セックスアピール(その十一)ネアンデルタール人論151

「セックスアピール」を感じることは「ときめく」こと。
「セックスがしたい」という欲望だけでペニスが勃起するかといえば、そうはいかない。
多くのインポテンツの男が、ひといちばいの「セックスをしたい」という欲望をたぎらせている。
ペニスを勃起させるのは、そのような「欲望」ではなく、セックスアピールを感じる「ときめき」なのだ。人間的な「ときめき」なのだ。
原初の人類は、「セックスがしたい」という欲望とともに一年中発情している猿のなっていったのではない。セックスアピールを感じる「ときめき」が豊かになっていった結果として、一年中発情している存在になっていったのだ。
女だって、セックスアピールを感じてときめいた結果として「やらせてあげてもいい」という気分になりながら性器が潤ってゆく。ただ「やりたい」という欲望だけでは潤わない。ときめいていなければ潤わない。「やりたい」という欲望なんかなくても、ときめいていれば「やらせてあげてもいい」という気になってゆく。
現代社会の「やりたい」という欲望は、「ときめき」から生まれてくるというより、自分の男(女)としての意味や価値を確認したいというような、自意識によるいわば社会的観念的な欲望である場合が多い。そういう「充足」ばかりに執着・耽溺する生き方をしていれば、そりゃあときめかなくなってゆく。インポテンツにもなる。
女の体を抱きしめることは、「自分=身体」に対する意識が引きはがされて女の体の感触ばかり感じてゆくことであり、「自分=身体」の充足に執着・耽溺しているぶんだけ「ときめき」は薄くなる。彼は、「自分=身体」の充足のためにひといちばい「セックスがしたい」と欲望しているのに。しかしだからこそ勃起できない。
まあ、「自分=身体」の充足のためだなんて、動機が不純なのだ。そうしていまどきの「スピリチュアル」のブームに踊らされて「生まれ変わり」を信じるのだとすれば、二重に「自分=身体=この生」に執着・耽溺しているわけで、二重に勃起できない原因を抱えていることになる。
ついでにいえば、今どき流行りの「生まれ変わり」を信じる観念が、どうして原始人の信仰のかたちだったといえるのか。原始人=ネアンデルタール人は、そんな病理的な観念で「埋葬」をはじめたのではない。この生を過去から未来に延びる永遠のものとして信じたいという現代社会の病理的な観念のはたらきを、どうして原始人も持っていたと決めつけることができるのか。
ときめいているからセックスがしたくなるのであって、セックスがしたいという欲望だけではときめきは起きてこない。その欲望は、自分を充実させたいというたんなる自意識にすぎない場合が多い。
だから現代社会の男たちは、美女だとか日常生活の外で出会う相手を欲しがる。そういう相手なら、「自分=身体」に対する意識が引きはがされてスムーズに勃起してゆくことができる。美女だっていわば非日常的な存在であり、男のペニスは、「自分=身体」の外の「非日常」の世界に超出しながら勃起している。
セックスは、「この生」すなわち「自分=身体=日常」を充実させるためにするのではない。「もう死んでもいい」という勢いでこの生の外の「非日常」の世界に超出してゆくいとなみであり、したがってこの生に執着・耽溺しているものよりも、この生のいたたまれなさの中に身を置いている「弱いもの」のほうが豊かにその醍醐味を体験している。豊かにスムーズに勃起してゆく。
猿と同じような外見をしていたころの原始人の社会にはとうぜん「美女」という存在などなかったが、それでも一年中発情していたのであり、彼らは、女であるというそのことにセックスアピールを感じていた。女の体を抱きしめることそれ自体に豊かな「ときめき」があり、それだけでスムーズに勃起していった。
現代社会においても、生きてあることのいたたまれなさの中に身を置いているものは、そういう体験をしている。
まあ、どんな美女と結婚しようと、結婚してしまえば相手はただの「女」でしかなくなってしまうのであり、いいかえれば「ああ女とはそういう生きものであるのか」と思い知らされるのが結婚だともいえる。女であるというそのことに対するときめきがなければ、夫婦のセックスなんか成り立たない。
何がセックスアピールかという問題は、セックスアピールを感じてときめいてゆく人間的な知性や感性を持っているかという問題でもある。美女のセックスアピールを称揚することと、女であるというそのことにセックスアピールを感じてゆくことと、どちらが本格的な知性や感性であるといえるのか。
正義や生き延びる能力にセックスアピールが宿っているのではない。そのセックスアピールとしての「神性」は、この世のもっとも弱いものやもっとも愚かなもののもとに宿っている。


現代人は、自分のセックスアピールを追求しつつ、他者のセックスアピールすなわちこの世界の輝きにときめいてゆく知性や感性を停滞・衰弱させている。停滞・衰弱しているから、美人コンテストがさかんになる。しかしこの世の美女は、この世の生きられない愚かで弱いものと同様、生き延びようとする欲望を持っていない。すでに美女であるがゆえに、美女になろうとする努力なんかしていない。すでにちやほやされているから、ちやほやされる状況から隠れようとしている。そうやって「生きられないこの世のもっとも弱く愚かなもの」たちと同様、「今ここ」を生きている。彼女らの心は、「今ここ」の「非日常」の世界に超出してゆく。
美女は、いつまでも続くはずがない美貌を持ってしまっているがゆえに、「今ここ」を生きることを余儀なくされている。彼女らの滅んでゆくほかないものを持たされていることのかなしみは、今どきの美女になろうとせっせと努力している女たちにはわからない。
美人の基準は、時代によって変わってゆく。それはきっと、時代の気分が変わってゆくからで、現在は「かわいい!」とときめく体験が「非日常」の世界に超出してゆくカタルシス(浄化作用)になっている時代だから、そういう気配の存在が美人としてもてはやされるのだろう。戦後の歴史でいえば、60年代の吉永小百合の登場のころが分水嶺になっているのだろうか。それまでは原節子のような華やかな気配が人々の憧れだったが、街の景色がだんだん華やかになってきて人々の暮らしもしだいに豊かになってそれが「日常」になってくると、「かわいい!」というときめきが「非日常」の世界への超出の体験になってくる。
人の心は、「日常」の裂け目の向こうにある「非日常」の世界に超出したがっている。まあ、そうやって時代が変わってゆく。
美人コンテストは、美女が持っている「非日常性」にたいする憧れであり、「非日常」の世界の超出してゆく「ときめき」がなければ、人は生きられない。
現代人は「自分=身体=この生=日常」に執着・耽溺しつつ、「非日常」の世界に超出してゆく「ときめき」を欲しがっている。その二律背反を克服するために美人コンテストがさかんになり、大人たちはインポテンツになってもまだセックスをしたがっている。彼らは、ひといちばいセックスに対する欲望をたぎらせながら、インポテンツに陥っている。
セックスがしたくてたまらないというのは自閉症的なたんなる自意識過剰である場合も多く、目の前に女がいれば自然にときめき勃起してしてしまうのが人間性の自然でもある。他者の身体は「自分=身体=この生=日常」の外の「非日常」の世界であり、人は他者の身体が存在することに対するどうしようもない懐かしさと遠い憧れを持っている。
色っぽい表情とかしぐさなどというが、それはきっと非日常的な気配のことをいうのだろう。たとえば「はにかむ」とか「けだるい(アンニュイ)」というような色っぽさは、せんじつめれば「生きにくさ=生きられなさ」を生きている気配であり、この生からはぐれて「非日常」の世界に立っている気配のことだ。
日常的というか、常識的というか、所帯じみているというか、「自分=この生」に執着・耽溺している気配というのは、あまり色っぽくない。
人の心は、避けがたくこの生からはぐれてゆく動きを持っている。そうやってときめいているのだし、他者のそんな気配に引き寄せられてしまう。
この生に執着・耽溺している気配よりも、この生からはぐれている気配のほうがずっと色っぽい。
この生に意味も価値もないのだ。意味も価値もないからこそ、人は豊かにときめくことができるのだ。誰だって心の底では、意味も価値もないことを知っている。
現代人の観念はこの生の意味や価値に執着・耽溺しているが、この生の意味や価値にときめいているわけではない。意味や価値で勃起できるわけではない。意味や価値に執着・耽溺しつつ「生まれ変わり」を信じていったりしているのだが、しかし人は、そうした現代的な「意味や価値に対する信仰」からはぐれていったところでときめき勃起しているのであり、それは、原始的な心性としての、他者の身体そのものに対に対するどうしようもない懐かしさや遠い憧れが呼び覚まされる体験なのだ。