祭りの賑わい。・神道と天皇(132)

オリンピックなんてくだらないといっても、人の世に「祭り」はとても大切で、人類はけっしてそれを手放さないだろう。そのイベントの本質は「神聖なもの」を祀り上げることにあり、選手たちの人間離れした体力や技術を、われわれは心のどこかで、それはそれで異次元的な「神聖なもの」として受け止めている。
政治や経済が大切だといっても、それを超えた「異次元の世界」に対する遠い憧れは誰の中にもあるし、じつはその憧れを手放したら人は生きられないというか、心が病んでゆく。
花を愛でることだって、ひとつの「異次元の世界=神聖なものに対する遠い憧れ」の上に成り立っているのだし、それがなければ「ときめく」という心は起きてこない。
生きものが生きてあることなど「神聖な」ことでもなんでもないが、生まれて死んでゆく身としては、それを成り立たせている「自然の摂理」というか「宇宙の法則」のようなものに対するはるかな想いは、誰の心にも息づいている。
生きものが生きる必要なんか何もないのに、それでも生きるいとなみをしてしまう。イワシやミツバチだって、「神聖なものに対する遠い憧れ」を生きている。大きな群れをつくって何千キロも旅をするイワシの群れは、なぜそんな途方もないことをするのだろう。ミツバチは、なぜみんながあんなにも「お人好し」なのだろう。ただもう、無駄に生きて無駄に死んでゆくだけなのに。
人間にとってそれは、異次元的なとても「神聖な」行為のように見える。
生きるなんて、無駄なことだ。それでもみんなが生きるいとなみをしている。「神聖なものに対する遠い憧れ」にうながされて。
もちろんオリンピックだって、ただの「無駄なお祭り」でしかない。しかし生きものが生きるということ自体が「無駄なお祭り」であり、「無駄なお祭り」にこそもっとも純粋で切実な「神聖なものに対する遠い憧れ」が宿っている。

生きることは「無駄なお祭り」であり、この生は浪費するばかりで、けっして拡大してゆかない。
生きものの進化はもとの生のかたちを失ってゆくことであり、キリンは草を食べる習性を失って木の葉を食べるようになっていった。進化とは喪失すること、喪失感を抱きすくめてゆくことこそ進化を促すのであり、すなわち喪失することがこの生のはたらきを促すということだ。
処女の舞の愛らしさ美しさは、喪失感を抱きすくめてみずからの身体存在を消してゆこうとする気配にあり、そのときカメラの焦点を絞ってゆくように身体の輪郭が鮮やかに浮かび上がる。まあそれは「生贄」の衝動であり、人々はそこに「神聖なもの」を見出していった。日本的にいえば「きれい=清浄」すなわち「みそぎ」のかたち、ということだろうか。
支配者であれば未来永劫祀り上げられるというような歴史の法則などあるはずがない。古代以前の奈良盆地の人々がなぜ天皇を祀り上げていったかということを、今どきの歴史家はどうして問おうとしないのか。天皇は何処かからやってきたのではない。それは、権力社会が書き残した文書だけで解き明かせるものではないし、どうしてそのときの人の心の自然というものを考えようとしないのか。まあそれには縄文時代からの歴史の流れというものがあるわけで、そのころの奈良盆地の人々がどのようにして大きな集団になっていったかということを考えるなら、その過程から巫女が生まれ天皇になっていったことの必然性はたしかにあるのだ。

弥生時代奈良盆地の歴史は、祭りの場としてはじまっている。最初から大集落があったのではない。初期の奈良盆地はほとんどが湿地帯で、多くの人が住み着くことができるような場所ではなかった。ただ、そのころの気候の乾燥寒冷化によってしだいに土地が干上がってゆき、それにともなってまわりの山々から続々と人が下りてきて住み着くようになっていった。
最初は、わずかな干上がった土地で祭りをするために下りてきていただけだった。家を建てて住むためでも、農業をするためでもなかった。
どこからともなく人が集まってきて祭りの賑わいが生まれる……原始時代の新天地の歴史は、いつだってそのようにしてはじまっている。
そういう原始性が、2000年前の日本列島には残っていた。これはもう奇跡的なことで、氷河期明けの地球温暖化によって海面が上昇し、四方を荒海に囲まれた島国として孤立してしまった日本列島だから起きてくることだった。
大陸では5・6000年前からすでに文明国家が生まれ、戦争の歴史がはじまっていたというのに、日本列島では2000年前になってもまだ、みんなで他愛なくときめき合ってワイワイガヤガヤ浮かれ騒ぐ祭りの集団性の歴史を歩んでいた。
まあ弥生時代中期なれば日本海の沿岸地域では大陸との関係の歴史がはじまって青銅器などの新しい文明が入ってくるようになったが、渡来人そのものはごく少数で、日本列島の原始的な集団性がそれほど変化することはなかった。そうした少数の渡来人だって日本列島の文化の染まりながら定着していっただけで、とくに内陸の奈良盆地は、もっとも原始的な集団性が洗練発達した地域になっていた。
弥生時代は、九州を中心にした銅剣・銅矛の文化圏と奈良盆地を中心にした銅鐸の文化圏に分かれていたといわれているが、後者はそれほどに大陸の影響が薄かったことを意味する。大陸ではすでに戦争の時代に入っていたから銅剣などの武器が権威と価値を持つものになっていたが、原始文化の奈良盆地の興味を引くものではなかったらしい。奈良盆地に青銅器の鋳造施設はなく、銅鐸だって出雲地方につくってもらっていたらしい。つまり弥生時代奈良盆地はまだ戦争の時代に入っていなかったことを意味する。
九州・中国地方だって最初は祭りの道具として銅剣などを飾っていただけだろうが、戦争の時代に移ってゆく準備はできつつあったともいえる。
それなのになぜ最終的には奈良盆地大和朝廷が覇権を握ったのか?
弥生時代晩期に九州・中国地方の連立政権が奈良盆地につくられたという説もあるが、おそらくそうではない。だったらそのとき銅鐸の文化は終わっているし、そんなことをしても奈良盆地の民衆がよそ者の支配者を慕うはずがない。また、奈良盆地の民衆をぜんぶ追い出したら、そこは九州・中国弁になっている。
天皇と民衆とのあいだには歴史の長い時間をかけて熟成されていった関係があり、だからその関係に寄生してきた権力者もそれを抹殺してしまうことができなかった。いきなりよそからやってきた支配者が2000年以上君臨し続けたということなどあるはずがない。
支配者は、民衆と天皇の関係に寄生しながらその権力を成り立たせてきた。民衆と天皇の関係なしに大和朝廷の権力は成り立たなかった。古事記はそのように民衆の語り伝えを採取しながら編纂されていったのであり、権力者が勝手につくって民衆に押し付けていったのではない。
古事記の上・中巻に書かれた史実など無きに等しいが、はじめに天皇と民衆の関係があった、ということはわかる。

弥生時代初期にはほとんどが湿地帯だった奈良盆地に、まわりの山々で暮らしていた人々はなぜ下りてきたのだろうか。
まずまわりの山々になぜたくさんの人がいたかといえば、湿地帯のきらきら光る水面に魅せられていたからだろう。今でも湖は観光地になっていることが多い。
人は、「きらきら光るもの」が好きなのだ。光は異次元の世界の象徴であり、湖は異次元の世界である、ともいえる。区切られた世界だから、海よりもかえって神秘的な感じがする。異次元の世界への入り口、すなわちパワースポット。
そしてその水が干上がってあらわれた土地なら、この世のもっとも清浄な土地のような気がする。そのとき人々はそのまっさらの土地に立ってみたいと思った。そうやって次々に人が集まってきた。
三輪山のふもとの纏向遺跡のあたりは川の流れで浮かび上がってきた扇状地で、日本最初の「市(いち)」ができた場所だといわれている。
やまとことばの「いち」とは、人が集まってくる場所、というような意味。そして日本語の「都市」もそういう意味であり、弥生時代奈良盆地は日本中から人が集まってきて大きな集落になっていったのだ。だから古事記には、日本中の土地の情報が印されている。それはべつに大和朝廷が日本中を征服したからではない。奈良盆地の民衆社会には日本中からやってきた人がいた、というだけのこと。古事記にはヤマトタケルが九州や東北を征伐したと書かれてあるが、大和朝廷が実際にそれをしたのは奈良・平安時代以降のことで、民衆社会はそれ以前からすでに列島中の情報を持っていたということだ。
まあそこに初期の大和朝廷の覇権争いのアドバンテージもあったわけで、九州も中国地方もそういう情報を持っていなかった。
とにかくそのころの日本列島中の人々が奈良盆地をめざした。彼らにとってそこは、この世でもっとも「清浄な場所」すなわち「聖地」だった。
水が干上がって新しく清浄な土地が現れ出るということ。奈良盆地の人々にはそのことに対する深い愛着があった。だから彼らは「干拓事業」にもとても熱心で、その事業として巨大な前方後円墳を次々に造っていった。それは、天皇の権威を示すために民衆を駆り集め使役して造ったのではない。民衆自身が自然に集まってきて造り上げていった。そうしてそれを「神聖なもの」として天皇に捧げた。だらそれは、捧げものとしての「陵(みささぎ)」と呼ばれた。
古墳時代奈良盆地は、日本列島でもっとも大きな集団だったし、もっとも集団のエネルギーが充実している場所だった。そしてそれは支配者の権力が強大だったからではなく、民衆自身の集団性が、みずから天皇を祀り上げながら「無主・無縁」の混沌とした盛り上がりのエネルギーを持っていたからだ。

初期の大和朝廷の全国制覇の歴史は、奈良盆地の「『無主・無縁』の混沌とした集団性」が他の地域の「支配=被支配の秩序の集団性」を圧倒してゆく歴史だった。とりあえず関東から中国・四国地方あたりまでは、戦わなくてもすでに奈良盆地という「聖地」に対する憧れに浸されていたし、そのあとの奈良・平安時代になってから九州・東北との戦闘の歴史が起きてきた。
初期の大和朝廷が九州出身の神武天皇によってつくられたのなら、どうしてそのあとに九州との対立紛争が起きたのか、説明がつかないではないか。
古事記を語り伝えた民衆は、いずれ九州との紛争や東北征伐が起きるだろうことを予測してヤマトタケルの話を創造していった。
また初期の大和朝廷は、先祖代々奈良盆地にいた貴族と地方出身の高級官僚とで構成されていたわけで、それが古事記の「アマツカミ」と「クニツカミ」の話になっていった。大化の改新はそういう権力闘争でもあり、地元民の「クニツカミ」が新参者の「アマツカミ」から権力を奪い返した事件だった。
いやこんな権力闘争のことなどどうでもいいのだが、とにかく考古学においては、弥生時代晩期の奈良盆地とその周辺とのあいだに戦争といえるほどの大規模な紛争はなかった。そのころそのあたりから続々人が集まってきていただけで、奈良盆地はそういう「聖地」だったのだ。
「無主・無縁」とは、差別がないということ。そのころの大和朝廷という権力社会とは違って少なくとも奈良盆地の民衆には地元民とよそ者の差別はなく、よそ者は大いに歓迎されたから古事記のような全国規模の話を創造することができたのだし、それが巨大前方後円墳をつくりながら干拓してゆくエネルギーになっていった。
弥生時代後期には集落間の小さな紛争は地方のあちこちで起きてきたが、奈良盆地にはなかった。
日本列島の貴族は、明治維新のときの岩倉具視をはじめとして権力闘争にはものすごく熱心だが、外国の貴族と違って民衆を支配することには疎いところがある。それは、初期の大和朝廷奈良盆地には集落間の小さな紛争すらなかったという伝統かもしれない。そのころの奈良盆地には、支配と被支配の血なまぐさい紛争はなかった。考古学における弥生時代晩期から古墳時代にかけての殺戮の遺跡は、ほとんどは支配者が民衆を殺した証拠なのだろう。そりゃあ、そういう民衆支配の経験を持っている地方の豪族の子弟が大和朝廷にやってくれば出世するに決まっている。
まあ現在でも奈良や京都には民衆支配の伝統がなく、むしろ民衆自治の文化が発達しているし、今でも東京の政治経済の社会で出世するのは地方出身者のほうが多い。東京の地元民は地元民だけの集団性の文化を持っていて、支配者として異質な民衆を支配するというメンタリティが育たない。