インポのジジイと不感症のババア・ネアンデルタール人論86

 この生は、「別れのかなしみ」の上に成り立っている。「別れのかなしみ」というこの生の通奏低音、このことについて考えてみたい。
 意識のはたらきは動いているものを追いかける性質を持っている。
 追いかけ続けることもあれば、そのまま見送り別れることもある。
 動いているものを追いかける性質を持っているから、必然的に「別れ」も体験する。
 消えてゆくものを追いかければ、避けがたく「別れる」という体験にたどり着く。死んでゆくものを追いかけ続けることはできない。必ず「別れ」で終わる。人は死を意識する存在であり、人類の歴史はそういう死者を見送る「別れのかなしみ」とともに動いてきた。「別れのかなしみ」とともに進化発展してきた、と言い換えてもよい。
「追いかける」といっても、能動的なはたらきではない。動いている対象だからそれに引きずられて「追いかける」というはたらきになるだけのことで、止まっている対象を追いかけることはできない。たとえばスポーツ観戦など、動いているものを1時間以上見続けることはできるが、止まっている対象を同じ時間見続けることは難しい。
 意識は、動いているものを追いかけてはたらき続けている。この世界に「動く」という現象がなければ、意識は発生することもはたらき続けることもない。われわれの意識は、つねに何かしらの動くものを追いかけ続けている。そしてそれは、つねに「別れ」を体験し続けている、ということでもある。
 人が死を意識する存在だということは、「別れのかなしみ」を生きているということを意味する。
 人は、「別れかなしみ」を携えて人にときめいている。くっついて一心同体になってしまうことのできない「空間=隔絶」の向こうに向かってときめいている。くっついてしまうなら、「ときめく」という飛躍の心も起きてこない。人と人は、死者を思うようにときめき合っている。「ときめく」心の基礎と究極のかたちは、消えていった死者を思うことにある。
 平和で豊かな社会の「共生状態」の中に置かれて生き延びることがスローガンになってしまっている現代人は、本格的な「ときめく」心を失いかけている。
 それに対して原始時代の社会では「出会い」と「別れ」が豊かに生成しており、そこにおいてこそ「ときめく」心が育ってくる。
 戦争か平和か、という問題ではない。共生状態の停滞から解放されるようにして原初の人類は地球の隅々まで拡散していったのであり、人は根源・自然において戦争も平和も望んでいない。
 文明社会は「共生状態」の上に成り立っており、それを称揚しながら戦争をしたり平和になったりしている。
 旅をしようと定住しようと、戦争をしようと平和になろうと、人の心はというか人と人の関係は、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」の上に生成している。


「救済」なんて陳腐な言葉だし、よくわからない概念なのだが、社会における人であることの救済(のようなもの)は、共生状態の充足にあるのではない。そんなことは、たんなる脳のはたらきの停滞にすぎない。人間的な豊かな脳のはたらきというか活性化した意識=心のはたらきは、共生状態の充足という「まどろみ=停滞」にあるのではなく、ひりひりした「別れのかなしみ」の感慨とともにそこから華やぎときめいてゆくことにある。そういうタッチで生ききることにある。そしてそういうタッチは、生まれたばかりの赤ん坊でも持っているし、それこそが究極の知性や感性のかたちでもある。
 生き延びることにあくせくしているだけの自分の中に人としての本質や救済があるなどと思うな。自分が人間のスタンダードだなどとうぬぼれるな。
 赤ん坊はよく泣くし、宝石のような輝きの笑顔を持っている。そこにこそ、もっとも純粋で本質的な「別れのかなしみ」と「出会いのときめき」がある。
「救済」は、「苦悩」の向こうにあるのではない。いったん悩む癖がつくと、悩んでいる自分に執着しながら、死ぬまで悩み続けてゆかねばならない。
心がときめき解き放たれることを「救済」というのかどうか知らないが、少なくともその体験は「かなしみ」の向こうにある。「悩む」ということ自体がひとつの不自然であり、病理にほかならない。「悩み」からの救済などない。人の心は「かなしみ」の向こうで解き放たれてゆく。
「悩み」なんて、たんなる癖のようなものだ。たとえば、ガンなどで死を宣告されて気も狂わんばかりに悩む人もいれば、静かにその運命を受け止めることができる人もいる。前者は「別れのかなしみ」と向き合うことができない人であり、「別れのかなしみ」にたどり着かないことには死は受け止められないし、人の心はそこから華やぎときめいてゆく。
 原始人や近代以前の人々がむやみに死を怖がらなかったのは、知能が低かったからでも天国や極楽浄土を他愛なく信じていたからでもない。「別れのかなしみ」と向き合うこと、すなわち心がすでにこの生からはぐれていた(=解放されていた)からであり、いいかえれば、だから他愛なく天国や極楽浄土を信じることができた。信じるというよりも、ひとまずそういうことにしておこうと思っていただけだ。信じたから死を怖がらなかったのではなく、死を怖がらなかったから信じた。彼らの心は、「別れのかなしみ」とともにすでにこの生からはぐれており、解放されていた。かつては、そういう心模様とともにや天国や極楽浄土という概念が機能していた。
 まあ何がなんでも生き延びたい現代人は、死んでも天国や極楽浄土があると思いたくて、あると決めつけているだけのこと。昔の人の心は、そういう能動的な「欲望」によるのではなく、すでにこの生からはぐれて天国や極楽浄土と向き合っていたのであり、あくまで受動的に「ああそうか」とその概念を受け入れていた。そうやって彼らの心は、すでにこの生の外というか、この生と死とのはざまに立っていた。人の心は、そこに立って華やぎときめいてゆく。


 人間としての、そして生きものとしての意識のはたらきの自然は、この生からはぐれてゆくことにある。意識は、この生からはぐれてゆくかたちで発生する。
 もっとも基礎的な知性や感性も、もっとも本格的な知性や感性も、この生からはぐれている。生きることに無能であるところにこそ、知性や感性の本質・自然がある。
生きることに有能になっていったり有能になろうとめざしたりすることは、知性や感性の停滞なのだ。人は、そうやって「ときめく」心を失ってゆく。世界や他者に「ときめく」ことをしないで、世界や他者を裁いてばかりいる。世界や他者のことをわかっているつもりで勝手に決めつけ、「どうなっているのだろう?」と問うてゆく「ときめき」がない。
 生きることに有能であるということは、世界や他者のことをわかっているつもりで勝手に決めつけていることだ。そうすれば、有能になれるし、「ときめき」を失ってゆく。平和で豊かであろうと戦争をしようと、エリートだろうと庶民だろうと、文明社会の制度性は、人の心をそういうところに閉じ込め停滞させてしまう。生き延びる能力を持て、と強迫してくる。
 そういう強迫の構造が増している世の中だから、生きることに無能な若者が増えてくる。彼らは、そうした強迫からはぐれてゆく心模様を持っている。そうやって、みずからの知性や感性すなわち「ときめく」心を守ろうとしている。「ときめく」心があるから、無能でぶざまになってしまう。
 大人たちの生き延びる能力はこの社会の正義であるが、若者たちはその正義にうんざりしている。
 人間とは何かということが見えなくなっている時代だというが、嘘だ。多くの大人たちはそんなことはすでにわかっているつもりでいる。デマゴーグの人間認識が蔓延している世の中だ。人々は、そうやって「人間とは何か」という問いの答えを勝手に決めつけ、考えようとしない。「ときめく」心が希薄だから、勝手に決めつけることができるし、いいかえればそれが、目の前の世界のさまや他者の心のあやに気づいたり感じたりする「ときめく」心を持てないものの処世術なのだ。
「ときめき」を失った大人たちは、その正義で人や世界を裁くことばかりしている。そういう時代の潮流が若者たちを追いつめている。追いつめられて自分も「ときめき」の希薄な大人たちの仲間入りをしてゆく若者もいれば、大人になれなくて途方に暮れている若者も多い。
 他愛なくときめいてしまったら負けだ、この社会から振り落とされる。子供たちは、とりあえず「偏差値」という正義を手に入れよ、というプレッシャーを大人たちからかけられている。
 昔のような、魚屋の子供は魚屋になり百姓の子供は百姓になるという世の中なら「偏差値」などたいした問題ではないが、今どきのように誰もがサラリーマンで、サラリーマンの子供がサラリーマンになって生きてゆこうとしたら、「偏差値」の違いで大きな格差が生じてしまう。子供だって、遊び呆けていられない。そうして、たとえば内田樹のような、ただの「ときめき」の希薄な大人でしかないオピニオンリーダーによる「労働こそ人間性の基礎・本質である」などと勝手に決めつけているだけのくだらない人間論が幅を利かす世の中になってしまっている。多くの大人たちが、そうやって子供にプレッシャーをかけ続けている。そうやって大人に飼いならされている子供はそれでもよいが、そういう大人社会からはぐれて他愛なく「いまここ」の世界や他者にときめいてゆく心を持ってしまった子供は、その路線から振り落とされてゆくしかない。そういう子供こそ未来の本格的な学者や芸術家になる素質を持っているかもしれないというのに、早々と「偏差値」で振り落されてしまう社会の構造になっている。


 集団やこの生からはぐれて生き延びることに無能になってしまう心を持ってしまうのは、人間性の自然なのだ。そうやって人類は地球の隅々まで拡散していったのだし、そうやって人間的な知性や感性を進化発展させてきたのだ。
 この生からはぐれてゆくこと、すなわち生きることに無能であるところにこそ、人間的な知性や感性が宿っている。
 あまり生き延びるための能力=正義を振りかざさないほうがよい。そこにこそあなたの知性や感性の限界がある。そうやって現代人は、認知症になり鬱病になりインポテンツになってゆく。
 今どきのオピニオンリーダーであるらしい内田樹上野千鶴子をはじめとする大人のマスコミ知識人がどんなにえらそうなことをいっても、彼らの知性や感性などたかが知れているし、人の心の自然である「ときめく」という心模様においては、彼らよりも、生きることに無能な若者たちの方がずっと豊かにそなえている。内田や上野の知性や感性の限界は、生き延びるために「ときめかれる=ちやほやされる」ことに熱心なだけで、じぶんからこの世界や他者にときめいてゆく心模様が希薄なことにある。そんな彼らが書いた『日本辺境論』や『おひとりさまの老後』は、どちらも今どきのブサイクな大人の姿丸出しの「生き延びる」というスローガンを声高に称揚する書きざまだった。「生き延びる」ということなど権力から下りてくるスローガンにすぎないわけで、そうやって彼らは、権力に駄々をこねながら権力に踊らされている。そんなインポのジジイや不感症のババアがのさばる世の中であれば、原始的なというかこの国の伝統である「もう死んでもいい」という他愛ないときめきを携えて生きることが難しい状況になってしまっている。
 しかしそれでもそういう無能な若者群が現在のこの国に存在することはひとつの希望であり、この国の伝統が消えていないことのあらわれなのだ。
 社会的に恵まれたエリートとして生きるか不遇な下層の庶民として生きるかということは、さしあたりどうでもいい。それは「ときめかれる=ちやほやされる」かどうかという問題であり、自分からときめいてゆく心を持っていないと知性や感性は育たないし、この生を味わい尽くすこともできない。勝者には勝者の生があり、敗者には敗者の生があり、それぞれそれならではの生の味わいがある。勝者か敗者かという問題ではない。この生を味わい尽くすとはこの生から「はぐれてゆく=解放される」ことであり、自分のことを忘れてこの世界や他者にときめき反応してゆくことにある。
 生き延びるために自分を見せびらかしプレゼンテーションばかりしていたら、ちやほやされたりときめかれたりすることはあっても、自分からこの世界や他者にときめき反応してゆく知性や感性はどんどん停滞・減衰してゆく。そうやって今どきの中高年は、認知症になり鬱病になりインポテンツになってゆく。


 人生の勝者であれ敗者であれ、現代的な「精神の荒廃」という問題を抱えてしまっている大人たちがいる。
 団塊世代である内田樹上野千鶴子はこういう、「自分たちはよき青春時代を送り、その結果として自分たちの世代の充実した現在がある。それに比べて充実した未来がない今どきの若者たちの現在は輝いていない」と。
 まったく、なんという思い上がりか。これこそまさに「精神の荒廃」そのものではないか。彼らは、自分たちが「精神の荒廃」という問題を抱え込んでしまっていることにまったく気づいていない。抱え込んでしまっているから、気づかない。
団塊世代の青春時代のどこが素晴らしかったのか。そしてその結果として彼らのようなインポのジジイや不感症のババアになることの、どこが充実しているのか。
 今どきの子供はダメだから大人たちが教え導いてやらないといけない、と彼らはいう。
 冗談じゃない。もしも子供がダメだとしたら、大人がそういう子供にしてしまったのだ。子供が子供であるというそれだけで、すなわち子供であることの自然状態においてだめになってしまうことなどありえない。子供であることの自然状態においては、子供は大人よりもはるかに輝いている存在であり、醜い大人の圧力を受けて輝きを失ってしまうのであり、子供のダメさ加減が先にあるということなどありえない。大人たちの醜さが、子供を生きにくくさせているのだ。
 子供は子供であるというそれだけで輝いている。そのことを感じることのできない大人たちの「精神の荒廃」が上記のようなことをいわせ、子供を追いつめている。大人たちがそのことを感じることができないから、子供の心も荒んでゆく。子供の心が先に荒んでいるということなどありえないし、「社会が悪い」といって責任転嫁してすむ問題でもない。「社会が悪い」ということは、大人たちの心が荒んでいるということだ。大人たちの心が荒んでいる、という問題が先にあるのだ。内田や上野がなすべき喫緊の問題は、今どきの子供はダメだから教え導いてやらねばならないとえらそげな態度をとることではなく、子供が子供であることの輝きに気づき拍手することだ。彼らには、そういうことに気づきときめいてゆくことができるだけの知性や感性が欠落している。インポのジジイと不感症のババアは、そうやって「精神の荒廃」を抱え込んでしまっている。
 子供や若者は、子供や若者であるというそれだけで輝いているさ。みんな、そういう輝きを持っているさ。
 しかし平和で豊かな時代は、大人の生き延びる能力が正当化され、子供の無力さが否定される。人間的な知性や感性の基礎と究極はその「無力さ」にこそあるというのに。
 原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、生き延びることに無力な存在になった。人類の歴史はそこからはじまり、その「無力さ」によって知性や感性を進化発展させてきた。その「無力さ」こそが、人間的な豊かな「ときめき」を生む。
 平和な時代の生き延びる能力や生き延びようとする欲望が旺盛な大人たちは、「ときめく」心を失いながらインポのジジイや不感症のババアになってゆく。
 生き延びることに対する「無力さ」こそ、人間性の自然・本質なのだ。その「もう死んでもいい」という無意識の感慨が、人間的な「ときめき」、すなわち人間的な知性や感性の源泉になっている。
「もう死んでもいい」という「別れなかなしみ」、人の心はそこから華やぎときめいてゆく。今どきの生きることに無能な若者はそういう無意識の感慨を持っているのであり、持っているから無能になってしまう。無能だからこそ、豊かな「ときめき」を体験して生きている。そしてそういう若者たちを、「ときめき」を失ったインポのジジイや不感症のババアが「今どきの若者たちはダメだ」と裁いている。そうやって裁きながら、若者たちを自分たちが生き延びるための道具にしようとしている。「教え導く」などといいながら、「ときめき」を失った自分たちの「精神の荒廃」を正当化しようと画策してばかりいる。ただのインポのジジイや不感症のババアのくせに、自分が人間のスタンダードだとうぬぼれていやがる。
 生き延びようとする欲望や能力を持つことは、文明社会の権力から下りてくる支配のためのスローガンであり、団塊世代はそういうスローガンに踊らされて「戦後」という時代を生きてきた。踊らされて生きてきただけのくせに、自分たちが人間のスタンダードとうぬぼれていやがる。今や多くの現代人が老後の認知症鬱病やインポテンツに対する不安を抱えている時代であるが、若ぶった団塊世代の多くが、自分たちだけはそういう心配とは無縁のつもりでいるらしい。無縁のつもりでもしかし、心の底では大いに心配して不安になっているからこそ、自分たちの青春は充実していたとむりやり思い込もうとし、今どきの若者たちの青春は貧しくてかわいそうだとむりやり決めつけてくる。そのやさしいふりをした親心は、鈍感な傲慢さの裏返しなのだ。鈍感な人間ほど、正義ぶって人を裁きたがる。鈍感な大人ほど、正義ぶって若者を裁きたがる。若者が正しいか間違っているかということなどどうでもいい。子供や若者は、存在そのものにおいてすでに輝いている。誰だってそうやって生きてきたのだし、そのことにときめき拍手を送れないなんて、精神が荒廃してしまっている証拠なのだ。
 さらにいえば、赤ん坊や障害者をはじめとする「生きられないこの世のもっも弱いもの」は、存在そのものおいてすでに輝いている。彼らは、その「別れのかなしみ」という喪失感から心が華やぎときめいてゆくタッチを持っており、それが彼らの「存在の輝き」になっている。
 生きてあることは、幸せでもなんでもない。ものが存在することは、「引力」という「圧力」を受けている状態だ。そうやってわれわれは、幸せでなくても生きてしまっている。そしてそこからの解放としてときめき、そこからの解放として死んでゆく。生きてあることからの解放こそが生きてあることの醍醐味であり、死んでゆくことでもある。「別れのかなしみ」があるから生きてあることができるし、死んでゆくことができる。
 すでに生きてあるのだから生きてあるしかないが、おそらく死んでゆくことにも心の華やぎはあるにちがいない。
 そういう「消えてゆく=滅びる」ことの華やぎが、この国の伝統的な美意識(=無常感)になっている。
 インポのジジイと不感症のババアの生き延びようとする通俗的な欲望を満載にした「生の充実」など、何ほどのものか。


人は、「もう死んでもいい」という「別れのかなしみ」を無意識の感慨として持っている。心はそこから華やぎときめいてゆく。
 外国人は、この国の自殺率の高さを「日本人は死ぬことを名誉としている民族だからである」などと解釈しているらしいのだが、そういう問題ではないのですよ。自殺率は韓国の方がもっと高いし、自殺は世界中のどこにも普遍的に存在する。生きものの生きるいとなみそれ自体が本質的には自殺するような行為であり、この生は生と死のはざまにおいて成り立っている。人間なら誰だって自殺してしまう可能性を持っているし、自殺してしまうようなかたちでこの生の醍醐味を汲み上げてゆく。「ときめく」とは、自分が消えてゆく体験なのだ。そういう「消えてゆく=滅びる」ことの上にこの国の伝統的な「無常」の美意識が成り立っているのであり、人間なら誰だって普遍的にそうやって「ときめく」という体験をしている。べつに日本人でなくても、世界中みんなそうだ。
 日本人の美意識は、よその国よりもちょっとだけ人間性の普遍=自然に率直であるというだけのことで、それだけ原始的であるというだけのこと。そういう人間性の普遍=自然をそのまま洗練させてきたところに日本的な美意識がある。
 自殺の動機がなんであれ、人の心は、ときに死んでゆくことの華やぎに引き寄せられてしまう。心は、生と死のはざまに立って華やぎときめいてゆく。それはもう、西洋人だろうと韓国人だろうと日本人だろうと、みんなそうだ。
 日本列島の無常感の伝統は「別れのかなしみ」の上に成り立っており、それはもう、世界中の人の心の通奏低音でもある。
 死ぬことは名誉でもなんでもないが、人の心は、死の淵に立って華やいでしまう性質を持っている。今どきは「生の尊厳」などといって、生き延びる能力ばかりが称揚される世の中で誰もがその価値観に染められてしまっているが、それでも人の心は死の淵に立って華やいでゆくことがあるのであり、それこそが人が生きてあることの普遍的なかたちでもある。
西洋人も、「日本人は……」などと他人事のようにいうな。あなたたちだって、自殺するときはそういう心模様になっているのだ。べつに自殺率が低いからといってえらいわけでもなんでもない。自殺が存在することは、人間社会の避けがたい運命なのだ。滅びるもよし滅びないのもよし、すべては許されている。
「別れのかなしみ」は、人が自殺するときの心の華やぎになり、この生の心もまた、まさにその「もう死んでもいい」という「別れのかなしみ」の上に立って華やぎときめいてゆく。
 平和で豊かな社会のこの国の今どきの大人たちの心模様や顔つきは、「別れのかなしみ」と向き合い生きるタッチを持っていないからブサイクなのであり、そういう情況からインポのジジイや不感症のババアがあらわれ、えらそげな顔をしてのさばっている。
 この社会の動きからはぐれ、この社会で生き延びることに無能になってゆけば、とうぜんこの社会に対してもこの生に対しても「別れのかなしみ」を抱くほかない。彼らの心は、そこに立って他愛なく華やぎときめいてゆく。
 彼らは、現代のネアンデルタール人だ。ネアンデルタール人もまた、極寒の北ヨーロッパで生きることに無能な存在になりながら、他愛なく豊かにときめき合っていた。誰もが、生き延びる能力など持てない情況を生きていた。彼らを生かしていたのは、その歪んだ体型や体質ではなく、心の華やぎだった。そこで生きたことの「結果」としてそういう体型や体質になっていっただけのこと。
 人としての心の華やぎは、「もう死んでもいい」という「別れのかなしみ」から生まれてくる。インポのジジイや不感症のババアの生き延びようとする薄汚い欲望から生まれてくるのではない。
そんな大人たちに対する「もううんざりだ」という思いが現在の若者たちのあいだに蔓延している。今どきの大人たちは、彼らがうぬぼれるほどには、若者たちから評価されあこがれられているわけではない。大人たちがどんなにえらそげに扇動しても、無能な若者はどんどん増えてゆく。
 その潮流は、いったい誰が止めるのか……?「ときめく」心を失って「だめだ」と裁くことばかりしている大人たちがみんな死んでいなくなれば、少しはましな世の中になるのかもしれない。
生きることに無能になってゆくことこそ人間性の自然なのだ。そうやって原初の人類は地球の隅々まで拡散していった。その「新しい土地」は、理想郷でもなんでもなく、つねにより住みにくい土地だった。彼らにとって拡散してゆくことは生きることに無能になってゆくことだったし、心はそこから華やぎときめいていった。そうやってとうとう生きられるはずのない氷河期の北ヨーロッパまで拡散してしまった。
 心が華やいでゆく体験こそが人を生かしている。それが、命が活性化するということでもある。インポのジジイや不感症のババアがエラそうにほざいて、何をカッコつけていやがる。少しは自分の命や知性や感性の停滞・衰弱と向き合うことをしてもよかろう。他人を裁いて自分を正当化してばかりいやがる。人を裁くばかりで、少しもときめいていない。やさしいふりをしたって、他人なんか、自分を正当化するための道具だというくらいにしか思っていない。そうやって現代人はインポのジジイや不感症のババアになってゆく。
 歳を取って心の底からときめくということがなくなったと不満を漏らしながら、その停滞を補おうとして正義で人を裁くことばかり躍起になってゆく。人のことを問うたり気づいたり感じることをしないで、もう勝手に決めつけ裁くことばかりしている。
 ほんらい、人の心は死に近づけば近づくほど「ときめき」が深く豊かになってくるようにできている。歳を取ったからときめきが薄れただなんて、そんな言い訳してもしょうがない。その原因はあなたの人間性にあるのであって、歳を取ったせいではない。
 子供や若者は、子供や若者であるというそれだけで輝いている。さらにいえば、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」であるというそれだけで輝いている。インポのジジイや不感症のババアには、それに気づいたり感じたりするだけの知性や感性やときめきがない。インポのジジイや不感症のババアにかぎって、人としての輝きが自分のもとにあると思っていやがる。そうやって人をかわいそうだと憐れみ、人格者ぶる。それは人をさげすんでいるのと同義であり、そんなことばかりしているから「ときめき」がなくなってしまう。歳を取ったせいじゃない。もともと人は、最後の瞬間までときめいている生きものなのだ。
 彼らの心は、「別れのかなしみ」が通奏低音として響いていない。なれなれしく人を裁いたり、利用し合ったり、執着し合ったりしているだけだ。平和で豊かな社会は、そういう停滞=閉塞の状況をつくってしまう。


 追記
 もしかしたらこれは、日本国憲法第九条の問題であるのかもしれない。
 僕は政治のことはよくわからないからなるべくそういう発言はしたくないのだが、例の「安保法制」に反対だからといっても、戦争よりも平和だといっているだけですむとも思えない。平和で豊かなこの国で、どれほど人の心が荒んでしまってどれほど残酷に人と人が裁き合っているかという情況も確かに存在している。そういう鈍感で残酷な人間にかぎって、人は誠実に生きねばならない、などといいたがる。彼らは、誠実に生きているつもりになって、平気で恐ろしく残酷に人を裁いている。
 戦争がよくないといっても、平和だって人の心を停滞させる。平和の尊さなんて、戦争をするための口実であり、権力から下りてくるところの人を思考停止に追い込むためのスローガンにすぎなかったりする。
 戦争か平和かという問題など存在しない。人の心は、自然状態において、どちらからもはぐれていってしまう。はぐれていったところで心は解き放たれ、華やぎときめいてゆく。
 どんな社会がよい社会かという問題など存在しない。
 人の心は、社会からはぐれていったところで華やぎときめいている。
 どんな社会にならねばならないという問題など存在しない。誰もが「なりゆき」に身をまかせることができれば、それがいちばんいいのだろう。新しい社会がどんな社会になるかということなど、歴史の「なりゆき」によって決まってゆくことであって、人間が決めるべきことではない。
 右翼であろうと左翼であろうと、未来の社会はかくあらねばならないと決めつけるあなたたちのそのえらそげな思い込みに、人間的な豊かな知性や感性が宿っているとは思えない。
 人は「歴史のなりゆき」に身をまかせてしまう心模様を持っている。その心模様に付け込んで「かくあらねばならない」と扇動・誘導しようとするのは、その時点ですでに思考停止してしまっているのと同義で、「歴史のなりゆき」を味わい尽くすことのできる知性や感性を失っているのだ。
 右翼だろうと左翼だろうと、この社会がどうしてあなたたちの思う通りにならねばならないのか。
 この世のもっとも基礎的でしかももっとも深く豊かな知性や感性は、「歴史のなりゆき」に身をまかせるしかない「この世のもっとも弱いもの」のもとに宿っている。日本国憲法第九条は、誰もがそういう存在になってゆくことの上にしか成り立たないのかもしれない。
 戦争か平和かという問題など存在しない。今、この国の多くの人々が「歴史のなりゆき」に身をまかせようとしている。たとえこの国が滅びるという「歴史のなりゆき」が待っているとしても。
 人類は、二本の足で立ち上がって以来、つねに「歴史のなりゆき」に身をまかせながら歴史を歩んできた。そうやって歴史を味わい尽くす知性や感性を進化発展させてきた。人類は、歴史をつくってきたのではない、味わい尽くしてきたのだ。
 おそらく日本国憲法第九条は、対内的にも対外的にも、人と人が他愛なくときめき合うという人間性の自然がなければ成り立たないのだろう。まあそれが成立した終戦直後のこの国の人々には、そんな他愛ない関係や心模様があった。そのとき無残な敗戦に打ちひしがれていた日本人は、「この国をどんな国にしなければないのか」という問題を放棄した。そうして、目の前の人と人が他愛なくときめき合う「今ここ」を生きようとした。人々が求めたのは、そんな未来の国造りの思想ではなく、「今ここ」の娯楽=遊びだった。そんな国造りの思想として憲法第九条を受け入れたのではない。どうでもよかったから受け入れただけだ。そして、もしかしたらその気分は今でも続いている。なぜならそれが、この国の伝統的な歴史の無意識だから。
 この国をどういう国にしなければならないかという問題など存在しない、どういう国になってゆくのだろうという問いがあるだけだ。われわれはそんな大それたことは考えていないし、そんなことを考えるから偉いとも思わない。そんなことを考えるのも、ひとつの思考停止であり、知性や感性の停滞・衰弱にすぎない。
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