無垢な存在・「天皇の起源」21


古事記に書かれている天皇の名は、すべて神と同じように「……の命(みこと)」というかたちになっている。
「みこと」という言葉は、どのように生まれてきたのだろうか。
「み」は、「気持ちが定まる」とか「腑に落ちる」というような感慨から発声される。
「こ」は、「乞う」「凝る」の「こ」、「固まる」こと、すなわち「一途に思い込む」感慨の表出。
「みこ」とは「結晶作用」のようなことで、「迷いなく納得してゆく」こと、あるいは「さっぱりと穢れをそそいでいる姿」のこと。
「と」は、「止まる」の「と」、この場合は「究極」というようなニュアンス。まあ「ひと」を略して「と」ということもある。古代においては、特別な存在の人間のことを「ひと」といった。
で、「みこと」は、「もうこの人以外にいないという気持ちを捧げる対象」ということになる。「唯一無二の人」のこと。古代以前においてそれは、「完全な存在」であると同時に「純粋無垢な存在」でもあった。
「みこと」という音声の響きそのものに、そのようなニュアンスがある。
古事記という物語が語り合われていたころの奈良盆地の人々は、そのような対象として「天皇=きみ」を祀り上げていた。
今となってはもう「みこと」といえば「高貴」という意味を連想してしまうが、古代人は、もっと意味以前の音声そのものの響き=ニュアンスを大切にして言葉を扱っていた。
言いかえれば、この国の「高貴」という言葉の意味には「清浄」というニュアンスが含まれている。ただ「身分が高い」というだけのニュアンスではない。すなわちこの「清浄」というニュアンスは、この言葉の古層である。
古代の民衆にとっての「天皇=みこと」は、「身分が高い人」というよりも、「清浄な人」というイメージだった。彼らにとっての「身分が高い人」は天皇の側近の権力者たちであって、天皇は「身分」を超越した存在だった。
いまでも天皇は「身分」なんか持っていない。戸籍も苗字もない人であり、いまだに「清浄な人」として存在している。



弥生時代奈良盆地に、「身分の高い人」など存在しなかった。
ろくな道具などなかったのだから、みんなで耕しみんなで収穫していただけで、誰かひとりが余分に収穫して自分のものにするということなどあり得ない。
人類社会は、最初から強いものが弱いものから収奪するというシステムを持っていたのではないし、強いからたくさん所有できるようなシステムでもなかった。
個人の収穫の能力などということは存在しなかった。そんなふうにして持つ者と持たざる者が生まれてきたのではない。
まず余剰の量を生産できるようになり、それをみんなが自主的に誰かひとりに捧げていったところからはじまっている。
では、民衆の方から捧げものをせずにいられない相手とは、どんな存在だったのだろうか。
原始社会においては、強いものに捧げものをするということはしない。強いのなら、そんなことをする必要はない。
人間の本性は、生きられない弱いものを懸命に生かそうとすることにある。人はそのようにして赤ん坊を育て老人を介護している。生きられない弱いものを生かすことのよろこびというのがある。
原始社会においては、生きられない弱いものを祀り上げ捧げものをしていったのだ。彼らの集団では、生きられない弱いものから先に食べていった。これだってまあ、弱い存在を祀り上げる生態に違いないし、縄文人弥生人の社会でもそのようなメンタリティが機能していたはずである。
縄文人は、木の実を粉にしてクッキーをつくっていた。それは、子供に食べさせるためであったに違いない。
現代人だって、家庭で作るカレーは、いつの間にか子供の口に合う甘いものになってゆく。
生きられない弱いものを生かそうとするのは、人間の本能である。
原始社会ではみんなが共同で生産していたし、強いものが過剰に私有するということはなかった。強いものに捧げるよりも、弱いものを生かすということが優先された。そうしないとどんどん人が死んでゆく社会だったわけで、彼らの余剰の生産物はそういうことに使われていた。人類の文化や文明は、弱いものをけんめいに生かそうとしながら発達してきたのだ。



原始人は野蛮で弱肉強食だっただなんて、嘘だ。現代人の方がずっと野蛮で弱肉強食に違いない。
原始社会においては生きられない弱い存在が祀り上げられていったのであり、そういうメンタリティが美意識として洗練していった結果として日本列島に天皇という存在が生まれてきたのだ。
そういう原始的なメンタリティで集団がいとなまれている段階は、世界中どこにもあった。しかしそれを美意識として洗練させてゆく時間は大陸にはなかった。異民族=他者との緊張関係を体験してしまったからだ。そうなればもう、ひとりひとりが強くなることを志向してゆくしかなかった。
しかし海に囲まれた日本列島では氷河期明けの1万年のあいだ異民族との出会いがなかったから、ひとりひとりが強くなろうという志向は育たなかった。つまりそのあいだ、強いものである支配者はあらわれなかったし、強くなろうと競争して階層が生まれてくるということもなかった。
彼らは、排除するべき異民族=他者を知らなかったから、強くなることでは生の問題は解決しなかったし、意識は内向し、ひたすらみずからの身体の「穢れ」が意識されていった。その「穢れ」そそごうとする意識が、美意識として洗練していったのだ。
彼らにとって、強くなって他者を排除してゆくことは「穢れ」だった。他者を排除すれば、意識はより内向してみずからの身体の「穢れ」ばかり意識してしまう。
まあ、弥生時代奈良盆地の人々に、他者の上に立って他者を支配してゆこうとする権力意識などなかった、ということだ。
纏向遺跡は王朝跡だ、というのが現在の歴史家たちの合意事項なのだろうが、何が王朝なものか。それは、支配者など持たない社会の高度な連携の成果なのだ。
彼らは、政治意識ではなく、美意識で連携していた。



弥生時代奈良盆地も含めた原始社会のカリスマは、どのようにして生まれてきたのか?
もしもたくさん所有するものと所有できないものという階層があったとしたら、たくさん所有するものは、みんなから慕われただろうか。
原始社会においては、誰かが過剰に所有したら、弱い者はもう生きてゆけないのである。
ネアンデルタールの社会では、寒さに震えて死にそうになっているものから順番に食べていった。人がかんたんに死んでしまう環境であったのだから、そうでなければ集団など成り立たなかった。彼らの結束は、そのような生態の上に成り立っていた。
これは、日本列島の縄文時代弥生時代も、基本的には同じであったはずである。
原始社会においては、もっとも弱いものがもっとも生きる権利を持っていた。生きられないものを何とか生かそうとしながら人類社会は進化してきたのだ。
弱肉強食でやっていたら、人類などとっくに滅びている。
人類社会に階層が生まれてきたのはつい最近のことだし、海に囲まれた島国であった日本列島はいつまでも原始社会の生態を引きずったまま、その変化がどこよりも遅かった。
弥生時代になっても、おそらくまだ階層などなかった。
縄文集落の規模は数十人単位だったし、弥生時代になっても、基本的にはせいぜい2,3百人程度の村単位で暮らしていた。小集団の一員であることをアイデンティティにして暮らしてゆくのは、日本列島の伝統である。
原始社会のこのような集団では、誰かが過剰に私有するということは起こり得ないのだ。みんな顔見知りなのだから、誰かが死んでゆくのを知らんぷりして見過ごすなんて不可能であり、彼らの生産力のレベルではそれをしなければ過剰に私有するということはできなかった。
日本列島には、階層が存在しない集団性の伝統がある。だから、良くも悪くも「村」という単位でかたまってしまう。つまり、リーダーという支配者がいなくても結束連携してゆける集団性を持っている。日本列島の歴史の大半は、そういう生態で社会が成り立ってきた。
原始社会においては、もっとも弱いものこそもっとも生きる権利があったのだし、誰もがそういう存在をけんめいに生かそうとしていた。
原始人だってたくさん私有して幸せに安楽に暮したいという欲望を抱いて競争していたとか、そんな現代人の物差しで考えるべきではない。
この国で過剰に所有するものがあらわれてきたのは、古墳時代以降のことだ。
原始社会においてみんなに祀り上げられていたカリスマは、みんなに慕われていたものであって、たくさん私有していたものではない。そんなこと、当り前だろう。そして、そのようにして天皇という存在が生まれてきたのだ。



原始社会においてもっとも慕われ祀り上げられていたのは、生きられないもっとも弱い存在だった。この延長上に天皇の起源がある。
医療が未熟だった原始社会においては、体質が不安定である女の子を育てることは、男の子を育てることよりずっと難しかった。だから、女の子はより大切に育てられた。原始社会は、世界中どこでも女を祀り上げる社会だった。子を産むことは命がけだったし、女は生きることが困難な存在だったから祀り上げられたのだ。
人間は、生きられないもっとも弱い存在を祀り上げようとする衝動を持っている。この衝動によって原始社会は動いていたし、現代だってこの衝動によって赤ん坊を産み育てたり老人の介護をしたりしている。
生きられない存在こそもっとも無垢な存在であり、その無垢性を祀り上げようとするのが人間の本能である。
弥生時代奈良盆地の人々は、このような無垢な存在のことを「きみ」と呼んでいた。そして起源としての天皇は、「きみ」として生まれてきた。「きみ」という言葉の語感を普通に考えれば、それ以外にイメージのしようがないではないか。
すなわち、「きみ」とは生きられない存在であり、生きられない山の中で純粋培養して育てられている美しく舞い踊る巫女のことだった。



平地での農業活動が定着した時代にあっては、山の中は生きられない場所だった。そこで生きさせることによって、俗を離れ「穢れ」をそそいでいる美しい舞が生まれてくる。
人間は、生きられない場に立とうとする衝動を持っている。それが、人間的な文化や文明が発達する原動力になった。
そもそも原初の人類が二本の足で立ち上がることは生きられない場に立つことだったわけで、人間が二本の足で立っているということは生きられない場に立っているということなのだ。
人間社会においては、もっとも弱く生きられない存在こそ、もっとも人間的で純粋無垢な存在なのだ。人間存在は、ひとまずそういう認識を前提として持っている。弥生時代奈良盆地はこの前提の上に人々の連携が成り立っており、ここから彼らの美意識が洗練していった。
彼らは美意識で「きみ=天皇」という存在を祀り上げていったのであって、「身分が高い」とか「強い=たくさん所有している」とかそういう理由だったのではない。
天皇になったから身分が高くなったのであって、身分が高いから天皇になったのではない。
弥生時代奈良盆地に、身分が高い支配者など存在しなかった。そのような社会でどのような存在が祀り上げられていったかといえば、「穢れ」をそそいでいる純粋無垢な「姿」を持った存在だった。
彼らは「身体(の穢れ)」というものをとても強く意識していた。それが、異民族との出会いを1万年以上持たない歴史を歩んできた民族の文化風土だった。
だから「身体=姿」に対する美意識が洗練していった。
日本列島の伝統文化は、「姿の美」の文化である。やまとことば=日本語そのものが、大陸のような「意味の伝達」という機能よりもむしろ、「姿の美」というコンセプトの上に成り立っている。
日本列島の住民が伝統的に山を眺めるのが好きだということにしても、山の「姿」に魅せられているのだ。
日本列島の「姿の文化」の基礎には「舞の文化」がある。いやこれは、日本列島固有の文化というより、普遍的な人類の文化の基礎である。
「舞の文化」は他者との出会いのときめきから生まれてくる。出会ってときめけば、自然に体は動きだす。
氷河期明け以降の日本列島の住民は、異民族との緊張関係を知らないまま、ひたすら「出会いのときめき」を表現する「舞の文化」を洗練させてきた。まあそんな考古学的証拠があるはずもないが、状況証拠としてのいろんな日本的な文化現象から推測してゆけば、「姿」を表現する「舞の文化」が縄文・弥生時代を通して洗練してきたという生態はきっとあったはずである。そして彼らの「舞=姿の文化」から天皇という存在が生まれ、その美意識こそが日本列島の伝統文化の基礎になっているのだ。
縄文人弥生人は、どのように舞い踊っていたのだろうか。そこに、日本人の身体観や生命観の根源のかたちがあるにちがいない。
そして、世界の原始人はどのように舞い踊っていたのだろうか。
証拠がないから、誰もはっきりしたことはいえない。しかしここから人類の美意識が芽生えていったのではないだろうか。
それは、歩くことよりももうひとつ次元の高い身体操作だった。
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