追いかける・ネアンデルタール人論85

 人間性の本質・根源は、「労働」にあるのではない。
 人が生きてあることは、お祭りの遊びだ。
 もちろん現代社会においては働いて金を稼がなくては生きてゆけないが、働くことがそのまま人間性の本質であるともいえない。
 共同体の制度いうか権力者は、民衆を働かせようとする。働くことが人間性の本質だと洗脳しつつ、働かないと生き延びられない社会をつくっている。生き延びようとすることが人間性の本質だと洗脳しつつ、民衆を働かせている。
 現代人はもう、生き延びようとするのが人間性の本質だと、すっかり信じ込まされている。それが生き物の本能だ、などとも合唱している。
 生き延びようとすることは、ひとつの「労働」だといえる。それはたしかにそうなのだが、生きものの意識や行動は生き延びようとするいとなみとしてはたらいているかというと、そうともいえない。
 ライオンがシマウマを捕まえて食うことは、生き延びようとするいとなみか?べつに生き延びるためじゃない。ライオンは「生きる」ということなど意識していないし、「死ぬ」ということも知らない。ライオンがそんな行為をするのは、生き延びたいからでも、死にたくないからでもない。それは、ただもう空腹の鬱陶しさから逃れたいからだろう。空腹の鬱陶しさとはすなわち身体を意識することの鬱陶しさであり、生き延びようとすることは身体を意識することなのだから、身体を意識することが鬱陶しいということは、生き延びることが鬱陶しい、ということでもある。
生きものの意識に「身体維持の本能」などというはたらきはない。身体のことなど意識したくないから食うのだ。食えば、空腹の鬱陶しさなどすっかり忘れてしまう。それは身体のことを忘れているということであり、身体が生き延びることを忘れている、ということだ。
生きものは、身体を維持しようとしているのではなく、身体のことを忘れようとしている。
たとえば、ムカデが自分の足の一本一本のことを意識しながら足を動かしていたら、足がもつれてしまうだけだろう。そのときムカデは、足のことなど忘れて足を動かしている。
生きものは、生き延びようとする意識で生きているのではない。「生きてあること=身体のこと」を忘れてゆくかたちで生きている。息をすれば、息苦しい体のことなどすでに忘れ、息をしようとする気も起きてこない。
 ライオンがシマウマを捕食することは、「身体=生きてあること」を忘れようとする行為であって、生き延びようとしているのではない。ライオンは「生きる」ということなど意識していない。ライオンだけでなく、生きものは、ただもう「結果」として生きてあるだけで、生き延びようとする「目的」を持っているのではない。
 生きものの生は、生を忘れてゆくというかたちに向かってはたらいている。
 身体のことを忘れてこの生からはぐれてゆくことが、「生きる」という「結果」をもたらす。生きものの生は、そういうパラドックスの上に成り立っている。


生きものは動いているものを追いかけようとする「本能(のようなもの)」を持っており、それが、肉食動物の捕食行動の基礎になっている。
 犬は、テニスボールを遠くに投げてやると、夢中になって追いかける。猫だって、そんな転がるものとじゃれて遊んでいる。べつにそれが食い物ではないことはわかっているのに、追いかけずにいられない。それは、それを食って生き延びようとする行為ではない。ただもう本能的に追いかけずにいられない。食うことよりももっと本能的に追いかけている。
 その動くボールは、「今ここ」の変化であり、「今ここ」から「はぐれてゆく」存在だ。「今ここ」から消えてゆこうとしている。追いかけないと、「今ここ」から消えてしまう。その消えて行く先は「未来」ではない。「今ここ」の外の世界だ。そのとき犬や猫の意識は「未来」に向いているのではない。「今ここ」の外の「他界」に向いている。彼らが「死」を意識しているはずもないが、「今ここ」が動くということは、「今ここ」が「今ここ」ではなくなってゆくということであり、「今ここ」が消えてゆくということだ。意識は、「今ここ」気づく装置であり、「今ここ」に気づき続けようとして追いかける。追いかけないと、「今ここ」が「今ここ」でなくなってしまう。意識とは「今ここ」に世界が存在するということに驚きときめく装置であり、「今ここ」の動くものを追いかけ続けることによって、意識は意識であり続けることができる。「今ここ」が動かなければ、意識もまた消えてしまう。驚きときめくことは出会いの瞬間に起きることであり、出会いの瞬間を体験し続けることが、意識がはたらき続けることだ。そうやって犬や猫は動くテニスボールを追いかけている。テニスボールの「未来」を追いかけているのではない。テニスボールの「今ここ」を追いかけている。「今ここ」から消えようとしている「今ここ」を追いかけている。
 草食動物が草を食むことだって草が生えているという「今ここ」を消している行為であり、消してしまえば、自然に次の草が生えている「今ここ」に意識が向いてゆく。つまりそれだって、「草が生えている」という「今ここ」を追いかけ続けている行為にほかならない。


 生きものの意識は、たえず「出会いの瞬間」を体験し続けている、消えたり点いたりすることを繰り返しているはたらきであって、一本の線のように点きっぱなしになって続いているのではない。意識のはたらきは、「点線」なのだ。そしてわれわれはそのことを意識しているわけではないが、無意識のどこかで気づいていて、それが思考や行動のかたちの基礎になっている。われわれの心が人との出会いや物を得ることにときめいたり、人との別れや物をなくしたりすることに嘆いたりするということは、意識が点いたり消えたりするはたらきであるということの上に成り立っている。
 意識は、たえず「今ここ」に消えていっている。そして、たえず「今ここ」で発生している。それが、人が体験する「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」という心模様の基礎になっているのではないだろうか。
 息をすれば、息をしようとする「自分」も息苦しい「身体」も消えてゆく。息をすることは「今ここ」に消えてゆく体験である。われわれが何かに夢中になることは「自分=身体=生きてあること」を忘れてしまう体験であり、テニスボールを追いかけている犬もまた、そうやって夢中になっている。飼い主の手から放たれたそのボールは「今ここ」から消えてゆこうとしている存在であり、それを夢中になって追いかけている犬自身の生=存在の自覚もまた消えている。「夢中になる」ことは、消えてゆくことのカタルシスとして体験される。
この生は、「消える」という心的現象の上に成り立っている。
 生きものの「心が解き放たれる=自由」というカタルシスは、「この生=存在の自覚」が消えてゆく現象として体験される。夢中になってテニスボールを追いかけている犬は、そのとき「心が解き放たれる=自由」というカタルシスを体験しているのであって、「生き延びようとする本能」とか「捕食衝動」などという心の動きにうながされているのではない。もう純粋に「この生=存在の自覚」から解放されてゆくカタルシスがあるのだ。捕食行動をするために動くものを追いかけるのではない、動くものを追いかけるという純粋な本能(のようなもの)が肉食動物の捕食行動の基礎になっているだけのことで、捕食行動自体が本能(のようなもの)であるのではない。その「動くものを追いかけようとする本能(のようなもの)」は、「この生=存在の自覚」から解放されるカタルシスとして、すべての生きものにそなわっている。
「今ここ」が変化し、その変化を追いかけてゆくことが、生きものを生かしている。われわれ日本人が「季節のうつろいに想いを寄せてゆく」ということだって、まあそういうことだ。「季節のうつろい」はあくまで「今ここ」の現象であって、すっかり季節が変わればそれでよいというものではない。そういう未来を目指し、その達成感が「解放=自由」になっているのではない。日本人にとっては、「うつろいゆく今ここ」にこそ自分を忘れてときめいてゆくカタルシスがある。
「初春(はつはる)」とは、冬と春のあいだの、冬でもなく春でもないという消失点に立つ感覚である。そこにおいて心が華やぎときめいている。春が待ち遠しくて春になればもっとも心が華やぐというのではない。春そのものよりも、「初春」の「正月」の方がもっと晴れやかでめでたいのだ。
 テニスボールを追いかける犬だって、捕まえてしまえばもう、興味は失ってしまう。その「達成感」とやらによろこんでいる犬など見たことがない。人間(飼い主)は「よくやった」とほめているが、犬はもう「もう一度投げてくれ」という気になっているだけだ。そのとき犬にとっての「解放=自由」は、「追いかける」ことにあるのであって、「捕まえる」ことにあるのではない。
 そのときテニスボールは「消えてゆこうとしているもの」であり、それを捕まえようとしているということは、「消えてゆくこと」にときめいている(=憑依している)ということだ。そこにこそカタルシスがあるのであって、捕まえてしまえば、それはもう「消えてゆこうとしているもの」ではない。
「動く」とは、「今ここ」から消えてゆくこと。生きものの意識は、その消えてゆこうとしている「今ここ」を追いかける。それは、みずからが「今ここ」に消えてゆこうとする衝動でもある、ともいえる。それを「死の衝動」というならまあそういうことなのだが、この生はそこにおいてもっとも活性化する。
 生きものが動いているものを追いかけるのは、生き延びようとする衝動によるのではない。それは、この生から解き放たれてゆく現象であり、そこにおいてこの生はもっとも活性化する。
 生き延びようとするのはこの生に閉じ込められることであり、そうやって命が停滞し、衰弱してゆく。
 この生、すなわちみずからの存在を確認することが、われわれの「解放=自由」になるのではない。みずからの存在が「消えてゆく」体験にこそ「解放=自由」のカタルシスがある。
 心は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに華やぎときめいてゆく。生きものの生は、そのようなかたちになっている。だから犬は、テニスボールを追いかける。犬にそういう無意識があるのかどうかはわからないが、犬だって「もう死んでもいい」というかたちで「解放=自由」のカタルシスを体験している。
 その「解放=自由」のカタルシスが生きものを生かしているのであって、生き延びようとする欲望を膨らませていたら、命は停滞し衰弱してゆくばかりなのだ。現代人は、そういう罠に落ちて、認知症やら鬱病やらインポテンツを病んでいる。
 一般的には、食欲や性欲がこの生の基礎というか本能であるかのようにいわれているが、だったら食欲旺盛な認知症の年寄りは生命力が豊かだといえるか?インポテンツになれば性欲も希薄になっているかというと、そうでもなく、そうなってますます性欲をたぎらせている中高年がいくらでもいる。生き延びようとする欲望など、この社会の制度性に踊らされている文明人の、たんなる肥大化した自我意識にすぎない。生き延びようとする欲望をたぎらせると、命はますます停滞し衰弱してゆく。「命の尊厳」などといっている場合ではないのだ。そんなことを合唱しながら現代人は、いたずらに命を停滞・衰弱させている。
 空中に放たれたテニスボールを追いかけている犬は、この生の「解放=自由」を体験している。捕食衝動が動いているものを追いかける行動の基礎になっているのではなく、動いているものを追いかけようとする衝動が基礎になって捕食行動になっているだけのこと。
 生きものを生かしているのはこの生からの「解放=自由」であって、この生に閉じ込められこの生に執着してゆくことではない。そんなことをしても、この生は停滞・衰弱してゆくばかりだ。そのようにして現代人は、認知症鬱病やインポテンツになってゆく。


 この生の「解放=自由」は、「消えてゆく」という現象に憑依してゆく体験にある。
 ものが「動く」ということは「今ここ」から消えてゆこうとしている現象であり、自分の体を動かすことだって、「今ここ」から、あるいは「今ここ」に消えてゆこうとする衝動の上に成り立っている。
 われわれの意識は、「存在」を自覚する。そして存在を自覚することはいたたまれないことであり、「消えてゆく」という体験によって「解放=自由」のカタルシスを得る。存在を自覚(確認)することが「解放=自由」になるのではない。
 意識のはたらきの自然・本質は、「消えてゆく」ことにある。
 人類は、他の動物以上に「存在」を強く意識する存在であるがゆえに、「消えてゆく」ことの「解放=自由」のカタルシスも深くダイナミックに汲み上げてゆく。というか、「消えてゆく」ことの「解放=自由」のカタルシスがなければ人は生きられない。
 生きものの身体が「動く」ということの本質・自然は、「今ここ」から「消えてゆく」ということにある。
「われ思うゆえにわれあり」といっているだけでこの生の問題が解決するわけではない。「消えてゆく」カタルシスがなければ人は生きられない。「存在の自覚」があるから「消えてゆくカタルシス」が生まれてくるのだが、「存在の自覚」それ自体が「解放=自由=カタルシス」になるのではない。「存在の自覚」それ自体はひとつの「いたたまれなさ」だからこそ、そこからの「解放=自由」としてのカタルシスが汲み上げられる。そうやって人は旅に出るのであり、人と出会ってときめくという体験をする。
 原初の人類が二本の足で立ち上がったことは。「消えてゆく」という体験だった。そうやって誰もが他者の前からいったん消えて、他者の身体と体がぶつかり合うという事態が回避されていった。二本の足で立ち上がるということは、みずからの身体が占めるスペースを最小限にしてゆくということであり、そうやって消えていったのだ。それはとても不安定で危険な姿勢であり、猿よりも弱い猿になることだったが、それでもそこに「消えてゆく」ことのカタルシスがあった。だから、もっとも強いものももっとも弱いものも、いっせいに「思わず」立ち上がっていた。
 現在の人類学では、直立二足歩行の起源の契機を「生き延びるため」という「目的」として語ることばかりしているが、すべての仮説が科学的な説得力を持つことができていない。
それは、「生き延びるため」という問題設定では説明がつかない。だって、生き延びることができなくなる体験だったのだもの。それでも原初の人類は二本の足で立ち上がったわけで、そこのところを説明できなければ説得力にはならない。
生き延びることができなくても、「今ここ」において深い「自由=解放」のカタルシスがあれば、立ち上がってしまう。そこにこそ、人間性の本質・自然があり、それはそのまま生きものが生きてあることの本質・自然の問題でもあるのだ。
「生き延びる」という「目的」を持って生きている生きものなんかいない。人間だろうとほかの生きものだろうと、「結果」として「生き延びる」という現象が起きているだけのこと。人間だろうとほかの生きものだろうと、「生き延びる」という「目的」など持っていないものの命の方が活性化しているのだ。現代人は、そういう「目的」に閉じ込められて命が停滞・衰弱し、認知症鬱病やインポテンツになっている。
「生き延びる」という「目的」に執着し閉じ込められているものほど、知性も感性も人間的な魅力も欠落している。
 魅力的な人ほど生き延びようとする「目的=欲望」から解き放たれてあるし、「生き延びようとする目的=欲望」が天国やら極楽浄土やら生まれ変わりやらの「死後の世界」を信じ込む。死後の世界があろうとなかろうとどうでもいい、魅力的な人は「今ここ」に立って心が豊かにはたらくタッチを持っているし、それは「今ここに消えてゆく」というタッチなのだ。そこにおいてこそ、命のはたらきは活性化する。生き延びる「未来」なんかどうでもいい、「今ここ」に対してどれだけ心が豊かにはたらくかということこそ本格的な知性や感性や人間的な魅力の問題だし、人間ほど「今ここ」と深く豊かにかかわることができる存在もないのであり、それが「二本の足で立ち上がった」という問題なのだ。
 あなたは、生き延びようとする通俗的な欲望から解き放たれて存在することができるか。「死後の世界」の信じるということそれ自体が生き延びようとする欲望にすぎないのだし、正義ぶって「人類の未来」を説くことだって、すでに「死後の世界」を信じてしまっている心模様なのだ。人の心は、そんなすべての「未来」から解き放たれて、「今ここ」において華やぎときめいてゆく。そうやって原初の人類は二本の足で立ち上がっていった。人間性の自然・本質は、あなたたちの正義ぶった「人類の未来」論にあるのではない。この社会はあなたたちのものだから勝手にそんなことを合唱していればいいが、あなたたちのその言い方に人間としての知性や感性や人間的な魅力があるのではない。


 現在ンメジャーなスポーツのほとんどは、ヨーロッパから発生した。
 中でももっともメジャーなスポーツはサッカーで、北ヨーロッパのイギリスで生まれた。
 ヨーロッパは。体を動かす文化が発達している。
 日本舞踊とバレエにおける体を動かすことのダイナミズムの差というのはもう、歴然とある。日本列島は歩く文化で、ヨーロッパは走る文化だともいえる。
 走る能力にかけてはアフリカ人の独壇場だが、アフリカで走る文化がもっとも発達しているわけではないし、置換説の研究者がいうようにヨーロッパ人がアフリカ人の末裔であるなら、アフリカ人と遜色ない走る能力を持っていてもおかしくないはずだ。なにしろヨーロッパ人の方が走ることが好きな文化の歴史を歩んできたのだから、ヨーロッパ人の能力の方が優っていてもおかしくない。
 おそらくヨーロッパ人は、アフリカ人の末裔ではない。
 それはともかくとして、ヨーロッパでスポーツが発達したのは、それだけ体を動かすことが好きな人種だからだろう。厳しい環境に置かれてある歴史を歩んできた彼らは生きてあることのいたたまれなさをよく知っているし、体を動かすことはそこからの解放になる。
 アフリカ人は、生きてあることの停滞から逃れる作法として瞬間的に体を動かす文化を育ててきたし、ヨーロッパ人は、生きてあることのいたたまれなさ(騒々しさ)からの解放として持続的に強く大きくダイナミックに動かす文化を育ててきた。アフリカ人の体を動かす文化は一人で完結できるが、ヨーロッパ人のそれは、他者との関係の中に身を置きながら、さらに持続的に強く大きくダイナミックな動きになろうとしてゆく。そうしてそれが、サッカーをはじめとするスポーツやバレエの文化になっていった。
 おそらくヨーロッパのその文化の基礎は、アフリカからやってきたアフリカ人がつくったのではない。4〜3万年前にヨーロッパにやってきたアフリカ人などひとりもいない。
 それは、ネアンデルタール人以来の伝統なのだ。寒ければ、体を動かし続けるしかない。そうして、より持続的に強く大きく動かしながら、自分の身体(=寒さ)のことなど忘れてゆく。それは、まわりの他者を感じながら連携したり対抗したりしてゆくことによって実現する。原始時代のその生態の歴史が、ヨーロッパでスポーツが生まれ育ってくる基礎になっている。
 それは、生きてあることのいたたまれなさからの解放として生まれ育ってきた。ヨーロッパ人は、そういう生態の歴史を、はじめて極寒の北ヨーロッパに拡散してきて以来の50万年以上の厚みを持っているし、アフリカ人がつくることのできる歴史でもない。
 熱帯のアフリカ文化の伝統は生きてあることの停滞からの解放にあり、極寒の荒野で歴史を歩んできたヨーロッパ文化の伝統は、そのいたたまれなさからの解放として機能してきた。


 まあボールゲームのほとんどがヨーロッパ発祥になっている。それは、動いているものを追いかけようとする生きものの本能(のようなもの)の上に成り立っている。ネアンデルタール人がどうやって寒さから逃れていたかといえば、置換説の研究者がいうような「身体形質」だけの問題ではない。身体形質が寒さに適合するように変化してきたの寒さの中を生きてきたことの「結果」であって、それが「原因」になって寒さの中を生きてくることができたのではない。彼らは、そういう体を動かす「生態=文化」によって寒さの中を生きてきたのだ。
 ネアンデルタール人によって大型草食獣の狩りが本格化してきたこともまた、「動いているものを追いかける」という本能的な意識のはたらきが発達していったからだろう。
 彼らにとっての大型草食獣は、たんなる「食料」というだけではなかった。その「動いているものを追いかける」心模様は、対象に対するひとつの親密さでもあった。だから、洞窟壁画には、大型草食獣の絵ばかり描いたし、人間はほとんど描かなかった。なぜならそのときわれを忘れてときめき追いかけているのだから、人間を描く必然性がなかった。
 アフリカの原始時代の壁画は逆で、人間の姿がモチーフの中心だった。彼らの文化は、「われを忘れる」のではなく、暑さでぼんやりしかけている心を呼び覚まして「われに返る」ことにあった。彼らだって「食料」として大型草食獣の狩りをすることがあったとしても、ネアンデルタール人クロマニヨン人のような「親密さ」はなかった。
 生きものは、動いているものにわれを忘れてときめいてゆく。それがボールゲームの根源的な衝動であり、ネアンデルタール人はおそらくその衝動を基礎としてダイナミックに体を動かしながら寒さを忘れてゆく生態をつくっていった。
 彼らは、動いているものを追いかけながら、みずからもまた動いていった。そういう生態を持たなければその寒さの中を生きることができなかった。そうやって大型草食獣の狩りに熱中していったし、そうやって小さな旅をして近隣の集落に身を寄せてゆくということも少なからずしていたのかもしれない。なにしろ原始時代の旅は道なき道を歩き続けることだから、いったん遠くまで来てしまえばもう、もとの集落には戻れなかった。
アフリカ人の部族意識は歴史とともに固定化されていったが、ネアンデルタール人の集落はその生態ゆえの離合集散がかなり頻繁に起きていた。
 動いているものを追いかけることが好きなのだから、動いて旅してきたものも歓迎したに違いない。彼らの社会は、「出会い」と「別れ」が豊かに生成していた。
 人類拡散の基礎となった人々の動きがダイナミックかどうかということは、動く能力の問題ではなく、動かずにいられないメンタリティの問題なのだ。アフリカ人にどれほど動く身体能力があったとしても、彼らには部族から離れて遠くまで旅してゆこうとするメンタリティは希薄だった。
 動いているものを追いかけようとする本能的なメンタリティは、ネアンデルタール人の方がはるかにダイナミックだった。そしてそれは、われを忘れてときめいてゆくことなのだから、自分が「消えてゆく」心模様を生み出す。そうやってその社会に「出会い」と「別れ」が生成してゆく。


 原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、動いているものを追いかけようとする衝動と自分を忘れてときめいてゆく心模様が豊かになってゆく体験であり、それは「生き延びる」ということから「解放」される体験でもあった。
 生きものの体は、「生き延びる」ことからの「解放」として動いてゆく。だからムカデは、自分の足のことなど意識しないで歩いてゆける。自分の体のことなど忘れて体のまわりの「空間」だけを感じながら歩いている。生きものの体が動くのに必要な意識は、自分の体に対する意識ではなく、体のまわりに動くことができる「空間」があるということを察知する意識なのだ。だからゴキブリは、自分のまわりの「空間」を塞がれそうになると、素早く移動する。べつに「生き延びる」ためではない。生きものに、「生き延びる」という命題など存在しない。この生から「解放」される体験がないと生きられない。そうやって動くものを追いかけ、みずからも動いてゆく。つまり生きものの意識は、根源的には、「身体」にではなく、身体の外の「空間」に向いている、ということだ。身体を維持しようとする本能などはたらいていない。身体から「解放」されて体を動かしているのであり、生きている。
 身体を意識するのは身体の危機的状態のときだけであり、そうやって命が停滞し衰弱しているときに身体が意識される。身体のことを忘れて身体のまわりの空間を察知していなければ生きられない。
 人と人の関係だって、「出会い」と「別れ」が起きる「空間」が確保されているところでこそ、豊かにときめき合うことができる。
 人類の知性や感性は、「共生状態」の中で育ってきたのではない、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」とともに育ってきた。共生状態の中で生き延びようとしたのではない、この生や集団からはぐれながら「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」を繰り返して歴史を歩んできたのであり、それは動くものを追いかけようとする生きものとしての根源的な衝動の上に成り立っている。
 人類が「季節のうつろい」に親しみ深い心模様を持つ存在だとすれば、それが「動くもの」だからだ。人の心も、刻々に動いている。その動いていることに気づいたり感じたりするところに人間性があるのであって、人間性の自然=本質においては、誰もが愛だの憎しみだのと固定化された関係性を生きているのではない。
 人の心は、知らず知らず動いているものを追いかけながら、みずからもまた動いてゆく。
 人間社会には、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」が豊かに生成している、そういうタッチで人と人の関係が深まり、人間的な豊かな連携も生まれてくる。
「別れ」は人と人のあいだに「空間」を生み、「空間」が存在することによって「出会い」が起こる。
 まあ「共生関係」に対する志向が強くて「別れのかなしみ」と向き合うことができなくなってくると、精神を病み、知性や感性が停滞してくる。現代社会にはそういう人がたくさんいるし、人の心をそういうかたちにしてしまう社会の構造がある。そうやって認知症鬱病やインポテンツという現代病が起きている。
われわれのこの生は、「別れのかなしみ」の上に成り立っている。そのことと向き合うことができなくなると人としての「輝き=魅力」を失って、自己宣伝ばかりしてやれ「愛してくれ」だの「ちやほやしてくれ」だのとせっついていかないといけなくなる。そうやってせっつき合うことを「コミュニケーション」というのだとか。
「コミュニケーション=共生志向」という病。そんな機能に言葉の本質があるのではない。言葉の起源は、一方的な「出会いのときめき」の表出として生まれてきた。「意味」を伝達したのではない。コミュニケーション不能の「空間」を挟んで、たがいの一方的な「ときめき」を共有していった。つまり「別れのかなしみ」を共有しながら「出会いのときめき」を共有していったということ。原始人の思わず発してしまう音声に、伝達しようとする意味なんかこめられているはずがないではないか。それでも、音声を発しないではいられない「ときめき」があったし、それはもうまぎれもなく人間ならではの「言葉」だった。
 そのとき音声を発したものも聞いたものも、たがいの心の「動き」に気づいてそれを追いかけていった。言葉が生成している「空間」には、心の「動き」が生成している。
 他者の心の「動き」に気づいてゆく知性や感性が希薄なものは、言葉によって他者の心の「動き」を支配しようとする。それを、今どきは「コミュニケーション=共生関係」というらしい。
 まあ、気づかないで支配していった方が生き延びるには都合がいい。そういう処世術のことを、「コミュニケーション=共生関係」というらしい。現代社会には、そういう「共生関係」に対する飢餓感と「共生関係」に対す閉塞感が同居して蔓延している。
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