セックスアピール(その二)・ネアンデルタール人論142

人類が一年中発情している存在になったということは、他者に対してより豊かにセックスアピールを感じる存在になっていったということを意味する。
身体生理が変わったということは「結果」の問題であって、「原因」ではない。「原因」は、そういうメンタリティに変わっていったということにあり、そういう集団の生態に変わっていったということにある。
人類は一年中発情している存在になることによって、猿から分かたれた。それによって圧倒的な繁殖力を得て猿よりも弱い猿でありながら生き残ってくることができたのだし、その「発情する」という「ときめき」が、やがて知能の進化発展をもたらした。セックスアピールは、人が人を想うことの基礎の問題であると同時に、人間的な知性や感性の基礎の問題でもある。
人類が一年中発情するようになっていったのは遺伝子の突然変異でそういう身体生理になったからだ、というよう解釈はたんなる思考停止でしかない。遺伝子学がさかんになってきた近ごろはなんでもそういう解釈ですませようとする風潮があり、直立二足歩行の起源だってそうやって説明している研究グループもあるのだが、直立二足歩行したからそれに合う遺伝子が残ってきただけのことだろう。ウマの世界にだって首の長さの個体差はある。つまりウマの世界にだって首が長くなる遺伝子の突然変異は起きているのであり、それでもキリンほど首が長くならないのは、そうなってゆくような生態を持っていないからだろう。そういう生態を持っていなければ、その遺伝子は残ってゆかない。
直立二足歩行したから、それに合う遺伝子が増えていっただけのこと。べつに、人類すべての個体においてそうした遺伝子の突然変異が同時に起こったというわけでもあるまい。ある個体だけに起こるから「突然変異」というのだろう。そしてその個体だけが特権的に子孫を増やしていったということなどありえない。ウマの世界でキリンのように首が長くても邪魔なだけだろう。同様に、猿の世界で一頭だけ直立二足歩行をはじめても、その危険で不安定な姿勢では戦う能力が脆弱すぎて、群れの最下位の順位に甘んじるほかない。群れ全体で直立二足歩行する生態を持っていたから、その生態に合う遺伝子が増えていっただけのこと。
ともあれ猿が二本の足で立つ姿勢を常態にすることは猿としての生き延びる能力を喪失する事態だったのであり、それでも立ち上がったのはそうするほかない状況があったからだ。そのとき人類は、「もう死んでもいい」「生き延びなくてもいい」という勢いで立ち上がっていった。そしてそれによって、生き延びる能力と引き換えに、一年中発情して圧倒的な繁殖力を獲得していった。


まあセックスだろうと学問だろうと芸術だろうとスポーツだろうと冒険だろうと、本格的になればなるほど「もう死んでもいい」という勢いで夢中になってゆく行為であり、そこにこそ二本の足で立っている人間性の自然がある。
一部の市民運動家たちが生き延びることの正義を合唱しながら原発反対や安保法制反対をどれほど声高に叫んでも、「勝手にやってくれ」と冷ややかに眺めているものたちも多い。
そして、原発や安保法制こそこの国が生き延びることにもっとも有効なのだ、といわれても、「なんだかなあ」と思ったりする。べつに積極的に反対するほどの意欲も思想も持ち合わせていないが、その「生き延びる」ということの正義に対する違和感がどこかしらにある。
どうせこの世界はあなたたちのものだから、あなたたちで勝手にやってくれればいい。われわれは、この国がどうなればいいかということなどわからない。この世界が滅びようと生き延びようと、われわれはただもうこの世界の「居候」として住まわせてもらっているだけだ。どちらにも加担できない。われわれはこの世界のただの「ごくつぶし」なのだから、この世界の未来を決定する資格も能力もない。
われわれは、「未来に対する志向性」に邁進して生きることができない。「今ここ」の世界の輝きに引きずられて生きているだけで、むしろ未来を断念して「今ここ」に立ちつくそうとする衝動がいつも疼いている。自分に生き延びる資格や能力があるなんて思っていないし、未来の自分なんか、生きられない愚かで弱いものとしてしおらしく「しぐれてゆく」のが分相応かなと思っている。
いつ死のうと、文句がいえるような人格も人生も持ち合わせていない。
自分なんか、この世の最低の存在だ。そうは思うのだけれど、因果なことに心はそこから華やぎ、気がついたら世界の輝きにときめいてしまっている。
人は、「未来に対する志向性」を捨てたところから心が華やぎ、より深く豊かに世界の輝きにときめいてゆく。会社や学校に行くことを忘れてアパートの一室にこもりながらセックスをやりまくっている男女は、まさにそういう状態を生きている。
人の心は、世界の輝きにときめいていたら、未来のことなんかどうでもよくなってしまう。言い換えれば、未来に執着すればするほど、ときめく心が希薄になってゆく。
「この生」に執着すればするほど、「自分」に執着すればするほど、世界の輝きに対するときめく心が希薄になってゆく。
他者にセックスアピールを感じるということは、「この生」や「自分」に貼りついた意識が引きはがされるという体験であり、「生き延びる未来」を忘れてしまう体験なのだ。猿よりも弱い猿になってしまった原初の人類はそういう体験をしないと生きられなかったし、そうやって一年中発情している存在になっていった。そしてその心の動きは、人類の歴史の無意識として、われわれの心の中にもどこかしらで息づいている。たぶん人は、そういう無意識をどこかしらに持っている。たとえ生き延びることが正義のこの社会やこの時代に飼いならされた観念でそれを否定しようとも、どこかしらで「未来なんかどうでもいい」と思っている。思っているからこそ、「ときめく」という心の動きが起きる。


人類の歴史は、他者の存在の気配にセックスアピールを感じたところからはじまっている。それが、「二本の足で立ち上がる」という体験だった。
セックスアピールとは、この生の外の「非日常」の気配のこと。二本の足で立ち上がった人類は、誰もがこの生からはぐれてしまっていた。そうやって、誰もがときめき合っていた。セックスアピールとはこの生からはぐれてしまっている気配のことだともいえる。二本の足で立つというその無防備で不安定な姿勢は、他者であれ天敵であれ、攻撃されたらひとたまりもない姿勢だったのであり、猿の集団としての存在基盤である、生き延びるための「順位争い」をしている余裕などなかった。その「生きられなさ」こそ「非日常」の気配であり、セックスアピールだった。そうして、ただもうひたすらときめき合い、一年中発情しているようになっていった。
そのとき人類は、生き延びるための「保身術」を失った。現代社会にも「順位争い」はあるが、そのための「保身術」に熱心なものにはセックスアピールの気配が希薄で、たとえそれが社会的に成功する能力になっても、おおむね異性にもてない。若者の多くは「保身など自分の関心ではない」というポーズを取りたがる傾向があり、それによって異性の気を引こうとするが、いざ結婚したりして近しい関係になるとだんだん保身のいじましさがあらわれてきて幻滅されることも珍しくない。
現実離れしていることがセックスアピールのひとつであることは誰でもわかっている。だからそのようなことをいって相手の気を引こうとするのだが、共同体の制度性が高度に機能し、しかも平和で豊かな社会になっている現代では、女でも男でも、ただのポーズでしかないことが多い。
保身など忘れて現実離れしてゆかないことには、セックスアピールもときめく心も育たない。であればそれは、保身など必要ない恵まれたエリートになるか、落ちこぼれになることを引き受けるかのどちらかしかない。いわゆる「大衆」とはその中間に位置する人々であり、「市民」と言い換えてもよいのだが、戦後社会の平和と繁栄によって、多くの大衆=市民がセックスアピールを失っていった。
まあ、二本の足で立ち上がった原初の人類はみな、この生からの落ちこぼれの「生きられないこの世のもっとも弱いもの」だった。そしてそれによってセックスアピールの気配を身につけ、一年中発情していった。
セックスは、生きられなさを生きる行為だ。だから女は、今にも死んでしまいそうなあえぎ方をする。
落ちこぼれることを怖がっていたら、セックスアピールは持てないし、世界の輝きにときめいてゆく心もしぼんでしまう。そうやって多くの若者が会社を辞め、「生きられない愚かで弱いもの」として存在することに甘んじてゆく。彼らは、生き延びるためのコストパフォーマンスを支払うことをあまりしたがらない。そうやってこの社会の動きから落ちこぼれてゆくのだが、この世のエリートである本格的な学者や芸術家だって、そんな出世競争のコストパフォーマンスよりも研究や創作に没頭したがっている。
まあ誰だって、自分の興味があることに対しては、寝食を忘れて熱中してゆく。寝食(=日常)を忘れてゆくことこそ、いたたまれないこの生のカタルシス(浄化作用)であり、われわれはもう「生き延びることの正義」に耽溺してゆくことはできない。


この生に耽溺してゆく「生活者の思想」よりも、いたたまれないこの生を忘れてときめいてゆく「セックスアピール」が問題だ。
官能性の問題、と言い換えてもよい。人類の歴史は「もう死んでもいい」という勢いの「官能性の問題」を基礎にして流れてきたのであって、生き延びようとする欲望によってではない。
ネアンデルタール人クロマニヨン人縄文人も、平均寿命は30数年だった。いったいこれが何を意味するのか。変ではないか。人類は700万年たってもまだ猿の時代からほとんど寿命が延びていなかった、ということだ。江戸時代になっても50数年くらいのものだったし、日本人が100年近く生きられるようになったのはここ数十年のことにすぎない。
生き延びることがそんなに大事なら、二本の足で立ち上がった直後からどんどん寿命が延びていったはずだ。人類は、生き延びることができる遺伝子よりも、「もう死んでもいい」という勢いの官能性が豊かな遺伝子を残してきた。
生き延びるためのいとなみとしての「下部構造」の問題が人類の歴史を決定してきた、というマルクス主義歴史観なんか大嘘だ。
なんのかのといっても、政治や経済(=下部構造)の問題を声高に叫んで生き延びることの正義にうつつを抜かしているあなたたちの知性や感性など、「もう死んでもいい」という勢いの官能性をそなえたものたちのそれにはかなわないのだ。学問や芸術においても、人としての基本的な「この世界の輝きにときめく」という心の動きにおいても。
セックスアピール(官能性)の問題は、セックスのことだけではすまない。高度な学問や芸術の問題であると同時に、人が人を想うことの基礎の問題でもある。
原初の人類は、「生きられなさを生きる」ものとともに生きようとした。「生きられなさを生きる」ものを生きさせようとしていった。「生きられなさを生きる」ことがこの生のかたちだと思い定めて歴史を歩んできた。
生き延びる能力に執着・耽溺していると、人間的な知性や感性も、人間性の基礎としてのこの世界の輝きにときめく心模様も、どんどん停滞・衰弱してゆく。それが現代社会の病理のひとつになっており、その病理はもう、恵まれたエリートの世界にも、掃きだめのような下層の庶民のあいだにも広がっている。押しなべて今どきの大人たちの多くが、そういう病理を抱え込んでしまっている。彼らは、この世界の輝きにときめくことよりも、この世界を吟味し裁くことばかりしている。ときめかなければ知性や感性は花開かないということを、彼らは知らない。歳を取ってときめかなくなった、などという言い訳は成り立たない。生きられないこの世のもっとも弱いものとしての死んでゆくものこそ、もっとも豊かに世界の輝きにときめいているのだ。