寄生の構造・「天皇の起源」12



天皇はどうして「神」であらねばならないのか?どうして「男」であらねばならないのか?
もともと起源としての「天皇=きみ」という存在は、弥生時代奈良盆地の舞い踊るのが好きな少女たち=巫女であっただけである。
語源的には「巫女(みこ)」の「み」は「姿」というような意味で、その舞い踊る「姿」に対する愛着を込めて「み」といったのだ。そしてその「姿=み」を祀り上げながら「きみ(=天皇)」というようにもなっていった。
「きみ」とは、「完全な姿」「美しい姿」というような意味。
天皇を神だの男だのと決めつけるようになってきたのは、大和朝廷の支配者たちである。
日本列島の支配者たちは、天皇に対する崇拝競争をしたがる本能を持っている。
その崇拝競争に勝った者が、支配者になる資格を得たのだ。
古代の蘇我氏物部氏は、そうやって崇拝競争というかたちで権力闘争をしてきた。より深く天皇を崇拝し、天皇の寵愛を得たものが、支配者になることだった。
まあ、娘を天皇に差し出すこともまた、天皇崇拝競争のひとつの手段だった。
そうしてそんな競争をしているうちに、天皇が「神」になり「男」になっていったのだ。
女の天皇に男を差し出しても、断られるだけである。高貴な女は神と契ったのであって、人間とは契らなかった。したがって、そのころの世界観において、男を差し出すことは天皇の高貴を穢すことでしかなかった。
しかし、神は人間の女と契る存在だった。そのころの巫女も、神と契ることがひとつの仕事になっていた。
支配者たちは、そうやって崇拝の証として進んで処女の娘を「神=天皇」に差し出していった。そうして自分は、天皇の崇拝者であると同時に、天皇の親や次の天皇の祖父という立場も得る。彼らにとって天皇を崇拝することは、天皇を支配することでもあった。
このような習俗は、天皇が男でなければ成り立たない。
支配者たちが、支配の資格を得るために、もともと女だった天皇を「神」にし「男」にしていったのだ。
天皇が「神」でなければ娘を差し出す値打ちがない。「万世一系」ということも、そういうことにすればその行為にますます値打ちが出るからだろう。天皇に差し出した娘以外はたいして価値がないんだ、ということにして権力争いを制していったのだろう。
支配者たちの天皇崇拝競争は、「娘を差し出す」というかたちではじまった。
また、天皇崇拝の文章を上手に書けるものが官僚として出世した。地方からやってきた「舎人(とねり)」という下級官僚たちは、来る日も来る日も天皇崇拝の文章を練習した。そうして彼らが地方に戻って支配者グループに参加してゆくことによって、列島中が天皇崇拝で支配される基盤になっていった。



支配者にとって、誰よりも天皇を崇拝して見せることは、天皇を支配する資格を得ることだった。そのようにして天皇が「神」になり「男」になっていった。
それは支配者の支配欲から生まれてきた制度にすぎないのであり、その支配欲は天皇に向けられ、天皇をおもちゃにしてもてあそぶために天皇を「神」にし「男」にしていったのだ。この伝統は現在も日本列島の支配者たちに受け継がれている。いや、今や支配者だけでなく一般的な民衆にもこの「天皇崇拝競争をしながら天皇をおもちゃにしてもてあそんでゆこうとする衝動」が広がってきている。
全共闘世代は、天皇のことを「天ちゃん」などと侮蔑的な呼び方をしていたが、天皇の崇拝競争をしたがる右翼の支配者たちと「天皇をおもちゃにしてもてあそんでゆこうとする衝動」において同じ穴のムジナであったのかもしれない。
天皇天皇たるゆえんは、根源的本質的には「神」であることでも「男」であることでもない。
初期の「天皇=きみ」は女であったはずだが、女ということにこだわる必要もない。女だっていろいろいるし、女であればいいというものでもなかった。
その根源・本質はどこにあるかといえば、「姿の美しさ」にある。起源としての「きみ=天皇」はこのことによって弥生時代奈良盆地の民衆に祀り上げられていったのだし、いまなおこのことによって人々から祀り上げられているのだ。
起源としての天皇制は、思春期の少女たちの舞い踊る「姿」の美しさに人々が魅せられ祀り上げていったことにはじまっている。
日本列島の伝統文化は、「姿の美しさ」を祀り上げてゆくことにあり、そこにこそ天皇天皇たるゆえんがある。
ほかのことは全部どうでもいいのだ。
天皇の存在の仕方の基礎は、この国の伝統文化の基礎でもある。
天皇の起源を考えることは、この国の伝統文化の基礎を考えることでもある。
天皇制は、起源以来さまざまに変質してきた。支配者たちに変質させられてきた、というべきだろうか。
それでも天皇天皇であり続けてきたし、今なお民衆に祀り上げられている。
民衆は天皇の何を祀り上げているのだろうか、という問題を僕は考えたいのだ。
天皇が「神」であること「男」であることも「万系一世」であることも、民衆にとっては全部どうでもいいことだ。そんな問題はすべて、支配者たちがもてあそんでいるおもちゃにすぎない。
天皇のことだけでなく、この国の民衆は何を祀り上げる民族であるのだろうか、という問題は、そういうこととはまったく関係ない。
この国に天皇が存在することは、基本的には文化現象であって、政治現象ではない。宗教現象ですらない。それは、祭りから生まれてきた単なる芸能だったのだ。
最初の天皇は政治的存在だったがだんだん文化的存在になってきた、というのではない。最初から文化現象として発生してきたのだ。
大和朝廷天皇を生み出したのではない。弥生時代に生まれたその「天皇=きみ」という文化的存在に寄生するようにして大和朝廷が生まれてきたにすぎない。天皇に寄生するように「神」であるとか「男」であらねばならないというような思考が生まれてきたのだ。
この国の支配者たちは、天皇の崇拝競争をしたがる本能を持っている。それは、天皇に寄生している、ということだ。
そして支配者が天皇に寄生したがる習性をもっているということは、弥生時代奈良盆地には大和朝廷よりも先に天皇が存在していたことを意味する。



まあ、僕が今ここで書いていることはほとんどの歴史家の解釈とは違っているから、聞き届けてもらえそうにないという不安と覚悟は持っている。しかし、天皇大和朝廷が生み出しただなんて、どうしてそんな程度の低い安直なことを考えるのだろう、とも思っている。
弥生時代に政治や私有財産の制度がすでにあったと、どうしていえるのか。ろくにものを考えていないから、安直にそういう発想をしてしまうのだ。
たとえば、弥生後期の纏向遺跡がどんなに大きな規模であっても、そこに政治や私有財産の制度があったという証拠にはならないのである。
それは、集落跡ではないらしい。大きな社殿とか工房跡などがあらわれているだけで、まあ、人々が集まってくる市(いち)とかお祭り広場のようなところだったのだろう。集落は、そのまわりにあった。弥生時代奈良盆地はほとんどが湿地帯で、集落はその中の小高い浮島のような場所に寄り添うように集まっている小規模なものばかりだった。
彼らにとっては小規模集落の方が具合が良かった。それが縄文以来の伝統だったからだ。そしてその纏向遺跡の広いスペースは、あえて集落にせず、みんなが集まってくる市やお祭り広場にしていった。これは、私有財産という制度など持っていない人々の発想だろう。
また、もしもその時代に戦争があったり支配者がいたりしたら、たとえば平城京のように、何はさておいてもそこに支配者の住居や政治の場をつくり、そのまわりに集落を集めて守る、というかたちになっただろう。
しかしそこは、外部のものを寄せ付けないところではなく、見知らぬ外部のものさえ集まってこられる場所だった。そこには、政治も、守るべき私有財産の制度もなかった。
農作物だって、みんなで耕し育ててみんなで収穫していたのだ。そんなところからどうして私有財産など生まれてくるものか。私有財産は、支配者があらわれ搾取するようになってから生まれてきたのだ。搾取によってしか、私有財産も階級も生まれてこない。
弥生時代奈良盆地に、搾取をする支配者など存在しなかった。
みんなが「捧げもの」をする天皇という存在がいただけだ。そしてその「天皇=巫女」という存在は、山で暮らしていたのであって、平地を占拠して王宮をつくるような存在ではなかった。
まあそのころの湿地帯だらけの奈良盆地は、だれかが占拠できるようなスペースはなかったともいえる。そしてせっかくの広いスペースも誰も占拠しようとせずに、みんなが集まる市やお祭り広場にしていった。彼らにとっては、占拠するスペースよりもそういう場所の方が必要だったのだ。
彼らが狭い浮島に肩を寄せ合うように暮らしていたということは、自分のスペースを広く占拠したいという欲望を持っていなかったことを意味する。まあこれが、人間の自然な意識なのだ。人間の二本の足で立っている姿勢は、相手とつかず離れずの関係で向き合っていることによってはじめて安定する。広いスペースを占拠していたら、たちまち不安定になってしまうのだ。
そのころの奈良盆地にはまだ、私有財産を持とうとする衝動は存在していなかった。
私有財産を持とうとしなかったから、「なりゆきまかせ」でもタイトな連携をつくってゆくことができたのだ。古代以前の日本列島の住民は、そういう連携のかたちを縄文時代以来洗練発達させてきたのだ。
いまどきの歴史家は、支配者や階級や私有財産を持つことが人間の文明の発達であるかのような先入観を持っている。
そういうことではないのだ。日本列島の文化は、言葉にせよ集団のいとなみにせよ人と人の関係にせよ、原始的なかたちをそのまま洗練発達させてきたのであり、そこのところを彼らは何も考えていない。だから、大和朝廷天皇を生み出した、というような無造作なことを平気で考えている。
天皇の存在なしに大和朝廷が生まれてくる契機などないのであり、大和朝廷よりも先に天皇が存在していたのだ。万世一系どころの話ではないのである。



政治や私有財産の制度がなくても大きな集団をいとなんでしまうのが古代の日本列島のメンタリティであり生態だったのであり、それこそが天皇制が生まれてきたことの契機だった。
たとえば、古代までの道や港や橋やため池などの土木工事は、すべて民衆どうしの自主的な連携でつくられていた。権力はいっさいタッチしていない。権力がその事業のための税を取り立てるなどのかたちで介入してきたのは、中世以降のことなのだ。そのとき権力者は、そのようにして民衆の連携に寄生していった。
この国の支配者なんて、根っからの寄生虫根性がしみついた人種なのだ。大仏造営のときは、信濃の民衆が物資を運ぶための道をつくったことに朝廷から感謝状が贈られている。そんなことくらい最初から国が金を出してやれよ、という話である。何もしないで民衆が勝手にやりはじめるのを待っていたのだ。
そしてこの国の民衆には、権力にお願いして何かをしてもらうという伝統が欠落している。道や港や橋やため池などの土木工事などは、とっくに国の事業としてはじまっていてもいいはずである。何はともあれ飛鳥時代にはすでに国はできていたのだ。
なのに支配者は何もしようとしなかったし、支配者に対して民衆は何も当てにしようとしなかった。これが、古代における支配者と民衆の関係である。
だから、奈良盆地の巨大前方後円墳を支配者が民衆をこき使ってつくらせたという話も大いに疑わしいのだが、今はこの問題をつつくのはやめておく。
とにかく、弥生時代奈良盆地では、大和朝廷が生まれる前にすでに民衆自身の連携ができあがっていたのだ。このあとの時代の大和朝廷は、その連携に寄生していっただけである。



天皇は、奈良盆地の人々が、ほとんど自然発生的に生み出した存在なのだ。
人間は、どのようにして政治という集団運営の技術を覚えていったのだろうか。
日本列島の住民は、大陸の人々に比べてなぜ政治的にナイーブなのだろう。
日本列島の支配者は、直接民衆を支配するための思想や人格が脆弱である。みんなして天皇というカリスマを仰ぐというかたちでしかそれをできない。歴史的に、「支配=説得の文化」というものが成熟してこなかった。
つい最近の明治以降になっても、朝鮮の人々を「お前らも天皇を仰げ」というかたちでしか支配できなかったのだ。この国の支配者には、直接民衆を支配・説得するための文化がない。
これは、個人的な人と人の関係の文化においても同じで、この国は、他者を説得・支配する思想や人格の基盤すなわち文化が脆弱である。これはもう日本語そのものの構造の問題で、われわれは、他者を「説得する=支配する」ための言葉を持っていない。
日本語(やまとことば)の第一義的な機能は、「意味の伝達」すなわち他者を説得・支配することにあるのではなく、「感慨の表出」にある。つまり、起源としての言葉の機能をそのまま洗練させてきた言葉なのだ。
われわれは、原始的な心性や文化をそのまま洗練発達させてきてしまった民族なのだ。
これには、さまざまな偶然が潜んでいる。まず、氷河期の1万3千年前までは大陸とつながっていたから、大陸と同じ文化のレベルを持っていた。このときまでは、まだ世界中の人間が政治や私有財産などというものを知らなかった。そこからスタートして、そのあとの世界の動きから離れて、政治や私有財産というものを知らない文化をそのまま1万年以上かけて洗練発達させてきてしまった。そうして古墳時代のころにはじめて政治や私有財産の制度によって「共同体=国家」をいとなんでゆくということを大陸から教えられて知った。まあそのころには日本列島のあちこちに大きな都市集落が生まれ、そういうかたちでしかその集団をいとなむことができないという状況になってきていた。
というか、そのころになってようやく政治や私有財産という制度が生まれてくる状況になってきた。



日本列島では、政治や私有財産の制度によって大きな都市集落が生まれてきたのではなく、「なりゆきまかせ」というメンタリティによってすでに大きな都市集落ができてしまってから政治や私有財産の制度が発生してきたのだ。
「あとづけ」……これは、日本列島の伝統である。どんな外来文化もたちまち吸収してときには追いつき追い越してしまう、というメンタリティ。
たとえば日本列島では、縄文時代の1万年はほとんどが数十人程度の小規模の集落ばかりだったが、弥生時代になればたちまち数千人数万人規模の集落をいとなむようになっていった。
なぜそんな変化が起きたかといえば、その縄文時代の数十人に規模の小集落はおそらく女子供だけのものだったが、そこで完結していたのではなく、列島中からやってくる旅の男たちと出会っていた。そのように小集落で暮らしながらもたくさんの人と人の関係を体験していたわけで、そうやって、すでに大きな都市集落で暮らすトレーニングをしていたのだ。
つまりその数十人の小集落は、すでに数千人数万人の集落とある意味で同じ機能を持っていたのだ。
そしてそれは、支配者の支配という政治や私有財産の制度による集団関係ではなく、ただもう「なりゆきまかせ」の連携関係だった。
だから弥生時代になっても、支配者が生まれてくることもなく「なりゆきまかせ」の連携関係のまま、たとえば奈良盆地のように数万人規模の大集団に膨らんでいった。
そしてそのようにすでに大集団の連携の意識とシステムを持っていたら、そこから共同体(国家)という政治集団になってゆくことも、きっかけさえあればあっという間だったことだろう。そこで登場してきた支配者は、ただもうその連携関係に寄生してゆけばいいだけだった。
また、弥生時代になって農業をはじめたといっても、そんなことは稲作をはじめとして縄文時代から女たちが趣味でやっていたのであり、小規模集落の社会ではそれを実用化する必然性がなかっただけである。
これは、明治になって欧米文化を追いかけ追いついていったことだって同じである。江戸時代にはすでにそうした学問や社会制度の基礎は出来上がっていたのだが、泰平楽な鎖国社会ではそれを実用化してゆく契機がなかった。江戸時代の人々は趣味で学問をしていただけで、それを積極的に実用化してゆこうとする状況がなかった。そこのところで欧米に立ち遅れていただけだから、その実用化の仕方なんか、たちまち吸収していった。
ただ、日本列島には日本列島の連携の流儀があるのであって、大陸のような「支配=説得」の流儀とは違う。これはもう、縄文時代から現在までずっとそうなのだ。どんなに欧米的な「支配=説得」の連携の仕方を真似ても、どこかに「なりゆきまかせ」の連携の流儀を引きずっている。天皇制がここまで続いてきたように。



日本列島の住民は、大陸より5千年も遅れて政治や私有財産という制度、すなわち「人を支配する」ということを知った。
しかしそのときはもう、そんなものがなくても民衆どうしが「なりゆき」で連携しながら大きな集団を運営してゆくという文化があるていど出来上がってしまっていたから、そのことの上にそうした政治や私有財産という制度を組み立ててゆくしかなかった。
少なくとも弥生時代奈良盆地は、政治や私有財産という制度がないまま集団運営をしてゆくという文化が、ほかの地域以上に発達洗練していた。それが、みんなで天皇というカリスマを祀り上げながら「なりゆき」にまかせて集団を運営してゆく、という文化システムだった。
この文化システムに支配者が寄生してゆくことによって大和朝廷が生まれてきたのであり、この「民衆の先験的な連携に支配者が寄生してゆく」という集団のかたちがやがて日本列島を制覇してゆくことになったのだ。
そのとき日本列島では、すでに民衆どうしの先験的な連携の文化が育ってきてしまっていた。だから、支配者の支配=説得によって民衆を連携させてゆくというシステムより、その先験的な連携に支配者が寄生してゆくというシステムの方がはるかに効率が良かった。そうやってそのシステムがいちばん進んでいた大和朝廷が列島中を制覇してゆくことになった。つまりそのとき、もっとも政治や私有財産の制度が遅れていた共同体がもっとも政治や私有財産の制度を発達させていった、という皮肉が起こったのだ。
外来文化にかんたんに飛びついて、たちまち吸収し、ときには追い付き追い越してしまう……これは、日本列島のお家芸である。
そのようにしてこの国の支配者はもう、支配=説得によって民衆を連携させることよりも、民衆の連携に寄生してゆくという支配の仕方しか知らない人種になってしまった。
彼らは「民衆の連携に寄生してゆく」という本能を持っている。それはつまり「天皇に寄生して天皇を支配してゆく」ということであり、民衆を直接支配=説得できるだけの資質を持っていない。そうやって天皇崇拝競争をしながら、民衆の連携に寄生してゆくことばかりしてきた。
大和朝廷は、民衆の連携に寄生してゆく、というかたちで生まれてきた。
そしてそのときの先験的な民衆の連携は、みんなで「天皇=きみ」を祀り上げてゆくというかたちでなされていた。
はじめに大和朝廷があったのではない。はじめに天皇がいたのだ。天皇がいなければ、大和朝廷も生まれてきていない。
そういう意味で、天皇の存在が政治や私有財産の制度が生まれてくる契機にもなった、といえなくもない。
べつに天皇のせいではないが、天皇に寄生しようとする人種があらわれ、それによって大和朝廷がつくられ、政治や私有財産の制度が生まれてきた。
こういうことを考えるのはあまり気が進まないのだが、避けて通ることもできないから、ひとまず次回に考えてみることにしよう。
ほんとうは、日本列島の舞の文化について考えたい。このことこそ天皇の起源のもっとも大きく直接的な契機だと思えるのだが、あまりにも歴史家の通説と離れすぎているから、どうしてもかんたんには飛び込んでゆけない。
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