人は正常位でセックスをする・ネアンデルタール人論133

人の男と女がセックスをするということは、たんなる「肉欲」という言葉だけでは片づけられないし、知的で観念的だともいえない
人の男と女は、正面から向き合って抱きしめ合う。こんな体位はほかの動物はとらないが、それはもう、原初の人類が二本の足で立ち上がったときからすでにはじまっていたのかもしれない。その不安定で危険極まりない姿勢は、必然的にそういう体位をとらせる。それによっていったん外にさらされてしまった胸・腹・性器等の急所がふさがれるし、前に倒れそうな姿勢の不安定感も解消される。二本の足で立ち上がった直後こそ、今以上に切実にその体位を必要としていたのかもしれない。
人の心には、他者の体のどうしようもない懐かしさというものがある。猿のセックスは性器と性器をくっつけ合えばいいだけだが、人が正常位でセックスするのはそれだけではすまないからだ。
ネアンデルタール人は、氷河期の北ヨーロッパの厳しい寒さに凍えながら暮らしていた。そういう意味でも他者の体を恋しがったのだが、それは他者の体温が欲しかったということ以上に、抱きしめ合えば他者の体を感じることによって自分の体に対する意識が消えてゆくということにあった。
自分の体が消えてゆくということ、すなわち自分の体が「非存在の空間の輪郭」になってゆくということこそ、人が生きることの基礎になっている。それができなければ人は生きられない。
人類にとって二本の足で立っていることはとても居心地が悪い。不安定だし、二本の足だけで全体重を支えているのだから、すぐ疲れてしまう。それに、胸・腹・性器等の急所を外にさらしてしまっているという本能的な不安もある。だから「座る」という習俗を持っている。すぐ座りたがるのが人間で、それほどに居心地が悪い姿勢なのだ。それでも原初の人類は、その姿勢を常態化していった。
人類の直立二足歩行は、二本の足で立っていることの居心地の悪さからの解放として生まれ育ってきた。それは、重心を少し前に倒すだけで、ほとんど自動的に足が前に出てゆく。疲れないのではない。二本の足で全体重を支えて歩いているのだから、疲れないはずがない。疲れても歩いてゆけるのが人類の直立二足歩行であり、そのとき、足のことなど忘れて歩いている。つまり、そうやって身体が消えてゆき、「非存在の空間の輪郭」になっている、ということだ。そうやって居心地の悪さから解放され、心が華やぎときめいてゆく。そうやって心は、この生の外の「非日常」の世界に超出してゆく。
歩いていれば、心は華やぎ解き放たれて、景色をめでることも、人と楽しく会話することも、哲学的な思索にふけることもできる。
人は「居心地の悪さ」から生きはじめる。
「わからない」という居心地の悪さに立って「問い」を立て、そこから「答え」という「非日常」の世界に超出してゆく。「答え」は、この生の外の「非日常」の世界にある。つまり人にとって生きてあることは、それほどにいたたまれなく居心地の悪いことなのだ。
二本の足で立っていることの居心地の悪さが人類史に知能の発達をもたらした。人類は、二本の足で立って生き延びる能力を獲得したのではない、喪失したのだ。だからこそ「非日常」の世界に超出してゆくという、飛躍する脳のはたらきを持つことができるようになった。
人の心は、この生の外の「非日常」の世界に超出してゆく。その心模様とともに一年中発情している猿になった。この生がいたたまれないものだったから、一年中発情するようになっていったのだ。
人類がなぜ一年中発情するようになっていったかという問題は、知能や生き延びる能力が発達したからというようなことではない。原初の人類が二本の足で立ち上がることは生き延びる能力を喪失する体験だったのであり、人類700万年の歴史の前半の3〜400万年は猿と同じレベルの知能だった。そのあいだに一年中発情するようになってゆき、生き延びる能力ではなく、圧倒的な繁殖力を得て生き残ってきただけなのだ。
知能や生き延びる能力で性衝動が豊かになってゆくということなどありえないのだ。岸田秀は「人間は観念でセックスをする」などといったが、だったら観念が発達したインテリはみな精力絶倫なのか、という話になるではないか。サド・マゾとかフェティシズムとか、そんな観念的で変則的なセックスを人間性の自然であるかのようにいって何が面白いのか。
人のセックスの基本は、他者の体に対するどうしようもない懐かしさにある。つまり、抱きしめた感触に対するときめき、おそらくそれが基本になっているわけで、現代社会の中高年は、その観念的な傾向によってこそ、そうしたときめきを失いながらセックスのポテンシャルを減退させている。この生に耽溺・執着して生き延びようとするからインポテンツになってしまうのであり、人のセックスは、この生から超出してゆくことにある。この生から超出してゆくこと、すなわち「非日常」の世界に超出してゆくこと、そうやって身体が「非存在の空間の輪郭」になってゆく心地としてセックスの「カタルシス(浄化作用)=エクスタシー」が体験されている。
他者の身体を抱きしめれば、他者の身体ばかりを感じて自分の身体に対する意識が消えてゆく。そうやって自分の身体が「非存在の空間の輪郭」になってゆく。そうやって心は、この生から解き放たれて「非日常」の世界に超出してゆく。他者の身体は、そういう体験の契機として目の前に存在する。抱きしめれば、他者の身体の存在の鮮やかさや確かさばかりがありありと感じられる。
生きてあることのいたたまれなさから解き放たれるカタルシス(浄化作用)は、学問でも芸術でも恋でもスポーツでも娯楽でも買い物でも旅行でもお祭りでも、人はさまざまに体験しているのだが、セックスはそのもっとも基本的な体験のひとつであるのかもしれない。
生きてあることのいたたまれなさ、すなわち生きられないこの身体の居心地の悪さこそが、人を一年中発情している猿にしたのだ。
生きられない身体なのに、われわれはすでに生きてしまっている。だったらもう、この「生きられなさ」に身をまかせて生きるしかない。「やらせてあげる」ということ、心はそこから華やぎときめいてゆく。この生の「生きられなさ」が、人を一年中発情している猿にした。