純粋培養・「天皇の起源」13


弥生時代奈良盆地の民衆は、美しく舞い踊る「巫女」たちを、人里離れた山の中で暮らさせながら純粋培養して育てていった。
純粋培養して特別な存在を育てるという、人類のこの行為はどのように生まれてきたのだろうか。
人間は、純粋培養したがる生き物らしい。
直立二足歩行の起源は、おそらく、サバンナの中の孤立した森での純粋培養された暮らしから生まれてきた。
それは、猿として身についたよけいな生態をそぎ落として、生き物としての純粋なかたちに遡行しようとする行為だった。
たとえば、猿の生態であるメスたちがオスのボス猿に寄生してゆくというのは、あまり自然な関係とはいえない。生き物の自然としては、オスがメスに寄生してゆくというかたちになることの方が多い。生殖というのは、オスの精子がメスの卵子に寄生してゆくことだろう。人類は、二本の足で立ち上がることによって、そうした自然で純粋な関係に遡行していった。
「人間は本能が壊れた生き物である」などとよくいわれるが、そうじゃない。根源的な生態においては、猿の方がずっと不自然でよけいなものをまとっているのだ。
猿は、個体どうしにおいても群れどうしにおいても、人間以上の緊張関係を持っている。群れの中の順位関係がはっきりしているとか、群れどうしでときに殺し合いになる争いをしてしまうとか、そういう猿の生態を、原初の人類はいったんそぎ落としてしまったのだ。そうして人と人が他愛なくときめき合うようなイノセントな関係をつくっていったことによって、人間的な進化が起こり、言葉を持ったり地球の隅々まで拡散してゆくというようなことが起こってきた。
猿よりも人間の方がずっと純粋培養して「自然=本能」を抽出しようとしている。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、この生を純粋培養して生きてゆくというようなことだった。
人間の赤ん坊は、生きられないぎりぎり状態で生きている。そんな赤ん坊を育てることは、生を純粋培養しているような行為である。
そんなことは絶対不可能なことだが、生まれたばかりの子供のようなイノセントな心のままで生きてゆけるのなら、それに越したこともないだろう。誰だってそういうイノセントには感動する。そこに、人間の純粋培養志向が潜んでいる。
シンプルというのか、たしかに純粋培養されたかたちの美しさというのはある。



天皇は、俗世間から離れたところで生まれ育ち、純粋培養されて天皇になってゆく。
まあ、一流の芸術家やスポーツ選手だって、多くは純粋培養されたかたちでその技芸を磨いてゆく。
伝統芸能世襲になっているのも、つまりは小さいときから純粋培養されていかなければ一流にはなれないということだろう。
いずれにせよそのとき人間は、そうやってもっとも純粋な「自然」を抽出しようとしているのであって、人工的な加工をしているのではない。スポーツだろうと芸能・芸術だろうと学問だろうと、人間の行為にはそういう側面がある。
「世界とは何か」「物質とは何か」「生物とは何か」「人間とは何か」「美とは何か」……人間がそうやって問うてゆくことは、それらの概念あるいは現象を純粋培養してその根源を抽出しようとしていることにほかならない。
やまとことばの「かみ」とは、純粋培養して根源を抽出してゆくことをいうのであり、それはまあ「森羅万象の本質」といっても同じことだ。
「かみ」とは純粋培養の感慨のこと。そういう感慨が胸に満ちてくるときに、人は、生きてあることの深いカタルシスを体験している。
古代以前の日本列島の住民は、生きてあることの根源のかたちを「かみ」といったのであって、この世界や人間をつくった「神=ゴッド」という存在のことなど思いもおよばなかった。そういう意味で「神=ゴッド」とは究極の「人工的な加工」のことかもしれない。
古代以前の日本列島の住民は、この生を純粋培養しようとして生きていた。そこから「穢れ」が意識され、「穢れ」からの解放として「みそぎ」が体験されていった。
この生を純粋培養しようとするから「穢れ」を意識してしまう。
まあ原始人は、普遍的に世界中どこでも「穢れ」を意識しながら生きていたのだ。二本の足で立ち上がることは「穢れ」を意識することであり、そこから歩いてゆくことは「穢れ」からの解放としての「みそぎ」の体験なのだ。
その「みそぎ」の体験のことを日本列島の古代人は「かみ」といった。この世界やこの生に納得してゆく感慨、この生はこれでいい、もう死んでもいい、というカタルシスの感慨のことを「かみ」といった。そしてそれは、そういう感慨からこの生がはじまるということでもあり、そうやってこの生がはじまることを「みそぎ」といった。



人間は、純粋培養しようとする生き物である。
弥生時代奈良盆地の人々は、美しい舞姿を持った巫女を山の中で暮らさせ、純粋培養して育てていった。
彼らはその舞姿に、世俗の「穢れ」がそそがれている「みそぎ」のかたちを見出していった。
弥生時代は「俗世間」が発見されていった時代だった。そのころになって縄文時代には体験したこともない大きな集団が日本列島のあちこちに生まれてきたのだが、とりわけ奈良盆地はその規模と膨らみ方がダイナミックだった。なぜそうなったかといえば、縄文時代の延長のような暮らしをしながら、気がついたら大きな集団になっていた、というような状況があったからだ。
人間は、大きな集団をつくろうというような衝動は持っていない。いつだって、気がついたら大きな集団になってしまっているだけであり、それほどに無防備にダイナミックに世界や他者にときめいてしまう存在だからだ。二本の足で立ち上がることによって、そういう存在になってしまったのだ。
とはいえ、それにも限度がある。人間が親密さとともにまとまって暮らせる集団の規模は3、400人が限度だといわれている。縄文人ネアンデルタールも、ひとまずその規模を守って暮らしていた。
人類700万年の歴史の699万年以上は、ずっと集団の規模は3、400人までという限度が守られてきた。



縄文人の場合は、山の中の女子供だけの数十人という規模の集落がほとんどだった。それでもそういう暮らしが成り立ったのはたえずそこに訪ねてくる旅人の男たちがいたからだ。
このシステムはまあ、精子卵子のところに泳いでゆくようなものだから、男と女の関係としては極めて自然なかたちだったのかもしれない。
男と女が家をつくって一緒に暮らすことが自然だと思うべきではない。現代はそういう制度になっているのだから、それはそれでそうするしかないことではあるが、そうしようとするのが人間の本性だとはいえない。
おそらく、縄文人の男と女の関係の方が、われわれよりずっと自然の摂理にかなっていた。
そしてそれは、数十人で暮らしながら、その何十倍何百倍の集団で暮らしているのと同じだった。だから縄文集落の規模は、一万年のあいだ、ついに膨らんでゆくことがなかった。
しかしそういう暮らしをしていれば、数万人の暮らしに移行してゆくことができる資質もすでにそなわっている。
完結できない小集落で暮らしているからこそ、人と出会いたいという願いも募るし、出会ったことのカタルシスもより深く体験される。
つまり弥生時代奈良盆地には、小集落で暮らしながらしかも大きな集団の中にいるようなたくさんの人との出会いがある、というかたちの状況があったのだ。そこはほとんどが湿地帯であったために、人々はその中に点在する浮島のような小高い場所にそれぞれ小集落をつくって暮らしていた。それはきっと、ほとんど縄文時代の延長のような暮しであったはずである。
「村」とか「郷」とか「字(あざ)」とか、小集落への帰属を自分のアイデンティティにしたがるのは、日本列島の伝統である。
そして完結できない小集落どうしがひとつのところに集まって祭りをしたり何かの共同作業をするというのもまた、この国の住民の伝統的な生態である。そうやって古代人は、支配者にたよることなく民衆自身の連携で道や橋や港やため池などをつくっていた。
その生態の基礎は、すでに縄文時代につくられている。
完結できない小集落で暮らしているからこそ、人との出会いを求めときめきながら、いつの間にか集落どうしが連携した大きな集団になってしまう。そして小集落への帰属意識を持っているからこそ、大きな集団の「俗世間」という状況に対する鬱陶しさという「穢れ」の意識もおぼえる。
そういう「俗世間」の「穢れ」をそそぐイベントとして祭りが催され、もっともその「穢れ」をそそいでいる美しい姿として思春期の少女たちの舞姿が見い出されていった。
そうしてその少女たちが、やがて社殿で舞姿を披露する「巫女」として祀り上げられ、さらには山の中の暮らしで純粋培養されてゆくことになっていった。



そのとき人々は、純粋培養して育てることを知った。
それは、それほどに俗世間の「穢れ」を強く意識される時代になっていたからだ。
弥生時代奈良盆地は、ほかのどの地域よりもダイナミックに人が増えてゆきつつ、人々はほかの地域以上に小集落への帰属意識も強かった。だから、その俗世間の「穢れ」をそそいでいる美しい「姿」に対する思いは、奈良盆地の住民がもっとも切実だった。
そういう状況から「巫女=天皇」という存在が生まれてきたのであり、だからこそ純粋培養してさらに美しい姿に育てようとする思いにもなった。
まあ稲作りというのは、ただ種をまけばそのまま育ってくるというようなものではなく、まず苗床で苗を育て、それから田圃に水を引いて植え、そのあともこまめに雑草を駆除したりと、いわば純粋培養で育ててゆく作業である。だから彼らは、生活感情としてすでに純粋培養の意識を持っていたのかもしれない。
日本列島のお母さんは、生まれたばかりの赤ん坊をかまいすぎるほどかまい、さらには欧米のように小学生になったらアルバイトさせるなどして社会の仕組みや公共心を教えてゆくというような育て方はしない。これは、純粋培養という稲作文化であり、天皇制の問題でもあるのだろう。



天皇は、その起源から純粋培養して育てられる存在だった。このかたちは、どんなに天皇の立場や制度が変わっても、今なお続いている。
天皇天皇であるゆえんは、天皇家で純粋培養されて育てられた存在であることにある。血筋なんか、たいした問題ではない。その家で純粋培養して育てられたということが大事なのだ。
だから、この国では、伝統的に家を守ることにこだわり、そのために養子をもらうということも平気でしてきた。
血筋よりも、その家で純粋培養して育てるということが大事なのだ。この国の「血筋」という言葉は、あまり生物学的な意味はなく、もっと抽象的である。
だから、どこかの馬の骨の武士が天皇の子孫だと名乗っても、わりと大目に見られてきた。
それは、能力主義というのともちょっと違う。純粋培養して育てられたということが大事なのだ。天皇家で育てられれば、馬の骨でも天皇の子孫なのだ。天皇家に大奥などなかったのだから、天皇皇后のあいだに子が生まれなかったから、どこかから養子をもらってくるしかないだろう。それでも、天皇家で純粋培養して育てられれば、つぎの天皇になる資格があった。
おそらく初期の天皇は、そのように引き継がれてきたのだろうが、大和朝廷内の権力闘争が激しくなってくると、天皇家の外で生まれ育ったものでも天皇の血を継いでいれば天皇になる資格があるということにして、権力者たちがおのおの別の候補を勝手に担ぎ上げて争うようになっていった。天皇皇后のあいだに子が生まれなければ、当然そういう展開になる。
そうして実在のわからない初期の天皇を、やれ吉備の出身だの出雲の出身だのというような説が捏造されてきた。
歴史家は、そういう実在したかどうかもわからない天皇の伝説をもとにして、地方の豪族連合が大和朝廷をつくったという説を立てたりしている。
しかし、なんのかのといっても実際の天皇は、天皇家で生まれ育った人間がなってきた。それは最初からそうだったのだし、地方の豪族を天皇として迎えたという史実などない。そういうつくり話が残っている、というだけのこと。
古代においては、男の子が生まれてもすぐに死んでしまったり、若死にしたりとか、権力争いに巻き込まれて殺されたりとか、次期天皇の空白状態がしょっちゅう起きていたのだろう。
次期天皇候補を殺して事態を混乱させる、というのは、古代の権力闘争の常套手段だった。
もう血筋なんか大した問題じゃない、天皇家で純粋培養されて育ったことがいちばんだったのだ。そういう存在がいなければ、つなぎとして皇后が天皇になった。
そして天皇と皇后が実の兄妹だったり、叔父と姪だったり、そういう近親相姦はいくらでもあった。それは、純粋培養の伝統があったから、天皇も皇后も、天皇家の「姿」というものを持っていないとどうにもさまにならなかったのかもしれない。古事記などの記述によれば、古代においては、顔よりも、その「姿」こそが皇后の品位を表すものだったらしい。
おそらくその近親相姦は、血筋を守るためだったのではない。血筋よりも「姿」が大事だったし、権力者が自らの地位を守るためにも都合がよかったのかもしれない。
ある権力者が、天皇家の娘を嫁にもらい、その子供の娘を次期天皇の嫁に差し出す。そんなことを繰り返していたら。近親相姦ばかりになってしまう。そして天武天皇は、貴族政治を避けるために、兄である天智天皇の娘を皇后にしていた。
なんだかとてもややこしいが、とにかく「純粋培養」という伝統がそういう習俗をつくっていたのだろう。



天皇家の伝統は、おそらく血筋を重視する習俗にあるのではなく、「家」による「純粋培養」をしてゆく習俗にある。
天皇家だけではない、これが日本列島の伝統的な習俗なのだ。
弥生時代奈良盆地の人々は、世俗の垢に汚れていない存在を祀り上げずにいられなかった。それは、それほどに世俗の「穢れ」を意識(自覚)していたからだ。
このメンタリティが、縄文以来の日本列島の文化の基礎になっている。
支配者だって、天皇を祀り上げずにいられない衝動を持っている。日本列島の住民はもう、純粋培養して祀り上げるということをしてしまう習性から逃れられない。
それはもう日本列島の住民の本能で、もともと奈良盆地に存在していた天皇を祀り上げるかたちで大和朝廷が生まれてきたのであって、大和朝廷が政治的な存在として天皇を生み出したのではない。
起源としての天皇は、奈良盆地の山で純粋培養されている巫女たちだった。
純粋培養しているといっても、支配していたのではなく祀り上げていただけで、みんなで「捧げもの」をして安楽に暮らさせていた。人々の美意識は、そういうことをせずにいられなかった。
それは、政治の問題でも呪術の問題でもない。
美しいものは、浮世離れしているのだ。
つまり、そこに「穢れ」をそそいでいる「姿」がある、ということが人々に安心を与えていた。人間が生きることは、「穢れ」をそそいでゆくいとなみなのだ。



時代の習俗は、だんだん変ってゆく。
縄文時代弥生時代のはっきりとした境目があるわけではない。
女たちは、縄文時代からすでに趣味のようなかたちで農業をしていた。したがって弥生時代初めの農業はほとんど女が中心になって進められていた仕事で、男たちはまだ山で狩りをする習性を残していたはずである。
彼らにとって山はまだなじみのある場所だった。そして農業をはじめとする人々の連携が活発になってきて余剰のものを生産できるようになったから、そこに巫女を住まわせるという習俗が可能だったのだろう。
人々はつねに巫女の住む里を訪ね、「捧げもの」を携えその舞を鑑賞してくるということをしていた。
また、そのとき巫女が男たちにセックスを提供するようにもなっていたのかもしれない。
性に目覚めた少年は、年長の男に連れられて巫女の里に行って筆おろしの初体験をしてくるとか、そういう通過儀礼の習俗もあったかもしれない。
そうしてそこは、人々が集まってものを交換したり祭りをしたりする場所にもなっていたのかもしれない。そういう賑わいがつねに生まれている場所だったのだ。
弥生時代に「神」や「霊魂」などという概念はなく、呪術などというものはなされていなかった。
その里は、ただもう人々が俗世間の「穢れ」をそそぐために詣でる場所だった。
原始神道の社殿、すなわち舞の舞台が平地にもつくられるようになったのは、おそらく中期以降のことだろう。
初期はほとんどが湿地帯だった奈良盆地に、市やお祭り広場をつくれるスペースはなかった。
気候が乾燥化したり人々が干拓したりして余剰のスペースが生まれてきたとき、人々はその場所を取り合うのではなく、みんなが集まる市やお祭り広場にしようと発想した。人口がダイナミックに増え続ける場所だったし、山の中の巫女の里ではもう手狭になってきていた。
巫女たちは、山の里と平地の里を往還して暮らすようになっていった。
そのころには巫女の数も増え、その中からとびきり舞姿の美しいカリスマの巫女もあらわれていただろうし、何かと巫女集団の暮らしも大がかりになってきていたのだろう。そうなると、この集団をマネージメントするものが必要になってくる。
歳をとって、巫女であることからも娼婦であることからも引退した女がこの仕事に当たったのだろうか。



弥生時代奈良盆地の人々は、カリスマ的な巫女のことを、おそらく「きみ」と呼んでいた。弥生時代に文字などなかったのだから、証拠はない。しかし、そうではなかったという証拠もない。
もともと天皇に対する尊称だったらしい「きみ」というやまとことばは、語源的には「完全な姿」とか「美しい姿」というような意味である。少なくとも現在使われているような「あなた」という意味ではなかった。
この「完全な姿」という意味を「偉大なる姿(存在)」という意味にいいかえることもできる。しかし、だったら天皇が「大王・大君(おほきみ)」とも呼ばれていたらしいその「大(おほ)」は単なる蛇足で無意味になってしまう。
この場合の「おほ」は、「偉大な」という意味ではなく、「引退した存在」とか「<きみ>の親」というような意味であるはずだ。
そういう「おほきみ」が、巫女集団のマネージメントを引き受けた。
とびきり美しい舞姿を持ったカリスマ的な「みこ=きみ」は、山の里で生まれ育った娘の中からしかあらわれてこなかった。山の中で純粋培養されて育たなければ世俗の垢をそぎ落とした美しい「姿」は身につかなかったし、それを鑑賞する人々にも、山の中は世俗の垢とは無縁の聖地だと祀り上げている心があった。
というわけで、山の中で生まれ育った娘でなければ「きみ」というカリスマになれる資格はなかった。
そうして、「きみ」を産み育てた「おほきみ」が巫女集団のマネージを引き受けていった。
「きみ」を産み育てた「おほきみ」なら、奈良盆地の民衆に説得力があったし、「きみ」の権威をより高めることにもなった。
で、そういう習俗が定着してゆけばもう、「きみ」が産み育てた娘が次の「きみ」になる、ということになってゆく。そうやって「天皇家」という「家=家元」が生まれてきた。
日本列島的な「純粋培養」の意識と「世襲」の習俗は、ここからはじまっているのかもしれない。


10
弥生時代の後期には、ひとまず「おほきみ」が「きみ」や巫女集団をマネージメントするという習俗が定着していった。
「きみ」と「おほきみ」はどちらがえらいのかといえば、「おほきみ」は「きみ」の親だから「おほきみ」の方がえらいということになる。しかし人々に祀り上げられているカリスマはあくまで「きみ」である。
弥生時代後期の纏向遺跡に出現した「箸墓」という巨大前方後円墳は、「モモソヒメ」という天皇家の姫君の墓だといわれている。つまり、このときまではまだ「きみ」がカリスマだったということだ。
そしてこの墓の造営に際しては、数万人いたとされる奈良盆地の人々が一人一個ずつ石を運んできて墓の表面に敷いていった、といわれている。本当かどうかは知らない。しかしもともとこのころの巨大古墳は民衆の自主的な連携によってつくられていたはずであり、モモソヒメという「きみ」がそれほどに篤く人々から祀り上げられていたことは想像できる。
しかし「きみ」や巫女集団をマネージメントする仕事が大がかりになってくれば、補佐役が必要になってくる。そうしてそのための事務所のような施設を平地に置いたのかもしれない。これが、大和朝廷の起源かもしれない。
ここでは、人々の「捧げもの」を受け付け、それぞれの地域のお祭り広場に「きみ」や巫女集団を派遣する采配をしていた。そしてこの施設の中心は、おそらく「おほきみ」だった。
まあ最初は、「きみ」の父親はだれでもよかった。「きみ」を産み育てた母親が「おほきみ」として君臨してゆくようになっていった。「おほきみ」にお伺いを立てないと、「きみ」や巫女集団の派遣は決まらなかった。
そのために人々は、競争するように「捧げもの」を運んでいった。
そうやって「おほきみ」がもっとも権威や権力を持つ存在になっていった。これが古墳時代だろうか。
古墳時代の「おほきみ=天皇」は女だった、という研究者の説もある。おそらくそうだったのだろう。しかし、朝廷内での権力争いがさかんになってくれば、「おほきみ=天皇」は男でなければ具合が悪くなっていった。このことは、前回に書いた。
とにかく、大和朝廷という施設がどんどん大きくなっていったのは、奈良盆地がそれだけ多くの余剰のものを生産できるようになっていったからだろうし、争って「捧げもの」をしたがるほど人々の「穢れ」の意識が切実だったからだ。そしてそれはつまり、それほどに人がたくさん集まってきてダイナミックに動いている社会だったということだ。


11
大和朝廷がいつから税を取り立てるようになったかということは、難しい問題にちがいない。
本格的にそれを始めたのは、飛鳥時代律令制以降のことだろう。その制度がなければ、おそらく政治も権力もあいまいなものでしかない。古墳時代の300年間で、少しずつそういうかたちになっていったのだろう。
飛鳥時代にならなければ「文字=法」が民衆に対して有効に機能するというかたちにはならなかった。
文字がなかった古墳時代の政治などとても曖昧だったし、さらにそれ以前の弥生時代に権力が税を取り立てるというような制度はなかったはずである。それでも奈良盆地では、民衆が自主的に天皇を祀り上げて「捧げもの」を持ってゆくという習俗があったから、ほかの地域よりもずっとスムーズにその制度へと移行してゆくことができたのだ。
この習俗の伝統が、大和朝廷を日本列島の覇者たらしめたのであって、べつに地方の豪族たちがやってきて大和朝廷をつくったのではない。
いきなりやってきて、どうやって民衆を支配するというのか。奈良盆地ではすでに土着の天皇を祀り上げることによる先験的な連携が機能していたのであり、この国ではそのことなしにはどんな支配も成り立たないということは、その後の長い歴史が証明していることである。
まあ、大和朝廷という、古墳時代のはじめには祭りをマネージメントする施設だった場所が、だんだん権力支配の場に変質していった。
人々の「捧げもの」が増えすぎて、それを私有するものがあらわれ、「おほきみ」に対する発言力のあるものは、それぞれの地域の長として迎えられるようになっていった。これが、「豪族」の発生だろう。
奈良盆地天皇がやってきて豪族たちを制圧していったのではなく、天皇の側近の天皇に対する発言力を持ったものが豪族になっていっただけのこと。
したがってその豪族たちは、「きみ」と自分の親族の男を結び付けようとしただろうが、あまりうまくいかなかった。女は男を拒否する本能を持っている。世俗づれしていない娘なら、なおそうだろう。それでもしょうがなく受け入れるとすれば、母親である「おほきみ」の助言が必要だった。
そして「おほきみ」はどんな男を娘にあてがったかといえば、ほかの巫女が産んだ男の子だろう。そのようにして生まれてきた子がいちばん舞の血を濃くそなえているわけで、純粋培養の意識があればどうしてもそういう発想になる。
で、豪族たちは、この「きみ」の夫にとりいって、母親の「おほきみ」より夫である男の方が「きみ」に対する発言力を持つように画策してゆく。そうして、しだいに夫を「おほきみ」と呼ぶようになっていった。
そして、「きみ」が産んだ娘を次の「きみ」にするのではなく、「きみ」の兄(または弟)がほかの巫女に産ませた娘を次の「きみ」にしていった。そうやって、男が「おほきみ」になっていった。
そのころにはもう民衆にとっての「きみ」は「いてくれるだけでいい」という存在になっていたから、純粋に舞姿だけで祀り上げるというのではなく、「きみ」が舞うというそのことを祀り上げるようになっていた。「きみ」が誰であるということはどうでもよかった。「きみ」であればよかった。権力者(豪族)たちが勝手に決めた「きみ」であっても、それが「きみ」であるというそのことがありがたかった。
初期の天皇家が近親相姦ばかりしていたのは、このような歴史的いきさつがあったからではないだろうか。天皇家にどんな意図があったのでもない。そういう歴史的な「なりゆき」があったのだ。
まあ、政治の場では、こうして男の「おほきみ」の系譜が引き継がれてゆくようになっていったのではないだろうか。これが、古墳時代後期のころのことだ。


12
ともあれそれは、奈良盆地(あるいは畿内)の範囲でのことだろう。
地方の豪族がどうこうという話ではない。
初期の天皇がそのようにして選ばれていたという話をつくり上げた古代の権力者たちは、地方の豪族ですら天皇になるくらい天皇とは能力主義で選ばれてきた存在だ、と言いたかったのだろうか。実際には大和朝廷に群がる権力者たちのおもちゃとしてもてあそばれてきただけなのに。まあこれは、天皇がまだ政治の主導権を持っていた飛鳥時代から奈良時代にかけてつくり上げられた話である。
けっきょく天皇という存在なしには誰も民衆を支配することができないのに、天皇と権力者たちとの確執はずっと続いてきた。それは、権力者という存在が、天皇をおもちゃにしてもてあそぶ存在として登場し、この国の歴史においては天皇という存在なしに民衆を支配することがついにできなかったからだろう。
この国の権力支配は、天皇をおもちゃにしてもてあそぶ、というかたちで発生してきた。
弥生時代奈良盆地に、権力支配や階級や私有財産制などというものがあったのではない。この国には、そうした「俗世間」から離れた「姿」を祀り上げようとする伝統がある。
まあ、現代は、何かと世間ずれした人間が活躍する時代になってはいるのだが、それでも浮世離れした気配を持っている存在がカリスマとしてもてはやされたりすることも多い。
ある人にいわせると、ちょっと前までの剛力彩芽には、何か世間から浮いてしまっているような透明な気配があったそうである。
もう昔のことになってしまったが、中村玉緒とか浅田美代子という「天然系」のタレントたちも、この種の存在だったのだろうか。
爆笑問題」や「江頭2:50」にも、人々はどこかしらで浮世離れした気配を感じているのだろうか。こういう気配を、ここではひとまず「処女性」と総称している。
出雲阿国が公衆の面前でストリップをしたといっても、あれはあれでひとつの処女性だったのだ。
それは、天皇制の問題であり、純粋培養の問題なのだ。
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