処女性について・「天皇の起源」6


「萌えロリ」などという。
いまどきのアニメやマンガに登場する美少女は、たいていあどけない顔に描かれている。
そのくせ体型はとてもグラマラスで、乳房や尻は大きくてエロチックだ。
若者にとってそれは、顔は年下の少女で体は年上の大人の女、ということだろうか。
しかしそのあどけない表情は、年下の若い娘というのともちょっと違う。表情そのものはもう、幼稚園か小学生の子供のようでもある。幼稚園か小学生の子供がそんな成熟した体をしているはずもないし、それは、ある精神性を表しているのだろう。
そのあどけない表情には、イノセントな精神性が宿っている。
人間が値踏みされている世の中である。お金の世の中だもの、当然そうなってゆく。
むかしは、金の話をするのははしたないことだという雰囲気があったが、今はもう、大人たちにそんなつつしみやはにかみやためらいはなくなったし、子供どうしだって具体的なモノの値段のことを平気で語り合っている。そんな世の中なら、人間だっていかようにも値踏みされてしまう。われわれは、社会の制度からも他者からも監視され値踏みされている。
いまや、値踏みしない視線を持っているのは、アニメの中の少女たちだけかもしれない。
だんだん自己嫌悪の感情が芽生えてくる思春期の若者たちにとっては、同年代の異性に値踏みされるのがいちばんいやなのだろう。だから、あのような表情の少女の絵がもてはやされ、祀り上げられている。
そしてその他者を値踏みしないイノセントな表情は、幼い子供の表情であると同時に、「お姉さん」の表情でもある。ここが問題なのだ。
「お姉さん」は、弟に対して、けっして値踏みしない。母親は子供をかわいがる分、値踏みもしている。お姉さんは、とくに弟をかわいがりもしないが、値踏みもしない。
現在の若者たちは、そのような「お姉さん」という存在を求めている。だから、どんなにあどけない表情をしていても、体は女くさいお姉さんの体型なのだ。
少年が年上の娘と向き合うと、胸とか腰まわりとかの女くさい気配を必要以上に意識してしまう。その意識が、あのような体型の表現になっている。
それは、ただのロリータ趣味とはちょっと違うし、現実の年上の女へのあこがれでもない。
現実の女なんか、年上だろうと年下だろうと、男を値踏みしてばかりいる。
彼らは、アニメやマンガの中に、現実には存在しない「弟を値踏みしないお姉さんの視線」を夢見ている。
まあ、この世の姉と弟のあいだには本質のところでそういう関係性が潜んでいるわけで、日本列島の住民はそういう関係性に敏感な歴史的無意識(=伝統)を持っている。
それは、天皇と国民の関係である。
天皇は、けっして国民を値踏みしないし、すべてを赦している存在である。これは、西洋の「神=ゴッド」の視線ではない。
いや西洋だって、聖母マリアの画像には、そのような視線が描かれている。聖母マリアは、けっして人を値踏みしない透明で純化した視線でその手に抱いたわが子を見つめている。それは、「母性のまなざし」というようなものではない。そのとき西洋の画家もまた、「お姉さん」の視線をイメージしている。
アニメやマンガの少女と聖母マリアは、けっして別の存在ではない。人間は誰もが心の奥に「自分はここにいてはいけないのではないか?」という煩悶を抱えている存在であり、そういうすべてを赦している「お姉さんの視線」に対する普遍的なあこがれがある。



顔は幼い少女で、体はむちむちのエロチックボディ、というような娘が現実に存在するかといえば、存在するともしないともいえる。
しかしアニメやマンガの場合は、ただ外見の趣味だけを表しているのではあるまい。顔はその精神性の表現であるし、体は、女という存在の存在の仕方というか「女性性」とは何かと問うている。
性衝動を持たないあどけなさと子を産み育てることができる女性性、これがアニメやマンガの美少女像である。
現代人が祀り上げることのできる女の究極のかたちがそこに表現されている。
性衝動を持たないことと子を産み育てることのできる能力とは矛盾するのか。しない。その矛盾を当たり前のように抱えているのが女という存在なのだろう。
女という存在の抽象性というものがある。
基本的に女は、性衝動を持っていない。これは、生物学的にそうなのだ。鳥のメスなんか、オスがしつこく寄ってくるからやらせているだけで、自分から寄ってゆくことはない。おそらく、すべての生き物のオスとメスの関係はそうなっている。
しかしそれでもメスは、子を産み育てることに耽溺する存在であり、そのための体を持っている。
マリアの処女懐胎という話には、そういう普遍的な女性性が込められている。
女とは、そういう抽象的な存在なのだ。
女は根源的に性衝動を持たない存在であり、すべての女に処女性が宿っている。
「お姉さん」という存在がそなえているものとは、「処女性」なのだ。
聖母マリアを描いた画家がその表現にいちばん腐心したのは「処女性」なのだ。
子を産み育てている女にだって処女性は宿っている。
女性性とは、処女性のことかもしれない。
女は、女の処女性にあこがれる。男だって、その処女性を祀り上げている。
セックスをしたことがあるかどうかということとは別の「処女性の尊厳」というものがある。いい女とは、処女性を持っている女のことだ。
マンガやアニメのあどけない少女の顔は、処女性の表現なのだろう。
処女性とは、性衝動を持たないこと。性衝動を持たなくても男にセックスをやらせてあげるのが女性性。それが「お姉さん」という存在。
いい女がいつまでも処女でいられるはずもないが、いい女は性衝動などというものは持っていない。



女は根源的には性衝動を持たない生き物であり、すべての女が処女性を持っている。
子を産み育てることができる体を持っているから、多くの人がひとまず女にも性衝動があるという前提に立ってしまう。そうして「優秀な子孫を残すために男を選ぶ」というようなわけのわからないことを言い出す。
つまらない男にひっかかって捨てられたあととかレイプされたりしたあととかに妊娠していることがわかって、それでも子を産むことを決断する、ということがある。
それは、「優秀な子孫を残す」生き物としての本能に反することか。
女にとってたぶんそんなことは、自然であればあるほどどうでもいいことだ。もともと優秀な子孫を残そうとする性衝動などなく、子を産み育てることのできる体と心を持っている、ということだけが自然なのだ。そうやって決断して子を産み育てることだって、じつは処女性なのだ。
たぶん、そうやって自分の仕事に目覚めたのだ。
性衝動なんかない、ということが処女性で、女だってその処女性にあこがれている。
原始時代や古代の女が父親のわからない子を平気で産み育てていたことだって、じつは処女性なのだ。優秀な子孫を残すことなんか知ったこっちゃない、妊娠したら全部産んでやる、という処女性。
現代の一部の女たちが優秀な子孫を残すために婚活していることのほうが、ずっと非人間的ではないだろうか。彼女らは、この社会の制度性に踊らされて、女の本性である「処女性」を喪失している。
結婚なんて、「男に言い寄られたからしょうがなく一緒になってやった」ということでいいのだ。それが「処女性」である。
男だって、女には基本的に性衝動などないのだから「やらせてもらっている」という心は持っていたほうがいい。たとえ相手が娼婦であっても、だ。まあ、むかしの人は持っていたし、そうやって人間の歴史が流れてきた。



レイプとは、女の「処女性」を侵害することだろうか。人々がこんなにも簡単にセックスをする世の中になったのに、セックス・ハラスメントはますますやかましくなってきている。どんなに簡単にセックスをする世の中になってもというか、簡単にセックスをしてしまう世の中になったからこそ、女の処女性が際立ってきているのかもしれない。
何がいいとか悪いということはよくわからないが、女には性衝動はないという前提が顕在化しつつある。
いまや男も女も平気で浮気をする世の中になっているのだとか。では、「自分は浮気をしてもパートナーの浮気は絶対許さない」という場合、男と女とどっちが身勝手かといえば、これはたぶん男だ。
女はつねに「男が寄ってきたからしょうがなかった」という言い訳を持っている。根源的には性衝動を持っていない存在なのだから、当然そういう理屈になる。
しかし男にはその言い訳は成り立たない。お前がやらせてくれと寄っていったのだ、といわれてそれを否定しきることはできない。それが、自然としての男の行動習性なのだから。
セックス・ハラスメントは、告発された時点で男の負けである。
現代は、じつは女の処女性がかつて以上に顕在化しつつある時代なのかもしれない。
一生セックスをしないまま死んでゆく女性もいる。しかしそれは、不幸なことでもなんでもない。女とは性衝動を持たない存在なのだから。
セックスばかりしている女も増えたが、セックスをしない女も増えた。



人間は「処女性」を祀り上げる存在なのだ。
男とやりまくっていても純潔な気配を持っている女もいれば、男を寄せ付けない生き方をしていてもなんだか不潔ったらしい女もいる。そういう女は、いつも男を値踏みしている。その値踏みする視線が不潔なのだ。
処女は、男に関心がないというかたちで、男を赦している。男を値踏みし選別するというようなことはしない。
このように考えてくると、原始神道の巫女は処女が選ばれたという通説も信憑性を帯びてくるし、後世には人妻でも神と契る処女=巫女の資格が与えられるようになっていったということにも必然性がある。それは、規則を無化したのではない。人妻にも処女性はあるし、女はみんな処女性を持っている。
処女性とは、「無関心」というかたちで「赦している」態度のことだ。そのようにして現在のアニメやマンガの娘は、幼い子供の顔に描かれている。それは、処女性の表現である。
まあ古代以前は女が中心の社会だったから、人妻にだって神と契る巫女の資格がある、ということになっていったのだろう。
それは、男が決めたのではないのだ。のちの時代の儒教道徳とはまったく関係ない。
人類は普遍的に処女性に対する崇拝を持っているのかもしれない。
セックスをしたことがあるかどうかではない。「無関心」というかたちで「赦す」という態度を持っているかどうかだ。
天皇という存在の処女性、たぶんこれが問題なのだ。



女は根源において性衝動を持っていない、ということは、人類の歴史を考える上でとても重要なことかもしれない。
女にも性衝動があったら、男は一年中発情している存在にはならなかった。
人類は、二本の足で立ち上がることによって、女の性器は完全に隠されてしまった。そうして男は、女の性器の状態に合わせて発情するという習性を失った。わからないからもう、やみくもに発情するようになっていった。
もちろん、二本の足で立ち上がったことによってそのことに対するストレスが恒常化するようになった、ということもある。それが男の性衝動を頻繁に刺激し、その性衝動が生き場を失ってより強く乱れ騒ぐようになっていった。
女には性衝動がないからこそ男はますますやりたくなってしまうのかもしれない。
性衝動がないこと(=処女性)の尊厳、というものがある。人間は、男も女も「処女性」を祀り上げずにいられない衝動を持っている。そして天皇という存在はこの普遍の上に成り立っている。
日本列島住民がなぜ天皇を慕うかということについて西洋人から聞かれたらこう答えることができる、「あなたたちだってマリア信仰というものを持っているではないか」と。
それは、「処女性」の尊厳を祀り上げる、という問題である。
いまどきの「かわいい」ということだって、「処女性」に対するときめきなのだ。
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