女を祀り上げる・「天皇の起源」5



いまや、美人であるかないかは女が決める時代になっているのだとか。
女から見た美人の基準と男のそれとでは少し違うのかもしれない。同じの部分もあるが、違う部分もある。
テレビや映画などのマスメディアの場面では、女に支持されないとスターにはなれないらしい。
まあおおよその傾向として、生まれながらの美人というより、個性とかセンスと存在感とか、そのような部分で際立っている女性が美人として評価されることが多い。つまり、女たちに、努力すれば自分もなれそうだと思わせる余地を持っていたほうがいい。
おそらく高度経済成長の時代に、ファッションや化粧品の業界が、ポスターやテレビコマーシャルを使ってそういう美人のイメージをつくってきたのだろう。
そういう傾向は、すでに1960年代後半から始まっていた。
現代は、化粧とファッションとダイエットで美人になれる時代であるのだろうか。
女の社会的地位が向上した、ということもあるのだろう。部分的には、女の意識が時代をリードしている。
女の大統領や首相も登場してきた。
女の意識が時代をリードしている社会では、当然女のカリスマが登場してくる。それは、原始社会の構造である。
卑弥呼が実在の人物であったかどうかはともかく、おそらく弥生時代奈良盆地のカリスマは女だった。



人類最初の都市集落といわれている9千年前のトルコ西部の遺跡でも、女のカリスマが祀り上げられていたと推測されている。
そのカリスマらしい女性の彫像が数多く出土しているのだが、それらは、丈夫でたくさん子を生んできたらしい中年女のかたちに造形されている。
その当時の女にとってのあこがれは、美人であることよりも、丈夫でたくさんの子を産んで人生を全うすることであったらしい。
子を産み育てている最中の女は、いわば女王様のようにまわりの者からかしずかれていたのだろう。食い物のことだけでなく日常の雑事もすべてまわりのものにやらせていたのかもしれない。それはおそらくネアンデルタールの時代以来の伝統で、原始社会において子を産み育てることはそれほどに困難で命がけの仕事だった。
氷河期の時代ならなおのこと、母子ともに生き残れる保証などなかった。
それでもその行為に挑み続けることができる女は、まわりのものたちの畏敬の念を集めずにおかない。
クロマニヨンの時代にも、「クロマニヨンのビーナス」と呼ばれる豊満な女性像がたくさん残されている。
原始社会は、女が祀り上げられていた。
原始社会においては、子を産み育てることこそもっともヒロイックな仕事だった。そして農業を始めるようになっても、植物を育て収穫する能力は、圧倒的に女のほうが上だった。
そのように男と女の関係そのものにおいて、女が上位の社会だった。
たぶん、現在よりももっと女が男を選別する社会だった。



原始時代にも「美人」が存在したか?
おそらく存在しなかった。顔のつくりは、個人を見分ける単なる記号程度にしか意識されていなかったのではないか。
男が女を選別する男上位の社会になって、「美人」という概念が生まれてきたのだろう。
原始社会は、男が選別される立場だった。
動物の社会でも、だいたいオスの体のほうが派手な色彩を持っている。それはオスが上位だからというのではなく、オスが選別される立場だからだろう。
おそらく弥生時代奈良盆地でも、男のほうが着飾っていた。
女は選別する立場だから、着飾る必要はなかった。
人類は、10万年くらい前から、すでに貝殻やビーズの首飾りをしていた。おそらく、男がつけ始めたのだろう。そしてそれは、そのころからすでに美意識は持っていたことを意味する。
やがてネアンデルタールやクロマニヨンは、絵画や彫刻や音楽の感覚を身につけていった。
人類の美意識はいつごろから生まれてきたか。
美意識という概念をどう定義するかということはちょっとややこしいが、人類が言葉の原型となるさまざまな音声を発する存在になったということ自体が、すでに美意識が萌芽していたことの証明だともいえる。
美意識とは、感動する心のことだろう。その感動が、さまざまな音声になった。
人類の美意識の歴史は、じつはとても古い。二本の足で立ち上がって人間になったときからすでに美意識の萌芽はあった、ともいえるのかもしれない。
二本の足で立ち上がることは、非日常的な新しい行為であり、新しい世界と出会うという体験だった。その感動から、美意識が生まれ育ってくる。



心が、定住という日常から旅立ってゆくこと。それが、美意識の萌芽である。
縄文人は、「土の穢れ」ということをものすごく意識していた。だから、家を建て替えるときは、必ず場所をずらしたし、集落ごと引っ越してしまうことも珍しくなかった。
また、その定住する日常の鬱陶しさは、「身体の穢れ」を意識することにもなる。土偶は、家の中に飾っておくものではなく、一部分を壊して土に埋めておくものだったらしい。それは、そうやって身体の穢れをそそごうとしていたのだろう。
「穢れ」の意識は、ひとつの美意識である。
日本人が清潔好きだということは、それだけ「穢れ」の意識が強い民族であるということを意味する。
縄文人はよく、集落のまわりに環濠という水路をつくっていた。それだって、集落の土を清めようとする意識でもあったのかもしれない。
古代人や縄文・弥生人は、水路をつくることが好きだった。纏向遺跡にも、かなり大掛かりな水路(運河)をつくっていた跡がある。
彼らにとって生きてあることは土と身体が穢れることであり、この意識が彼らの行動や思考に大きく作用していたと思える。
日本人が旅を好きなのも、そういう「穢れ」の意識からきているのだろう。
弥生時代奈良盆地の人々にとって定住してゆくことは、「穢れ」をそそいでゆくことでもあった。「穢れ」をそそがなければ、定住することはできなかった。これはもう、縄文以来の日本列島の伝統だった。
テレビや映画を見たり美味いものを食ったりして気を紛らわせることができるような時代ではなかった。
彼らは、われわれ現代人よりももっと直接的にこの生の問題と向き合っていた。



弥生時代奈良盆地の人々にとって、娯楽とは、この生の「穢れ」をそそぐことだった。
人類がいきなり神に対して祈ったり願い事をしたと考えるのは無理がある。原始人がそんなことをしていたはずがない。人間がそういう習俗を持つようになったのは、共同体(国家)の発生以降のことである。
現代人はだれもが「生き延びるための戦略」を考えて暮らしているのかもしれないが、そういう自我意識を原始人も持っていたと考えるのは早計である。人類の知能は」生き延びる戦略」によって発達してきたのではない。
まず第一に、二本の足で立っている猿であることの「穢れ」の意識があった。それは、身体的にも心理的にもとても大きな負荷がかかる姿勢である。その負荷による心理的圧迫のことをここでは「穢れ」といっている。その心理的圧迫によって縄文人は土や身体の「穢れ」を意識していったのだ。そして、なにはともあれその「穢れ」をそそがなければ「生き延びる戦略」も立てようがなかった。
人類の歴史は、神に祈ったりお願いしたりして「生き延びる戦略」を立てることよりもまず、「穢れ」をそそごうとする美意識に目覚めていった。
原始時代に「神」などという概念はなかった。
そして日本列島の縄文人弥生人はそういう原始性を引きずり洗練させていった人たちだったのであり、その「穢れ」をそそごうとする美意識こそが彼らの行動を第一義的に決定していた。
テレビや映画があるからといって、われわれ現代人のほうが彼らよりも美意識が発達しているとはいえない。
生きてあることの「穢れ」をそそごうとする意識は、彼らのほうがずっと切実だった。



快楽とは、自分を忘れて何かに夢中になってゆくことだ。そういう体験があれば人は生きられるし、ときに死んでしまってもかまわないとも思う。けっきょく、そういう体験が人類の歴史をつくってきたのではないだろうか。
人間にとっては、生き延びようと自分に執着することよりも、自分を忘れて何かに夢中になってゆくことのほうがずっと大きな生きる契機になっている。そういうところから原初的な美意識が生まれ、それこそが原始人を生かしていたのであって、彼らは「生き延びる戦略」で生きていたのではない。
原始社会の基礎は美意識の上に成り立っていたのであって、「生き延びる戦略」でいとなまれていたのではない。
美意識とは、祀り上げる心である。
人は、何かを祀り上げずにいられない。そのようにして人と人の出会いにときめきが生まれ、踊りが生まれ、歌が生まれ、絵画や彫刻が生まれてきた。



最初の祀り上げる文化は、「踊り」だったのかもしれない。
それは、出会いのときめきを祀り上げる行為である。
音楽に合わせて体が自然に動き出す。だから最初に音楽があったかというと、そうではない。歴史的な無意識としてもともと自然に体が動き出す身体の習性を持っているから動き出すのだ。
根源的には、音楽に合わせて体が動き出すのではない。祀り上げる心(ときめき)が胸に満ちてきて、自然に体が動き出す。
体の血が騒ぐ、などという。まあ、そういう契機によるのだ。
もちろん最初は、踊り方の作法があったのではない。子供のようにはしゃいで体が動いてしまったのだ。
人間にとって二本の足で立ってじっとしていることは、不安定で、しかもとても負荷のかかるしんどい姿勢である。その「穢れ」からの解放として、「歩いてゆく」という行為が生まれ育ってきた。
二本の足で立っている人間存在は、歩かずにいられない衝動というか、自然に歩いてしまう身体習性を持っている。つまり人間の体は、自然に体が動き出すような習性を持っている。
じっとしていると身体に「穢れ」がたまってくるし、動くとすぐ疲れてしまうのに、疲れてもなお動き続けようとしたりする。からだを直接動かさなくても、頭で動き続ける。不眠不休でコンピューターゲームに熱中する人もいるらしい。
人間は、身体能力の貧弱な生き物のくせに、ほかの動物以上に動きたがる習性をもっている。それは、二本の足で立っていることの「穢れ」を負った存在だからだ。
人と出会ってときめくことは、「穢れ」からの解放である。ときめけば、それに促されて歩き出すのと同じように体が動き出す。そうやって踊りが生まれてきた。
人間は定住することの「穢れ」を避けがたく自覚してしまう存在であり、だから歩くことがさかんな生き物になった。
つまり、群れを出てうろつきたがる猿だったのだ。そうして、いくつかの群れから飛び出してうろついている者どうしがどこかで出会い、ときめき合い、新しい群れができてゆく。そんなことの繰り返しで地球の隅々まで拡散していったのだろう。
人類が地球の隅々まで拡散していったことは、それだけときめき合う生き物だったことを意味する。歩くという能力だけで拡散してゆけるものではない。ときめき合いながら新しい群れになってゆくダイナミズムが生まれてくる契機のひとつとして、「踊る」という生態があったのだろう。
踊ることは、移動してゆかなくても、その場で歩くのと同じかそれ以上の「穢れ」からの解放を体験できる行為である。言い換えれば、踊りの文化を持ったことによって定住してゆけるようになった、ということだ。
それまでは、群れたがるくせに、すぐ群れをばらけさせてしまう落ち着かない猿だった。
人類の、集団から離れて民に出たがる習性はいまだに残っているが、それでもユーラシア大陸への拡散が一段落したネアンデルタールのころからは、踊りの文化とともにしだいに定住できる生態も生まれてきた。
氷河期の極北の地を生きたネアンデルタールは、寒いから、出会えばすぐ抱き合った。それが、ヨーロッパの社交ダンスへと発展していったのだろう。
出会いにときめけば、体を動かさずにいられなくなる。ここから踊りの文化が生まれてきた。



原初の人類の二本の足で立ち上がる体験は、四本足で暮らしていた猿としての日常から離脱して、新しい人と人の出会いにときめいてゆく体験だった。
猿の群れどうしは、敵対している。チンパンジーは、殺し合いだってする。この関係を初期の人類に延長して考えるべきではない。
人類は、他の群れの個体ともときめき合う関係を持ったことによって猿と分かたれ、地球の隅々まで拡散していったのだ。
原始人は、人と人が出会えばときめき合っていった。この生態があったから人類史において「踊り」の文化が生まれ育ってきたのだ。
群れから飛び出したものたちが一か所に集まってきて、ときめき合い、踊りの場が生まれる。
生き物の世界の出会いの基本はオスとメスの出会いであり、人類の世界の踊りだって、鳥の求愛ダンスのようにして始まったのだろう。
男が踊り始めて、女がこれにこたえて踊ってゆく。鶴などは、このような作法になっている。
「穢れ」の日常から解き放たれた新しい男と女の出会い。そうして、男女が向き合って踊るようになってゆく。これが、人類の祭りの普遍的なかたちである。
原初の人類は、猿のような群れどうしの敵対関係はなかった。人類の群れどうしは、猿のようにテリトリーの境界が接しているのではなく、緩衝地帯をはさんで離れていた。そしてその緩衝地帯に群れを離れた男女が集まり、祭りの場が生まれていった。これは、起源以来の人類の生態であり、定住するようになっても、基本的にはこのようにして祭りの場が生まれていた。ただ、以前のようにそこで新しい群れが生まれるのではなく、祭りが終わればもとの群れに帰ってゆくようになっただけである。
原始時代に、群れどうしの敵対関係はなかった。新しい男女の出会いの場が生まれていただけである。
そして男女の出会いの場は、「踊り」として始まった。それはつまり、男が女を祀り上げてゆく場であり、われわれはけっきょく、どう考えても原始時代は戦争などのない女権社会しか推測することができない。



踊りは、物的証拠として残らないものだからなかなか考古学や古人類学の対象として扱われることもないが、もしかしたら人類の起源から続いてきた生態であり文化かもしれない。
そうしておそらく、人類の定住に「踊り」の文化が果たしてきた役割は決して小さくはないはずである。
人類が定住をはじめたことの基礎的ないとなみは、農業をすることにあったのではない。それ以前の狩猟採集の時代から、すでに定住は始まっていた。
定住の基礎は、子を産み育てることにある。定住したことによって人類は、本格的に子を産み育てることを始めたのだ。
それは、氷河期の極北の地に住み着いていたネアンデルタール=クロマニヨンの時代から始まっているはずだが、その厳しい環境のために子供が生き残る確率はとても低かったから、人口爆発が起きることはなかった。
言い換えれば、彼らは何はともあれ本格的に子を産み育てることと取り組んでいたからこそ滅びなかったのだ。子供を二、三人産んで集団の人口を維持できるというような状況ではなく、誰もが生涯に10人前後の子を産んだともいわれている。
本格的に子を産み育てることをしている社会では、とうぜん女が主導権を持ち女が祀り上げられる社会になってゆく。そしてその基礎には、人類の長い歴史の、男女が出会って男が女を祀り上げてゆくという「踊り」の文化の伝統が横たわっている。
原始社会の仕組みは、現代社会のような政治や経済の問題で語れるようなかたちにはなっていなかったはずである。
それは、生き物の自然や人間の自然がどこにあるか、という問題なのだ。
人類史の普遍的な生の問題は、この生の「穢れ」をそそいでゆくことにあった。そこにこそ、生きてあることの最も深く豊かな快楽(醍醐味)があった。原始人は、政治や経済という「生き延びる戦略」で生きていたのではない。
弥生時代奈良盆地だって、人々の生は何はともあれ「穢れ」そそぐことをしなければ始まらなかったわけで、そのための「祭り」こそが第一義の集団だった。


10
人間が何によって猿から分かたれたかといえば、「祀り上げてゆく」ということにある。それが、「穢れ」をそそぐという行為であり、それこそがまさに「天皇の起源」の問題である。
今回は、そこに迫るために、ひとまず「踊り」というパラダイムを取り出してみた。
「踊り」は、人間性の基礎として、人類の歴史を動かしてきた大きなファクターのひとつなのだ。それは、男と女の関係として生まれてきた行為であり、同時に生き物としてのオスとメスの関係という根源的な問題でもある。
つまり「踊り」は、人類が最初に獲得した女を祀り上げてゆく作法だった。
まあ鳥だって求愛ダンスをしているのだから、人間だってとうぜん人間なりの作法でそれを身につけてゆく。
女を祀り上げてゆくこと、すなわち人類史における男が女と出会ってときめくという生態、それは案外、原始時代を考察する上では、政治や経済の問題よりもずっと重要であるのかもしれない。原始時代が女権社会だったということは、じつはそういう問題なのだ。
女が主導権を欲しがり握っていたのではない、男が祀り上げていただけなのだ。
そして女が祀り上げられていたのは、生物学的に男は「セックスをやらせてくれ」とお願いする存在だからだ。
そして根源的に女は、セックスをしたいのではない。子を産み育てることをしたいだけだ。だから、女も女を祀り上げてゆく。
人間の自然においては、女権社会になるほかないのだ。
女が祀り上げる女は、二種類ある。子を産み育てる女とセックスをしない女だ。この二つの資格を両方満たしているのが、「処女懐胎した聖母マリア」である。
ヨーロッパの一部に存在するらしい「マリア信仰」は、おそらく女たちが熱心なのだろう。
女が祀り上げる女は、男が祀り上げるそれよりもずっと抽象的なのだ。
日本列島の天皇は、そういう抽象的な女性性を持っている。ここではそれをひとまず「お姉さんという存在」といっているのだが、「お姉さん」ということなら、セックスをやらせてくれる対象として男も祀り上げることができる。
いずれにせよ「お姉さん」もまた、抽象的な女である。
非日常的な存在としての「お姉さん」。
この世ならぬ存在としての「お姉さん」。
弥生時代奈良盆地の人々が祀り上げていった天皇の起源となったカリスマは、おそらく女だったはずである。
それは、抽象的な女だった。<・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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