しょうもない人間でなぜ悪い?ネアンデルタール人論240

われわれを生かしているのはこの世界の輝きにときめき感動する体験であって、自分が存在することの正当性や貴重であることの実感なんかではない。自分なんかしょうもない存在だし、生きてある権利や資格があるとも思えない。そんなことはたぶん、他人から与えられるのであって、自覚できることではない。そりゃあ僕だって、他者は生きていてほしいと願っている。しかし自分に関しては、生きてあることの疚しさといたたまれなさがどうしようもなく付きまとっている。まあ、それでも生きようとしてしまうのだから、因果なことだ。命のはたらきが、そういう仕組みになっている。生きてあることなんかほんとに後ろめたいことなのだけど、命のはたらきが自分を生かしている。生きようとしてしまう。
太宰治ではないが、生きていてすみません、というような気持ちは誰の中にもどこかしらで疼いているのではないだろうか。
しょうもない人間は、生きたいとも死にたいとも思わないまま生きている。思わないのに、気がついたら生きようとしてしまっている。そうやって、この生に閉じ込められている。
生きたいと思うほど、自分のこの生は素晴らしいものでもなんでもない。ひどいものだなあ、と思うばかりだ。それでも世界は輝いているし、心はときめいてしまう。世界の輝きがわれわれを生かしている。
人に好かれたいか、と自分に問うてみるが、よくわからない。そんなふうに自分をつくろうとするなんて、あさましいことだ。もともと人は人を好きになるようにできているわけで、そういう人の世の仕組みの中でわれわれは生きている。つまり人として自然なことは、自分が誰かを好きになることであって、好かれようとすることではない。
好かれているらしい、とわかったからといって、自分がしょうもない人間だという思いが消えるわけではなく、かえって居心地が悪くなってしまったりもする。であれば、好かれようという望みも「好かれている」という自覚もないまま「好かれている」状態こそ、いちばん心地よいのかもしれない。そのときの自分に向ける他者の笑顔は輝いている。ネアンデルタール人の社会のように誰もがあたりまえのように他者にときめいているのなら、ときめかれたいという望みも、ときめかれているという自覚も持つ必要がなかろう。そうして誰の笑顔も、豊かなときめきをたたえて輝いている。
まあ現代社会でそんな集団が生まれてくることはありえない。そんな集団になるためには、現代人は自意識が強すぎる。たとえば、宗教者の集団はみんな笑顔でときめき合っているではないかといっても、ときめかれようとする自意識がうごめき合っているだけで、じつは誰もときめいてなんかいない。笑顔を見せびらかし合っているだけのことで、誰もが、自分はときめかれるに値する存在だとうぬぼれている。そうやって「自尊感情」を膨らませることが、彼らの「法悦」というものらしい。
「自己救済」という目的と決別し、自分なんかしょうもない存在だと思っていなければ、他者の輝きを感じることはできない。現代社会の大人たちには、そういう「自分を忘れてしまう」契機がない。
ネアンデルタール人は、自分を救済しようとなんかしなかった。ただもう「自分を忘れて」ときめいていっただけであり、自分=身体のことを忘れてしまわなければ、その極寒の環境を生きることができなかった。そういう「イノセント」は、現代社会の大人たちにはない。
自分は救われてあるとか、幸せであるとか、そう自覚するぶんだけ人は、「世界の輝き」に対するときめきを喪失している。ときめくとは、「自分=この身体=この生」に張り付いた意識が「自分=この身体=この生」の外に向かって引きはがされる体験なのだ。
人は、この生のいたたまれなさを支払って「世界の輝き」にときめいてゆく。氷河期の北ヨーロッパという原始人にとっては苛酷この上ない極寒の環境に置かれたネアンデルタール人以上にイノセントなときめきを共有している人類集団などない。

共同体の制度の上に成り立った「文明」というのは恐ろしい。「文明」とは生き延びるための装置であり、そうやって人間からイノセントなときめきを奪ってしまう。
しかしそれでも人は「ときめく」という体験がなければ生きられないのであり、われわれ現代人は、文明によってもたらされる生き延びようとする欲望と、「もう死んでもいい」という勢いで世界の輝きにときめいてゆく原始的な衝動との兼ね合いで生きている。
絵や音楽や映画などに感動して鳥肌が立ったり泣けてきたりすることはいわば原始的な体験で、それはべつに「原始時代に戻れ」というようなことではなく、現代人の中にだって原始的な心の動きは残っているということだ。
感動することは、自己の存在の根拠が確かになるというような体験ではなく、存在の根拠が揺さぶられ崩壊するという「存在の危機」として体験されている。だから鳥肌が立ったり涙が出るというような身体現象が起きる。つまり、自己=身体が「生きられなさ」のさなかに投げ入れられる体験なのだ。そして人は、そういう体験がないと生きられないのだ。
心も命のはたらきも、「生きられなさ」の中でこそ活性化する。
人類の文化は、生き延びるための装置として進化発展してきたのではない。
人は、ときめき感動する体験がないと生きられない。人は「もう死んでもいい」という勢いで生きている。この生のはたらきは、そうやって活性化してゆく。

この生の「嘆き」を支払っている人ほどイノセントで豊かなときめきを生きている。男の僕からすると、女とはそういう存在かな、という思いがどうしてもある。男の「嘆き」なんか、たかが知れている。女ほど根源的ではない。女は、存在そのものにおいて深い「嘆き」を抱えている。
まあ今どきは、あまりにも俗っぽく自意識過剰でうんざりさせられるような女も少なからずいるのだが、「女の中の聖性と俗性」ということだろうか、女は、その存在論的な「嘆き」の深さゆえに、男よりもずっと、自分を守ろうとすることと自分を投げ出そうとすることとの振幅が大きい。だから俗っぽい女もたくさんいるわけだが、そんな女に「聖性」を見て惚れてしまう男だっている。
男はどうして女に惚れるのかという問題は難しすぎてよくわからないが、社会的な存在であるほかない男の心の中には女のほうが根源的な存在だという負い目のような感慨が潜んでいることももひとつにはあるのかもしれない。
女の「聖性」というか「非日常性」というか……そのひたむきさであれ、アンニュイな気配であれ、清潔さであれ、はかなさであれ、女神のようなカリスマ性であれ、女の「品性」というのは、何かしらの「遠い感じ」にあるのだろうか。この社会に居座っているような俗っぽい女は、あまり魅力的じゃない。
人は、根源的であろうとすると、生きにくくなる。そりゃあ、社会的文明的になる方がずっと生きやすい。それでもその「生きにくさ」に対する「遠い憧れ」があって、けっきょく「感動する話」とは「泣ける話」だったりするし、冒険活劇だって、ひとつの「生きにくさを生きる」話にほかならない。
人は、生きにくさを生きながら世界の輝きにときめいてゆく。
われわれは、生き延びるためのシステムが整った文明社会にありながら、それでも「生きにくさを生きる」ことに対してときめき感動してしまう。どんなに社会的に成功しようと、平和で豊かな社会で安穏に暮らしていようと、誰もがそのことに対する何かしらの負い目のようなものを抱えて生きている。
原始人だろうと現代人だろうと、つまるところときめき感動する体験が人を生かしているのであって、生き延びるための衣食住のことが第一義的な問題ではない。平和で豊かな社会を生きる文明人は、衣食住に執着し耽溺しながら、心のはたらきも命のはたらきも停滞・衰弱させている。ときめき感動する体験がないと、それは活性化しない。なんのかのといっても、誰だってそういう体験を欲しがっているし、そういう体験は「生きにくさを生きる」もののもとにある。
人は根源において「生きにくさを生きる」存在であり、衣食住が満たされた「幸せ」の中に置かれると、なんだか落ち着かなくなってきたりする。その落ち着かなさが歴史や時代を動かしたりもするわけで、人の世は、「平和で豊かな社会をつくろう」というスローガン通りに動いてゆくとはかぎらない。
どれほど社会的に成功した存在だろうと、誰にだってじつは、そうした「生きにくさを生きる」ものに対する何かしらの負い目が疼いている。
「生きにくさを生きる」ものこそ、この世のもっとも魅力的な存在なのだ。赤ん坊などはまさにそうした存在で、だから人は障害者や死にそうな病人や老人の介護もするのだし、「生きにくさを生きる」ことに対する感動が人を生かしているともいえる。
人がときめき感動する体験を生きる存在であるということは、誰もが「生きにくさを生きる」ことに対する負い目を抱えている、ということをを意味する。つまり、平和で豊かな社会であろうとそのことに対する「負い目」を抱えて動いているわけで、この世の動きは「平和で豊かな社会の実現を目指す」というだけではすまないのであり、極端にいえば、「もう死んでもいい」という勢いすなわち「人類は滅びてもかまわない」という感慨もどこかで作用しながら動いていっているのではないだろうか。そういう「平和で豊かな社会を目指す」という「観念」のはたらきと、「人類は滅びてもかまわない」という「無意識」のはたらきとの兼ね合いで人の世が動いてゆくのではないだろうか。
人は、「もう死んでもいい」という勢いでセックスをしたり、学問や芸術をしたり、遊び呆けたりしている生きものなわけで、「平和で豊かな社会を目指す」というスローガンだけではすまない。
まあね、そういうスローガンを正義ぶって振りかざされると、うんざりしてしまうのですよ。そういう集団があらわれても、その一方で「そんなことは、おら知らん」という層も必ずいるわけで、誰の中にもそういう感慨は息づいているのではないだろうか。