隠されてあるもの・ネアンデルタール人論138

死は、この生の向こうに隠されてある。
そして生きた心地としてのこの生のカタルシス(浄化作用)もまた、この生の向こうの「非日常」の世界に隠されてある。
人間的な知性や感性とは、隠されてあるものに気づくこと。知性や感性とは「気づく」ことであって、「知っている」ことではない。
多くの哲学者は意識のはたらきの「志向性」などというのだが、意識はこの世界の存在を前提にしてはたらいているのではなく、世界の出現に「気づく」のだ。意識にとっての世界は瞬間瞬間「出現」し続けているのであり、瞬間瞬間それに気づき続けているのだ。意識のはたらきの「志向性」などというものは存在しないし、世界の存在を前提にしているのなら、「ときめく」ということも起きない。したがって意識の根源のはたらきにおいては、「未来」という時間も存在しない。そのつどそのつど新しい世界の出現に驚きめいているだけだ。
その「驚きときめく」という心の動きが、この生のカタルシス(浄化作用)になっている。
われわれは、何も知らない。その無知であることが、この生にカタルシス(浄化作用)をもたらす。
人間のことをよく知っているつもりの「人間通」には、人間に対する「ときめき」はない。彼らは、この世に人間が存在することを前提にした「知識」によって他者の姿や人格の意味や価値を計量し裁いているだけで、他者が目の前に存在するということ自体に対する「ときめき」はない。
しかし人は、その人間性の自然において他者が存在すること自体に対する「ときめき」を持っているのであり、その体験においては他者の姿や人格の意味や価値などどうでもよい。
妙な心理学に精通して「人間通」になんかならないほうがいい。他者の心理を吟味し裁く能力よりも、他者の存在そのものにときめいてゆくことができる無知な心のほうに、ずっと高度な知性や感性が宿っている。
心が豊かにときめいているとき、「自分」を忘れている。つまりそのとき、意味や価値を吟味し裁くための「知識」が消えて、生まれたばかりの赤ん坊のような心になっている、ということだ。
人間性の基礎は、そういうまっさらな心で「気づいてゆく」ことにある。ほんとうは誰だってそういう心の動きを無意識(超越論的主観性)のところに持っているのだけれど、現代社会の構造に踊らされながら、妙な「人間通」になってゆく。「人間通」になることがこの社会で生き延びる知恵なのだろうが、それでも人と人は、どこかしらで「存在そのものにときめく」という体験をしている。仲のいい親子は、相手の存在そのものにときめき合っているという部分を持っている。相手の姿かたちや人格を問う以前に、存在そのものにときめいているのだ。誰の中にも、他者の存在そのものにときめいてゆく心の動きがある。それが人間性の基礎であり、おそらく原始人の心の中心的なはたらきだった。そこのところを考えないと、ネアンデルタール人縄文人の心模様に遡行してゆくことはできない。


ネアンデルタール人の社会に「美男美女」という基準というか価値意識があったかといえば、おそらくほとんどなかったにちがいない。あれば、「フリーセックス」という関係は成り立たない。セックスの機会は美男美女ばかりに集まってしまうし、美男美女である相手を独占しようとする動きも生まれてくる。
現在は美人コンテストが全盛の時代だが、それほどに「存在そのものにときめく」という心の動きが希薄で、誰もが他者の姿かたちや人格の意味や価値を吟味し裁くということばかりしているし、自分の姿かたちや人格に対する執着も強いのだろう。それほどに人と人の関係が近くなっている。近すぎるから、他者の姿や人格を吟味し裁くことばかりしたがる。
「存在そのものにときめく」ということは、密着した関係において起きるのではない。「遠い憧れ」とともに向き合っているからだ。吟味し裁くことが不可能な「隔たり」を超えてときめいてゆく。現代社会は、そういう原始性を失っており、それはつまり人間的な知性や感性が停滞・衰弱しているということでもある。日本やアメリカのような平和で豊かな社会では、「日常=生活」に執着し耽溺することばかりして、「非日常=祭り」の世界に超出してゆくという「ときめき」が体験しにくくなっている。
美人コンテストは、祭りのようで、祭りではない。いじましく「生活=この生」に執着し耽溺しているものたちの疑似的な祭りだ、ということだろうか。それほどに「死」が親密なものでなくなってしまっている。「もう死んでもいい」という勢いというか、カタルシス(浄化作用)がない。
祭りとは、そういう意味や価値を無化し、それを超えてときめき合ってゆく賑わいのことをいう。そこでは、乞食も貴族も金持ちも貧乏人も美人もブスもない。まあ現代でも、大観衆のスポーツやコンサートなどではそういう「祭り」の賑わいというか盛り上がりが生まれているのだが、美人コンテストはそれと同じとはいえない。「そこに現代人の美意識が反映されている」などといっても、意味や価値に執着する現代人のいじましさのあらわれでしかないのかもしれない。美意識にもいろいろあって、それほど高度な美意識だとも思えない。


では、ネアンデルタール人の社会に現代のような「美男美女」の尺度がなかったとすれば、彼らには「美意識」はなかったといえるのか?
まあ「美意識」なんてあいまいな概念で、そうかんたんには定義できないわけだが、「ときめく」というのは「美」に心を動かされている状態だともいえる。そういう意味でなら、ネアンデルタール人にも美意識はあったといえる。
彼らは、他者の姿かたちの意味や価値よりも、他者の存在そのものにときめいていた。
男は、美人が相手でなければときめくことができないわけでもないだろう。ブスを相手にときめいている男は、この世にいくらでもいる。男は、根源において、女が女であるというそのこと自体に対する驚きやときめきを持っている。ネアンデルタール人によるフリーセックスの社会は、そのことの上に成り立っていた。
人は、他者の身体に対するどうしようもない懐かしさを持っており、そうやって男と女は抱き合っている。
まあ、美人といっても、端正な顔立ちのわりにはなんだか下品でちっとも魅力的に見えない女もいれば、ごく普通の顔立ちでも心にしみるような美しい気配を持っている女もいる。その女の心模様のあやが「顔つき」にあらわれる。品性とか愛らしさとか色気とかというのは、「顔立ち」というより「顔つき」の問題なのだ。
おそらくネアンデルタール人の社会では誰もが他者の「顔つき」に敏感で、そういう意味での「美意識」は豊かに持っていたし、まあ誰もが魅力的な顔つきを持っていた。
愛されたいと願うことは卑しい。その卑しい願いが顔つきにあらわれる。そんな顔つきで女に寄っていってフラれる男や、愛されていると勝手に思い込んでいい気になっている男はたくさんいる。
しかしネアンデルタール人は、誰もがそんなことは忘れて、一方的に他者にときめいていった。その極寒の環境下では、意識を「自分=身体」から引きはがして世界に向けていなければ生きられなかった。愛されている自分を意識することなんか、彼らの生の支えにはならなかった。自分を意識することは、身体を痛めつける寒さを意識することでもあった。彼らは、ひたすら「自分=身体」を忘れようとして生きていた。だから、誰も「愛されたい」となんか願わなかった。そういう卑しい顔つきをした男なんかいなかった。誰もがそれなりに人間としての品性やセックスアピールを持っていた。そういう基礎の上にはじめてフリーセックスの社会が成り立つのであって、ただけものじみた乱痴気騒ぎを繰り返していたというのではない。けものには、フリーセックスの社会はつくれない。
ネアンデルタール人の男たちは、女をして「やらせてあげよう」という気にさせるセックスアピールを持っていたし、女たちだって、男が「やりたくてたまらなくなる」ような気配を誰もが漂わせていた。それは、「顔立ち」の問題ではない。心模様のあやがあらわれた「顔つき」の問題なのだ。


原初の言葉は、「感慨」の表出として生まれてきた。このことはこのブログで何度もいってきたことだが、思わず発した音声に「感慨」が宿っていることに気づいていったのが言葉の起源なのだ。そうやって原初の人類は言葉を生み出し、育てていった。
古代以前の言葉は、現代の言葉のような「意味の表出」一辺倒の機能ではなく、「感慨の表出」を中心にして成り立っていた。
原始人や古代人は、他者の感慨のあやにとても敏感だった。現代人よりもずっと敏感だった。敏感でなければ言葉は生み出せないし、育てられない。言葉は、時代をさかのぼればさかのぼるほど、「感慨の表出」の機能が豊かになってゆく。
つまりネアンデルタール人は、感慨のあやがあらわれた他者の「顔つき」にとても敏感だったし、誰もが豊かなニュアンスを持った「顔つき」をしていたということだ。その敏感さがネアンデルタール人の美意識だった、ともいえる。
ネアンデルタール人の社会に「美男美女」という概念はなかったが、彼らはとても豊かなニュアンスの表情やしぐさを持っており、それに対してときめき合っていた。ヨーロッパには、豊かな表情やボディランゲージの文化の伝統がある。彼らは、見せかけの姿かたちの美しさよりも、その「顔つき」や「しぐさ」の品性やセックスアピールにときめいてゆくことができたりする。
いや、人間なら誰だって、その「顔つき」や「しぐさ」に無意識のうちに反応し、ときめいたり幻滅したりしている。
ブスやブオトコでも、魅力的な人はいくらでもいる。外見じゃない、というのではない。その心模様の品性や愛らしさや色気は、ちゃんと「顔つき」や「しぐさ」にあらわれている。つまりその魅力は、「顔つき」や「しぐさ」の向こうに隠されてあり、人はその「隠されてあるもの」に気づくことができる。
原始人は、思わず発した「言葉=音声」に感慨のあやが隠されてあることに気づいていった。おそらくそこから人類の知性や感性が本格化してきた。隠されてあるものに気づくこと、それは、死に対する親密な感慨とともにある。ネアンデルタール人ほど死に対する親密な感慨を抱いていた人々もいない。彼らほど隠されてあるものに気づいてゆく心の動きを豊かにそなえていた人々もいない。そこにこそ人間的な知性や感性のはたらきがあるわけで、彼らが同時代のアフリカのホモ・サピエンスよりも知性や感性において劣っていたということはありえないし、「美男美女」が存在しない社会においてこそより高度な美意識がはたらいているといえなくもない。
人間なら誰だって「隠されてあるもの」を見ている。魅力的な人は「隠されてあるもの」を豊かにそなえており、それが「顔つき」や「しぐさ」ににじみ出る。「隠されてあるもの」は「出現するもの」でもある。そうやって「気づく」という心の動きが起きる。そうやって人類史は、「発見する」という体験とともに、言葉をはじめとするさまざまな文化のイノベーションを生み出してきた。
まあ現在は美男美女であることを見せびらかす時代であるのかもしれないが、それでも人は、他者の「顔つき」や「しぐさ」に「隠されてあるもの=にじみ出るもの」を見ている。べつにブスやブオトコであってもかまわないのだ。その人の魅力は「隠されてあるもの=にじみ出るもの」として存在しているのだし、人の心は、親密になればなるほどそこに気づいてゆくようにはたらいている。しかしそれは、平等というのではない。たとえ美男美女であっても、「隠されてあるもの=にじみ出るもの」を持っていないために、親密になったとたんに幻滅されるという場合も少なくない。美男美女でなければなおさらのこと。現代社会は、そうやって男と女の関係が不調になっているのかもしれない。誰もが美男美女であることを目指して努力しながら、どこかぎくしゃくしてしまっている。美男美女になったからといって、異性との関係が絶好調になるとはかぎらないし、そうやって努力することの卑しさというのもある。それはつまり、愛されたいと願うことの卑しさであり、ネアンデルタール人の社会にそんな卑しい願い(=自意識)は存在しなかった。
人は「隠されてあるもの=にじみ出るもの」を見ている。「隠されてあるもの」に対する「遠い憧れ」を持っている。