差別意識の源流・「天皇の起源」20



君が代」というくらいで、「きみ」とは天皇のことなのだろう。
起源としての天皇を政治的な存在として語られても信じられない。歴史家はなぜ安直にそのように決めつけてしまうのだろうか。
「きみ」という言葉のおさらいをしておこう。
卵の「黄身=きみ」は、語源的には黄色いからそういったのではなく、卵の中に大切にしまわれてあるもの、という意味だ。
そして弥生時代奈良盆地の人々は、山の中で純粋培養して大切に育てられている巫女のことを「きみ」といった。
「き」という発声は、音声と息がぴったり重なって、完結していることや純粋無垢なことが表現されている。猿の声を「キッ、キッ」と表現したりする。人間にとって「き」は、もっとも原初的で無垢で完結した音声なのだ。
「み」は「見る」の「み」、「認識」「決定」の語義。見るという行為によって、そういう心の状態になる。心が定まること。「定まる」ことを「み」という。身体は自分という存在の定まった輪郭である。定まった輪郭の中のものを「み」という。体の中の肉も果物の中も「み」である。
やまとことばで「わが身」というときの「み」は、体の中の肉だけでなく心やその人の人生も含んでいる。まあ「存在」というようなニュアンスだ。
「きみ」とは、「完結して無垢な存在」というような意味。それが、弥生時代奈良盆地における起源としての天皇だった。
「きみ」の「き」に「支配者」というような意味はなかった。弥生時代奈良盆地に支配者などいなかった。
日本列島の伝統における「貴=き」とは、「穢れ」をそそいでいる無垢な存在のことだった。語源的には、身分が高いことをいったのではない。
「貴」という漢字に「身分が高い」という意味はあるのかもしれないが、やまとことばの「き」は本質的にそんなニュアンスの音声ではない。「定まる」ということから派生して「純粋無垢」というニュアンスだったのであり、人間はそういう存在を祀り上げずにいられない本能を持っている。
卵の中身のことまで「きみ」というくらいで、われわれはその言葉を天皇という意味以外にも平気で使っている。それは、天皇が存在するよりにも先に存在していた言葉だからだ。だからべつに天皇以外のことに使っても失礼にはならないし、おそらく「身分」などという概念が存在しない時代から使われていた言葉なのだ。
原始社会における「きみ=尊い存在」は、「神」でも「身分が高い存在」だったのでもない。「穢れをそそいでいる純粋無垢な存在」のことを「きみ」といった。



日本列島の「身分」は、まず権力者が自分たちを最上位に設定したところからはじまっているのだろう。そうして、その免罪符として自分たちよりもさらに上位に天皇を神として設定した。
大陸の「王」は、人間の最上位である。しかし天皇は「神」だから、人間の最上位ではない。この国においては、天皇の側近の権力者たちが人間の最上位に位置していた。
この国の権力者たちは、伝統的に自分たちが人間の最上位にいるという意識がある。その意識が伝染して、一般人でも権力を持つと自分が人間の最上位に位置しているかのような自意識になってしまう精神風土がつくられている。
西洋の貴族や権力者の身分意識は「自分の上には王がいる」という歯止めがあるが、天皇が神になってしまっている日本列島にはそれがない。
日本列島では、貴族や武士の身分意識・差別意識の免罪符として天皇が機能してきた。
西洋人は、権力を持つことに対する意識が、日本人よりもずっとクールである。日本人は、権力を持つと舞い上がってしまいがちである。そこに、日本的な差別意識の性格がある。
もともと「異民族」を知らない歴史を歩んできたから、そういう意味の差別意識や排他性はない。みんな日本人なのだ。そういう意識はある。
江戸時代の身分意識は、士農工商などといっても、実際には武士とその他の庶民というかたちで二極化していた。農民が自分たちは商人よりも身分が高いなどとは思っていなかっただろう。庶民のあいだでは、それほどの身分意識はなかった。
で、なぜ武士は身分が高いと認められていたかといえば、権力を持っていたからだ。
この国では、権力を持っている人間は尊敬されるし、本人も自分は人間の上位にいるという自意識を持っている。
武士と庶民の身分の差は、出自ではなく、権力を持っているかどうかで決定されていた。そういう伝統があるから、日本人は権力を持つととたんに自意識過剰になって舞い上がるし、権力(¬=他者に対する影響力)を持っている教師や医者や坊主は尊敬される。
権力とは、他者に対する影響力のことである。よく「世のため人ために役に立ちたい」などというが、それはつまり「権力を持ちたい」という欲望にほかならない。そして「権力を持ちたい」ということは、人間として上位の身分に立ちたい、ということである。
日本列島の身分意識は、権力の上に成り立っている。権力を持てば上位の身分であるという意識になれる構造がある。
異民族を知らない日本列島では、出自よりも、権力がものをいう。権力を持てば、人間として最上位の身分になった気がしてくる。
まあ、天皇を神として祀り上げるということは、天皇を異民族として排除することだともいえる。そして権力者たちは、自分が人間の最上位だという意識になる。
この国の天皇は、人間という身分をはく奪されている。戸籍もないし、苗字もない。
江戸時代以前の民衆にも苗字がなかった。それは「家」を持っていないということであり、出自が意味をなさない存在であるということだ。そのようにして民衆は、出自によってではなく、権力によって上位の身分を自覚する習性になっていった。
日本列島の住民は、権力によって身分=階層を自覚する。



いや、僕がここで何をいいたいかというと、日本列島の「身分意識=差別意識」は権力者がつくってきたのであって、天皇によってではない、ということだ。
天皇だって「神という名の異民族」として差別¬=排除されているのだ。そして権力者が人間の最上位に立っている。
天皇を神として祀り上げることは、権力者が自分たちは人間の最上位の身分であると自覚するための免罪符になっている。天皇は、彼らのスケープゴートにされている。そうして民衆も、権力を持ったとたん、人間の最上位の身分になったような自覚で舞い上がってしまう。
日本列島の差別の元凶は天皇にある、とよくいわれる。
しかし、天皇だって差別されている当事者だろう。
この国おいて「差別される」とは、権力を持つ機会をふさがれている、ということだ。
たとえば、一般人の就く仕事から排除されれば、一般人に対する権力(=影響力)を持つ機会は永久にない。
この国の差別意識は、権力意識でもある。この国の人間は、何らかの権力を持つことによって大人になるというか、一人前の人間としてみなされる。家庭を持って親になれば、すでに権力者である。
この国の人間は、権力を持ったとたんに差別主義者になる。
この国の差別意識は、すでに家族の中で培養されている。そういう問題もある。家族の中で培養された差別意識がいちばんたちが悪い。それは「天皇」がつくるのではなく、親の「権力意識」によってつくられているのだ。
天皇を祀り上げているから差別主義者になるのではない。権力を持つことによって、なんだか自分が人間として最上位の身分であるかのような意識になってしまうのだ。まったく他愛ない話で、だからわれわれは西洋人から「日本人は子供だ」といわれなければならないのだが、それは天皇制以前に、異民族の存在を勘定に入れない歴史を歩んできた民族だからだ。



天皇がいなくなれば、差別はなくなるか?
おそらく、なくならない。
天皇がいなくなっても、権力を持てば人間の最上位の身分であるかのような意識になってしまう精神風土は残ってゆく。むしろもっと差別がひどくなるのかもしれない。
われわれが天皇を失うということは、無垢な存在を祀り上げる心を失う、ということである。つまり、みずからの身体の「穢れ」をそそぐという問題が起きてこなくなって、他者に「穢れ」を見るばかりになってしまう。
差別するとは、他者に「穢れ」を見る、ということだ。天皇がいなくなれば、そんな傾向がさらに肥大化するのではないか。われわれは他者との緊張関係を生きるトレーニングをしてこなかった民族だから、混乱してさらに差別がひどくなるのかもしれない。
なんのかのといっても、われわれ民衆が天皇という無垢な存在を祀り上げることは差別をしない意識を持つためのよりどころにもなってもいる。
無垢な存在、すなわちこの世のもっとも弱い存在を祀り上げることは人間の本性であって、べつに差別意識ではあるまい。
天皇の存在は、むしろ差別意識の肥大化の歯止めになっているのであって、天皇を祀り上げることそれ自体は差別意識ではない。
ただ、差別意識=権力意識は天皇を神にしてしまう。それが元凶なのだ。
差別の元凶は、天皇を神にしてしまうものたちにあるのであって、天皇を責めるのはお門違いなのではないか。
この国の差別のはじまりは、天皇の側近である権力者たちが、天皇を神として排除していったところからはじまっている。そこから身分=階層が生まれてきた。彼らは、天皇を神として上に排除=差別し、民衆を支配の対象として下に排除=差別していった。
「政治」とは、他者との緊張関係を生きる行為である。その緊張関係として天皇を上に差別し、民衆を下に差別していった。
民衆を「被支配者」として差別しなければ、税を取り立てることはできない。そしてその行為の免罪符として、天皇を神に仕立てていった。
大陸では異民族との緊張関係がその権力行為の免罪符になっていたが、それがない日本列島ではもう、天皇を神に仕立てるしかなかった。
天皇を神として祀り上げるためにお前ら民衆は「税=捧げもの」を持って来い、と命令したのがこの国の政治のはじまりだ。
最初は民衆が進んで捧げものをしていたが、やがて税として取り立てるようになっていった。その移行段階において、どうしても天皇を神にする必要があった。



権力は、他者との緊張関係から発生する。
人類史において、最初に緊張関係を発見したものが権力者になっていった。
そしてその緊張関係の物語は、やがて集団のすべての成員に伝染してゆく。権力とは、そういう影響力のことでもある。
民衆どうしの語らいから生まれてきたはずの古事記だが、その話は、すべて他者との緊張関係の物語になっている。だからそれを、ときの権力者がよろこんで取り上げた。
天皇は神であるという認識は、天皇制の途中の段階で権力者がつくり上げたものだったが、古事記が語られていた天武天皇のころは、すでに民衆のあいだでも当たり前のことになっていた。それは、古事記がそう古い伝承ではなく、その時代を反映した物語であったことを意味する。
仏教が伝来した以後に権力者たちが天皇は神であるという認識を持つようになり、やがてその意識が奈良盆地の民衆のあいだに伝染してゆき、そこから天皇の祖先は神であるという物語が発想されていった。
もともと奈良盆地の住民は、他者との緊張関係を知らない人々だった。だからこそその物語を、人間離れした他者との緊張関係すなわち抗争の歴史として紡いでいった。彼らからしたら、神は人間ではないのだから人間がしない「抗争」をする存在だとイメージしていった。
そのとき権力者たちはすでに熱心に抗争をする存在になっていたのだが、奈良盆地の人々にとってはまだ人間のすることではなかったし、人間のすることになりつつある段階だった。そのような状況から古事記という神の抗争史である物語がつくられていった。
まあ、そのとき人々は、「神というのはどんな存在なのだろう?」と思ったのだ。神などというものを知らなかったから。
天皇を祀り上げて暮らしていた彼らにとっては、それを知らないと生きてゆけないというくらい、とても気になる大きな問題だった。だから、大いに盛り上がって語り合っていった。



差別とは、他者との緊張関係である。日本列島の住民はもともとそういう関係を知らなかったし、そういう関係を知らないまま集団を運営してゆくための形見として「天皇=きみ」という存在を祀り上げていった。
起源としての天皇は、弥生時代奈良盆地で美しく舞い踊る巫女を祀り上げていったことからはじまっている。そこから特別に美しく舞い踊る姿を持った巫女がカリスマとして祀り上げられていった。これが、起源としての天皇である。
巫女の中の巫女、だから最初は「きみみこ」と呼ばれたのかもしれない。そうしていつか、ただたんに「きみ」と呼ばれるようになっていった。
起源としての「きみ=天皇」は、差別のない集団をいとなんでゆくための形見だったのだ。
それが、皮肉なことに差別の道具になっていった。そういう歴史がある。天皇をなくせば差別はなくなるとか、そんな単純な問題ではない。
差別は、天皇を神にしていったところからはじまっている。しかし、そこから天皇の歴史がはじまっているのではない。もともと天皇は、差別をしないための形見として生まれてきたのだ。
現代人がこんなふうに、あくせく他者と競争したり権力を持ったら舞い上がってしまうような社会を生きていて、天皇をなくせば差別はなくなるなんて、そんなかんたんにことが解決するものか。
天皇のいないアメリカやインドや中国には差別はないのか?天皇をなくせば、アメリカやインドや中国のような差別の仕方をするようになるだけのことさ。
天皇をなくせば差別はなくなると発想すること自体、天皇に寄生し天皇をおもちゃにしてもてあそんできた権力者と同じ心理機制であり、それ自体、天皇に甘えている発想なのだ。
まあこんな予言めいたことは言いたくないのだが、差別問題は、天皇をなくすことによって解決するのではなく、天皇の原初のかたちを取り戻すことにあるのかもしれないと思わないでもない。
天皇はほんらい、差別をしないで人と人が他愛なくときめき合ってゆくための形見だったのだ。
それは、どうしたら差別をなくすことができるか、という問題ではない。
どうしたら人と人が他愛なくときめき合うことができるか、という問題なのだ。
あなたたちは、問題設定そのものが普遍性を欠いている。
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