「きみ」と「おほきみ」・「天皇の起源」7


この国の天皇が唯一無二の存在として2千年ものあいだ君臨し続けてくることができたのは、ひとつはもともと支配者として上から下りてきたのではなく民衆に祀り上げられたいわば「いけにえ」のような存在だったことと、もうひとつはそのかたちが「処女性」を帯びていたことにあるのではないだろうか。
処女性は、人類普遍の祀り上げる対象なのだ。だから、セックス・ハラスメントが非難される。
処女性の尊厳、というものがある。それは、後世の儒教道徳とは何の関係もない。セックスをしたことがあるかどうかということではなく、「無関心」というかたちで他者を「赦している」態度のことである。
セックスに関心がなく性衝動を持たない存在のことを「処女」という。そして処女は、セックスに関心がないからこそ、セックスをしたがる男を赦し、セックスをさせてくれる。
セックスをさせないのが処女であるのではない。処女は、セックスをさせてくれる。セックスをさせないのは、男に関心があって男を値踏みしている女である。
西洋の「神=ゴッド」は人間の罪に関心がある。だから西洋人は、神に対して「懺悔」ということをする。西洋の「神=ゴッド」は、人間を値踏みしている。
それに対してこの国の天皇という「かみ」は、そんな罪などということには無関心である。無関心というかたちで人間を赦している。
だから日本列島の住民は、懺悔もしないし、責任もとらない。あの太平洋戦争の戦犯たちですら、口をそろえて、あれはもう避けがたい「なりゆき」だったといって、誰も懺悔することなく、責任を取ろうともしなかった。
そうやってこの国の住民は、だれもが天皇という「かみ」の「赦している」態度に甘えている。
天皇の処女性は、人間を先験的に赦していることにある。だから人間は、処女性を祀り上げる。
日本列島の歴史における天皇という存在は、人間を先験的に赦している存在として、おそらく弥生時代奈良盆地の人々に祀り上げられ登場してきた。
支配者として登場してきたのではない。
人間なら誰だって心の底に「自分はここにいてはいけないのではないか」という「いたたまれなさ」を心の底に抱えている。それは、罪の意識ではない。自分が今ここに生きてあることが必然的なことだとはどうしても思えないという不条理の感覚である。
だから人は、先験的に赦している態度としての「処女性」を祀り上げる。
キリスト教でこの態度を持っているのは、キリストよりもむしろ処女懐胎したマリアのほうである。



日本列島では、この「自分はここにいてはいけないのではないか」という「いたたまれなさ」の感覚のことを「穢れ」といった。これは、罪の意識ではない。
弥生時代奈良盆地の人々は、この「穢れ」の意識を共有しながら天皇の起源となるカリスマを祀り上げていった。
それが、どんな存在だったのだろうか。卑弥呼のような女だったのだろうか。
天皇の歴史の初期のころはすべて「女帝」だった、という説もある。男の神武天皇から始まったというのは、男社会になった後世の権力者のでっち上げであるのだとか。
僕も、きっとそうだろうと思う。
天皇の系譜を最初に作成したのは淡海三船(おうみのみふね)という奈良時代の官僚だったらしいのだが、6世紀以前はほとんどでっち上げで、実在したという証拠など何もないらしい。まあそれ以前は文字がなかったのだから残っているはずがないし、それ以前の神武以来の1000年間など、言い伝えとしても残っているはずがない。
一応、6世紀初めの継体天皇以降は実在したと信じてもいいらしい。そして弥生時代の終わりが3世紀だから、そのころにはもう天皇の前身となる存在はいた可能性がある。
しかし、卑弥呼の話は無視するとしても、男がカリスマになっていたとは考えにくい。
状況証拠的には、弥生時代は、列島中どこでも女が中心の社会だったはずである。
たとえば、天皇制が確立してきた時代にあっても、財産は女が所有しているもので、基本的に男は家なしの風来坊の存在で、天皇家ですら例外ではなかったらしい。
であれば、初期の天皇はすべて女であった可能性のほうが高い。



またそのころ天皇は「大君(おほきみ)」と呼ばれていたらしいのだが、この「おほ」という言葉にも問題がある。
現在の「大旦那」とか「大奥様」といえば、ひとまずその家の中心であることから引退した老人を指している。「大御所」といっても同じニュアンスである。
日本列島では、現役を引退した人に「おほ」という冠辞を付ける伝統がある。
「おほきみ」とは「きみ=天皇」の地位から引退した人のこと。すなわち「きみ=天皇」の親。
「きみ=天皇」が人々のカリスマであったとしても、天皇家を守るのはその親である「おほきみ」の仕事だった。
つまり「きみ=天皇」は、まだ成人していない若い存在だった。しかもそれは、女だった。女が祀り上げられる社会だったのだ。
おそらく起源としての天皇は、初潮前後の処女性を持った娘だった。そういう娘を「お姉さん」として慕い祀り上げていった。
まあ、現在の皇太子家の愛子さんみたいな娘が、カリスマとして祀り上げられていったのだ。
正直にいえば、僕は、彼女の何か世俗に対して「無関心」のような孤立した風情に、処女性とカリスマ性を感じないでもない。
それはともかくとして、古墳時代になって政治が生まれてくると、その親である「おほきみ」が政治的な中心になっていった。しかしそのころ財産は女から女へと引き継がれていたのだから、「おほきみ」もまた女だったはずである。
「きみ=天皇」を産み、自身もかつて「きみ=天皇」であったのなら、当然その中心的な存在になってゆくだろう。
「きみ=天皇」ではなく、「きみ=天皇」を産み育てた女を「おほきみ」といった。
人類史において、最初に政治に目覚めたのはおそらく男だった。したがって、集団を統治する実際の仕事は男がしていたのだろうが、その行為に免罪符を与えていたのは「おほきみ」だった。
といっても最初のころのその仕事は、天皇家を維持するための「捧げもの」を集めることや、天皇家が中心になって催される祭りを取り仕切るとか、まあそんなようなことだったのだろう。それは、民衆を支配する仕事ではなく、民衆にサービスする仕事だった。
「捧げもの」は、天皇を祀り上げようとする民衆の自主的な行為だった。
弥生時代奈良盆地には、「階級」も集団を運営するための「規範」というようなものもなかった。そんなことは、その都度の人々の話し合いの「なりゆき」で決まっていった。
支配者の政治支配がなかった代わりに、民衆どうしの話し合いはとても活発に行われている社会だ。その話し合いで、湿地帯だった奈良盆地を埋め立て、次々に大きな前方後円墳を造営していった。
奈良時代には「しきしまの大和の国はことだまの咲きはふ国」などといわれていた。「ことだまの咲きはふ」とは、人々の語らいがとても活発に行われている、というような意味である。そういう伝統がすでに存在していたのだ。
弥生時代奈良盆地では、天皇を祀り上げながら、民衆どうしの語らいによって集団の運営がなされていた。だからそのころはまだ政治支配というようなものはなかったのだが、その後の時代に「おほきみ」を中心とした政治支配が生まれてくる下地にはなっていたのかもしれない。
いちおう大和朝廷奈良盆地に割拠する豪族たちを統合して生まれてきたということになっているのだが、実際はそうではなく、まず大和朝廷ができて一部のものたちが政治支配の意識に目覚めてゆくことによって、つまり朝廷内の権力争いから豪族群が発生してきたのだろう。
大和朝廷の成立前夜に奈良盆地で内乱があったという考古学の証拠などない。
なんのかのといっても、天皇のいる奈良盆地内の民衆はまとまっていた。



やまとことばの「きみ」とは、語源的には「完璧な存在」というような意味である。したがって「おほ」という言葉を「偉大な」という意味でかぶせることは蛇足であり、無意味なのだ。
たぶん最初は、「きみ」の「親」、という意味だった。しかし、政治の場が生まれてくれば、その世界の中心は「きみの親=おほきみ」がなるしかない。
大和朝廷が生まれてくる移行期は、「きみ」と「おほきみ」が並立していたのだろう。
弥生時代末期の奈良盆地に最初に現れた巨大前方後円墳である箸墓古墳は、「モモソヒメ」という天皇家の姫君の墓だという言い伝えになっている。
なぜ天皇でなく、天皇家の姫君なのか。そのころはまだ「きみ」と「おほきみ」が並立していて、「きみ=モモソヒメ」こそが実際の祀り上げる対象だったのだろう。
伝説によれば、このモモソヒメは、三輪山の神(=蛇)とのハネムーンに失敗して自害して果てた。
蛇=ペニス……これは、容易に誰もが連想できる。モモソヒメは、その蛇=ペニスを見て驚きうろたえ自害してしまった。そのようにしてモモソヒメの処女性が表現されている。
また、若くして死んでいった幸せ薄いお姉さん……これこそ、世界中の人々がもっとも祀り上げずにいられない普遍的な美しい「お姉さん」像である。
画家のムンクも、結核で夭折した自分のお姉さんの面影を反芻しながら描いたたくさんの作品を残している。
で、そのモモソヒメは、箸を自分の陰部に突き刺して自害したという。まさに「処女性」の極致である。ただの他愛ないつくり話とあなどるべきではない。彼女は、自分がセックスをする存在になったことに絶望した。古代の奈良盆地の人々は、そうやって「永遠の処女性」を表現したのだ。
彼らは、セックスをしたかどうかなどで処女性を判断していたのではない。もっと高度に抽象化して処女性をイメージしていたのだ。
儒教道徳のような、そんな低劣な処女性などには興味がなかった。
処女であることに価値がある、なんて、どうしようもなく通俗的である。
モモソヒメは、自分が性器を持っているというそのことに絶望した。そしてその絶望は、おそらくすべての女が「処女性」として心の底に共有しているのである。その絶望は、儒教道徳などよりはるかに普遍的な人間の自然なのだ。



弥生時代奈良盆地における「きみ=完璧な存在」は、おそらく男ではなく女であり、しかも初潮前後の若い娘だった。
そしてそれこそが、処女性をそなえた「お姉さん」という存在であった。
弥生時代末期の奈良盆地のカリスマは、まあ一般的には、卑弥呼のような天候や作柄や病気の治癒を占う呪術的存在だったといわれていて、「モモソヒメ=卑弥呼」という説もあるのだが、それは呪術的存在ではなく、「永遠の処女性をそなえた美少女=お姉さん」という、それはそれで高度な美意識によってイメージされていった存在だったのだ。
もともと日本列島の住民は、未来のことは「なりゆき」のまかせるしかないと思い定めて歴史を歩んできた民族である。
そういう呪術は、大和朝廷の成立のあとに陰陽道として大陸から輸入されて初めて知ったことにすぎない。
「言挙げ(=神に願い事をすること)はしない」、というのが古代以前の民衆の流儀だった。それは、そのとき呪術という伝統などなかったということを意味するはずである。
魏志倭人伝だけでは、卑弥呼が呪術をする存在であったという証拠にはならない。そのころの中国の民衆のあいだでは呪術が当たり前のようになされていたから、それを当てはめてそういっているだけかもしれないのだ。
おそらく弥生時代奈良盆地に呪術などなかった。
彼らは神に願い事をするような民族ではなかったし、そもそも神という概念など持っていなかった。
彼らにとってのカリスマは、願い事をかなえてくれる存在ではなく、彼らの心を癒してくれる存在だった。
古代の民衆の美意識をあなどるべきではない。
そして天皇の起源は、人間が根源においてイメージしている「処女性」と通底している。
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