死に対する親密な感慨・ネアンデルタール人論239

べつにセックスが生きる上でのいちばん大事なことだというわけでもなかろうが、人間性の基礎は、フリーセックスの関係性の上に成り立っているのではないだろうか。
原初の人類の集団は、一年中発情しながらフリーセックスの関係になってゆくことによって、猿から分かたれた。人類が拡散してゆく先には、つねにフリーセックスがあった。そういう「祭りの賑わい」があった。そうやって歌や踊りが生まれてきたのだし、そのときめき(感動)や好奇心がもとになって学問や芸術が生まれてきた。
人はときめき感動する生きもので、その体験がなければ生きられないし、その体験を持たない生が豊かであるはずもない。
もちろん衣食住がこの生を支えているということも確かだが、あり余るほど持っていなければ生きられないというわけでもないし、あり余るほど持っているからえらいというわけでも本質的な生のかたちだというわけでもないだろう。人間にとって衣食住はこの生の前提であって、目的ではない。心はそこから生きはじめるのであって、そこに向かって動いてゆくのではない。なるほどそれを目的にすれば上手に生きられるだろうが、人間は猿ではないのだから、そこまで単純には割り切れない。猿だって、それだけですんでいるのかどうかはわからない。
チンパンジーは、コロブスという小さな猿をつかまえてみんなで食べるということをする。それは彼らの常食ではないし、飢えているからからでもない。その肉が彼らにとって美味いかどうかということなどわからない。美味ければ、そればかり食うようなってゆくはずだ。彼らにとってそれは、生きるための衣食住を超えた「お祭り」であり、彼らだってときどきそんなことをしていないと生きられない。
人は、猿よりももっと「お祭り」が好きだし、そういうときめき感動する体験がないと生きられない。衣食住のことなんか忘れてときめき感動していってしまう心の動きを猿よりももっと豊かにというかダイナミックに持っている。つまり、衣食住が目的ではなく、衣食住を前提にして生きはじめてしまうところにこそ、人の心のややこしさと豊かさがある。
人間にとって生きることなんか、ただのお祭りなのだ。お祭り気分でいないと生きられない。セックスだろうと学問や芸術だろうと、「お祭り」なのだ。
お祭り気分で生きてなぜ悪い?人間だからこそ、そういう気分で生きてしまう。「もう死んでもいい」という勢いで、ときめき感動してしまうのだ。学問だろうと芸術だろうとスポーツだろうと、生き延びることが目的でやっているかぎり、「もう死んでもいい」という勢いで熱中してゆくことができるものにはけっきょくかなわないのだ。
セックスとは、「もう死んでもいい」という勢いですること。そのようにして原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって「この生=日常」と決別して「非日常」の世界の超出してゆく体験に目覚め、その勢いで地球の隅々まで拡散していった。
人類拡散は、そのつど新しい「祭りの賑わい」というフリーセックスの場が生まれてくる現象だった。人類の歴史はフリーセックスの歴史だった、ともいえる。そうやって人間性というか、人間的な知性や感性が進化発展してきた。
原初の人類は、フリーセックスの場を生み出したことによって猿から分かたれた。
人間性および人と人の関係の基礎は、フリーセックスにある。セックスすることが大事だというのではない。人の心は、そういう「もう死んでもいい」という勢いでときめき感動してゆくことができる、ということ。学問や芸術に熱中してゆけばセックスどころではないかもしれないが、それでもそこには、人類がフリーセックスの歴史を歩んできたというということが基礎としてはたらいている。

原始人にとって衣食住はこの生の前提であって、目的ではなかった。だからそれは、最低限でよかった。最低限でもかまわなかった。そうやって、どんな住みにくいところでもかまわず、地球の隅々まで拡散していった。
人は、衣食住を目的に生きるのではなく、衣食住を前提にして生きはじめる存在であり、心はそこから「衣食住=この生」の外の「非日常」の世界に超出してゆき、ときめき感動するという体験をしている。
ネアンデルタール人が人類拡散の果てに氷河期の北ヨーロッパにたどり着いたことが、衣食住を目的にしていたはずがない。そこは、地球上のどこよりも衣食住がままならない環境だった。それでも、そこには、どこよりも豊かな人と人がときめき合い祝福し合う「フリーセックス=祭りの賑わい」の場が生まれていた。そうやって彼らは、その苛酷な環境の地に住み着いていった。
ヨーロッパの文化は、フリーセックスの文化だ。彼らは、街ですれ違うだけの相手にも微笑みを投げかける。まあこの国にだって、「袖すり合うも多生の縁」という諺がある。そしてこの国の女たちはどこよりも貞操観念が薄いらしく、古代以前は不倫なんかあたりまえの社会だった。この国では、多くのことを「見て見ぬふりをする」という作法の文化で歴史を歩んできた。女房が不倫しようとするまいと、自分とセックスすることに夢中になってくれるのならそれ以上は問わない……そういう気分は、今どきの男たちの中にもある。女房の不倫が許せないとか耐えられないというのは、江戸時代の儒教道徳や明治以来の近代合理主義の洗礼を受けてからふくらんできた心模様にすぎない。不倫は許さないという文化は、われわれが自前で生み出したものではない。ヨーロッパだって中世以前は不倫を赦す文化はあったが、彼らの場合、不倫をした女房は殺してもよいというイスラム文化の地と隣り合っており、その地から生まれたキリスト教で歴史を歩んできたといういきさつがある。だから男も女も、日本人以上に不倫に対する耐えがたさがあり、不倫をすれば殺さないが別れるとか、女がすごいヒステリーを起こすというような習俗にもなっている。もっともこの国にだって、不倫をした亭主を呪い殺すというような話もないわけでもないのだが、いずれにせよそれはあくまで「病理現象」であって、「人間性の自然」だとか「女の本質」だと認識されていたわけではない。
まあ不倫は家族制度の上に成り立っている関係性であるわけで、ネアンデルタール人の社会に「家族」などなかったのだから、不倫もくそもない。誰もが誰とでもセックスをしたし、まあ抱き合って寝ないと凍え死んでしまう環境だったし、人類はフリーセックスの生態文化をもっていたからそういう苛酷な地まで拡散してゆくことができたともいえる。
二人とも裸になって抱き合い、一緒に大型草食獣の毛皮にくるまってゆく。そんなふうにして毎晩寝床についていれば、どのような関係性になればもっとも豊かに性衝動が起きてくるかということは自然にわかってくるし、彼らは明日も生きてある保証のない環境で生きていたのだから、「もう死んでもいい」という心地になれるセックスは大切ないとなみだった。目覚めたら誰かが死んでいた、ということは日常茶飯事だったのだ。
人類がフリーセックスの関係性の歴史を歩んできたということは、死に対する親密な感慨とともに歴史を歩んできた、ということでもある。そうやって、どんな住みにくさもいとわず地球の隅々まで拡散していったのだ。人間性の基礎は、死に対する親密な感慨の上に成り立っている。まあ、原初の人類は二本の足で立ち上がってその感慨に目覚めたのであり、その感慨を携えて豊かにときめき合う関係性になっていったのだし、その感慨の果てに学問や芸術を生み出していった。

人は、死と生のはざまのぎりぎりのところに立って生きている。そこでこそ心や命のはたらきが活性化する、というパラドックスの上に人間性が成り立っている。
人は、「もう死んでもいい」という勢いでときめき感動してゆく。人類の歴史はけっきょくそういう勢いで動いてきたわけで、「生き延びる」ためのいとなみだったのではない。たとえ共同体の制度が「生き延びる」ためのものであっても、もう一方で、そうした「もう死んでもいい」勢いでときめいてゆく集団性や他者との関係性や個人としての意識がはたらいている。おそらく歴史には、人々の「無意識」によるそのような「見えない力」がはたらいている。たとえ現在の世界が、「生き延びる」ということを旗印にして、やれグローバリゼーションだ、国家・民族主義だと愚かな空騒ぎを繰り返しながらかえって滅亡への道を突き進んでいるように見えるとしても、きっとどこかに軟着陸してゆくのだろう。「もう死んでもいい」という勢いで「世界の輝き」にときめいてゆけば、それらのことはけっきょくのところどうでもいい。というか、「どうでもいい」というかたちで、どちらもおさまるところにおさまってゆくのではないだろうか。人類の文化が世界中に伝播・拡散してゆくこと(グローバリズム)も、地域ごとに言葉や生活が違ったりすること(国家・民族主義)も、それはそれで人間性の自然なのだ。人類は、「もう死んでもいい」という勢いで地球の隅々まで拡散し、「もう死んでもいい」という勢いでそれぞれの地に住み着いていった。
原始時代はもちろんのこと、現代においても、歴史の流れは、「生き延びるため」という下部構造決定論だけでは説明がつかない。