘れたがっているだけだ。
どちらだって同じじゃないか、というべきではない。
体の気持ちよさを求めて体に意識が向いてばかりいたら、体のことを忘れられなくなってしまう。
心が気持ちいいのであって、体そのものの気持ちよさなどというものはない。
体のことを忘れてしまうのが、われわれの生きるいとなみである。
人間は、身体(=自分)を忘れたい存在である。
だから人間が恒常的に持っている身体の自覚は、たんなる空間的な「輪郭」にすぎない。身体のことを忘れている状態の身体、じつは人間だけでなく、すべての生き物は身体を「空間としての身体」として自覚し操作することで生きている。
「物体」としての身体は、痛いとか痒いとか暑いとか寒いとか腹が減ったとか息苦しいとか、身体の危機という不測の事態において自覚されているだけである。
「身体の輪郭」をどう扱うか。これこそもっとも原初的な問題である。この問題とともに原初の人類は二本の足で立ち上がったのだ。
そして、この問題とともに歴史が流れてきた。
たとえ現代人であっても、人間が原始的であればあるほど、この問題の上に考え、感じ、行動している。
この問題こそ、人間というか生き物の生の基礎である。人間の知性や感受性や身体能力は、根源的にはこの問題の上に成り立っている。じつは、この問題を切実に抱えているものほど、知性や感受性や身体能力が豊かなのだ。
社会の制度性に飼い馴らされている人間ほど、「生き延びる」などといって身体の物性にこだわる。
身体の物性を忘れていたら、「生き延びる」などという問題は発生しない。社会の制度性に踊らされているものばかりが、そんなスローガンを掲げて大騒ぎしている。
生きることを忘れるのが、生き物の生きるいとなみなのだ。生きることを忘れながら、「結果」として生きているのが生き物である。
弥生時代奈良盆地に、社会の制度性などというものはほとんど機能していなかった。彼らもまた我々と同じように社会の制度性(=政治)に踊らされて生き延びようとあくせくしながら生きていたと考えるなんて愚の骨頂だ。
彼らは、われわれよりもずっと「身体の輪郭」をどう扱うかという問題を切実に抱えて生きていたはずである。なにしろそれが日本列島の文化の伝統の基礎であり、生き物としての根源の問題なのだから。



人間の身体は、二本の足立っていることの「穢れ」を負っている。ここから、人間的ないとなみがはじまる。
われわれのこの生は、「身体を忘れる」ということの上に成り立っている。
しかし忘れ方の作法は、人さまざまだ。
共同体(国家)の歴史を歩み始めた人類は、大きく密集した集団の中で暮らすようになった。そうなれば、他者の身体と接近しすぎている自分の身体をどうしても意識してしまう。それは、「体(の物性)を忘れることができない=体をうまく動かせない」という身体の危機である。
人類の歴史は、この事態にどう対処してきたかという歴史でもある。まず、その解決策として二本の足で立ち上がった。
そうして氷河期明け以降に「異民族」との出会いを体験した大陸では、「未来」に向かって他者や他の地域を排除してゆくという観念のはたらきが生まれてきた。
一方、海に囲まれた島国の日本列島では、「異民族」との出会いがなかったから、そんな目的意識という観念のはたらきを持てないまま、ひたすら「今ここ」の身体とかかわってゆくしかなかった。
「他者を排除する」という観念のはたらきが希薄だった日本列島の身体を忘れる作法は、大陸よりもずっと直接的で原始的だった。
人と人は「未来」に向かって「契約」を結ぶ。日本列島が契約社会ではないということは、未来意識が希薄で「今ここ」の「なりゆき」に身をまかせることが生きる作法になっている社会だということである。
まあ原初の人類は「いまここ」の「なりゆき」で立ち上がっていったのだ。未来に向かう何かの「目的」があったのではない。
日本列島の文化は原始性を引きずっている。弥生時代奈良盆地の人々の暮らしにおけるもっとも根源的な問題は、「いまここ」のこの身体をどう取り扱うかということにあった。日本列島の文化の伝統は、つまるところこの問題の上に成り立っている。
大陸では「他者を排除する」というかたちですでに身体の問題は解決されている。しかしその方法論を持たない日本列島では、解決できない「穢れ」の意識を抱えたまま、ひたすら純粋に直接的に身体とかかわってゆくしかなかった。
それはまあ生き物としての問題でもあり、だから原始的なのだ。
つまり、原始人が無意識のところで抱えていた問題を意識化(自覚)していったのが日本列島の文化である。



人間の身体性の基礎は、二本の足で立って歩くことにある。そこから人類の歴史がはじまった。
歩くことは、ただ遠くまで歩いてゆくための手段だというだけのことではない。原初の人類は、二本の足で立っていることの「穢れ」をそそいでゆく行為として、歩くことそれ自体に耽溺していった。遠くまで歩いてゆけるようになったのはそのことの「結果」であって、遠くまで歩いてゆこうとする「目的」があったのではない。
歩くことそれ自体のカタルシスがあった。そういう原初の人類の「無意識」を「意識化=自覚」していったことが、日本列島の文化の伝統になった。
「穢れ」意識だって原初の人類の無意識だったが、氷河期明けの縄文時代以降の日本列島の住民はそれを「意識化=自覚」し、文化のレベルまで洗練させていった。
日本列島は、歩く文化を持っている。そこに、日本的な美意識のかたちが潜んでいる。
まあ大雑把にいってしまえば、大陸は遠くまで歩いてゆく文化で、日本列島は歩くことそれ自体に耽溺してゆく文化なのだ。
たとえば自動車づくりで、遠くまで走っても壊れない頑丈な車体やエンジンをつくることは大陸の方が上手だろう。しかし、燃費などの走ることそれ自体の効率の高さを実現してゆくことは日本車の独壇場だった。
現在のロボット工学においても日本の技術が先行しているとすれば、歩くことそれ自体に耽溺できる感性や思考を持っているからだろう。
だから日本列島の旅の文化は、目的地を持たない「漂泊」の文化になっている。そしてそれは、生命観や人生観や世界観の問題でもある。
「漂泊」とは、遠くまで歩いてゆくというようなことではない。「いまここ」の歩いているということそれ自体に耽溺してゆく行為なのだ。



他者の身体との緊張関係が募れば、緊張関係の中に置かれている自分の身体のことが気になってしょうがない。他者の身体を排除すれば、忘れられる。他者の身体に穢れを見て、みずからの身体の穢れに対する意識を消去する。そうやって大陸では、いち早く共同体(国家)や階級や私有財産の制度などに目覚めていった。
しかし日本列島では、そういう緊張関係がないまま、ひたすらみずからの身体の穢れが意識されていった。
それは、氷河期までは平原で暮らしていたのに縄文時代になって山で暮らすようになったからかもしれない。
山の斜面では、身体の安定を失う。そういうかたちで、たえず身体の穢れを意識させられてしまう。
世界では、同じ海に囲まれた孤島でも、平坦な地で身体の安定を保って暮らした場合は、依然として氷河期時代のままで暮らしていたりすることもある。
もちろん日本列島の縄文時代に海のそばの平坦な地で暮らしていた人々もいたが、多かれ少なかれ交流があるから、観念のレベルは全体で平準化してゆく。
縄文の男たちが山道を旅ばかりしていたのは、山の斜面に立っていることの身体の不安定(=穢れ)から逃れようとする衝動が募ったからかもしれない。
二本の足で立っていることの居心地の悪さは、歩き出せば解消される。これによって人類は、地球の隅々まで拡散していった。
その解消の方法として、大陸では他者や他の地域を排除しようとするかたちで共同体の制度性が発達したが、そういう他者や他の地域との緊張関係のない日本列島では、原初的な「歩くことそれ自体のカタルシス」をそのまま洗練させてゆくかたちで解消してゆくしかなかった。



山に囲まれて暮らしていれば、山が壁になって、物理的にも精神的にも山の向こうの地域との緊張関係を持つことがない。山の向こうがどうなっているかなんてわからない。
啄木は「ふるさとの山に向かいていうことなし」と詠ったが、われわれは、山を前にして思考停止におちいる。思考停止におちいることの安らぎというのがある。
人間は、みずからの身体の物性に対する鬱陶しさや他者に対する警戒心を持っている。そういう思考がすっかり停止してしまうことのカタルシスを「ときめき」とか「やすらぎ」という。
山で暮らしていた縄文人は、もちろん異民族など知らないし、しかも山の集落に訪ねてくる旅人は疲れ果てていたから、警戒するよりも介抱してやりたいという気になる。
日本列島の集落では、その後の歴史においても、疲れ果てた旅の僧や旅芸人や旅の乞食などを受け入れもてなすという習俗がずっと続いていった。これは、縄文以来の伝統なのだ。
しかも縄文時代の旅人と集落の関係は、男と女の関係でもあった。
求愛ダンスをする鳥のオスは、何度もメスから追い払われる。生き物のメスは、根源においてオスに拒否反応を持っている。
そのときメスは、思考停止におちいって「もうどうでもいいや」という状態になってはじめてオスを受け入れる。
思考停止におちいる快感は、身体の物性を忘れようとする衝動からもたらされる。
セックスの快感は、思考停止におちいってダイナミックに身体の物性を忘れてゆくことにある。
疲れ果てた旅人を前にすれば、縄文集落の女も拒否反応が消えて、自然に受け入れる態度になってゆく。しかも山の中の集落は、山が壁になってもともと山の向こうの「他者」との緊張関係を持っていない。
日本列島の人と人の関係の伝統は、良くも悪くも他者とのあいだに警戒心という緊張がないことにある。
縄文人は、海の向こうの「異民族」を知らなかったし、山の中の集落は山が壁になって山の向こうとの緊張関係もなかった。
そして、山の斜面は二本の足で立っていることが不安定だから歩き出さずにいられなくなり、男たちは旅ばかりしていた。
それらの条件が重なって、旅をする男たちが女だけの集落を訪ねてゆくという縄文的な求愛の文化がつくられていったのだろう。
彼らは、大陸のように「他者」を排除することによってみずからの身体の「穢れ」を意識しない状況に立つという作法を知らなかった。ひたすらみずからの身体の「穢れ」を意識し、ひたすらそそごうとしていった。



縄文人は、他者を排除する「政治」を知らなかった。その、人と人の関係は、ただもう無防備でイノセントにときめきあってゆくことにあった。そういう関係の作法で1万年を生きてきた人々が、弥生時代になったらいきなり他者との緊張関係の上に立った「政治」という行為に夢中になってゆくだろうか。そういう社会にあっさりと移行してゆくことができるだろうか。
そのころの日本列島は、世界でもっとも「政治」が生まれにくい風土になっていた。だから共同体(国家)の発生が大陸よりも大幅に遅れてしまった。
弥生時代になって大陸から人がやってきたからすぐ大陸のような社会になっていったというわけにはいかないのだ。大陸からやってきた人々だって、三代も続けば日本列島の風土に染められた住民になってしまうのである。
そして、今だってこの島国は、本格的な「政治」が生まれにくい「なりゆき」の文化の風土性を引きずった社会の構造になっている。
この島国には、「政治=国家」があらわれてくるまでの長い過程段階があった。その過程段階で天皇という存在が生まれてきた。
身体の「穢れ」を深く意識し、それをそそいでゆこうとする作法。このことが日本列島の文化というか美意識の基礎になっているのであり、ここから起源としての天皇という存在が生まれてきた。



身体の「穢れ」をそそぐもっとも原初的で究極の作法は、「歩く」ことにある。
縄文人は、歩くことそれ自体にこだわりながら旅とともにある社会の構造をつくっていった。
歩くことこそ、日本列島の文化=美意識の基礎である。
そして人類史においては、歩くことが進化して踊り=舞が生まれてきた。
日本列島の住民の美意識は、まず踊り=舞とともに洗練してきた。
「やまとことばの身体性」などとよくいわれるが、それだって、「歩く」ということが文化の基礎になっている風土だからだ。
そういう文化風土から天皇が生まれてきた。
政治の場からではない。そのとき人々はまだ政治というものを知らなかった。古代社会の構造や人と人の関係は、「穢れ」をそそぐ作法の上に成り立っていた。
天皇が生まれてくるきっかけは、人々の「穢れ」をそそごうとする意識にあった。その意識が古代人の生きるいとなみを成り立たせていた。
「穢れ」をそそぐ作法としての踊り=舞。
縄文集落には、たいてい中央に広場があった。これが何のためのものかといえば、みんなで歌い踊るお祭りの広場だったに違いない。ここで、旅の男たちを迎えたのだ。
男たちは一夜の宿とセックスを求めてやってきたし、女たちもそのつもりではあったが、知らない男をいきなり家の中に迎え入れるということができるはずがない。
文献が残っていないのだから確かめようもないが、その祭りの最初の作法は、みんなで一緒に踊ることにあったはずである。
日本列島の歌は言葉の表現として発達し、メロディやリズムに対する志向は希薄だった。
能の謡などは、外国人からすればただの音痴の歌でしかないだろう。しかしこれが、日本列島の歌の基本なのだ。
音階やリズムよりも言葉を詠い上げること。日本列島の歌は、祭りの場で、男女の愛のやりとりの道具として洗練発達してきた。
しかし、いきなり求愛してゆくことなんかできない。
まず一緒に踊って、その場の親密感を醸成してゆく必要がある。求愛するといっても、それからの話だ。
当たり前に考えて、まず踊りからはじまるのが順序だろう。
踊りの文化こそが、縄文人の社会性の基礎になっていた。踊りこそが、人と人のあいだを親密にする。その親密さをもとにして社会が成り立っていた。
弥生時代奈良盆地の社会だってこの延長の上に成り立っていたのであり、弥生時代の新しい農業集団の暮らしは、この延長で発展していった。この暮らしの中から天皇が生まれてきた。


10
人類の芸能の起源は、踊りにある。
人類は、歩くだけではすまなくなって踊りを覚えていった。というか、歩いていった果ての人と人の出会いのときめきから踊りが生まれてきた。言いかえれば、定住することによって踊りの文化が生まれてきた。
歩いているかぎり、その行為によって二本の足で立っていることの「穢れ」はそそがれるのだから、踊る必要はない。旅の果てに定住し、定住することの穢れをそそぐかたちで踊りが生まれてきた。踊りは、歩くことの代替であると同時に、歩くことが進化したかたちの行為でもある。
縄文社会の成り立ちの基礎には「歩く」ことと「踊る」ことがあった。そしてその延長で弥生時代の新しい農業集団がいとなまれていった。
「歩く」ことと「踊る」ことは、日本列島の集団性の基礎の問題なのだ。おそらく、そういう集団性から天皇という存在が生まれてきた。
そして日本列島の踊り=舞は、「歩く」ようなかたちの身体作法として洗練してきた。
「歩く」ことは、身体の物性を消去して、身体を「空間の輪郭」として扱ってゆく行為である。
日本列島の住民は「歩く」というかたちの舞にこだわってきた。それは、身体を「空間の輪郭」として扱いながら身体の「穢れ」をそそいでゆく作法にほかならない。
縄文・弥生人の人と人の関係の基礎には、他者の舞う姿を祀り上げてゆくという体験があった。そうやって他者にときめいてゆくことがまた、みずからの身体の物性を忘れ、身体の「穢れ」をそそぐ体験になっていた。


11
縄文人は、男と女が向き合うというかたちで踊っていた。それは、中世のころまで残っていた習俗らしく、そのころの大和絵の風俗画などにも描かれている。
日本列島の踊り=舞は、祭りにおける出会いのときめきを体験してゆく作法として生まれ育ってきた。
われわれ現代人は、すでに他者に「穢れ」を見る心の動きを持ってしまっている。だから、そういう心理機制が希薄だった縄文・弥生人にとってみずからの身体の「穢れ」をそぐということがどれほど切実な問題だったかということは理解できないところがある。しかし彼らの社会は、まずその問題を基礎にして成り立っていたのだ。
彼らの社会の成り立ちは、政治や経済の問題として語るだけではすまない。
いまだって、お祭りが人生の最優先事項として生きている人はいくらでもいる。
娯楽芸能こそが根源において人間を生かしているのであり、社会の構造は、じつは人々のそういう心の上に成り立っているのだ。
現代はお金がないと生きてゆけないし、われわれの暮らしは政治の動向に大きく左右されているが、それでもこの社会の構造を根源において決定しているのは、人と人の関係の心模様であり娯楽芸能のかたちなのだ。
とくにこの国はそのような傾向が色濃いわけで、それが伝統なのだ。
あちこちから人が集まってきてお祭りになり、みんなで舞い踊る。起源としての天皇という存在は、この習俗から生まれてきたのだ。
異民族との緊張関係を知らなかった古代以前の日本列島では、第三者=異民族を排除するという心の動きが育つことなく、ひたすらみずからの身体の「穢れ=物性」を意識していった。そしてその穢れは、自分を忘れて目の前の他者にときめいてゆくというかたちでしかそそぐことはできなかった。
目の前の他者にときめきながら自然に体動いてゆく、これが踊りの起源である。
他者を「祀り上げる」ということ、そのための作法として踊り=舞の文化が洗練してゆき、その果てに起源としての天皇という存在が見い出されていった。
天皇は、政治的な支配者としてわれわれの前に登場してきたのではない。目の前のその無垢な存在である他者を、「穢れ」をそそいでいる存在として、民衆の方が勝手に祀り上げながら天皇にしていったのだ。
赤ん坊は、世界中の人間が「かわいい」と思うだろう。そういう「穢れ」がそそがれたイノセントな「姿」を、弥生時代奈良盆地の人々は、祭りの踊り=舞の中から見いだしていった。それが、起源としての天皇である。
「姿」とは、人類普遍の「空間としての身体の輪郭」のことでもある。そういう「姿」にときめいてゆく美意識が、起源としての天皇を見い出していった。
天皇は、「王=支配者」としてどこかから奈良盆地にやってきた存在ではなく、奈良盆地の中で民衆自身が見い出していった存在なのだ。ここのところが大事だ。彼らはその存在を「穢れ」をそそいでいる「姿」として見い出していった。
天皇の起源は、そういう美意識の問題なのだ。
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