天皇崇拝の構造・「天皇の起源」11



僕はべつに右翼でも左翼でもないが、天皇の起源はどうしても気になる。
それは、「日本人とは何か」という問題だからだ。
明治以降の軍人はみな「武士」を気取って、しかも「天皇」を崇拝してきた。実際に上層部のほとんどは武士の末裔だったのだろうが、どうして天皇崇拝なのか。
三島由紀夫も、まさにその典型だった。
このあたりの心理構造は、ちょいと不思議である。
武士というのは、歴史的に天皇を侮り操り、天皇を飼殺しにしてきた人種である。
平家から始まり、源氏も北条も足利も織田も豊臣も徳川も、みんな天皇の末裔を名乗りながら、平気で天皇を操り飼殺しにしてきた。
明治維新のときの薩長をはじめとする尊皇派だって、いかにも武士らしい大げさな天皇崇拝と、いかにも武士らしい傲慢なやり口で天皇を操っていた。
たとえば現在、天皇は男でなければならないのか女でもいいのかという議論が大いに盛り上がっているらしいが、天皇や皇太子を差し置いて自分たちが決めるのが当然だと言わんばかりの傲慢な議論というのは、なんだか聞き苦しい。武家支配の伝統そのままである。
何はさておいても、まず天皇や皇太子の意見を聞くのが筋ではないのか。
もちろん天皇や皇太子は「よきに計らえ」というのだろう。そういうに決まっていても、そういってもらってからでないと議論ははじまらないし、勝手に決めて申し訳ない、と思うくらいのつつしみはあってもいいだろう。
彼らはどうしてああも堂々と天皇崇拝を口にできるのだろう。この1千年間、天皇をずっと操り飼殺しにしてきたくせに。
三島由紀夫自衛隊で割腹自殺したことに天皇が喜んだはずもなかろう。やるなら、天皇にお伺いしてからやれよ、と言いたいところだ。天皇は、三島由紀夫のいいおもちゃだった。
まあ天皇は、そうやって支配者の勝手な「おもちゃ」か「いけにえ」のような存在だったからここまで続いてきたのだろうか。
日本列島の歴史は、天皇をいちばんおもちゃにしている人種がいちばん大声でいちばん臆面もなく天皇崇拝を口にしてきた。いったいこの構造は何なのだろう。
武士と一般の民衆では、天皇に対する思いの温度差が大いにある。
大和朝廷ができて以来、天皇をおもちゃにする人種が現れてきた。そこから天皇家の歴史も変わってきたのだ。
それ以前の天皇はそういう存在ではなかったし、それ以前の日本列島の民衆は、天皇に対して権力者のような思い方も扱い方もしなかった。
権力者は、天皇を神だと崇拝することによって、それを自分の支配の正当性の担保にしている。天皇をおもちゃにすることの免罪符にしている。



「王様は裸だ」といった少年のように、天皇が神ではないことくらい、誰でも知っている。天皇自身がいちばんよく知っている。天皇からしたらいい迷惑だろう。
支配者たちが自分たちの都合で勝手に天皇を神だということにしてきただけのこと。
もともとこの国には、神という概念も霊魂という概念も存在しなかったし、そういう風土から天皇が生まれてきたのだ。
そうして大陸から「神」という概念が輸入されたとき、民衆は、だったら天皇は神の「形代(かたしろ)=身代わり」に違いないと思っただけである。
この国には「神の形代」が存在するだけで、神そのものは存在しない。
たぶん縄文時代からあったにちがいない「かみ・かむ」という言葉は「祀り上げる感慨」を表す言葉だったのであって、神という存在のことをいったのではない。民衆はただもう、天皇天皇として祀り上げ、山を山として祀り上げていただけである。天皇や山を神だとは思っていなかった。
だから、戦後に天皇人間宣言をしても、誰も不満には思わなかった。起源のときから民衆は、天皇を神だとは思っていなかったのだもの。
そのとき武士の末裔たちだけが、不満に思った。三島由紀夫もその一人である。彼らは、天皇を神だと思いながら、天皇を自分たちのおもちゃにしたいのだ。この国の支配者たちは、大和朝廷の成立以来、ずっとそうしてきたのだ。
この国では、神をおもちゃにしてもいいらしい。それはまあ、おもちゃとして輸入された概念なのだ。
彼らは、天皇をおもちゃにできるくらい、天皇を神だと信じている。



われわれは、神を知らない民族なのだ。
天皇の「姿」の美しさや尊さは、彼らにはわからない。
晩年の昭和天皇のことを「かわいい」といった女のジャーナリストの方がずっとそのことをよく知っている。
何度でもいう。天皇はもともと支配者でも神でも呪術師でもなかった。ただの若い娘の巫女だったのだ。
その「姿」の際立った美しさがあっただけだ。思春期の少女という存在は、普遍的に「立ち姿」の際立った美しさを持っている。それは、アメリカでもフランスでも中国でもそうなのだ。
歴代の支配者権力者たちが天皇を神にしてしまったのだ。自分たちの支配・権力の担保として、神にしてしまったのだ。
天皇は、支配者の玩具としてこの1500年の歴史を生き残ってきた。
たぶん、支配者にとっては、この世に天皇ほど支配に便利な存在もないのだ。
大和朝廷が成立していったころ、民衆は、天皇を祀り上げながら民衆自身による先験的な連携をすでにそなえていた。
大陸の歴史においては、はじめに支配者が現れて民衆を連携させていった。
しかしこの国においては、はじめに民衆どうしの連携があり、そのあとから大和朝廷という支配の場がつくられていった。だからそのとき、民衆から天皇を奪ったら支配することは不可能だったし、天皇を祀り上げさせておくかぎりこの世に奈良盆地の住民ほど支配しやすい存在もなかった。
まずは、支配するということを何も知らないものたちが支配を始めたのだ。だから、天皇を祀り上げる民衆の先験的な連携を当てにするしかなかった。
日本列島のあちこちで共同体が生まれてきた古墳時代のころ、いちばん支配しやすい民衆を持っている奈良盆地大和朝廷という共同体が、いちばん戦争が強くなってゆき、いちばん政治システムがスムーズに発達していった。そしてこの構造が、日本列島の支配システムの伝統になっていった。
大和朝廷は、天皇を祀り上げさせることによって支配の地域を広げていった。
そうして、天皇を支配すればすべての民衆を支配できるというかたちが日本列島に定着していった。
支配者は、天皇を民衆よりももっと上位の祀り上げ方をして見せながら天皇を支配してゆくことによって、たやすく民衆を支配してゆくことができた。
民衆よりももっと上位の祀り上げ方として、天皇を神にしていったのだ。そうすれば、民衆はたやすく支配することができる。ほおっておいても勝手に連携し、ついてくる。
日本列島の社会は、しだいにそういう構造になっていった。
それは、民衆が天皇を祀り上げるというかたちで先験的な連携を持っていたからだ。そういうかたちにしておけば、民衆はとても支配しやすかったからだ。逆にいえば、そのために日本列島の支配者には、民衆を支配するための文化が育ってこなかった。もう、天皇に甘えてしまって、安直な支配の仕方しか知らないのだ。彼らは、天皇に甘えながら天皇を支配してきた。
日本列島の支配の文化は、天皇を支配することが先で、直接民衆を支配する文化は育ってこなかった。
明治以後の朝鮮に対する同化政策だって、この国の支配者たちは、天皇を祀り上げさせることでしか朝鮮の民衆を支配するすべを知らなかった。この国は、この2千年来、そういう支配のかたちしか知らない歴史を歩んできたのだ。



日本列島の支配者たちは、誰がいちばん深く天皇を神として崇めているかという競争ばかりしてきた。それが、支配者であることの根拠だった。
貴族政治の象徴である藤原氏はその競争に勝って頭角を現してきたのであり、江戸時代の徳川家だって、水戸光圀をはじめとしてさかんに天皇崇拝を先導・煽動してきた。
そういう構造の歴史があるから、武士の末裔たちには、いまだに天皇崇拝自慢の競争をしたがる習性が残っている。
天皇を神にしてしまったのは、この国の支配者たちである。
民衆は、天皇が神であってもなくてもどちらでもよかった。ただもう天皇天皇として祀り上げてきただけだ。「姿」の美の体現者として。
江戸時代の武士たちは、史上もっとも天皇家を冷遇しながら、そのじつ内輪では、天皇崇拝自慢の競争ばかりしてきた。江戸時代そのものにそういう流れがあったから、尊王運動の明治維新が起こってきたのだろう。
だから今でも、民衆を支配しようとするものは、日の丸だの国歌だのを騒ぎ立てる。
彼らは、われわれ民衆のように、天皇は「いてくれるだけでいい」とは思っていない、いまだに天皇は神であらねばならないと思っている。
彼らは、天皇を「神」というかたちに捏造しつつ、傍若無人天皇を支配してきた。天皇を支配した人間が、この国の支配者になってきたのだ。天皇を支配すれば民衆なんかほおっておいても支配できると、彼らは本能的に知っている。そして天皇を支配することは、天皇を神と崇めることなのだ。神と崇めながらおもちゃにしてゆくのが天皇を支配することだ。



民衆が天皇を「姿の美の体現者」として祀り上げてゆくことと、支配者が天皇を神として崇めてゆくことは、ぜんぜん別のことなのだ。
天皇を神として崇めることは、天皇をおもちゃにしてもてあそぶことなのである。
日本列島の天皇の起源は、そのようにして生まれてきたのではない。天皇は、弥生時代奈良盆地において「姿の美の体現者」として登場してきたのであり、それは、巫女という思春期の娘たちだった。
最初はたぶん、特定のひとりというより、巫女の娘たち全体を「きみ=天皇」と呼んでいたのかもしれない。
語源的には、「きみ」とは「美しい姿」とか「完全な姿」というような意味だったのであって、「あなた」という意味だったのではない。
古墳時代以降の天皇は「おほきみ=大君」と呼ばれるようになったらしいが、それは「偉大なるあなた」という意味だったのではない。おそらく「<きみ>の親」というような意味だったのだ。
古代に「きみ」を「あなた」という意味で使っていた痕跡などどこにもない。昔は「若君(わかぎみ)」とか「姫君(ひめぎみ)」というような、美しく尊い姿に対する尊称として使われていただけで、「きみ」のことを「あなた」という意味で使うようになったのは、つい最近の明治以降のことにすぎない。
おそらく起源としての「きみ=天皇」は、一人ですらなかったのだ。
天皇=神」の尊称として「尊・命(みこと)」とか「帝(みかど)」というような呼び方も後世には生まれてきたが、「みこと」とはつまり「事(こと)を起こす存在」、すなわち「この世界をつくった存在=神」という大陸から輸入された概念を当てはめているわけで、それは、後世の天皇崇拝競争に明け暮れていた支配者たちが勝手にそう呼び始めただけのことだろう。
古事記では神のことを「尊・命(みこと)」と呼んでいるが、弥生時代からそんな呼び方があったのではない。天皇崇拝競争に明け暮れるようになった飛鳥時代奈良時代になってそういう呼び方をするようになっただけだ。
大和朝廷に群がる支配者・権力者たちが、ただの思春期の少女にすぎなかった「きみ=天皇」を「成人した男」というかたちに変えたあげくに、天皇崇拝競争をしながら「みこと・みかど」などと呼ぶようになっていった。
それは、庶民の気持ちとはなんの関係もない。
日本列島の支配者・権力者たちは、伝統的に天皇崇拝競争をしたがる習性を持っている。まあそれによって天皇がこの2千年を生き残ってきたのかもしれないのだが、起源としての天皇は、踊りが好きなただの思春期の少女たちだったのだ。
「神」でも「支配者」であったのでもない。
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