正義なんかいらない、官能性の問題だ・ネアンデルタール人論134

べつに生きたくて生きているわけではない。気がついたらすでに生きてしまっているだけのこと。意識=心は、生きてあることの上に発生する。したがって、意識=心が「生きようとする衝動=欲望」としてはたらくことは論理的にありえない。すでに手に入れているものを欲しいとも思わないだろう。
飯を食っているときに「食いたい」と思うことはできない。「食いたい」という欲望で食うことは不可能なのだ。その欲望は、まだ食っていないときにしか成り立たないのであり、永遠に「食う」ということにたどり着けない。「食う」という行為は、「すでに食っている」ことの「ときめき」の上に成り立っている。
「ときめき」といっても、さしあたり食い物の味のことはどうでもいい。味覚というものを持たない生きものもいるのだろうから。
食っていれば、「空腹」という身体の居心地の悪さが癒される。その心地にせかされて生きものは食い物を食っている。生きものは、身体の居心地の悪さから解き放たれようとする衝動を持っている。すなわち生きものの身体が動くとき、身体の居心地の悪さから解き放たれようとしているのであり、生きものの生のはたらきは身体の居心地の悪さの上に成り立っている、ということ。
「食う」という行為は、「空腹」という身体の居心地の悪さから解き放たれるカタルシス(浄化作用)の上に成り立っている。そういうカタルシス(浄化作用)を汲み上げることができなければ人は生きられないし、「居心地の悪さ」が基礎になければ汲み上げることはできない。生きてあることは居心地が悪いことであり、居心地の悪さを生きているものこそもっとも深く豊かにカタルシス(浄化作用)を汲み上げている。
「身体が動く」といっても、意識が身体を動かす、というだけのことではない。ひとまず表面的な意識とは無縁の内臓だって、その居心地の悪さというか不調不具合を収拾するようにはたらいている。それを「ホメオスタシス」という。体に毒が入ってくれば、内臓が勝手に排出してくれる。尿とか便という余分なものがたまってくれば、意識に向かって「居心地の悪さ」という信号を出しながら内臓自身が排出しようとしている。
意識=心だって、その本質・自然においては、体のはたらきをなぞるようにしてはたらいている。
この生は、その本質=自然において居心地の悪いものなのだ。だからこそ、「生きる」というはたらきが起きる。べつに生きようとする欲望を持っているわけではないが、生きていればどうしても居心地が悪くなってきて、そこから解き放たれようとする動きが起きてくる。
じっとしていられないから動くのであって、動きたいという欲望で動くのではない。生き延びようとする欲望で生きているのではない。生きてあることが居心地の悪いことだから、そこから解き放たれようとして生きてしまう。
生きてあることの基礎が快適で充足したものであるなら、心のはたらきも命のはたらきもどんどん停滞衰弱してゆく。そうやって現代社会の大人たちは、「世界の輝き」に対する「ときめき」を失い、みすぼらしい顔つきになったりインポテンツになったりしている。
体の動きが鈍い運動オンチは、自分で体を動かそうとする意識が強すぎて、体が勝手に動いてしまうというタッチを持っていない。テーブルの上のコーヒーカップに手を伸ばすとき、手を伸ばそうとする意識以前に、身体自身による喉が渇いているという身体の不調(居心地の悪さ)から解き放たれようとするはたらきがすでに作用している。
生きることなんか体が勝手にやってくれていることであり、その体のはたらきを追いかけるようにして意識が発生している。だからわれわれは、無意識のうちにコーヒーカップに手を伸ばすことができる。すべての体の動きは、体のはたらきにせかされて起きている。意識のはたらきだけで体が動くということはありえない。意識のはたらきは、体のはたらきのあとからしか発生しない。
われわれは、根源的には体=命のはたらきに添って生きているのであって、生き延びようとする欲望で生きているのではない。
生きてしまっているのなら、それはもう受け入れるしかないし、受け入れるというかたちで意識が発生する。観念的な思考でこの生の意味や価値をあれこれこじつけても、それによって命のはたらきや心のはたらきが活性化するわけでもない。
生きてあることの意味や価値が欲しければ勝手に探し出せばいい。しかしそれによってあなたの命のはたらきや心のはたらきが活性化するわけでもない。むしろ、そういう意味や価値に耽溺・充足しながらというか憑依しながら、命のはたらきや心のはたらきが停滞・衰弱してゆくのだ。
生きることの意味や価値に憑依し称揚しているものたちの命や心のはたらきがもっとも活性化しているのではない。そうやって次々に認知症やインポテンツになってゆく彼らの心や命のはたらきのなんとみすぼらしいことか。ちっともセクシーじゃない、というか。


生きてあることなんかどうしようもなくいたたまれないことであり、なんの意味も価値もない。むしろその「むなしさ」に憑依してゆくところでこそ、心も命のはたらきも華やぎ活性化してゆく。
まあ日本列島の伝統は「むなしさ」に憑依してゆく文化にあり、そこから「あはれ」とか「はかなし」とか「わび・さび」の美意識が生まれてきた。そこから心や命のはたらきが華やぎ活性化してゆく文化を育ててきた。中世や近世の知識人や僧侶が「無常」という「むなしさ」を語るとき、なんと熱っぽく詠嘆していることか。
日本列島の住民は、生きてあることの意味や価値に憑依してゆく伝統的な知性や感性を持っていない。それなのに戦後社会は、生きてあることの意味や価値を称揚する思想に染められて歩んできた。そしてそのことの不自然によって、現在における自殺の多さやいじめや認知症鬱病やインポテンツや発達障害等々、さまざまな矛盾=社会病理が露呈してきている。
生きてあることの意味や価値に憑依しても、心や命のはたらきが華やぎ活性化するわけではない。むしろ、それによってこそ停滞・衰弱してゆくのだ。現代人は、その自意識にとらわれながら、心や命のはたらきを停滞・衰弱させてしまっている。
「生きてあることの意味や価値などない」という認識は、たんなるニヒリズムではない、生きてあることを体にまかせるということ。意識が体を支配しようとすると、かえってぎくしゃくしてしまう。生きものは、「生き延びようとする本能」とやらで生きているのではない。生きてあることの「不調=居心地の悪さ」せかされて命のはたらきが起きている。
体は、動きたいから動くのではない。じっとしていられないから動くのだ。この生は、じっとしていられないほどにいたたまれないものなのだ。そうやって人類は地球の隅々まで拡散していったのであり、心もまたじっとしていられないほどのいたたまれなさを抱えているから豊かに動くのだ。
人類の直立二足歩行は、二本の足で立っていることの居心地の悪さ=いたたまれなさから解き放たれる体験として生まれ育ってきた。
この生に意味や価値があるとすれば、この生はいたたまれないものだということ、すなわちこの生は無意味で無価値だということがこの生の意味や価値だ。
人は「この生=みずからの身体存在」の意味や価値を忘れたがっている。「この生=みずからの身体存在」はいたたまれない。その「じっとしていられない」ところから心や命のはたらきは華やぎ活性化してゆく。他者の体を抱きしめれば、みずからの身体の存在感が消えて、他者の身体の存在感ばかり鮮やかに感じていられる。そうやって人はセックスをするのであり、人の心は、他者の身体に対するどうしようもない懐かしさを持っている。
赤ん坊は、お母さんに抱かれることを本能的にうれしがる。彼らはみずからの無力な身体のいたたまれなさを耐えがたいほどに抱えている存在であり、抱かれればもう、身体が消えてゆくことのカタルシス(浄化作用」がこの上なく深く豊かに体験される。その乳幼児体験が、人の心の、他者の身体に対するどうしようもない懐かしさや性衝動の基礎になっているのかもしれない。
生きてあることは、いたたまれない。生きものの体はじっとしていられないから動くのであって、生き延びようとしながら動きたくて動いているのではない。動くことはエネルギーを消費することだから、本質的にはそれ自体死んでゆく行為なのだ。それでも、体も内臓も動かずにいられない。動くことによって命のはたらきは活性化してゆく。死んでゆくことが生きることだ。命のはたらきは、そういう逆説の上に成り立っている。
苦しくてもがくことが、生きることだ。そうやって心も命のはたらきも華やぎ活性化してゆく。われわれはもう、もがき続けて生きてゆくしかない。
この生の意味や価値とか生き延びることの正義を声高に合唱している今どきの大人たちや市民運動家たちの知性や感性など、たかが知れている。
われわれは、彼らに負けるわけにはいかない。負け続けて生きるしかないのだが、それでも負けるわけにはいかない。この世の正義はぜんぶ彼らにくれてやっても、「真実」を問うことだけは手放すわけにはいかない。彼らのもとにより豊かな心や命のはたらきがあると認めるわけにはいかない。それは、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」のもとにある。