「姿」の文化・「天皇の起源」9



いまでいう合コンのような、男のグループと女のグループが集まってそれぞれの相手を決めてゆく「歌垣」の習俗は、縄文時代からあったらしい。
最初にまず「花いちもんめ」という遊戯のように男女が向き合って踊るところから始まり、それから特定の相手に向けた歌が男から送られ、女がイエスかノーかの歌を返す。
まあ、そのようなイベントだったのだろう。
そのとき男は何を基準にして女を選んだかといえば、はじめに踊りがあったとすれば、顔の美醜よりも、その踊る姿に合性のようなものを感じていたのだろうか。
顔の美醜で決めていたら、どうしても一人二人にアプローチが集中してしまう。そういうことよりも、相性のようなものが基準になっていたのだろう。女が踊る姿には、上手でも下手でもそれなりに愛らしさと美しさがある。
踊りは、人類史におけるもっとも原初的根源的な芸能である。
そして日本列島の住民は身体の穢れを強く意識している民族であり、歌よりも踊り=舞の身体性が集団の権威になってゆく伝統がある。
日本列島の歌は、声という身体性よりも言葉の表現に重きが置かれている。
能とか歌舞伎とか、日本列島の伝統芸能はいまでも踊りの方が権威をもっているし、古代においても、神事にはまず踊りを奉納した。
古代以前の人々にとっての舞=踊りは、現代よりもはるかに大きな意義があった。それは身体の「穢れ」をそそぐ作法であり、そこにこそ美の神髄があった。
日本列島の伝統文化は、「姿」の文化である。それが、身体の「穢れ」を強く意識(自覚)する民族の美意識だった。



原始神道において巫女の舞を祀り上げることは、彼らの美意識だった。
神主の祝詞と巫女の舞とどちらが先に生まれてきたかといえば、巫女の舞に決まっている。原始神道は、みんなで巫女の舞を祀り上げる(鑑賞する)場として発生してきた。
彼らにとって踊り=舞は、身体の穢れをそそぐ作法だった。
そうして、もっとも身体の穢れをそそいでいる舞姿を持っているものが、カリスマとして祀り上げられていった。おそらくこれが、天皇の起源である。
どんなふうに踊るかではない。なにはともあれ身体の穢れをそそいでいる「姿」が大切だった。
姿の美しさこそ、日本列島の舞の真髄である。
手や体を動かしてそこに「意味」を表現してゆくのは、二義的なことだ。だから日本列島の舞は、西洋のバレエのようなアクロバティックな動きへと発展していかなかった。
日本列島の住民の舞に対する美意識は、動きがアクロバティックになって「意味」を帯びてくることを嫌った。
美は、立っている姿、もしくは立って歩いている姿そのものにある。
そして姿の美しさは、「処女性」にある。もちろんそれは、セックスの体験があるかどうかということではない。この世の垢に汚れていない、いわば非日常的な姿の美しさというものがある。つまり、「身体の孤立性」ということ。
処女かどうかということより、初潮前後の年頃の娘の立ち姿には、そういう「身体の孤立性」があった。だから巫女として選ばれ、人々の前で踊って見せることが仕事になっていった。



思春期=成長期の娘は、身体の変化が内側にも外側にもあらわれる。月経がはじまるし、体は丸みを帯びて乳房は膨らんでくる。
まあ男の子はただ背が高くなるだけだが、女の子の体はそれだけではすまない。
初潮前後の娘の「身体の輪郭」はとても不安定である。それは、生き物としての危機的状況なのだ。
彼女らは、そうした変化する身体の「穢れ」を意識(自覚)しつつ、けんめいに「身体の輪郭」を確かめようとし続けている。
その「身体の輪郭」に対する緊張感が、「身体の孤立性」の気配をつくっている。
おそらく、普遍的に踊ることがいちばん好きな年代である。踊ることは「穢れ」をそそいで「身体の輪郭」を確かにしてゆく行為であり、彼女らこそそのことにもっとも切実な思いを持っている。
だから、弥生時代奈良盆地の祭りにおいても、彼女らがもっとも熱心に踊っていたことだろう。彼女らは仲間どうしでつねに新しい振り付けを工夫し合っていた。そして彼女らは、大人たちのように男と女が向き合って踊るのではなく、女どうしで踊ることのほうが好きなくらいだった。この年代の少女たちは、いつの時代もそういう傾向を持っている。
おそらくそういう少女たちの踊りの輪は、ひときわ人々の目を引いたことだろう。
その踊る姿は、下手であろうと上手かろうと、妙に愛らしくあでやかである。
べつに踊りの家元がいたわけでも確立された技術論があったわけでもない時代である。少女たちが踊っていることそれ自体に対する人々の感動があった。
そこには、「身体の輪郭=身体の孤立性」の鮮やかさがあった。つまり、身体の「穢れ」をそそいでいる美しさがあった。
で、その踊りの輪が、社殿の舞台に引き上げられ、みんなの前で披露することになっていった。
その祭りの広場に建てられた大きな建物は、もともと雨の日などにみんなで集まって語り合ったり歌い踊ったりする集会の場だった。
原始神道の社殿の歴史は、そこが少女たち(=巫女)の踊り=舞の舞台になったときからはじまっているのではないだろうか。
巫女の登場が、神道のはじまりかもしれない。



神道というくらいで、アマテラスなどの神を祀り上げるのがその起源であり本質であるかのように一般的にはいわれているのだが、僕はそうは考えない。
神道の起源と本質は、おそらく「穢れをそそぐ」ことにある。
飛鳥時代奈良時代に編纂された古事記日本書紀に登場してくる神は、本当にそれ以前の遠い昔から語り伝えられてきた神々だったのだろうか。
伊勢神宮がアマテラスを祖神・祭神とするようになったのは平安時代からだといわれている。それまでに別の神が祀られていたとしても、そうやって簡単に変えてしまえるのは、もともと祭神を祀るということ自体が後の時代になってから生まれてきたことだったのではないだろうか。
起源のときからそういうかたちがあってそれが神道の本質であったのなら、それを尊重してそう簡単には変えられない。
神社の祭神は、ほとんどのところが複数を祀っている。祭神なんて、後の時代につくられた形式にすぎないのだから、何でもいくつでもいいのだ。
もともとは背後にある山や森それ自体を祀り上げていたのだろう。さらにその前は、それらの山や森を神として祀り上げていたのではなく、愛着はあっても、祭りの広場の場所を示すたんなる目印にすぎなかったのかもしれない。つまり、あの山のふもとで祭りをすれば、山の「姿」のありがたさが胸に満ちて祭りが盛り上がる、あの山のふもとこそ祭りの場にふさわしい……というくらいの意識だったのではないだろうか。



古代以前の人々にとっては、神に何かを願うというようなことはなく、ただそこで祭りをして穢れをそそぎたかっただけだ。
神が穢れをそそいでくれるわけでもない。祭りのカタルシスによってそそがれたのだ。
弥生時代奈良盆地に、神という概念は存在しなかった。
やおよろずの神、などというが、日本列島の住民はもともと神などというものを知らなかったから、何でもかんでも神にすることができたのだろう。
そして、霊というものも知らなかったから、江戸時代には提灯や傘でもお化けになっていった。
古事記に登場する神だって、ずいぶん荒唐無稽である。神を知らないから、荒唐無稽でなければ神と思えなかったのだ。
日本列島ほど神のイメージや神の扱い方がいい加減な国もない。
雨が降らないなら山に牛の生首を置いてこい、そしたら山の神が怒って雨を降らすだろう……というような言い伝えまである。
縄文人弥生人が神という概念を持っていたと考えるべきではない。
神社の祭神など、なんでもよかったのだ。もともと神を祀り上げる場所ではなかった。
そこは、祭りによって穢れがそそがれる場所だった。日本列島の神社は、本質的にはそのように機能してきたはずである。
社殿で舞い踊って見せる巫女の登場が原始神道のはじまりだった。そしてそれが、天皇の起源だった。
まあ、いきなりこんなことをいっても「なんのこっちゃ」と思われるだけだろうから、このための布石として「漂泊論」以来それなりに言葉を尽くして考えてきたつもりだが、既成の歴史観に盾つくのは、ほんとにしんどくて途方に暮れる作業だ。
とにかく、神も霊魂も知らない民族がどのように天皇という存在を祀り上げていったか、という問題なのだ。
そして起源としての天皇は、大和朝廷成立以前に登場してきた存在であり、思春期の少女だったのだ。



古代人は、天皇ことを「きみ」といった。
「きみ」の「み」と「巫女(みこ)」の「み」は同じだろうか、違うのだろうか。やまとことばの表現に、違うということはない。その音声を発する感慨においては通底している。
「神の子=神子」と書いて、「みこ」と読む場合もある。
「きみ」とは「完全な存在」というような意味。「き」は「完全」、「み」が「存在」。
「存在」は、「姿」と言い換えることもできる。
「みこ」とは「美しい姿の子」というようなニュアンスだろうか。「み」は、「柔らかい」とか「美しい」とか「尊い」というようなニュアンスもある。
「みごと」の「み」、心がさっぱりとなごんでゆく感慨から発せられる音声。つまり、穢れがそそがれている姿を「み」という。そういう「みこ」の中でもさらに特別な存在を「きみ」といった。
神社のことを「宮(みや)」という。「みや」とは、「思いをはせる場所」というような意味。つまり「あこがれ」、祭りの日を待ちわびる心、遠足の前の日のようなわくわくする気分から「みや」といった。
「みやげ」の「げ」は「別世界」を意味する。別世界のわくわくする品物だから「みやげ」という。
古代人の「きみ」とか「みこ」とか「みや」という言葉の「み」に込められた感慨は、ある共通するニュアンスがある。
すなわち彼らは、「穢れ」がそそがれてゆく心地から「み」という音声を発声していったのだ。
特別(カリスマ的)な「みこ=巫女」のことを「きみ=天皇」といった……という推測は唐突だろうか。



思春期の娘の踊る姿の愛らしさ美しさは、格別のものがある。弥生時代奈良盆地の人々は、そこに穢れがそそがれている姿を見た。
原始社会に、神に願い事をするような習俗はなかった。
穢れをそそぐことこそ、彼らのもっとも切実な問題だった。
そして、神などという概念を持っていなかったからこそ、思春期の娘の舞姿を祀り上げてゆくことができた。彼らは、大人の目でそれを称賛していったのではない。もう、その娘たちの弟になったような無邪気な気分で祀り上げていったのだ。これは、外来文化をひとまずなんでもかんでも受け入れてしまうメンタリティとも通じている。この心の動きは、たとえば弟がお姉さんに対して抱くようなひとつの「甘え」である。
彼らは、そのとびきりの美しい舞姿を持った娘に甘えていった。
神という概念を持っていたら、たとえ支配者に対してだって、神の視線で値踏みしてゆく。そうして「王殺し」ということが起きる。
日本列島の住民は、そうした神の視線を基本的には持っていない。
われわれは、もっと無邪気に天皇を祀り上げて歴史を歩んできた。



天皇が支配者として登場してきた存在であるのなら、とっくに別の支配者にとって代わられ、抹殺されている。それはもう、世界の歴史が証明している。
日本列島の歴史に、天皇を抹殺しないような状況がだんだん生まれてきたのではない。最初に、抹殺されないような発生の仕方があったのだ。
弥生時代以降の奈良盆地の民衆は、支配者がやってくる前にすでに天皇というカリスマを祀り上げてしまっていた。もう、どんな支配者も天皇以上のカリスマになることはできなかった。その代わり、天皇を祀り上げている民衆は、天皇に対する献身というかたちで先験的な連携を持っているから、天皇さえ祀り上げさせておけばとても支配しやすかった。
天皇を祀り上げさせることが、支配のためのもっとも有効な機能だった。
神が存在しない国だから、支配するためにはそうするしかなかった。
連携している民衆でなければ支配することはできない。
この国だけではない。民衆を支配するためには、まず民衆を連携させておかなければならない。西洋だって、まずキリストやゴッドを祀り上げるという民衆による先験的な連携があるではないか。それがなければ、民衆を支配することはできない。
神がいないこの国の民衆を支配するためにはもう、天皇を祀り上げさせておくしかなかった。天皇はげんみつには神ではないが、神の「形代(かたしろ)=身代わり」として機能してきた。
神の存在しない国だから、天皇が機能し続けてきたのだ。
日本列島の住民の観念に神という概念が存在しているのなら、天皇なんか支配者によって簡単に抹殺されていた。なぜなら、天皇が存在しなくても支配してゆくことができるからだ。
西洋では、支配するために、民衆どうしが連携するための「神=ゴッド」を祀り上げさせた。
それに対して日本列島では、支配が生まれる前にすでに民衆どうしが連携するための天皇が祀り上げられていた。そうやってすでに民衆どうしの連携が存在していた。
だから簡単に大和朝廷による支配のかたちに移行してゆくことができたし、こんなに支配しやすい民衆もいなかった。そのころの奈良盆地の民衆は、日本列島でもっとも支配しやすい人々だった。だから、どんどん政治制度や戦闘態勢が進んでゆき、たちまち他の地域を凌駕していった。
日本列島の支配者は、民衆を支配することの難しさを知らない。支配できるのが当たり前だと思っている。ほったらかしにしておいても支配できる。そうして、支配者どうしの権力闘争ばかりにうつつを抜かしてきた。この傾向は、いまだに続いている。
天皇さえ祀り上げさせておけば、民衆は勝手に連携してゆく。言い換えれば、この国の民衆は、支配者がいなくても連携してゆくことができる。実際に、弥生時代奈良盆地は、そういう社会の構造になっていた。



西洋の神=ゴッドは、この世界をつくり人間をつくった存在だから、人間だって神が何かをしてくれるという気持ちを持ってしまう。そうして支配者に対しても何かをしてくれないと許さないという気持ちもどこかにあって、ときには「王殺し」が起きる。
しかしこの国の天皇は、世界をつくったわけでも人間をつくったわけでもないから、民衆だって天皇に何かをしてもらおうとは思わない。何かをしてもらおうとも思っていないから「天皇殺し」はついに起きなかった。
天皇は、いてくれるだけでいい。
西洋の神=ゴッドも王も、「いてくれるだけでいい」というだけではすまない。
これは、人と人の関係の問題でもある。
奈良盆地の人々は、他者に対しても「いてくれるだけでいい」という気持ちがあった。そういう気持ちがなければ、つねにまわりの地域から人が集まってきて急速に膨らんでゆく集団の中では暮らせなかったし、天皇を祀り上げていればそういう気持ちになれた。
弥生時代奈良盆地は、その当時の日本列島でもっともダイナミックに人口爆発が起きた地域だった。最初は湿地帯だらけでほとんど人が住める場所がなかったのに、しだいに土地が干上がってゆき、最後には日本列島でもっとも大きな都市集落になっていた。ただたくさん子を産んで増えていったというのではない。
急速に膨らんでゆく集団の中では、他者に対して「いてくれるだけでいい」という気持ちを持たなければ暮らせないし、支配者がいて完結してしまっている集団では、それ以上膨らんでゆくことができない。
中国やインドがあんなにも人口が多いのは支配が行き届かない国だからなのだろうが、彼らにとっての他者は「いてもいなくてもいい」という感じなのだろう。だから民衆どうしの連携はわりとあいまいである。
それに対して奈良盆地の人々のタイトな連携は他者に対する「いてくれるだけでいい」という気持ちの上に成り立っており、その連携があれば支配者がいなくても集団は何とかやりくりできた。
「いてくれるだけでいい」とは、何をするかは「なりゆきでいい」ということである。そして「なりゆきでいい」ということですませられたのは、支配者がいなかったからである。
みなで天皇を祀り上げているかぎり、人に対しても「いてくれるだけでいい」という気持ちになれた。
そして天皇が「いてくれるだけでいい」と思える対象だったということは、天皇が政治的にも呪術的にも何をする能力もなかったことを意味する。
人々が無邪気に祀り上げてゆくことができてしかも政治的には何をする能力もない対象とはどんな存在だろうかと考えたとき、われわれはもう、神でも政治的な支配者でも呪術師でもなく、存在そのものが美しく崇高であるというような対象をイメージするしかない。
つまり、「穢れ」をそいでいる清らかな存在。それは、心の清らかさでも、セックスをしていないという行いの清らかさでもない。奈良盆地に人々は、そういうことは「なりゆきでいい」と思っていた。
彼らにとってその清らかさとは、「姿」だった。そしてその「姿」は、思春期の少女の舞姿にあった。急速に膨らみ続ける集団の中で暮らしている彼らの「穢れ」の意識(自覚)は、その舞姿を、神に対する畏敬の念のような気持ちで祀り上げずにいられなかった。
日本列島の文化は、「姿」の文化である。ここから天皇という存在が生まれてきた。
われわれは、天皇がどんな人格や思想を持っているかということなどわからない。ただもうその「姿」を、「そこにいてくれるだけでいい」と思いながら祀り上げている。
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