捧げもの・「天皇の起源」51


起源としての天皇は、巫女集団の中から選ばれた舞のカリスマの少女だった。おそらくこの少女は「きみ」と呼ばれていた。
それが古墳時代になって大和朝廷ができてきたころには、「きみ」の母親である「おほきみ」が天皇に仕立てられていった。「おほきみ」も、もともとは「きみ」であった。「きみ」は人里離れた山の中で巫女集団とともに暮らし、「おほきみ」は里にある朝廷の主人になった。最初のころの朝廷は、政治的な組織ではなく、巫女集団の活動や人々の巫女集団への捧げものを管理する事務所のようなところだったが、その「捧げもの」を私有化するものがあらわれ権力者になっていった。
日本列島の政治は、そこからはじまっている。つまり、権力者の搾取からはじまったのではなく、民衆の「捧げもの」をマネージメントするところからはじまった。
死者に捧げものをしても返礼が返ってくるわけでもないだろう。生き物は、返礼のない面倒なだけの子育てを当たり前のようにしている。
一方的に「捧げもの」をすることは、生き物の本能なのだ。
レヴィ=ストロースは、人間集団の原初的な段階を「贈与と返礼」という概念で規定していったが、それはおかしい。彼はそれが人間性の基礎だといいたいのだろうが、まったく、何をくだらないことを考えているのだろう、俗物め。そんな関係は現代社会のものであり、原始社会においてはまず「一方的に捧げものをする」という段階があったのだ。それが、人間として生き物としての自然なのだもの。
まあ西洋の歴史においては、権力者が命がけで民衆を異民族の侵略から守ってやるという段階があったから、その返礼として民衆は税をおさめた。これが、人類史における「贈与と返礼」の発生である。しかしそれ以前の異民族の脅威などない段階においてはそんな関係などなかったし、権力者も存在しなかった。レヴィ=ストロースの思考は、そこまでさかのぼることができていない。
そうして海に囲まれた日本列島の縄文・弥生時代においては異民族の脅威などなかったのであり、したがって「贈与と返礼」などという人間関係も存在しなかった。
日本列島の歴史において天皇を頂点とする政治組織(大和朝廷)が生まれてくるに際しても、はじめに民衆の側からの一方的な「捧げもの」があったわけで、そのことに寄生するように「搾取=税」という政治権力の行為が生まれてきた。
搾取すること、すなわち税を取り立てるという政治は、古墳時代後期から飛鳥時代にかけて本格化した。
民衆は、なぜ「捧げもの」をせずにいられなかったのか。
どうしても天皇にいてもらいたいわけがあったからだ。それはおそらく、大きくなりすぎた集団の運営にあった。弥生時代のころは支配者がいないまま、民衆自身の連携・結束で運営されていた。そのための形見として、みんなして美しい巫女の舞を祀り上げ「捧げもの」をしていた。そこからはじまり、やがては美しい舞のことはさておいて、天皇を祀り上げるということ自体を身体化していった。
古墳時代のころの民衆にとってははもう天皇が「きみ」であっても「おほきみ」であってもどちらでもよかったし、権力者にとっては朝廷の主人である「おほきみ」が天皇である方が都合がよかった。
そのとき天皇は、民衆が連携・結束するための形見として機能していた。
大きな集団になって連携が活発になってくると、ときにどうしても人と人の関係が接近し過ぎてくる。彼らはそのような関係を「穢れ」だと思った。
つまり、それほどに人と人が連携してゆくダイナミズムに溢れていると同時に、「憂き世」という思いが極まっている状況でもあった。



古墳時代というくらいで、奈良盆地では巨大前方後円墳が次々に造営されていった時代である。それは、天皇がみずからの権力を誇示するために民衆をこき使って造営したというようなものではなく、民衆自身が自主的に造営した天皇への「捧げもの」であり、だから「陵(みささぎ)」という。
そのころの天皇にはもとより「権力」などというものはなかったし、民衆をこき使うような能力も意欲もなかった。
平城京の大仏造営だって、天皇に寄生したまわりの権力者たちが天皇の名を借りて進めたことだろう。いちおう文献には天皇が率先してやったと書いてあっても、それが真実だという証拠にはならない。そのように記述してゆくのがこの国の権力者の常套手段であり本能なのだ。
古墳時代の巨大前方後円墳が、ただの無用のモニュメントだったはずがない。そのころの奈良盆地にそこまでの経済的余裕があったとは考えられないし、そんな巨大で完成された権力が存在したはずもない。
奈良盆地に最初にあらわれた巨大前方後円墳弥生時代末期の纏向遺跡箸墓古墳であるが、それは墳丘の長さが280メートルもあり、奈良盆地の人々が総出でつくったといわれている。
それは、権力者の指揮統制のもとに大集団でまとまとまってつくったのではなく、小グループごとにつくった部分部分をつなげてゆくようにして出来上がっていったらしい。
彼らは、縄文以来の伝統として大きな集団としてまとまることは苦手だったが、小集団どうしが連携してゆくことは得意だった。そしてこれは、現在まで続く日本列島の住民の行動習性の特徴である。
われわれは、町内会のような小さな集団を持たないと国としてまとまることができない。新興宗教の布教だって、10人から20人の小グループをつくりながら活動しているらしい。よく知らないが、大企業だってそのような組織づくりをしているにちがいない。それが、日本列島の住民の行動習性なのだ。
弥生時代奈良盆地は、ほとんどが湿地帯だった。であればその巨大古墳は、湿地帯の水を一か所に集めてまわりを干上がらせる干拓工事だったのではないだろうか。
だから、それらの巨大古墳はすべて周濠を持っており、掘った土を捨てにゆく手間を省くために中心に積み上げていったのだろう。
そうして出来上った盛り土部分を墓にして天皇に捧げた。
箸墓古墳ができたのはまだ弥生時代後期だったから、捧げた相手は天皇家の姫君だったといわれている。自殺した、という伝説になっているから、おそらく、若くして死んでしまった舞の名手としての巫女だったのだ。
奈良盆地の巨大前方後円墳は、民衆による「きみ」への捧げものだった。



古墳時代の巨大古墳の被葬者などただの言い伝えがあるだけで、たしかなことは何もわかっていない。いちおう歴代の天皇が被葬者になっているのだが、その初期の天皇自体が実在したという証拠もない。ただ天皇が存在したらしいということが推測できるだけである。実際に誰を埋葬したかということはたいした問題ではない。民衆がそのような言い伝えをしてきた、ということが大事なのだ。
そして最初の巨大古墳の被葬者が若い娘だということの意味を、われわれはもっと考えるべきだろう。
最初は、若い娘が天皇だったのだ。
箸墓古墳はモモソヒメの墓だという伝説になっている。いちおうモモソヒメは若くして死んだただの姫君で、歴史家は、天皇はべつにいたという。だったら、同じ年代の同じ地域にそれと匹敵する規模の前方後円墳が存在するかといえば、しない。
ただの姫君なら、そのときの天皇と一緒に埋葬するか、とにかく小さいものでよかったはずである。
つまりその姫君は、天皇家にとって大きな存在だったのではなく、民衆にとってとても大きな存在だったのだ。だから、民衆が勝手にその墓をつくって、勝手に捧げた。べつにそんな墓を天皇家に命じられてつくらされたのではない。天皇家には、そんな墓をつくる必然性などなかった。それは、あくまで民衆の側にあった。



奈良盆地前方後円墳は、民衆が勝手につくったものである。
そのころ前方後円墳は、小さいものを含めれば無数につくられている。そしてもともと干拓のためのものだったのだから、まわりの土地が干上がってその必要がなくなれば、自然に田んぼや住宅地に変わってゆく。最初は誰かの墓だったのかもしれないが、いつの間にかただの雑木林の丘としかみなされなくなっていったのだろう。
まあ、大きいものだけが伝説とともに残っていった。そしてそれらは、天皇の墓として天皇家が管理してきたのではない。民衆が勝手に天皇の墓だと呼んで、民衆が管理してきただけである。江戸時代には、墳丘の上に茶店を建てたりして、公園のようになっていたりもした。
まあ墳丘の中には棺を納めた石室もあるのだが、ほんとうにその天皇の遺体を納めてあったのかどうかはわからない。古墳ができた年と被葬者とおぼしき天皇の死んだ年が何十年もずれていることなどは珍しくない。また、複数の棺が納められている場合も多い。それは、天皇の親族か、天皇に仕えていたものたちか。そういう天皇にゆかりのものたちを埋葬すれば、いちおう天皇の墓になる。
誰を埋葬してあるかということは、そのときのなりゆきで、わりといいかげんだったのかもしれない。
天皇本人を埋葬したかどうかはわからないが、ともあれその天皇を記念した墓だったのだろう。そのときの民衆の目的は天皇に干渉することではなく、ただもう一方的に天皇を祀り上げることにあった。
民衆にとって天皇とは、干渉(=寄生)することのできない「他界」の存在だった。したがって、そこに天皇本人を埋葬していない方がもっと意義のあることだった。そこに天皇本人が眠っていなくても、それでもそれはその天皇の墓だと信じることができた。それが大事だったのだ。
そうやって一方的に祀り上げ捧げてゆくことこそ彼らの天皇との関係だったのであり、そこにこそ人と人の関係の普遍性がある。
一方的な無償の関係、ということだろうか。それこそが人間ほんらいの関係なのだ。そういう人間ほんらいの関係性の形見として天皇が祀り上げられていた。
だから、そこに天皇本人が埋葬されていなくても、それはまさしくその天皇の墓だったのだ。



人は死者に捧げものをする。これは、人類普遍の習俗だろう。
ネアンデルタールは埋葬のときに花を添えていたというし、ネアンデルタール=クロマニヨンの時代のスンギールの遺跡では、おびただしい量のビーズが棺の中におさめられてあった。おそらく、村中のビーズをみんなが持ち寄ったのだろう。歴史家はそれを被葬者は身分の高いものだったからだといっているのだが、そうではあるまい。その被葬者は10歳前後の少年と少女で、村中のもののかなしみを誘わずにいられないほどの悲劇的な死に方をしたのだろう。
人と人は、かなしみ(嘆き)を共有しているときにこそ、もっとも豊かな連携・結束を産む。村中のビーズを持ち寄ってくるほどに人々はかなしみ嘆いたのであり、それほどに豊かに連携・結束していったのだ。
そしてそれは、弥生時代奈良盆地の人々が「天皇=きみ」に「捧げもの」をしていったのと同じ心の動きのはずである。彼らは、死者に「捧げもの」をするように天皇を祀り上げ「捧げもの」をしていった。
そのかなしみ(嘆き)が人と人を連携・結束させる。
死者はもう戻ってこない。そのかなしみ(嘆き)が極まって人類は埋葬をはじめた。
戻ってこないということは、もう一緒に話したり暮らしたりすることはできないということ。つまり、もう寄生してゆくことができない相手だということ。
俗世間の人間関係は、どうしても寄生し合うような「穢れ」がついてまわる。しかし死者に対しては、そうした「穢れ」をそそいだ関係になる。弥生時代奈良盆地の民衆と天皇の関係も、おそらくそのようなものだった。
日本列島の住民が連携・結束してゆくのが上手な民族であるということは、良くも悪くもひとまず世界中が認めていることだろう。それは、「穢れ」のかなしみ(嘆き)の上に成り立った連携・結束だからだ。
かなしみ(嘆き)こそが人と人をを連携・結束させる。人類がこんなにも大きな集団をいとなむ生き物になったのは、その生の根源にかなしみ(嘆き)を共有している存在だからだ。生存戦略のためだったのではない。連携・結束の結果として、気がついたらこうなっていただけのこと。
人類のかなしみ(嘆き)は、二本の足で立ち上がって猿よりも弱い猿になったときからはじまっている。
根源的には、人間は生きてあることそれ自体を嘆いている存在なのだ。
だから連携・結束するし、「捧げもの」をする。



縄文時代の集落は、100人以下の小さなものばかりだった。そしてそれらのほとんどは女子供だけの集団だった。男たちは旅をしながら、その女子供だけの集落を訪ね歩いていた。
そこでは、たえず出会いのときめきと別れのかなしみが繰り返されていた。
彼らにおいては、かなしみ(嘆き)こそがこの生のすみかだった。
それは、寄生し合う関係をひたすら解体し続ける社会であり、そんな社会形態が1万年も続いた。彼らは寄生し合う関係の「穢れ」をとても嫌ったし、それは人間の普遍的な本性でもあった。
そしてその延長として弥生時代がはじまったのだが、農耕生活とともに人口がどんどん膨らんでくればもう、そうした「穢れ」はどうしても付きまとってくる。
彼らは、死者との関係のような「穢れ」をそそいだ関係を欲しがった。巫女たちを山の中という「他界」に住まわせてそこに捧げものを携えて詣でるというのは、まさに埋葬のかたちをそのまま踏襲するもので、彼らは死者を祀り上げるように「天皇=きみ」を祀り上げていった。
そのようにして天皇と民衆の関係は、一方的な捧げ合う関係だった。
寄生し合わない「みそぎ」の関係を生きてあることの形見として持っていたくて、天皇を祀り上げていったのだ。
しかし、そのように寄生し合う関係がエスカレートしてくれば、どうしてもその関係の巧者はあらわれてくる。そのようにして、天皇に寄生しながら民衆の捧げものを私有化してゆく「権力者」があらわれてきた。
寄生の対象として天皇をイメージするなんて、天皇を否定していると同義なのだ。天皇を他界の神だとしながら、実際にはすっかり寄生していっている。天皇を神だとすることが、寄生してゆくことの免罪符になっている。
弥生時代奈良盆地の民衆が一方的に天皇に捧げものをしていたのは、他界の死者に捧げものをすることの延長の行為だった。生きてあることの「穢れ」を自覚している人間という存在は、そういうことをしたがる本性を持っている。
寄生し合わない一方的な関係こそ、人間性の基礎であるというか、人間の根源的な願いである。
人と人は、この世界の同じ現実として一体化・共生しているのではない。たがいに「他界」の存在として向き合っているのだ。だから「捧げもの」をせずにいられない、それは「贈与と返礼」などという関係ではない。根源においては、心理的にも物質的にも、ただもう一方的に「捧げもの」をし合っているのだ。
天皇の遺体を納めてあるわけでもないのに、ただもう一方的に天皇の墓だと信じて祀り上げてゆく……われわれ現代人にはもう、こんな切実で深い心の動きはない。



「陵=みささぎ」の「ささぎ」は「捧(ささ)ぐ」の体言である。
しかし一般的な語源論では、「ミソサザエ」とか「サギ」とかの鳥の名からきているなど、そんなようなことばかりで、「捧ぐ」からきているという解釈はほとんど流通していないらしい。
あたりまえに考えて「み=御」という音韻が被せられているくらいだから、天皇家や権力の側ががそう名乗っていたはずがない。民衆が勝手にそう呼んでいただけだろう。
歴史家は、民衆が熱心に天皇に「捧げもの」をしていたということは、あまり本気で考えていないらしい。秦の始皇帝のように民衆から搾り取る支配者=王だったと思っている。
共同体の歴史は、権力者の「搾取」からはじまったのではなく、民衆の「捧げもの」からはじまったのだ。
物理学的な現象として、この「捧げる」という過程の段階がなければ「搾取する」という関係は生まれてこないはずである。まあ、物理学者に聞いてみたいところだ。
人間集団の初期の歴史において、自然に当たり前のように「搾取」という関係が生まれてくるなんて、考えることが短絡すぎる。
現代社会の「搾取」という関係だって、根源的にというか意識下においては、人間の「捧げもの」をしようとする本性の上に成り立っている。だから人は、安月給で働かされてしまう。
人は「捧げもの」をしようとする本能を持っている。それは、死者の埋葬に花を添えるような心の動きなのだ。
人と人の関係の「他界性」、そこから「捧げもの」の習俗が生まれてきた。
現代社会はなんでもかんでも「贈与と返礼」の契約関係になっているから、最初からそうだったのだと考えがちだが、古代人や原始人にとってはこの他界に向かって一方的に「捧げる」という行為は、生きてあるためのとても大切な作法だったのだ。そうやって他者との関係の寄生し合う「穢れ」をそそいでいた。
大きな都市集団の中での人間関係のしんどさは原始人や古代人には無縁だったと考えるべきではない。集団の規模がふくらんでゆくとき、そういう都市集団の歴史を持たない彼らの方がずっとしんどい思いをしていたのだ。彼らにとってそれは、歴史上初めて遭遇する事態だった。
その「穢れ」のしんどさから「捧げもの」の習俗が生まれてきた。
そしてこの「捧げもの」の習俗は、現代社会にも引き継がれているはずである。
まあ、公的な場は「贈与と返礼」の関係で、プライベートの友情などは一方的な「捧げもの」をし合う関係である、といえるのかもしれない。
「捧げもの」のメンタリティはわれわれの中にも残っているし、古代人においては、それをしないと生きられないというくらいもっと切実だった。
彼らはそういう思いで「他界」の存在である天皇に捧げものをしていたのであり、そこから「みささぎ」という言葉が生まれてきた。「陵」という漢字はそれが小高い丘のようになっていたからそう当てただけであり、それは「みささぎ」という言葉の語源ではない。
「捧ぐ」の「さ」は「裂く」の「さ」、この場合は、この世とあの世を裂く「他界性」を表している。他界に向かって一方的に捧げるから「捧ぐ」という。古代人がその「裂く」という意味の「さ」を二つ並べて強調せずにいられない「他界性」に対する思いの切実さがあった。
「ささ、どうぞ」とか「さっさとやれ」などという。やまとことばにおいて「さ」を二つ並べることは、他界との隔たりを飛び越えてゆくようなニュアンスを表出している。
人間は根源においてこの生を嘆いている存在だから、そういう表現を生み出してしまうのだ。われを忘れて何かに夢中になっていることは、他界との隔たりを飛び越えている状態である。
弥生時代奈良盆地の人々は、俗世間を離れて山の中に住む「天皇=きみ」に「捧げもの」をせずにいられないほどに俗世間の人間関係の「穢れ」を嘆いていた。天皇はこの現世の中の「他界」の存在であり、そうした現世の中の「他界性」を見い出してゆくことが彼らの生を支えていた。人との関係の他界性、そしてその出現した小高い丘の他界性。最初はただの干拓のためで墓にするつもりではなかったかもしれないが、積み上げた土が丘となっていざそこに出現してみると、もう墓にせずにいられなかった。
彼らはもともとまわりのたおやかな姿をした山なみに他界性を見ている人たちだった。
そうしてそれは、天皇を祀り上げていることの形見になっていった。
何はともあれ一方的に祀り上げ捧げものをするということ、これこそが人と人の関係の根源的なかたちであり、この人間性を確保するための形見として天皇が存在してきた。
ちゃんと「みささぎ」という言葉が残っているのに、どうして歴史家は、権力者が民衆を使役してつくらせたと解釈してしまうのか。



とにかく、そのようにしてその後も周濠を持った巨大前方後円墳が次々につくられていったということは、それほどに天皇の権力が巨大だったことを意味するのではなく、それほどに人々の連携と天皇に捧げものをしようとする意欲が盛り上がっている時代だったということを意味する。そしてその捧げものをマネージメントしながら私有化してゆく権力者が天皇のまわりからあらわれてきたのが古墳時代だった。
まあ、最初の大和朝廷は、巫女集団や他地域との交易をマネージメントする事務所のようなものだったのだ。
そうしてやがては、軍隊を組織しながら他地域を侵略してゆき、権力を拡大していった。つまり、権力を強化するためにそうやって「異民族の脅威」を捏造していったのだ。
まあ集団どうしの小さないさかいは弥生時代からあったのだろうが、日本列島を本格的な戦争の時代に突入させていったのは大和朝廷であって、そんな状況が人間の本性とともに自然発生してきたのではない。
奈良盆地は列島中から人が集まってくる場所だったから、すでに各地の情報を相手以上に持っていた。
なぜ列島中から人が集まってきていたかといえば、たおやかな山並みに囲まれた美しい景観を持っていたということと、民衆がよそ者を拒まない土地柄だったからだ。
人類社会の都市は、まわりから人が集まってくることによってつくられていった。人口の都市流入弥生時代奈良盆地は、そういう意味ですでに都市としての性格をそなえていた。



大陸では、権力者の支配によって民衆の連携が組織されてゆくという歴史を歩んできた。それが発展して今日の大統領制が生まれたのだろう。
しかし日本列島では、まず、民衆自身の連携のダイナミズムがあった。だから国家の建設が大幅に遅れた。国家も文字も必要ない歴史を歩んできた。弥生時代になってもまだ、権力を持たない「天皇=きみ」を勝手に祀り上げて連携していた。そうして古墳時代になってようやくそれに寄生するように権力が生まれてきた。
この国の権力者は、その歴史的ないきさつからして、「国民を守る」というような本能というか使命感などというものは持っていない。天皇の「赦す」という態度や民衆自身の「連携」に「寄生」してゆくのが彼らの本能なのだ。この国ではそのようにして権力支配が発生してきたのであり、彼らはもう、歴史のはじめからそういう人種だったのだ。彼らが天皇制をつくったのではない、彼らは天皇制に寄生してきた人種なのだ。
彼らは、天皇は神だといいながら、天皇の姿の「他界性」をはぎ取り、天皇に寄生してきた。このへんの仕組みはややこしい。今となってはわれわれ民衆の中にも寄生しようとする権力欲はあるわけで、単純に権力者と民衆という図式だけでは片づけられない。
まあ、権力欲で動いている社会なのだろう。それはそれでしょうがないのだが、そのことによって引き起こされている社会の病理的な現象も少なくないにちがいない。
「他者の差異性」などという。これは、西洋の根本思想のひとつだろう。しかし日本列島においては、他者とのあいだに「差異」があるとは思はない。「他者は自分ではない」と思うばかりだ。「差異」があるともないとも思わない。そんなことを思うことの決定的な不能性の中に置かれるのが他者との関係である。それをここでは、他者の「他界性」といっている。
人と人のあいだには「贈与と返礼」などいう関係が成り立つための決定的な不能性(=他界性)が横たわっている。それでも人と人は向き合い、ときめき合っている。その形見としてひとは「捧げもの」をするのであり、その形見として天皇が存在してきた。
とにかく人間なのだから、誰の心の奥にも「捧げもの」をして祀り上げずにいられない衝動が潜んでいる。日本列島の歴史はそんな心の動きとともに天皇が存続してきたはずだが、いまやそれがなかなか浮かびあがってこないような社会の仕組みになってしまっているらしい。
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