生贄の起源・「天皇の起源」19



政治権力から天皇が生まれてきただなんて、ずいぶん安直な発想である。
人類史においてどのようにして政治権力が生まれてきたのかということをちゃんと考えていないのだ。
人類は、700万年かけてやっと政治権力を生み出したのである。そんなものが先験的に存在したかのように語られては困る。
政治権力なしの「なりゆきまかせ」で集団をいとなんでゆくのが人間の本性的な生態である。日本列島の歴史は、その「なりゆきまかせ」でどこまで集団はふくらんでゆくことができるかという、いわば人類史の実験の場だった。
政治権力は、「異民族」との出会いによって生まれてくる。これが、歴史の証明するところであり、人類は、700万年間、「異民族」との出会いを体験しなかった。氷河期明け以降の1万年前くらいからその現象が起きてきて、約7千年前ころに人類最初の国家=政治権力が生まれた。
そして海に囲まれた日本列島では、大陸から遅れてようやく2千年前ころに「異民族」との出会いを体験し、そこから大和朝廷という政治権力が生まれてきた。
しかし天皇はそれ以前から奈良盆地に存在しており、天皇とは、民衆が支配者のいない「なりゆきまかせ」で集団をいとなんでゆくための「形見=象徴」のような存在であった。



おそらく弥生時代奈良盆地は、政治で動いていた社会ではない。
氷河期明け以降の日本列島の初期の歴史は、そう簡単に政治が生まれてくるような地理的条件にはなっていなかった。異民族との出会いが大幅に遅れた日本列島では、他者との緊張関係から生まれてくる「政治」という集団運営の作法を知らないまま、「なりゆきまかせ」の原初的な作法を洗練させながらひとまず大きな都市集落をつくっていった。それが、弥生時代奈良盆地である。
もちろんこのような段階は世界史においてもあったのだが、大陸では、すぐに国家の歴史に移行していった。
しかし日本列島では、1万年以上その作法で歴史を歩み、その作法で集団をいとなんでゆくという文化を洗練させてきた。
弥生時代奈良盆地の人々は、未来に対する計画性とか未来を先取りするというような「政治」によってではなく、「いまここ」の「なりゆき」の語らいを活性化することによってその大きな集団を運営していた。これはもう、今なお続く日本列島的会議の伝統である。会議が好きなくせに、会議の進行はもたもたしている。
「空気を読む」などという。会議の結論はその場の「空気」が決定するのであって、誰かの「説得」によって決定するのではない。そういう「説得する」という関係が希薄な習俗からは、なかなか強い権力を持ったリーダー(=支配者)は生まれてこない。
みんなが「空気」に説得される、という会議。誰も説得・決定しないから、だれも責任を取らない。だから外国人からは、「日本人は無責任だ」とよくいわれる。
基本的にこの国には、責任を取るべきリーダーは存在しない。
この国は、あまりにも「政治」の伝統が未熟である。
弥生時代奈良盆地に「リーダー=支配者」など存在しなかった。ただ、自分たちの連携の形見としての「天皇」という「カリスマ」いうか「いけにえ」が存在しただけである。



人間は、「いけにえ」を祀り上げる存在である。
猿は、そんなことはしない。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、猿としての生態を放棄し、生きにくさの中に身を置く行為だった。それはまあ、「いけにえ」になるようなことだった。
そのとき人類は、限度を超えて密集した群れの中で体をぶつけ合って行動していることの鬱陶しさから解放された。二本の足で立ち上がれば、四本足でいるときよりも身体が占めるスペースが狭くなり、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくることができた。
彼らは、そうやって生き延びることを放棄した「いけにえ」としての存在になり、「穢れ」をそそいでいった。
人間にとっては、生き延びることよりも「穢れ」をそそぐことの方が大切なのだ。そのようにして人間としての歴史がはじまった。
だから人間は、穢れをそそいでいる聖なる存在を「いけにえ」として祀り上げる。
自分たちが生き延びるために「いけにえ」を捧げるのではない。集団の「穢れ」をそそぐためだ。
人間にとっては、生き延びることよりも「穢れ」をそそぐことの方が大切なのだ。
人間は、そのような「自己処罰」の衝動を持っている。
「いけにえ」は、集団としての「自己処罰」である。
穢れをそそぐことは、自己処罰をすることである。
だから、集団のもっとも清らかな存在を「いけにえ」として神に捧げる。
古代の日本列島では、処女の巫女を神と契る「いけにえ」として差し出したといわれている。そのとき「いけにえ」は、穢れをそそいでいる姿を持った聖なる存在だった。
おそらく、この神と契る巫女の中から起源としての天皇という存在が見い出されていった。
もちろん弥生時代に「神と契る」などという観念はなかったわけで、ただもう、穢れをそそいだ美しい舞姿を持った巫女が「天皇=きみ」として祀り上げられていったのだ。



古代の「いけにえ=いけにへ」とは、どのようなニュアンスの言葉だったのだろうか。
「いけ」は「池」の「いけ」、「別世界」というような意味。古代の池は、竜神とか魔物が住む「別世界」のイメージだった。「いけすかない」といえば、「異次元的な憎たらしさだ」というようなニュアンスだろうか。「いけしゃあしゃあと」といえば、「同じ人間だとは思えない」という思いが込められている。
「にへ」の「に」は「煮る・似る」の「に」、「接近」「成長」「過程」の語義。「へ」は「縁(へり)」の「へ」、「特別な場所あるいは存在」。「にへ」は、一般的には「食い物になるもの」のことをいわれるが、語源的には「特別な存在になってゆくこと」というようなニュアンス。
「いけにへ」とは、この俗世間とは別の聖なる場所で育てられた特別な存在のこと。そこから後世には神に捧げる存在のことを指すようになっていった。
弥生時代に「神に捧げる」などという観念はなかったが、巫女は、山の中の聖なる場所で純粋培養して育てられた舞の名手たちのことで、そういう意味の「いけにへ」としての存在だった。そうしてそこから、起源としての「天皇=きみ」が見い出されていった。
「いけにへ」とは、語源的には、別世界の聖なる場所で純粋培養して育てられている聖なる存在、というような意味だったのだ。
少なくとも弥生時代の日本列島においては、殺して神に捧げるとか、そういう習俗はおそらくなかった。それは、「いけにへ」の起源ではなく、共同体の政治が生まれて変質してきた習俗にすぎない。
二本の足で立っている存在である人間は、誰の中にもみずからの身体の「物性」を処罰しよう(忘れよう)とする衝動がはたらいている。起源においては、そうした「穢れ」をそそいでいる無垢な存在を「祀り上げる」という心の動きからはじまっている。
罪人とかのもっとも穢れた存在をスケープゴートとして排除するというのは、後世の共同体の「政治」にすぎない。
ここでいう「いけにへ」は、そういう意味ではない。
祀り上げられたもっとも無垢な存在、それが、原初の「いけにへ」だった。
天皇は、別世界の聖なる場所で純粋培養して育てられる「いけにへ」であり、現在においてもなおそのような存在であり続けている。
「いけにへ」の「いけ」は「別世界の聖なる場所」、「にへ」は「純粋培養して育てられた存在」のこと。
人間は、「穢れ」をそそいでいる無垢な存在を祀り上げようとする衝動を持っている。赤ん坊がかわいいということだって、まあそのようなことだ。
「いけにへ」とは、無垢で無力な存在のこと。日本列島だけではない、これが、二本の足で立っている人間存在の普遍的な「いけにへ」の姿なのだ。
人間はそのような存在としての「いけにへ」を祀り上げようとする衝動を色濃く持っているから、ほかの動物の赤ん坊に比べたら全く無力な存在である赤ん坊を育て上げることにトライし続けることができたのだ。人間の赤ん坊は、進化すればするほど無力な存在になっていった。人間は、鳥や魚が卵の中で育てているようなひ弱な赤ん坊を、「いけにへ」として外の世界に放り出して育てるのだ。それは、「祀り上げる」という行為である。
人間ほど無力で無垢な存在を祀り上げようとする存在もないのであり、そういう衝動から日本列島の「天皇=きみ」という存在が生まれてきたのだ。
卵の「黄身=きみ」は、語源的には黄色いからそういったのではない。卵の中で純粋培養されている無垢な存在だから「きみ」といったのだ。「き」という発声は、音声と息がぴったり重なっている純粋無垢なかたちで成り立っている。猿の声を「キッ、キッ」と表現したりする。人間にとって「き」は、もっとも原初的で無垢な音声なのだ。



弥生時代奈良盆地の人々は、巫女の舞に、もっとも鮮やかに穢れをそそいでいる無垢な姿を見い出していった。
彼らにとって、巫女の舞姿こそ、もっとも美しかった。
最初に神という概念があって、神は処女の娘とセックスしたがる存在だと思ったからとか、まさかそんな発想ではあるまい。
巫女は、みんなの前で舞を披露する存在として生まれてきたのだ。
原初の祭りは、とりあえずみんなで踊るところから始まった。踊ることが祭りだった。
神に祈りを捧げる儀式としてはじまっただなんて、そんなマンガみたいなことをいわれても僕は信じない。
原初の祭りは、ただもう人が集まってきてその高揚感とともに歌い踊るイベントだったのだ。
そして、もっとも純粋無垢な高揚感は、踊りとともにあった。
弥生時代の祭りにおいては、踊りこそがもっとも大切なイベントだった。なぜならそれこそがもっとも鮮やかに「穢れ」をそそぐ作法だったからだ。



原始神道とは、神にお願いして祈ることだったのではなかった。
それは、穢れをそそぐ作法として発生した。
だから仏教伝来以後に「神」という概念が根付いてきたころの祝詞にしても、神に何かをお願いして祈るというより、ひたすら神を祝福し祀り上げる言葉が詠われていただけである。
弥生時代奈良盆地の人々は、神にお願いして祈るということなどしなかった。していたら、後世の祝詞だってもっと別のかたちになっていた。彼らは、神に「いけにへ」を捧げる、というようなことはしていなかった。ただもうその「いけにへ」を祀り上げていただけだ。そのように一方的に他者を祀り上げてゆくことが彼らの人と人の関係の作法であり、集団運営の作法だった。
そうして集団ということを意識したとき、みんなで一緒に祀り上げてゆく対象がほしかった。というか、人と人が他者を祀り上げるということをしている社会では、自然にみんなが一緒になって祀り上げてゆく対象が生まれてくる。
「祀り上げる」ということをせずにいられない人々だったのだ。神を知らない人々だったから、他者や巫女の舞を祀り上げてゆくということが豊かに起きてきたのだ。
もしも縄文人弥生人に神という概念があったら、おそらく天皇という存在は生まれてこなかった。神を知っていたら、天皇など必要ないのだ。
日本列島で天皇という存在が生まれ天皇を神にしていったということは、日本列島の住民は神を知らなかったということを意味する。
古代以前の社会は、神に祈るよりも、穢れをそそごうとする美意識の上に成り立っていた。
日本列島の「祀り上げる心」は神に祈る自意識や宗教心ではなく、自意識=穢れをそそごうとする美意識であり身体意識だった。
「祀り上げる」ことは、自意識=穢れをそぐことだった。そこにおいて人と人の関係が活性化し、集団が運営されていた。



弥生時代奈良盆地は、そういう原初的な美意識と身体意識の上に成り立った社会だった。
神を知らない彼らにとって、美しい舞姿こそ、もっとも篤く祀り上げる対象だった。
そしてその穢れをそそでいる無垢な美しさは思春期の少女の舞姿にあり、その少女たちが、いわば「いけにへ」の巫女として祀り上げられていった。
起源としての巫女は、神を祀り上げることを仕事にしていたのではない。美しく舞い踊ることが仕事だった。
その穢れをそそいでいる無垢な美しさを純粋培養するために、俗界を離れた山の中の聖なる場所で暮らした。人々は、巫女には労働をさせなかった。みんなで捧げものを持ち寄り、舞に専念させた。世俗の垢で汚したくなかった。そしてそれによって彼女らの舞がより洗練してゆくということを知っていた。
「神と契る」というのは、政治的に変質した後世の「いけにへ」のかたちにすぎない。
弥生時代奈良盆地の人々は、神という存在を知らなかった。すなわち、原始神道に神という概念はなかった。それは、身体の「穢れ」をそそぐ作法だった。その作法として、祭りがあり、舞があった。
人間にとって舞い踊ることの根源的な機能は、身体の浄化作用にある。まあ原初の二本の足で立って歩くことそれ自体が身体の浄化作用だったのであり、歩くだけではすまなくなって舞い踊ることが生まれ育ってきた。この国の縄文時代弥生時代の社会は、そういう原初的な身体性の上にいとなまれていた。舞い踊ることそれ自体や、舞い踊ることの美を止揚してゆくことが、人と人の関係を活性化し、集団運営の原動力になっていた。
そのころ巫女は舞のエキスパートであったわけだが、なぜそのようなエキスパートが生まれてきたかといえば、誰もが日常的に舞い踊ることをしている社会だったからだ。そういう底辺がなければエキスパートは生まれてこない。
では、どのようにして舞っていたのか。
身体の浄化作用、おそらくこれが原初の舞の主題であり、弥生時代のそれでもあった。
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