都市の起源(その二十九)・ネアンデルタール人論180

その二十九・農業都市の起源

都市とは、たくさんの人が集まってきている場所のこと。そんな場所が住みやすいかといえば、基本的には住みにくいに決まっている。いろいろ鬱陶しいことや困ることがついてまわる。現在の都市は金さえあれば快適に暮らせる場所だろうが、遠い昔の起源の時代にそんな環境があったはずもない。それでも人類は、そんな住みにくさを厭わずに、無際限に集団を膨らませていった。まるで住みにくさそれ自体が住み着いてゆく理由だといわんばかりに。とにかく、そうやって地球の隅々まで拡散していったのだ。
人類は、住みにくさを厭わないというか、住みにくさを契機にして心が華やいでゆき、さまざまな文化のイノベーションを生み出してきた。
多くの生きものにとって群れが限度を超えて密集してしまうことは、そのまま生存の危機を意味する。食糧が足りなくなることはもちろん、猿の群れでも、密集しすぎれば、その鬱陶しさでヒステリー状態に陥る。だから彼らは、余分な個体は群れから追い出して増えすぎないように調節している。
まあ、ボスが君臨統率できる限度というものがあるし、増えすぎればボスの座の争いが頻繁になって、たえずボスの交代が起きてきたりもする。
人類が猿としての限度を超えて集団を膨らませてくることができたのは、その「生きられなさ」それ自体を生きようとするメンタリティを持っていたからで、それこそが直立二足歩行の起源の体験だった。それは、誰もが「生きられない弱いもの」になる体験だったのであり、そこかから心が華やぎ、誰もが他者にときめき他者を生かそうとする「連携」の関係が生まれてきた。
人間的な「連携」は、強いものが弱いものを助けてやることではなく、弱いものどうしが「もう死んでもいい」という勢いで相手生かそうとしてゆくことにある。そうやって人類は、「生きられなさ」それ自体を生きる歴史を歩んできた。人類にとって「生きられなさを生きる」ことは心が華やいでゆく体験であり、二本の足で立ち上がることによってそういう心の動きをする存在になっていった。このことが、人類の知能を進化発展させてきた。
まあ、「生きられなさを生きる」存在だからこそ、生き延びることが価値であるかのような観念も生まれてくる。しかし、生き延びることができるにせよできないにせよ、生き延びることに価値を置いてその「幸せ」というようなものに執着・耽溺してゆくことは、心が華やいでゆくことすなわち人間的な知性や感性の停滞・衰弱をもたらす事態にもなる。


人類は、生き延びるために大きな集団をつくっていったのではない。もう死んでもいいという勢いでそこに飛び込んでゆくことによって心が華やぎ、そうした集団のお祭り騒ぎを生み出していった。そこから知性や感性とともに人間的な「連携」の関係も進化発展してきた。
人類は、人がどこからともなく集まってくるお祭り騒ぎを無限に繰り返しながら、地球の隅々まで拡散してゆき、やがて「都市」が生まれてきた。
拡散してゆくことはより住みにくい土地に住み着いてゆくことだったのであり、「生きられなさを生きる」生態が進化発展してゆく歴史でもあった。際限なく人口が膨らんだ人類史の「都市」は、そういう生態の上に生まれてきた。
氷河期明けの1万年前ころに生まれた人類最初の都市が、住みやすいところであったはずがない。それは拡散の通り道であるエジプト・メソポタミア地方から生まれてきたのだが、それだって人類が北の果てまで拡散していったことによって獲得した「生きられない弱いものを生きさせる文化」の上に実現していったことに違いない。
数万年前以前の原始時代において、その文化生態は、拡散の果てに氷河期の北ヨーロッパにたどり着き住み着いていたネアンデルタール人がもっとも豊かにそなえていた。そしてそれは、やがて世界中に伝播していった。人類の文化生態と遺伝子は、いずれは世界中に伝播してゆく。人は、そういう生きものなのだ。「拡散」の生態はもう本能のようなものであり、すべての集落が周囲の集落と血や文化の交換をしており、命のはたらきを活性化させる遺伝子や普遍性を持った文化は、必ず広がってゆく。
人が旅をしたのではなく、遺伝子や文化が集落から集落へと手渡されながら旅をしていったのだ。
そうして氷河期明けは人類の定住生活が本格化してきた時代だったのであり、移動の距離はさらに短くなっていた。ただ、定住生活の停滞に倦んだ人々が近在からあるひとつの場所に集まってくるということはとうぜん起きてくるわけで、そこで繰り広げられる「祭りの賑わいに引き寄せられてさらに人が集まってきて、やがてその周辺がさらに人口過密な新たな定住場所になってゆく。そうやって「都市」が生まれてきた。


「都市」は、「祭りの場」として生まれてきた。そこで農業をするために人が集まってきたのではない。人が集まってきた「結果」として農業をいとなむようになっていったのだ。
豊作を祈願して祭りが生まれてきたのではない。「祭りの場」を大切に維持してゆくためにというか、そこから離れたくなくてその周辺に住み着き農業をするようになっていっただけのこと。「祭りの場」が人々を定住させ、農業を覚えさせていった。
定住すれば、人の心は、季節や植物の生成の循環と親密に向き合うようになってゆく。そうやって農業が生まれてきた。それによってたくさんの人々の食料をまかなうことができたとしても、それが「目的」だったのではない。
農業をするために人をたくさん集めるなどということは、農業が本格化してきた時代の話であって、農業が生まれる前から農業を知っていたなどということは、論理的に成り立たない。
起源としての農業は、たんなる「遊び」だった。そしてそれがエスカレートしてみんなで土を耕し種をまいて水をやりみんなで収穫するようになってきたときはもう、それ自体がひとつの「祭り」だったのであり、その一連の作業の中でさまざまな「連携」の「ときめき」が体験されていった。それは、「祭りの賑わい」だったのであって、生き延びるために農業をはじめたなどということは論理的に成り立たないのだ。「結果」としてみんなの食料をまかなうことができるようになっただけのことで、それを「目的」にしたのではない。
たとえば、日本列島の稲作など、起源のころは、苦労のわりに収穫量が不安定だったり、とてもそれだけでみんなの食料を常時まかなえるというようなものではなかった。日本人が米を一年中食えるようになったのはつい最近のことで、昔は稗とか粟とかも食っていたし、古代以前においては、権力者はともかく民衆にとっては、あくまで「祭り」のときだけの食い物だったのだ。それでもみんな、米作りに夢中になっていった。「生き延びる」ためだったのではない。そこに「もう死んでもいい」という勢いの「連携のときめき」や「祭りの賑わい」があったからだ。
人類の農業は「遊び=祭り」としてはじまったのであって、一般的にいわれているような「生き延びるための食糧戦略」などという「目的」があったのではない。たまたまそういう「結果」をもたらした、というだけのこと。
農業をするために人が集まってきたのではない、人が集まってきたことの「結果」として農業を覚えていっただけのこと。みんなで農業をすることには「祭りの賑わい」があったわけで、そこにこそ農業の起源の契機があった。
人は根源において、生き延びようとする「目的=欲望」があって生きているのではない。「世界の輝き」にときめきながら生きているだけのことで、ときめきを失えば、心のはたらきも命のはたらきも衰弱してゆく。
われわれが歴史について考えるとき、「結果」でしかないことを「目的」であったかのように決めつけてしまう過ちを少なからず犯してしまっているのではないだろうか。「そんなの変だよ」「違うだろう」といいたいことがいっぱいある。
まあこのブログは、そういう異議申し立ての場として書いているわけで、書いても書いてもきりがない。