セックスアピール(その一)・ネアンデルタール人論141

セックスアピールとは何か?
いざ考えてみると、よくわからない。
セックスアピールの本質はどこにあるのか?
よくわからないが、大いに興味をそそられる問題だ。
二本の足で立ち上がって猿よりも弱い猿になってしまった人類は、つまり生き延び能力を失った人類はしかし、ほかの猿とは違って一年中発情しているようになり、その圧倒的な繁殖力によって生き残っていった。
人類は、二本の足で立ち上がった瞬間から一直線に進化してきたのではない。その700万年の歴史の、半分の3〜400万年は、身体の大きさも知能のレベルもほとんど進化せず、ほかの猿と変わりなかった。生き延びる能力においてなら、それはむしろ退化する現象だった。それでも生き残ってきたのは、ただもう一年中セックスをしている猿になったからだ。
一年中発情しているようなメンタリティになっていったということ、それが人類を生き残らせ、やがて知能が爆発的に進化発展してゆく契機になった。
「発情」という言葉を広い意味に扱うなら、学問や芸術をすることだって発情していることなのだ。それは「答え」や「作品」という「非日常」の世界に超出してゆくことであり、セックスもまた、そうした「非日常」の世界に超出してゆこうとする衝動の上に成り立っている。
「発情する」とは、「非日常の世界に超出してゆく」こと。
人類は、二本の足で立ち上がることによって、この生の外の「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」を抱いた。それは「生きられない」姿勢だったのであり、生き延びることを断念しつつ、「今ここ」のこの生の外に超出してゆこうとした。というか、原初の人類の二本の足で立ち上がるという体験は、生き延びる能力を喪失しつつ「今ここ」のこの生の外に超出してゆくカタルシス(浄化作用)をもたらしたのであり、以来、そのカタルシス(浄化作用)を汲み上げながら歴史を歩んできた。すなわち、人類を生き残らせたのは「この生の外の非日常の世界に超出してゆくカタルシス(浄化作用)」だったのであり、生き延びるための衣食住の問題を第一義的に求めて歴史を歩んできたのではないということ。
人類を生き残らせてきたのは、生き延びようとする欲望ではなく、「もう死んでもいい」という勢いでセックスしまくってきたことにある。
原始人は、生き延びることを断念して歴史を歩んでいた。
ネアンデルタール人の社会は、たくさんの人が死んでゆく社会だったが、それと同じかそれ以上にたくさんの子供が生まれてくる社会でもあった。彼らは、毎晩のように抱き合ってセックスしていた。誰もがそうしていた。彼らの意識に「美男美女」という概念などなく、お気に入りの相手を独り占めしようとするものもひとりもいなかった。そうやって、誰もがセックスの相手を持つことができた。まあ、抱き合って眠りに就かないと凍え死んでしまう環境だったし、セックスして疲れ果てないと眠りに就けなかった。
しかし誰もが毎晩のようにセックスしていたということは、誰もが他者にセックスアピールを感じていたということであり、誰もがそれなりにセックスアピールを持っていたということを意味する。彼らが毎晩のようにセックスができたのは、セックスアピールが機能している社会だったからであって、けもののように野蛮だったからではない。けものは、年に一度か二度の発情期にしかセックスをしない。



人類は、一年中発情している存在になることによって猿のメンタリティから分かたれてゆき、そこからさらに学問や芸術をする存在にもなっていった。
学問や芸術も、セックスも、基本的にはこの生の外の「非日常」の世界に超出してゆくいとなみなのだ。それほどに人は生きてあることのいたたまれなさを抱えて存在しており、「非日常」の世界に超出してゆくことには深いカタルシス(浄化作用)がともなう。それほどに人は、生き延びることを断念している。もともと人はそういう存在だったのであり、われわれの無意識にはそういう感慨が息づいている。
人は、その人間性の自然において、生き延びることを断念している。断念することによって人類の歴史がはじまった。人の心はそこから華やぎときめいてゆく。
人の心は、この生の外の「非日常」の世界に超出してゆく。この感慨とともに人類は一年中発情している存在になっていった。
猿であれ人であれ、発情するとは目の前の相手にセックスアピールを感じることであり、そしてセックスアピールとは「非日常」の気配のことではないだろうか。発情期の猿のメスの性器は、赤く膨らんで「非日常の匂い」を発するようになる。オスは、そこにセックスアピールを感じる。しかし人の女の性器はそんな兆候もなく、しかもそれは二本の足で立ち上がって尻の下に隠されてしまったのに、それでも人の男は一年中女にセックスアピールを感じる存在になっていった。もしかしたら、性器が隠されてしまっているというそのことがセックスアピールになっていったのかもしれない。それは、「非日常」の世界に隠されてある。
二本の足で立ち上がった人類は、「隠されてある対象の非日常性」を感じるようになり、「非日常の世界」に超出したいという願い持つ存在になっていった。そうやって一年中発情するようになり、そうやって地球の隅々まで拡散していった。セックスも人類拡散も「非日常」の世界に超出してゆこうとする試みであり、「非日常性=セックスアピール」の発見によって人は人になった、ともいえる。
セックスアピールの問題は、セックスだけのことではなく、人の心の自然や本質ともかかわっている。
というわけで現代社会においてはセックスアピールの心理学はいろいろあってとてもややこしくなっているわけだが、顔かたちの美しさや知性や感性だけでなく金があるとか話が上手だとかおもしろいということだってセックスアピールのひとつだろうし、つまるところは「非日常」の世界に誘う気配のことではないだろうか。
何はともあれ、金があって所帯じみた苦労をしないですむなら、「非日常」の世界に遊んでいられる。なのに現代人は、なぜ金を使って所帯じみた衣食住のことに耽溺しようとするのだろう。
「人が生きてゆくためには自然の緑が大切だ」などといっても、なんだか所帯じみている。なぜ「人が生きてゆくためには」という言葉で誘導しようとするのか。人なんか生きてゆかなくてもいいではないか。人なんか存在しなくても自然は成り立つのだし、人は生きてゆけない存在だからこそ、より切実に自然にときめいてゆくのだ。自然は、人が生きてゆくために存在しているのではない。自然は、人なんかいないほうがもっと自然らしく存在することができるのかもしれない。自然の移り変わりを決定する権利が人にあるのだろうか。人も自然の一部であるなら、シロクマやオランウータンの絶滅がたとえ人のせいだとしても、それも自然の摂理の内だろう。「絶滅危惧種を救う」なんて、自然の摂理に対する敬意がなさすぎるのだ。そういう思想にはセックスアピールがない。だから、そんな正義で全人類を説得することができる日は永遠に来ない。そんな正義など、しょせんは俗物たちの自己満足というかエゴイズムにすぎない……ということがこのごろ露呈してきている。


ボードレールは「<生活>などというものは召使の女にくれてやれ」といったが、「生き延びる」ための「衣食住」に耽溺するなんて、所帯じみている。セックスアピールがない。
戦後の核家族は、バブル景気前夜の一時期は「ニューファミリー」などといってもてはやされたが、けっきょくは崩壊への道筋をたどるほかなかった。
戦後社会においては、通俗的な「生命賛歌」や「生活者の思想」などというものが幅を利かせてきた。その延長で多くの大人たちは、高度経済成長で豊かになっても生き延びるための衣食住のことに金を使うことしかできなくなっている。そうやって「生活の充実」を目指してこの生に執着耽溺してゆくことが戦後社会のスローガンになってきた。そしてそういう大人たちの上昇志向に洗脳されている子供や若者たちも少なくないのだろうが、その反動として衣食住なんて最低限でいいという若者の意識の風潮も生まれてきている。彼らは、親たちを眺めながら「衣食住=生活=日常」に耽溺することの卑しさに気づいていった。
現在は、戦後の歩みの総決算として「衣食住=生活=日常」に耽溺すること、すなわち「生き延びる」ことの正義がもっともあからさまに合意されている世の中になってしまっているのだが、だからこそその反動として、生き延びるための努力がうまくできない若者たちがあらわれてきた。彼らは、大人たちがつくるそうしたの集団のいとなみに息苦しさを覚える。あんなに頑張って就職活動をして入った会社なのに、耐えきれなくなって数年で辞めてゆくものも多い。
グローバル社会とは、ようするに競争に勝って生き延びてゆこうとする動きのことだろう。なぜそのことに邁進できないのかと大人たちはいぶかり嘆くが、衣食住のことなんか最低限でいいと思っているものたちに耐えられるはずがないのだ。着るものは「ユニクロ」でじゅうぶん、食うものなんかコンビニ弁当や居酒屋でけっこう……という気分は、生き延びるための「努力=コストパフォーマンス」なんか最低限でいい、という彼らの思想でもある。彼らは、この生に耽溺するよりも、この生の外の「非日常」の世界に超出したいと願っている。
内田樹などはこのことがおおいに気に入らないらしいが、しかしそれは彼らの「ずるさ」というよりも、生き延びることにあくせくしている大人たちが掲げるそうした正義に対する「幻滅」のあらわれなのだ。彼らは、内田樹が考えるほど生き延びることが正義だとは思っていない。だから、生き延びるための檜舞台であるはずの会社を辞めてしまう。


生き延びることにあくせくしている人間は、セックスアピールがない。そうやって今どきの大人たちは若者から幻滅されている。
たとえば、男でも女でも、「あなたは私がいなくてもひとりで生きてゆける人だから」というのが別れ言葉としてよく使われる。つまりそれは、「あなたにはセックスアピールがない」といっているのだ。
生きのびる能力なんか誇示しても、セックスアピールにはならない。
説得力とは、セックスアピールの問題でもある。「生き延びるために努力することは正義だ」といっても、その思想にはセックスアピールがない。
セックスアピールとはこの生の外の「非日常」の世界に誘う気配のことで、けっきょく若者はそういう論理に引き寄せられてゆく。
「モーレツ社員」とか「24時間働けますか?」などといって、若者が大人と一緒になって生き延びるためのコストパフォーマンスを支払うことに熱中していったバブルの時代こそ異常だったのだ。そしてその泡のような浮かれ騒ぎは、「生活者の思想」をそのまま延長していったところにあった。地に足をつけた「生活=日常」を大切にしようと、バブル景気の贅沢な「生活=日常」に浮かれ騒いでいようと、どちらもそうやって生き延びようとする自意識を満足させているだけのことで、戦後の日本人は、生き延びることの正義をスローガンにしながら、この生の外の非日常の世界に超出してゆくときめきを失ってきた。地道に生きようと贅沢に生きようと、この生に耽溺した大人たちのそうした生き方や思想に現在の若者に対する「説得力=セックスアピール」はなかったということが、近ごろいろんなかたちで露出してきているのではないだろうか。
人は、「正義の裁き」よりも、セックスアピールをそなえた「魅力的な解答」に引き寄せられる。若者たちは、とくにそうだ。今や、「正義の裁き」は、「魅力的な解答」になりえない時代になってきている。
「よりよい社会をつくるために」とか「よりよい人生を生きるために」とかというような正義のスローガンに若者たちが説得されなくなってきている。だから、むやみなコストパフォーマンスの労を厭う。そういう上昇志向は鬱陶しい。べつに出世したいとも思わないし、高級レストランで食事がしたいとも思わない。そんなことよりも、「今ここ」の世界の輝きにときめいていたい。それはたぶん、「セックスアピール」の問題なのだ。彼らは、生きることに執着した大人たちの「正義の裁き」に追いつめられつつ、そのみすぼらしい顔つきの「セックスアピール」のなさに幻滅してもいる。


戦後の「家族崩壊」は、高度経済成長とともに加速していった。それはけっきょく親たちの「男と女の関係」が不安定になっていったことに起因しているのだが、そうやって「家族=生活」に執着しながら夫(父)も妻(母)も人としてのセックスアピールを失っていったのだ。お父さんは、女房に対しても子供に対してもセックスアピールを失っていった。親たちは子供に対して「生き延びる=競争に勝つ」ことの正義をさかんに説いていったのだが、ついに子供を説得することができなかった。自分たちはその正義に説得されて上昇志向を紡ぎながら育ってきたのだが、子供たちの心はその正義にそっぽを向いたり追いつめられたりしていった。その正義は、高度経済成長の世の中の動きが止まれば、もう説得力はなかった。生き延びることの正義なんか普遍的な正義でもなんでもないし、そんな所帯じみた正義にセックスアピールはない。その正義は、所帯じみていると同時に、異様に自意識過剰でもある。そうやって今どきの大人たちは認知症やインポテンツになっていったりしている。
セックスアピールとは「非日常」の気配のこと。この生の外の「非日常」の世界に引き寄せられながら男は「やりたくてたまらなくなる」のだし、女は「やらせてあげたい」という気にもなる。つまりそうやって人類は、この世界の輝きにときめきながら何かに熱中したりしてゆくことによって、人間的な知性や感性を進化発展させてきたのだ。
今どきの大人たちの、その自意識過剰の自己撞着に、はたして人間的な知性や感性の輝きはあるか?それは、どんな分野であれ社会的に成功したかどうかという問題ではない、その人自身がこの世界の輝きにときめいているかどうかという問題であり、この世界はセックスアピールを持ってあなたの前に立ちあらわれているかという問題なのだ。それこそ戦後社会の総決算として、そんなことに気づいた若者たちが増えてきている。そうやって彼らはせっかく入った一流企業をやめてゆくし、衣食住なんかユニクロやコンビニ弁当や居酒屋でじゅうぶんだと思ったりしている。
社会的に成功することにしても、原発や安保法制に反対する今どきの市民運動にしても、けっきょくは人や世界を吟味し裁いてゆく意欲や能力の上に成り立っているのであって、世界の輝きに対するときめきがエネルギーになっているのではない。そんな正義のために、そして自分を満足させるためによけいなコストパフォーマンスを支払うなんてごめんだ……そう思って何が悪い?そんな若者たちのほうがずっと世界の輝きにときめいて生きている。
戦後社会の日本人は、「生き延びる」ための「生活=日常」に耽溺しながらセックスアピールを失っていった。それでも人が人であるかぎり、この生に閉じ込められてあることのいたたまれなさは誰の心の中にも疼いているのであり、この生の外の「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」が消えることはなく、そこに向かって超出してゆこうとする試みはつねになされている。人の心はそうやって華やぎときめいてゆくのであり、その体験なしには生きられない。
話が横道にそれてしまった。
次回は、もっとセックスそのものに沿って考えてみたい。
いや、どうなるかわからないけど。