生きられない・ネアンデルタール人論73

 自分は生きてあることが許されていない存在だと思えるのに、他者から熱っぽく「生きていてくれ」と願われる(=ちやほやされる)なんて、なんだか戸惑ってしまう居心地の悪い事態です。そう願われる存在だから生き延びる権利と資格があると思うのではない。そう願われることは居心地の悪いことだから、そんなことは忘れてしまいたい。そうして、ただもう一方的に他者に生きていてくれと願ってゆく。他者に対して生きていてくれと願っているかぎり、生きていてくれと願われている自分のことなど忘れていられる。
意識が自分に還流してゆくことは、ひとつの居心地の悪さであり危機的な状態です。
 自分のことを思っていることは他者のことを思っていないことであり、両方同時に思うことなんかできない。他者のことを思っているように見えて、じつは他者に思われている自分を思っているだけのこと。
 自分は許されていない存在であり、人の心は、自分からはぐれて他者のことを思ってゆくようにできている。人と人が豊かにときめき合っている関係の社会においては、誰もが自分からはぐれ、ただもう一方的に他愛なく他者にときめいていっている。他者から思われることなんか当てにしていない。他者から思われることの居心地の悪さを知っているから。ネアンデルタール人は、そういう人たちだった。
 他者から思われることを振り払って他者のことを思ってゆく。他者から思われる人は、そういうタッチを持っている。他者から熱っぽく思われたことがなく、他者を熱っぽく思った体験を持たないものが、他者に思われたがる。ちやほやされたがる。彼らは、人と人の関係のときめきも切なさも居心地の悪さも知らない。そういう人と人の関係の「あや」というものを知らない。生きてあることを許されていない存在として一方的に他者にときめいてゆくというタッチを持っていない。彼らは自分には生き延びる権利と資格があると思っているし、そうやって悪あがきすることのみすぼらしさというものがある。


 ネアンデルタール人の社会に生き延びる権利と資格と能力のある「許されたもの」など存在しなかったし、誰も「許されたもの」になることなど願わなかった。誰もが「許されないもの」として世界や他者にときめきながら生きていた。そうやって「すでに生きてある」かぎりにおいて、その短い生涯を生きた。彼らは「もういつ死んでもいい」というお祭り気分で他愛なく世界や他者にときめきながら生きていた。
 彼らはもう、生きのびることや許される存在であることなど願うことなく、そのための「労働」よりもお祭り気分の他愛ないときめきを第一義にして生きていた。人類史上彼らほど切実な生き方をした集団もないし、彼らほど不埒に生きた存在もなかった。
 この世の弱いものやだめな人間は、この世の「許されたもの」たちよりも不埒に生きている。不埒にならないと生きられない。不埒に生きてしまうほどに、他者の存在を許している。
 清廉潔白の許された身として生きているから、そうではない他人が許せなくなる。その人はそう生きたくてそう生きているわけではない。そう生きねばならないという規範をよりどころにしているだけで、もはや他者の存在そのものにときめいてゆく視線というか、そういう人間性の自然を失っている。そうやって他人から許されときめかれちやほやされることばかり画策して生きている。つまり、他人から許されときめかれちやほやされる自分に対する興味だけで生きている。
 しかしネアンデルタール人は、他者に何も望まなかった。「許されないもの」は、そんなことは望まない。人は根源・自然において、「許されないもの」である自分を忘れて他者にときめいてゆく。したがって他者の自分に対する評価などに興味はない。彼らは、誰もがただもう一方的に他者にときめいていった。
 自分を「許されないもの」と思うなら、誰が自分に興味を持ってもらいたいと思うものか。自分なんか、興味を持たれるに値する存在ではないし、興味を持たれたらなおさらに自分が「許されない存在」であることを意識しなければならない。
 他者にときめいてゆくことは、自分を振り捨ててゆく心模様です。
 ネアンデルタール人は、寒さに震えながらいつ死ぬかわからない状態で生きていたのだから、「もういつ死んでもいい」というかたちで自分を振り捨ててゆかないと生きられなかった。
 彼らは、この世のもっとも弱い存在であると同時に、もっとも不埒な存在でもあった。
 それは、現代社会に住むわれわれ弱いものやだめな人間だって同じだし、もともと人間はそうやって二本の足で立ち上がり、地球の隅々まで拡散してゆき、そして文化文明を進化発展させてきた。
 不埒な人間は、他者から許されときめかれちやほやされることなんか当てにしない。ただもう一方的にときめいてゆく。人間とはもともと、一方的にときめき合っている存在なのではないでしょうか。そうでなければ「無償の愛」などということは原理的に成り立たない。すくなくともネアンデルタール人はそういう関係の社会を生きていた。無償の愛は、不埒なのです。ろくな文明の利器も持たない原始人の身であんな苛酷な環境に住み着いてゆくなんて、そりゃあ不埒ですよ。
 豊かで平和な社会なら、多くのものが「許された存在」として社会と調和しながら生きてゆけるのかもしれないが、いろいろ生きにくくなってくればもう、そんなことを願ってなどいられない。
 豊かな平和な社会であっても、多くの人がそれなりに人生のつまずきは体験する。そのときあなたは、自分は「許された存在」なのだからそれは不当でありあってならないことだと怒り苦しむか?それとも「許されない存在」としてそれを受け入れるか?


 生まれたばかりの赤ん坊とか寝たきりの老人や病人とか身体障害者とか、彼らは生きられない存在であり、それはつまり、自然の摂理によって生きてあることが「許されていない」存在であるということです。それでも人はそういう存在を許し、生きさせようとする。それはもう人間の本能のようなもので、べつに倫理や道徳の問題ではない。 
 生き物が死ぬ存在であるということは、生きてあることが許されていない存在だということです。
 許されない存在なのに、それでもわれわれは生きてしまっている。
 生きてあることは、許されていないことです。
 われわれは、死んでしまったときに、はじめて生き物として許される。
 そして生まれたばかりの赤ん坊や寝たきりの老人や病人や重度の身体障害者は、もっとも死に近い存在であり、許されつつある存在だともいえる。俗な言い方をすれば、もっとも神に近い存在だ、ということになる。
 人は、生きられなさを生きようとする。そうやって「何・なぜ?」と問い続ける。
 人は、「生きられない生」に対する本能的ないとおしさを持っている。
 人は、「生きられない生」を生きようとする。
 海は、基本的に人間の生きられない場所です。われわれは水の中では呼吸ができない。それなのになぜいそいそと海水浴に繰り出すのか。おそらくそれは、大昔に海中の生物だった記憶があるから、というようなことではない。生きられない場所を生きることの心の華やぎがあるからでしょう。
 感動して鳥肌が立った、などという。それは、身体が危機的状態に陥っている反応です。
 人の心は、生と死の境目に立って華やいでゆく。
 死ぬことは、許された存在になることです。人は、そのときはじめて自然の摂理によって許される。
 人間は死を意識する存在であるということは、人間の知能の高さを意味するのではなく、生きてあることが許されない存在として生きてあるという無意識の自覚を持っている、ということです。
 人間は死と生の境目に立って生きようとし、この世のもっとも死に近い存在である「生きられないもの」に本能的な愛着を抱いている。今にも死にそうなものこそ、もっとも本格的に「死と生の境目」に立っている存在です。
 世の中には賢い人とか強い人とか裕福な人とか幸せな人とか清らかな人とか、いろんな立派な人がいるが、そんな人たちよりも「この世のもっとも弱いもの」こそさらに深く人の心の根源に響いてくる存在であり、人間的な知性や感性の本質は「生きられない弱いもの」として生きるタッチとして生成している。
 たとえば「冒険」とは、生きられない生を生きる行為です。そうやって冒険者の心は華やいでゆく。そしてその行為を賞賛する人びとは、その華やぎにあこがれている。
 人の心は、死と生の境目に立って華やいでゆく。
 まあ人間の本格的な知性とは何かと問うなら、それは、なんでもかんでもよく知っているとかよくわかるというようなことではなく、知れば知るほどさらに深く「何・なぜ」と問い続けてゆくことができる思考態度にあるのでしょう。そうやって人類の知性は進化発展してきた。
 同様に本格的な感性は、何が美しいかを知っているとかというのではなく、ただもう深く豊かにときめいてゆくことのできる心の動きのことなのでしょう。
 世の中には何が美しいかとか正しいかとかということがあらかじめ神によって決定されているかのように考えている人がいるが、この世にそれ自体で美しいものなど存在しない。美しく見える(=ときめく)心があるだけです。
 生きものは生きてあることが「許されていない存在」である。いや、この世の世のすべてのものが存在することを許されていない。宇宙だってやがては滅びる。すべてのものは滅びてゆく。
人は「許されていない存在」としてすでに生きてしまっている身であるからこそ、世界が美しく見えてしまう体験をする。この生からはぐれてしまった心で感動を体験する。この生からはぐれてしまっているこの世のもっとも弱いものの存在こそもっとも深く人の心の根源に響いてくるし、彼らこそがもっとも深い感動を体験している。
 ネアンデルタール人は、原始人が生きられるはずのない苛酷な環境の下で「この世のもっとも弱いもの」として生きた人々だった。そんな生き方をしていた彼らに知性や感性が育ってこないはずがない。現在の人類の知性や感性は、ネアンデルタール人の命を懸けた生のいとなみというか死者を弔いながら獲得していった遺産の上に成り立っている。


 人間的な知性や感性は、この生からはぐれて生成している。
 まあ、生き延びることが約束された予定調和の世界を生きるルーティンワークのはたらきもあるのだが、そんな「知能」とやらがどんなに高度であってもそれはあくまで「知性や感性のようなもの」であって、自然・本質としての人間的な知性や感性それ自体ではない。
 人間的な知性や感性は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに生まれ育ってきた。そうやって生き延びる未来のことを思わずに目の前の「今ここ」に豊かにときめき反応してゆく心模様のことを知性や感性という。こんなことは、論理的に当たり前すぎるくらい当たり前のことのはずです。「今ここ」で活性化しないで何が脳のはたらきかという話です。そういう現実的具体的な体験の積み重ねで知性や感性が育ってゆくのであって、「今ここ」の反応を失ったままの生き延びる未来に対する妄想や空想によるのではない。
いいかえれば、生き延びようとする意識が強すぎると、知性や感性が育つ体験を喪失してゆく。
人はもともと生きられない存在であり、他者から生かされることによってはじめて生きてあることができる。他者から生かされながら他者に対するときめきや反応が豊かになってゆく。生き延びようとすることなんか忘れて他者にときめき反応しながら生きている。
生き延びようとしたら、他者に対するときめきや反応が希薄になってゆく。他者に対するときめきや反応が希薄になれば、生き延びようとする欲望(=自我)が肥大化してくる。
人の自然は、生き延びようとする欲望を持たないことにある。原初の人類は「もう死んでもいい」と思い定めて二本の足で立ち上がった。そこから人類の歴史がはじまっている。赤ん坊が二本の足で立ち上がってよちよち歩きをはじめることだって、人としてのそうした歴史の無意識からうながされている体験であるはずです。かんたんに転んでしまうのに、それでもその姿勢で歩こうとする。それは「もう死んでもいい」というタッチの体験であり、人類の直立二足歩行の起源は、そういう心意気を持たなければ身につかない体験だったのです。
 人は、生きられない存在なのに、他者から生かされている。生まれたばかりの赤ん坊は、まさにそういう存在として生きはじめる。生きられない存在は、「もう死んでもいい」と思いながら他者から生かされている。そうやって、すでに生きてしまっている。そうして意識は、目の前の「今ここ」の一点に焦点を結んでゆく。


生きられない存在として生まれてくる赤ん坊は、そこで「もう死んでもいい」と思い定める無意識のタッチを体験する。そしてそのタッチはまわりの他者から生かされることによって維持されてゆき、やがてそのタッチとともに華やぎときめいてゆく心模様として育ってゆく。
 赤ん坊が無邪気なのは、「もう死んでもいい」という人間的な無意識のタッチを純粋にありのままで持っているからであり、大人以上に純粋で豊かに世界や他者にときめいていることを意味している。そしてそのときめきのまま大人になってゆくことが幸せか不幸か知らないが、人に生き延びよとせかせる文明社会にはそのときめきを抑圧してゆく構造がある。そういう構造にせかされながら、生き延びようとする欲望ばかりが肥大化して、「もう死んでもいい」と思い定める無意識のタッチとともにあるときめきを失ってゆく。まあ、他者に生かされているという体験が不足すると、欲求不満が募ってくる。生き延びようとする欲望が肥大化することは、そういう欲求不満でもあり、生き延びようとする欲望とは他者に生かされたいという欲望にほかならない。つまり、人にちやほやされたい、ということ。そうしてちやほやされる存在であろうとして、他者に対して優越感を持とうとする。
他者を生かそうとするのではなく、他者から生かされようとする。他者から生かされている体験が不足していることの欲求不満。
べつに他者からちやほやされなくても、自分が他者にときめいているということ自体が他者に生かされている体験であるのに、そのときめくという体験がいつの間にか希薄になってしまっている。そうしてときめくという体験よりも「優越感を持つ」という体験の方が大事になってゆく。優越感を持つことが他者から生かされていると自覚することの根拠になっている。優越感を欲しがりながら、だんだんときめく心が希薄になってゆく。
人は、「もう死んでもいい」という心地ともに世界や他者にときめいてゆく。
 他者にちやほやされる体験がないと文明社会では生きられないのか。現代人はもう、そういう欲望とともに自分語り(自己宣伝)ばかりしている。
 人間なら誰だって世界や他者にときめいて生きているのだが、現代社会では、それよりもときめかれちやほやされることの方が大事になっている。それほどに「生き延びよ」とせかせる社会の構造がある。
 他者にときめかれちやほやされたいということは、他者のときめいてゆく心を食い物にして生きているということでもある。そんなことなど当てにしないで自分から純粋に率直にときめいてゆくことがなぜできないのか。他者にときめかれていることなど根源的にはわからないことであり、当てにすることなどできないし、ときめかれていると自覚することもできない。他者は自分にときめいてくれる存在ではない。自分の方からときめいてゆくほかない輝きを持って存在しているというだけのことでしょう。「人と人はときめき合って存在している」といっても、ときめかれているからときめきの返礼をするというのではない。ときめかれていることなど永遠にわからない。誰もが一方的にときめいていっているだけのこと。
 現代人は、なぜときめかれちやほやされることを欲しがるのか。原始人にも赤ん坊にも、そんな欲求不満はないし、ときめかれちやほやされているという自覚もない。それでも人は、誰もが一方的にときめいていっている。ときめかずにいられない生のかたちを持っている。「もう死んでもいい」という無意識の感慨は、生きてあることも自分も忘れて一方的にときめいてゆく。
 ときめかれている自分なんかどうでもいいことです。そういう自分なんか忘れてときめいてゆく。なのに、ときめかれていないという欲求不満を募らせながらときめかれたがる。そうしてときめかれているという充足に浸りたがる。「ときめかれている」という自覚など、ただの幻想です。相手が本心からときめいているか、ただそのふりをしているだけかの境界線など、永遠にわからない。わからないから、自分はときめかれるに値する存在だという自覚の根拠として他者に対する優越感を持とうとする。ときめかれるに値する存在である必要などどこにもない。そんな自分を持つ必要などどこにもない。誰もが、自分を忘れてときめいていっているだけなのだから。人は他者にときめかれちやほやされる体験がないと生き延びられない。でも、生き延びる必要などどこにもない。誰もが、「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともにこの生からはぐれながら心が華やぎときめいていっているだけなのだから。「もう死んでもいい」という無意識の感慨が人を生かしている。
 

 けっきょく、生き延びようとする欲望がこの社会をおかしくしている。この社会に踊らされて生き延びようとする欲望を募らせてゆく。そうして他者にちやほやされたがって知性や感性がうまく育たない。知性や感性が豊かなふりをする技術は庶民の処世術から知識人の文章術までいろいろあろうが、そやってごまかし合ってばかりいるから社会がおかしくなるし、自分に執着して自分で自分をごまかしてばかりいるから自分がおかしくなったりする。
 他者にときめかれるに値する存在にならないとときめかれないと思うし、ときめかれるに値する他者だと認めることができないとときめかない。現代社会では、そんな強迫観念で「価値」をはかることばかりしている。他者は存在そのものにおいてすでに輝いているというのに。まあ、生まれたばかりの赤ん坊のような自分を忘れて世界や他者にときめいてゆくタッチを失ったら、「価値」ではからないといけなくなる。「価値」ではかる自意識を持ってしまうから、自分を忘れてときめいてゆくタッチが希薄になる。
 平和で豊かな社会では、「もう死んでもいい」という無意識の感慨は隠蔽され、生き延びることが称揚されてゆく。そうやって自我意識が肥大化し、自分を忘れて他愛なくときめいてゆくタッチが希薄になってくる。「価値」に対してときめき、「価値」がないものをさげすむ優越意識が肥大化してくる。存在そのものにときめくということができなくなる。そこにこそ人間的な知性や感性の源泉があるわけで、それができなくなったら学問も芸術も成り立たなくなるし、人と人がときめき合うダイナミズムも生まれてこない。
 たとえば、存在そのものにときめきそれを問うてゆくということができないのなら、哲学も物理学も成り立たない。哲学も物理学も、価値や善悪をはかる学問ではない。
 なのにいまどきは、よりよい社会とは何か、よりよい生き方とは何か、と問うてばかりいる。とはいえ誰の中にも、よりよい社会も生き方もどうでもいいというかたちの、自分を忘れて「今ここ」にときめき夢中になってゆく心模様ははたらいているわけで、それによって社会の動きも個人の人生もいろいろと「まぎれ」が生まれてくる。
 政治家や知識人がどんなに「これがよりよい未来の社会だ」と扇動してもなかなかその通りにはならないし、どんなにちやほやされたがっても思う通りにはいかなかったりする。どんなにちやほやされる魅力的な存在になろうと努力し、そうなっていると思い込んでも、最後にはそんなことはどうでもいいという「天然」の人には勝てなかったりする。どんなに善悪をはかる価値意識を発達させても、けっきょく存在そのものの本質を問う思考よりも深く高度な学問にはなりえない。善悪をはじめとする価値意識にとらわれてしまうことが、その人の知性や感性の限界なのだ。それはもう、学問や芸術の世界だけのことではなく、庶民のあいだの人に好かれるかどうかという問題でもある。価値意識で人や世界を裁いてばかりいる人が魅力的であるはずがないし、高度な学問や芸術を実現できるはずもない。
 理想の社会など存在しないし、理想の人生も人格もない。ちやほやされたがるから、そんな理想という価値をめざすようになる。
 人の自然は、理想を目指しているのではない。目指すものなど何も持たないまま、目の前の「今ここ」にときめいているだけだ。そこにこそ高度な知性や感性があり、魅力的な人となりがある。
 人間的な知性や感性は、生き延びようとする欲望によってもたらされる「未来に対する計画性」にあるのではなく、「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに心が華やぎときめきながら「今ここ」に立ち尽くし「今ここ」を味わい尽くすことにある。
 生き延びようとする欲望をたぎらせたら、知性や感性が停滞し衰弱してゆく。そうやって脳細胞が死滅してゆく認知症になったり、世界や他者に反応できない鬱病になったりしてゆく。


 平和で豊かな社会を生きていても、それだけでこの生が完結するわけではない。それでもそんな社会の外に向かって旅立ってゆこうとしたりする。そんな社会だからこそ、旅がしたくなる。
 生き延びようとする欲望をたぎらせたり生き延びる能力を持ってしまうことは、知性や感性の危機なのだ。
 旅をすることは、この生や社会からはぐれながら目の前の「今ここ」に対してより切実で豊かに反応してゆく体験であって、人は未来の幸せに向かって旅立つのではない。まあそうやって憂き世のしがらみの中で汚れてしまった心を洗い流し、生まれ変わったような心で世界や他者にときめいてゆく、いわば「みそぎ」体験として人は旅に出る。そしてその旅心にも「もう死んでもいい」という無意識の感慨がはたらいている。
 今どきの人類学者たちは、原始人による人類拡散の旅についてこういう。「(未来に対する計画性として)より住みやすい土地を目指して集団で移住していった」、と。
 こんなのは大嘘だ。二重に嘘がある。
 人類が拡散していった先は、つねにより住みにくい土地だった。そして集団で移住していったのではなく、集団からはぐれ出てきたものたちが新しい土地で出会ってときめき合い、新しい集団をつくっていっただけです。
「住めば都」の言葉通り、住み着けばそこに住み着くためのノウハウの文化が育って、そこがいちばん住みやすい土地になる。飢饉が来ようと津波が来ようと、集団ごと移住してゆくことはない。これが、昔も今も変わらない歴史の法則です。しかしどんなに平和で豊かな集団になっても、そこからはぐれて旅に出てゆくものは必ずあらわれてくる。これも歴史の法則だ。そうして旅に出れば、豊かな出会いのときめきが生まれてくる。その体験がなければ人類拡散は起きなかったし、その拡散の歴史の果ての氷河期の北ヨーロッパネアンデルタール人が登場してきた。
 したがって、同じころのアフリカのホモ・サピエンスよりもネアンデルタール人の方がずっと豊かな旅心を持っていたのです。
 旅心とは、未来の幸せを目指す心ではない。とりあえず、この生や集団からはぐれてゆく心です。どんなに平和で豊かな集団であっても、人は、集団の中に置かれてあることの「けがれ」を意識するようになってゆく。旅は、ひとつの「死」であり、「みそぎ」という生まれ変わる体験です。
 電車もバスもホテルも道もない時代の原始人にとっての旅は、命懸けの行為だったのですよ。そこのところをとか人類学者は何も考えていない。もしも集団で旅をしていったら、集団の人口はどんどん減ってゆく。集団で旅をしながら人口を増やしてゆくなどということはあるはずがない。それは死に接近してゆく行為だったのであり、死と生のはざまに立つ体験だった。人の心は、そこから華やぎときめいてゆく。
 原始人は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに旅に出た。そしてその感慨とともに新しい土地に住み着いていった。だから、そこがどんなに住みにくい土地でも構わなかったし、その生きられなさを共有しながら人と人はより豊かにときめき合っていった。
 人類の集団は、拡散すればするほど集団のダイナミズムは豊かになっていった。旅心とは「もう死んでもいい」という感慨のこと、そしてその感慨とともに集団のダイナミズムが豊かになってゆく。人類の集団のダイナミズムは、集団からはぐれてゆく旅心の上に成り立っている。
 つまり、じっさいに旅なんかしなくても、われわれのこの生そのものが「もう死んでもいい」という旅心の上に成り立っている。
 氷河期の北ヨーロッパネアンデルタール人は、いつ死んでもかまわないという感慨とともにその地に住み着き、人と人が他愛なく豊かにときめき合いながら集団をいとなんでいた。
 人の存在そのものが、死者を弔うというかたちの上に成り立っている。
 人類の歴史は、死者を弔う歴史だった。死者を弔いながら、「もう死んでもいい」という感慨を深くしていった。そうしてそこからより豊かな集団のダイナミズムが生まれ、知性や感性が進化発展していった。
 死者を弔うとは、生き延びる未来のことなど忘れて意識が目の前の「今ここ」という一点に焦点を結んでゆくことであり、そうやって人の心は「今ここ」に消えてゆくようにして華やぎときめいてゆく。まあ、女のオルガスムスはそのもっとも本質的で過激な体験であり、ネアンデルタール人の女たちにオルガスムスがなかったといったい誰がいえるだろうか。もしかしたら現代の女たちよりももっと深く豊かに切実にそのカタルシスを体験したのかもしれない。それだって、「死者を弔う」という人間存在の本質的なありようからもたらされる心的現象なのだ。


 人の心は、生きてあることのいたたまれなさとか、なやましさとか、くるおしさというような「圧力」を受けて生成しており、そこからこの生からはぐれながら死や死者のことを思ってゆく。
 死や死者を思うものは、「未来」のことを思わない。死は「今ここ」の背中にぴったりと張り付いている。それはたんなる思想的哲学的命題だけのことではなく、人類史の実際問題だった。
二本の足で立ち上がった原初の人類は、猿よりも弱い猿としてつねに生存の危機に瀕しながら歴史を歩んできた。そのとき棲みついていたのはサバンナに囲まれた孤立した森だったわけで、森を出ればたちまち肉食獣の餌食になった。その不安定な直立二足歩行に逃げ切る能力はなかった。それは、精神的にも身体的にも大きな負荷がかかる姿勢だった。二本の足で全体重を支えながらいつもふらふらしているのだから、精神的にも身体的にもストレスがともなわないはずがなく、寿命そのものが四本足の猿だったときよりも短くなってしまっていたことでしょう。しかもそのサバンナに囲まれた孤立した森は、つねに死と背中合わせでいるほかない環境だった。
生きてあるこことの「いたたまれなさ」「なやましさ」「くるおしさ」は、人類史に刻印された「聖痕(スティグマータ)」のようなものかもしれない。まあそれとともに知能すなわち知性や感性が進化発展してきた。
知能すなわち人間的な知性や感性は、生き延びる能力としての「未来に対する計画性」にあるのではなく、「今ここ」を味わい尽くして「今ここ」に消えてゆく心模様(脳のはたらき)にある。「もう死んでもいい」という人類普遍の無意識の感慨とともに「今ここ」に反応してゆく。それが、深く豊かに「知る」とか「気づく」とか「感じる」という体験でしょう。「死者を弔う」という体験の本質もそこにあり、そうやって「今ここ」の「死者の尊厳すなわち死者に対するより深く切実な愛おしさに気づき感じていったところから人類の歴史がはじまったのであり、そこから人間的な知性や感性が進化発展してきた。
ここではひとまず人類史の文化の起源の契機について考えているわけだが、今どきの人類学者が合唱している「未来に対する計画性」とか「象徴思考」という問題設定がどうしても気に入らないわけで、それをなんとしても突き崩したい。そんな通俗的で安直な問題設定で、人類史の文化の起源も、人間的な知性や感性の本質も、たとえば人と人がときめき合う人間性の自然も説明がつくはずがない。
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