世界の「生贄」としての処女・神道と天皇(131)

日本列島の文化の伝統は処女性にある。古代以前の奈良盆地の人々の「祭り」は、処女の「異次元性」を「神聖なもの」として祀り上げてゆくことによって盛り上がっていった。そこから「巫女」が生まれ、「巫女」がやがて「天皇」という存在として祀り上げられるようになっていった。
弥生時代から古墳時代にかけて、まずそういう歴史があった。
起源としての天皇が支配者として登場してきたということなどありえない。
どんなに強大な権力を持った支配者も必ず滅ぼされる。それが、人類の歴史の法則だ。
天皇家が滅ぼされなかったのは基本的に支配者ではなかったからであり、権力社会とは別の世界に存在しているからだ。そういう「異次元性」を持っているから、いつの間にか「神」と呼ばれ、大和朝廷という権力社会と結びつきながら、もとの民衆の「祭り」の習俗だった神道とは似ても似つかない国家神道に変質してゆくことにもなった。

「処女=思春期の少女」の本質は「悲劇性」にある。彼女らは、無垢な幼子のままでいたいのに体はさまざまな穢れを負いながら大人の女になってゆかねばならない段階にさしかかっている。せめて心だけは幼な子のままでいたい。彼女らは、幼な子よりももっと幼な子でいたいと願っている。幼な子にはそんな願いはない。そういう意味で、心は幼な子よりももっと無垢だともいえる。その「喪失感=悲劇性」が彼女らの「姿」を美しいものにしている。
人がこの世に生まれ出てくることはひとつの悲劇であり、生きることもまた死によって終わるひとつの悲劇にほかならない。その悲劇性を受け入れることの上にこの生が成り立っている。だから人は、「処女」という存在を祀り上げる。
日本列島の文化の伝統が原始性を洗練発達させたものだということは、心は幼な子のままでいたいという処女性を体現している、ともいえる。
処女性とは、失って二度と手に入らないものに対する遠い憧れを抱きすくめていること、その悲劇性を古いやまとことばでは「かなし」といい、今は「かわいい」といっている。
処女の舞を祀り上げる人類普遍の習俗(=歴史の無意識)を、たんなる俗っぽい性的嗜好のレベルで語ってもらっては困る。
それは、女も一緒になって祀り上げてきたのだし、女のほうがむしろもっと切実に祀り上げている。
「処女=思春期の少女」の舞姿が漂わせているひんやりとして透明な気配は、上手いか下手かということ以前の誰もまねできないことだ。
今どきのクラブやパーティで踊るときも、若い娘は、どんなに下手でも踊っているというそのことだけで独特の愛らしさを漂わせている。ときには上手な娘の踊りよりももっと魅力的に映ったりするし、男の下手な踊りなんかブサイクなだけだろう。
踊りが上手い下手以前に、「姿」そのものの美しさを持っているところにその魅力がある。
それは、この世の外にいるような「異次元性=悲劇性」にある。その「姿」は、「心のかたち」でもある。

天皇という存在の本質を、「最初は偉大な支配者だった」というような文脈で語るべきではない。
少なくとも「神武天皇が支配者として奈良盆地に登場してきた」という説明では、その本質に迫ることはできない。それは、ただ単に権力社会がみずからの支配を正当化するために捏造した物語にすぎない。
天皇は、古代以前の奈良盆地の民衆のあいだで祀り上げられ生まれてきた。そう考えなければこの国の伝統としての天皇と民衆の親密な関係は説明がつかない。何しろ天皇をほとんどないがしろにしていた江戸幕府でさえ、じつは天皇がこの国の中心的存在であることを認め、たとえば天皇家から将軍の側室を迎えるなどして権力の維持に利用していた。
何が天皇天皇たらしめているのだろう。
天皇はこの国の「生贄」であり、「生贄」であることの尊厳というものがある。
「生贄」は「処女」が選ばれる、と世界中で相場が決まっている。
「処女=思春期の少女」は、この世のもっとも異次元的な神に近い存在である。だから「生贄」として選ばれる。
天皇もまた「生贄」であり、この世のもっとも異次元的な存在だ。
天皇を神と呼ぼうが呼ぶまいが、誰もが天皇の異次元性は感じている。天皇は、普通の人とは違う存在であり、権力者とはもっと違う。世間の垢に汚れていない。この世にそんな人がひとりくらいはいてほしいし、われわれは世間の垢に汚れて生きている。日本人なら誰の中にもそういう思いがある。いや、世界中のみんながそう思っているのかもしれない。
「車の中の天皇が光り輝いているように見えた」、といっている民衆は少なくない。そんなのは幽霊を見るのと同じただの幻想体験だというのはたやすいが、そう見えてしまうような天皇の異次元性に対する思いを、おそらく歴史の無意識として日本人は共有している。
「異次元の世界」を思うことはべつに宗教の問題ではない。人としての普遍的な実存感覚の問題だ。
人の心は「異次元の世界」を思うようにできているのであり、心=意識は脳の外の「異次元の世界」で生成している。誰の心の中にも「異次元の世界」に対する親密な感慨が潜んでいる。そうやって人は「神聖なもの」を思う。それは、宗教の問題ではない、生きてあることの実存感覚なのだ。
人は、「神聖なもの」を祀り上げようとする。心はそこから華やいでゆくのだし、それをしないと心は停滞してゆく。
宗教とはまったく関係なく、祭りには「神聖なもの」が祀り上げられるのであり、古代以前の奈良盆地においてはそれが「処女=巫女の舞」だった。何を願うわけでもないが、心が華やいでゆくためにそういう体験が必要だった。彼らは、ただもう心が華やぎ他愛なくときめき合う体験がしたかっただけだったし、そこに集まっていれば自然に心が華やいでくるのを感じないではいられなかった。その華やいでくる心で、「神聖なもの」を祀り上げていった。だから神道では「祝詞」という祝福のコンセプトはあっても、もともと祈願・祈祷というような「呪術」はなかった。
日本列島では、仏教伝来のころにはじめて大陸文化としての「呪術」を知った。
神道においては、神との関係だろうと人と人の関係だろうと、あくまで一方的に「祝福」してゆくだけなのだ。

天皇はただもう一方的に民衆のことを祝福しているだけだし、民衆もまた一方的に天皇を祝福し祀り上げている。まあ、おたがいこの世界の「生贄」であり、「生贄」として生きることのよりどころとして天皇を祀り上げているわけで、そうやってたとえばあの大震災のときのような自分を捨てて「献身」し合う文化を洗練発達させてきた。
われわれは、支配者を祀り上げることと「神聖なもの」を祀り上げることと、どちらが心ときめくことになるだろうか。
支配者が「神性」を備えているというわけでもあるまい。なぜなら支配者は、この世の存在だから。
「神聖なもの」は、この世の外の異次元の世界にある。人は、そういう対象を祀り上げる。それは、「支配者」ではない、「生贄」なのだ。
だから、ジャンヌ・ダルクオトタチバナヒメが祀り上げられる。
古代の奈良盆地の民衆が何を祀り上げようとしていたのかということを、歴史家はちゃんと考えているだろうか。「支配者があらわれた」……そんなありきたりの契機が天皇制2000年の歴史になっているというのか。それですむなら、世界の王政のすべてが現在まで残っているさ。
天皇制2000年の歴史は、世界史的にもっと特殊な、そして人間性の本質・自然に根差した契機を持っているに違いないのだ。
天皇が神だったから、というのなら、そういうことにしておいてもいいさ。しかしだったら、「支配者としてあらわれた」ということは成り立たない。支配者は必ず滅ぼされるのが人類史の法則なのだから。
天皇という存在の本質は、そんな俗っぽいところにあるのではない。
日本列島の伝統においては、神は「国家」という俗世間の外の「異次元の世界」にいる。
日本列島は、「異次元性」を祀り上げて歴史を歩んできた。俗世間の駆け引きなんかどうでもいい、という歴史を歩んできたのだ。
戦争に勝つとか負けるとかというような俗っぽい話の中に天皇がいるのではない。天皇は「国家」のことを思っているのではない。浮世離れして「民」や美しい花のことを思っているだけだし、それは「処女=思春期の少女」の心模様でもある。

「生贄」の心は、すでに異次元の世界に漂っている。だから、処女が「生贄」として選ばれる。嵐の海に飛び込んでゆくオトタチバナヒメのような思い切りの良さというか潔さは、処女がいちばんラディカルにそなえている。まあ日本列島では、「神性」とはそういうものだと考えられてきた。これも天皇制ゆえのことだともいえるし、そうやって勝てるはずのない対米戦争に突入してゆき、最後には「一億総玉砕」が合言葉になっていった。
この国の集団性は、誰もが「生贄」になろうとすることにある。そうやって献身し合う流儀で歴史を歩んできた。
極端にいえば、日本列島の民衆は、国家のためというより故郷のために生きようとするし、人類のために生きようとする。微視的であることは、巨視的なことでもある。だから「遠くの親戚より近くの他人」という。それが「無主・無縁」の集団性であり、家族愛や親族意識よりも、人類愛に生きようとする。人類愛に生きようとすることは、目の前のその人が人間のすべてだと思うことでもある。べつに抽象的観念的な「地球人類」という幻想を意識しているわけではない。まあ日本人でなくとも世界中の人間にそういう気分はあるし、そういうプリミティブな原始性が日本列島に残っていることは、文明制度や国家主義に染まった現在の世界においてはひとつの希望になりうるのではないだろうか。
「日本列島は別の惑星だ」などといわれることもあるが、そうじゃない、世界が失った原始性が日本列島に残っているだけであり、この地球の歴史においては今や未開の民族だって「文明人」なのだ。
現在の人類がすべてホモ・サピエンスであるように、猿と違って人類の「遺伝子」と「観念」はたちまち世界中に伝播していってしまう。人類進化においては、同じ霊長類の猿がチンパンジーやゴリラやオランウータンに分岐するというようなこと起きていない。
ただ、日本列島だけがなぜ完全に文明制度の観念に染まってしまわなかったかといえば、たとえば仏教に対する神道というかたちで、権力社会に対して民衆だけの集団性の文化を守ってきたからだ。そのためのよりどころとして天皇制が機能してきた。
民衆は天皇制を守ってきたし、権力社会は天皇制を利用してみずからの権力の正当性を示そうとしてきた。
民衆の中にも、男とか親とか社会的地位というかたちで権力を持っている人たちは、その権力志向ゆえか、天皇制についてあれこれ言いたがる傾向が強い。それが右翼思想であり、彼らは天皇を崇めつつ天皇に指図しようとしている。「天皇は男であらねばならない」とか「天皇は国家の家長的存在であらねばならない」とか、そんなことはどうでもいいではないか。天皇はいてくれればそれだけでいいのであり、ただもう一方的に祝福していればいいだけだし、それが伝統的な民衆の態度にほかならない。それが、「生贄」に対して人が守るべき節度なのだ。天皇だって、民衆に対しては、ただもうそこにいてくれるだけでいい、と思っている。べつに正しさも賢さも強さも美しさも求めない。

「生贄」は「生贄」であるというそのことだけで「神聖」なのだし。そうやって「祀り上げる」ということなしに人は生きられない。
犯罪者が「生贄」になることもある。それは、「生贄」であるというそれだけで「神聖」だからだ。さらし首とかギロチンといっても、それもまたひとつの「生贄」を祀り上げる作法であり、なんのかのといっても人はそこに生の超越性=異次元性としての「神聖」を見ている。それが「戒め」になるということは、それがむごたらしく無惨だからではなく、「神聖」に対する意識を呼び覚まされるからだ。「襟を正す」というか、それ自体が集団の「神聖」を象徴している。サロメは愛する男の首を抱いて踊ったし、ヨーロッパの一部の教会では歴代の高僧のしゃれこうべを飾っているし、江戸時代の武士は最大限の敬意をこめて切腹する人の首をはねた。人類の歴史は、つねに「生首」を神聖なものとして扱ってきた。
集団は「生贄」を必要としているし、人は集団の「生贄」になろうとする衝動を持っている。そうでなければ人々が天皇を「生贄」にして平気なはずがないし、天皇もそれを受け入れるはずがない。「生贄」として嵐の海に飛び込んだオトタチバナヒメの話は、天皇の存在の仕方そのものをあらわしている。
「異次元性」こそ天皇の存在の仕方であり、「異次元性」は「処女」のもとにもっともラディカルに宿っている。
起源としての天皇は「処女=巫女」だった。古代以前の奈良盆地の民衆は、「巫女の舞」の「異次元性」を祀り上げていった。
天皇は、現世的な「権力」なんか欲しがらない。もちろん立場上権力とかかわらざるを得なかったわけだが、権力者は、実質的な権力は与えなくてもよいと本能的に知っている。だから権力社会にいるものたちは平気で天皇に指図することができるし、一部の民衆もそれをまねてそんな議論ばかりしていたりする。この国は、天皇がもともと世間知らずの「巫女=処女」だったことの名残りをずっと引きずっているし、彼らは天皇を自分や国家に正当性を与えるための道具だと思っているらしい。しかしまあ天皇は「生贄」なのだから、それもしょうがないのかもしれない。天皇は、この世のすべてを許している。そこにほんらいの神道が宗教と逆立しているゆえんがある。

喪失感を抱きすくめてゆくことは人の本性であり、だから人はどんな不幸にも耐えることができるわけだが、神道の「かみ」は、そうした人間性の究極のかたちとして描かれている。
喪失感を抱きすくめてゆくことの究極のかたちは消えてゆくことであり、神道の「かみ」は消えて(隠れて)いる。そうやって天皇は「生贄」になることを受け入れていったし、民衆は支配されることの「不幸=喪失感」を抱きすくめていった。
古代以前の天皇と民衆は喪失感を抱きすくめてゆくことを共有し、たがいに相手を祀り上げ献身し合っていた。そしてこれが、日本列島の集団性の文化の基礎になっていった。
人の心は「祀り上げる」ということをする。これは、宗教の問題でもなんでもない。人間性の自然な実存感覚としての「異次元の世界に対する遠い憧れ」の問題であり、「この生=身体=自分」を喪失する体験は心が「異次元の世界」に超出してゆく契機になり、そうやって心は華やぎときめいてゆく。
古代以前の奈良盆地の民衆は、「支配者」として天皇を祀り上げていったのではない。「生贄」としての天皇が存在そのものにおいてまとっている「異次元性」を「神聖なもの」として祀り上げ、ときめいていった。
とにかく日本列島の文化の「処女性」というものがある。そこのところを問わなければ、天皇制の問題には迫れない。
日本人は「偉大なもの」を祀り上げる趣味を持っているわけではないし、天皇のどこが偉大なのですか。権力者にさんざんいいように振り回されて歴史を歩んできただけじゃないですか。
日本列島の民衆は、天皇の「生贄としての処女性」を祀り上げて歴史を歩んできた。