鄙(ひな)の文化・「天皇の起源」10


縄文人の多くは、山で暮らしていた。
そして弥生時代奈良盆地の住民は、山を下りて集まってきた人がほとんどだった。
奈良盆地のまわりの山にだって、弥生時代にも集落は残っていた。
あえて山の暮らしにこだわって降りて来たがらない人や、大きくなりすぎた集団のストレスに耐えられなくて山に戻ってゆく人もいた。
日本列島住民は、弥生時代になってはじめて大きな集団で暮らすということを体験していったのだ。
山には、娼婦の里があった、という話もある。
巫女になった少女たちもまた、平地の俗界から離れて山での暮らしをさせるという風習になっていたともいわれている。
山にも、舞の舞台があったのだろう。
彼らは、山に対して特別な愛着があり、山を祀り上げて暮らしていた。
日本列島の文化の基礎には、山の姿に対する愛着がある。



もともと日本列島には神という概念は存在しなかったが、その概念が輸入されてからは、まず山が神の「形代(かたしろ)=身代わり」になっていった。
そのとき日本列島の住民は、「山には神が住んでいる」というだけでは足りなくて、山の姿そのものを神の形代にしていった。彼らはもともと神そのものを知らなかったから、「山には神が住んでいる」といっても「山は神である」といっても最初はうまく実感できず、「神の形代=身代わり」という解釈でなんとかつじつまを合わせていった。
彼らは、神よりも、山それ自体に愛着があり、山それ自体を祀り上げていた。したがって「形代」という概念をつくるしか山それ自体を祀り上げるすべはなかった。
それまであった「かむ・かみ」というやまとことばは、存在としての「神」を表す言葉ではなく、そうした「愛着」や「祀り上げる」感慨を表しているだけの言葉だった。
彼らが愛着し祀り上げていたのは、「神」ではなく、山の「姿」だったのだ。その「姿」に対する愛着や祀り上げる心は、「かたしろ」という言葉でしか表現のしようがなかった。
彼らにとって山は不可侵の神が棲む場所ではなく、自分たちが縄文時代の1万年を通じて暮らしてきた場所だったのであり、いまなお暮らしている人々がいる場所だった。
彼らにとって山は聖地だったが、それは「神が棲む場所」という意味ではなく、自分たちの「穢れ」をそそぐ場所だという意味だった。
だから巫女は、山に入っていって暮した。



彼らは、山の中の集落のことを「鄙(ひな)」といった。
「ひな」の「ひ」は「秘密」「ひっそり」の「ひ」。「な」は「なじむ」「なれる」の「な」、「親愛」の語義。「ひな」とは、「なつかしい隠れ里」というようなニュアンス。その言葉には、人々の山に対する愛着が込められている。語源を考えるなら、この「な」という音韻を無視するべきではない。
鳥の「雛(ひな)」も雛祭りの「雛(ひな)」も、愛着の対象である。
弥生時代奈良盆地の人々は、山の暮らしをすっかり捨てたわけではなかった。
山は聖地であり、穢れがそそがれる場所だった。
そういう山に対するあこがれがあった。
弥生時代奈良盆地においては、おそらくそこが起源としての天皇というカリスマが住む場所だった。



遠野物語」のような山を「魔界」だとするような意識は、後世になってひとまず「神」という概念になじんでから芽生えてきた意識にすぎない。
柳田國男は「遠野物語」を日本列島の住民の山に対する意識の原型のように考えているらしいが、それは違う。遠野物語だって後世の制度的意識が反映されているのであって、日本的な心性の原型としての縄文・弥生時代の意識ではない。
山を「魔界」だとする意識になって「山姥」とか異形の「山人」とかの話が生まれてきたのであって、弥生時代において山は「聖なる人」が棲むところだったのだ。
巫女の集団が山に住んでいたという話はもちろんだが、そこに娼婦の里があったという話だって同じなのだ。
そのころの娼婦という職業は、今の看護婦のようにおそらく聖職だったのだ。男よりも女の方が主導権を持っていた時代なのである。男たちは娼婦という職業を祀り上げていた。
「女を買う」という意識なんか、誰も持っていなかった。ただもう「捧げもの」を持ってさせてもらいに行っていただけだろう。
娼婦は、その体をえさに男の身ぐるみをはいでしまってもいいのだ。これは、人類普遍の法則である。
おそらく弥生時代奈良盆地においても山に住む娼婦は特別で、男たちは、抱けば命が洗われたような気分になっていたのだろう。
その当時はそうたくさんいたわけでもないだろう「女にあぶれた男」だけを相手にするとか、そんなみじめな職業ではなく、それだけでは職業として成り立つはずがない。
また、弥生時代以降に「神」という概念が流通するようになってきてからは、巫女の仕事は「神と契る」ことだといわれるようになっていった。「神と契る」ことによって、巫女はさらに聖なる存在になっていった。
もしかしたら、神との契りを体験した巫女たちが、山の中の娼婦の里をつくっていたのかもしれない。
いったん巫女として人々から祀り上げられる暮らしを体験してしまった女たちが、いまさら俗界に下りて行って普通の女の暮らしをしたいとも思わないだろう。
弥生時代においては、セックスは女を祀り上げる行為だった。男たちにそういう意識が定着しているかぎり、女が娼婦であることを卑下する必要は何もなかった。
日本列島の娼婦の歴史は、聖職としてはじまった。
中世の「白拍子」と呼ばれていた娼婦だって、男たちに穢れをそそぐ体験をさせてやる聖職者だったはずである。
弥生時代奈良盆地において「山に住む」ということには特別な意味があったわけで、人々は穢れをそそぐために山の女を訪ねて行ったのだ。
山は「神が棲む場所」であったのではなく、その姿そのものが親密なものとして祀り上げられていただけである。そうして弥生時代以降は、神と契りを交わした聖なる女たちの住む場所になっていった。これが「鄙(ひな)」の語源である。
もともと日本列島では、縄文時代から女子供だけで暮らす山の中の小集落がたくさんあって、男たちが旅をしながらその集落を訪ねてゆくという習俗が一般化していた。そしてそのとき男たちは、狩の獲物やヒスイなどの宝石を「みやげもの」というか「捧げもの」として携えていた。
まあ、そのころの日本列島のすべての女が、娼婦であり聖なる存在だったのだ。
男たちが山に入っていって呪術などの修業をするようになっていったのは、大和朝廷成立以降に中国の陰陽道が入ってきてからのことである。



やまとことばの「山」の「や」は、「遠い」とか「はるか」ということを表している。そして「ま」は「まったり」「まるい」の「ま」、「充足」「安定」の感慨を表す。
古代以前の人々は、「はるかなあこがれ」を込めて「山(やま)」といっていた。
彼らにとって山は、穢れがそそがれる場所だった。
弥生時代奈良盆地の人々は、まわりのたおやかな姿をした山並みを愛し祀り上げていた。
日本列島の住民が山に対してことさらな愛着を抱いているのはその「姿」に対してであり、なぜそんなにも「姿」にこだわるかといえば、身体の穢れを強く意識する民族だからである。
古代人は、心の穢れよりも、身体の穢れにこだわった。そして身体の穢れがそそがれてあることの証は、身体の「姿」に現れている。
心の穢れは、罪の意識である。われわれ現代の日本人は西洋文明に染められて心の穢れを大いに意識するようになってきたが、もともとこの国には罪を意識する伝統はない。
「心」よりも「姿」にこだわるのがこの国の伝統であり美意識なのだ。
まあ、心が姿に現れる、ということもある。心は隠せても姿は隠せない、ともいえる。
どんなにいい人ぶっても、その心の卑しさは姿に現れている。
日本列島においては、姿こそ人格なのだ。



山は、土の上に立って「姿」を持っている。
木の姿、花の姿、雲の姿、いろいろ自然の姿はあるが、山の姿こそこの国の美意識の基本である。
穢れも、穢れがそそがれている姿も、「立っている姿」にあらわれている。
踊りが上手い下手も、スポーツが上手い下手も、魅力的な人であるか否かも、すでに「立ち姿」に現れている。
いや何より、人間と猿を分かつものは、その立ち姿にある。猿が立ち上がっても、心持ち背中を丸めて、人間のようにまっすぐ立っていない。
立ち姿の美しさを表現するのが日本列島の舞の基本である。だからその作法の歴史は、アクロバティックな動きにはなっていかなかった。
能も歌舞伎も日本舞踊も、基本的には「立ち姿」の美しさを表現している。
そして、日本列島の歴史で最初にその姿の美しさを表現して見せたのは弥生時代奈良盆地の祭りで踊っていた思春期の少女たちであり、その美しさを最初に発見したのは弥生時代奈良盆地の民衆であったということだ。
その美しい立ち姿を持った少女たちが巫女になってゆき、そこから起源としての天皇が登場してきた。
弥生時代は、心や人格でカリスマになれるような時代ではなかったのである。「姿」こそが人々の祀り上げる対象だった。
近頃では、人間性の完成は「大人の成熟」にある、というようなこともよくいわれるが、そこに人間性の普遍や基礎があるのではない。弥生時代奈良盆地の人々にとっては、そんなことはたいした問題ではなかった。彼らにとってもっとも完成された人間性は、「姿」にあった。
まあ、天皇を意味する「きみ」という言葉は、「もっとも完成された人間性」というような意味でもある。
彼らにとってもっとも完成された人間性は、穢れをそそいでいることにあった。そしてそれを、思春期の少女の舞い踊る姿に見出していった。
人間性の普遍や基礎は、二本の足でまっすぐに立っていることにある。人間にとってこのことがどれほど重大なことかということを、「大人の成熟」などとほざいている現代人は忘れてしまっている。そして、歳をとって腰が曲がったりうまく歩けなくなってきたときに、あらためて気付かされうろたえているのだ。
「心」よりも「姿」が大事、という日本列島の伝統。
縄文人弥生人はそのことをちゃんと知っていたし、深く心に刻んで納得していた。



「心が大事」と思うから、「大人の成熟」が人間性の完成や本質であるかのような考えが生まれてくるし、物事の善悪をむやみに言い立てたり、幸せを願うとか未来の計画を立てるとか、人間がどんどん作為的になってくる。そうして、この世界や人間をつくった「神」という存在がイメージされてゆく。
それに対して日本列島の住民が「姿が大事」というとき、そういう善悪や幸せや未来などを思う心がないというのではない。そんなことよりも「姿の方が大事」、といっているのだ。
「姿の文化」は、この世界や人間をつくった「神」という存在はイメージしない。そんなことは「なりゆき」だと思っている。
人の心を知らないわけではないが、それをむやみに善悪などの価値基準で吟味・値踏みすることはしない、という態度である。
人間であることの根拠は「心」ではなく「姿」にある、ということ。
「姿の文化」は、心を知らないのではない。心だって善悪や意味で吟味する以前の「あや=姿」があると思っているだけだ。



やまとことばは、心の「あや=姿」の上に成り立っている。
「心(=内面)の文化」の方がじつは表層的で、「姿の文化」の方がある意味でずっと根源的なのだ。
いまどきは、集団の規範(基準)に沿って善か悪かとか幸せか不幸かというようなことが気になってしまう世の中だが、日本列島の「なりゆき」の文化においてはそういうことは問題になりようがない。それ以前の、そのことの「あや=姿」が問題にされてきた。
弥生時代奈良盆地は、いろんなところからいろんな心を持っている人たちが集まってきて膨らみ続けている集団だったから、集団の規範というものが成り立ちようがなかった。そんなものをつくっても、そんなものを知らない人たちがどんどん集まってきている場所だったのだ。しかも彼らは文字を持たなかったから、それを成文化して定着させるということも不可能だった。
彼らにとってはもう、その膨らみ続ける集団の中に置かれていることの「穢れ」をそそぐことこそが第一義の問題だった。
穢れをそいでいる心の「あや=姿」が問題だった。それは、さっぱりと自分を忘れて何かに感動したり夢中になっているカタルシスを体験することにあった。そういう心の「あや=姿」こそ大切だった。
それは「自分を忘れている」のだから、ある意味で心がない状態だともいえる。そういう心がない状態の心の「あや=姿」こそが大切だった。
やさしい心とか正しい心なんか、何ほどのものか。そんなことより、誰もがときめき合っていれば、この集団はなんとかやってゆける。何はともあれ、ときめき合っていないことにはやってゆけない。そういうときめいている心の「あや=姿」こそ大切だった。
何が善か悪か、何が幸せか不幸か、そういうことが成り立たない社会だった。そういうことが成り立たないからこそ、人間として生き物としての根源の問題である身体の「穢れ」が気になってならなかった。
そしてその穢れは、さっぱりと自分を忘れてときめいてゆくことによってそそがれた。
他人の心なんかさまざまだし、わからない。いろんな地域からつねに人が集まってきているそこでは、そのことを思い知るほかなかった。
他者がときめいていることさえわかればいい。そのときめいていることの表現としての、言葉の「あや=姿」や身体の「あや=姿」の表現こそが大切だった。



「意味」ではなく「あや=姿」の表現の上に成り立っている社会だった。人々は、それによってときめき合い、連携していった。
日本列島の舞の伝統は、「意味」の表現ではなく、「あや=姿」の表現にある。
日本列島住民の山に対する愛着は、その「姿」にある。
まあ、弥生時代奈良盆地は、山の姿に愛着せずにいられないほど、平地での定住生活に穢れが意識(自覚)されてしまう状況だったし、穢れが意識(自覚)されているからこそ、人にときめかずにいられなかったし、そのカタルシスが深く豊かに体験されている社会だった。
ともあれ彼らにとって自分たちが暮らす平地は、「穢れ」の場所だった。
そしてまわりの山々は、その穢れをそそいでくれる聖なる場所だった。
だから今でも神社は、村の中心ではなく村はずれにある。
日本列島の伝統そのものがそうだが、とりわけ弥生時代奈良盆地の住民にとって自分たちが暮らしているところは「穢れ」の場所だった。
「ひな」という言葉は、ただ「人里離れた」という意味だけが表現されているのではない。それだけなら「ひ」という言葉だけで足りる。「ひな」の「な」には、人々のその場所に対する愛着が込められている。
弥生時代奈良盆地において、そこは、聖なる人が住む聖なる場所だった。
そこには、巫女や娼婦が暮らしていた。その巫女や娼婦が聖なる人だった。おそらく、巫女が娼婦でもあったのだ。
女子供だけの集落をつくるのは縄文以来の伝統だったし、男たちがそこに「捧げもの」を携えて訪ねてゆくのもまた、縄文以来の伝統だった。
この習俗から、起源としての天皇が生まれてきた。
天皇という存在の根拠は、われわれのように世俗の垢にまみれていないところにある。
世俗の垢にまみれていない存在として天皇が生まれてきたのだ。それが天皇という存在の処女性=聖性であり、それは、セックスをするとかしないとかということは関係ない。
というか、男にセックスをさせてやるのは、女の「聖性」なのだ。女は、根源において性衝動というものを持っていない。
つまり、世俗から離れたところで純粋培養しながら聖なる存在を育て上げるという習俗は、弥生時代奈良盆地からすでに始まっていたということだ。
世俗の発生、それが弥生時代だったのかもしれない。そこから天皇という存在が生まれてきた。
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