セックスアピール(その三)・ネアンデルタール人論143

人類が二本の足で立って一年中発情している存在であるかぎり、「もう死んでもいい」という勢いの心の動きが起きてくることは避けられない。その勢いにこそ人間的な知性や感性の本質があり、人が人を想うことの「ときめき」がある。
人の心は、そうやってこの生の外の「非日常」の世界に超出してゆこうとする衝動を持っている。
セックスとは、この生の外の「非日常」の世界に超出してゆく体験のこと。二本の足で立って生き延びる能力を喪失した人類は、そうやっていたたまれないこの生のカタルシス(浄化作用)を汲み上げていった。
直立二足歩行の起源は、生き延びる能力を獲得する体験だったのではない。現在の起源論は、そこにおいて決定的な誤解・誤謬がある。
生きてあることなんか、いたたまれないことじゃないか。人の心は、その感慨を基礎にして華やぎときめいてゆき、カタルシス(浄化作用)を汲み上げてゆく。この生はひとつの「けがれ」であり、「みそぎ」というカタルシス(浄化作用)を汲み上げてゆかないと人は生きられない。
どれほど幸せだろうと清く正しく生きていようと、人間であるかぎり、生きてあることは誰にとってもひとつの「けがれ」なのだ。「けがれ」だからこそ、そこから人間的な知性や感性やときめく心が育ってくる。
幸せとか清く正しく生きるとか、そうやってこの世の生き延びる能力を持ったものたちは「生命賛歌」を合唱したがるが、そんなものは彼らの過剰な自意識によるたんなる「我田引水」の屁理屈であって、人間性の真実でもなんでもない。彼らの多くは、そうやって自分やこの生に執着してこの生の外の「非日常」の世界に超出してゆく「ときめき」が希薄であり、だから認知症やインポテンツになっていったりする。ときめきの薄い自分を正当化しているだけの彼らの「生命賛歌」にはセックスアピールがない。そしてその「生き延びる」ことの正義を振りかざした論理は、生きられない弱いものたちを追いつめる。
生き延びる能力を持っていることが、そんなに偉いのか?おのれの幸せや清く正しく生きていることが、そんなにすばらしいことか?そんなことに執着しきったあなたたちの顔つきの、なんとブサイクなことか。あなたたちの生だってじゅうぶんけがれているのであり、それを自覚できないのは、ただの鈍感さか思考停止しているかのどちらかでしかない。あなたたちの知性や感性など、たかが知れている。
生きられない弱いものが生きられない弱いものであって、なぜいけないのか。この世のもっとも豊かな「ときめき」は彼らのもとにこそある。猿としての生き延びる能力を喪失した二本の足で立ち上がる姿勢は本質的にそういう構造を持っているのであり、今まさに死んでゆこうとしているものこそ、もっとも豊かに世界の輝きにときめいているのだ。
そうして彼らは、彼らは神や仏になってゆく。
生きられないこの世のもっとも弱いものこそ、もっとも神や仏に近い存在なのだ。人間的な知性や感性の輝きは彼らのもとにこそある。二本の足で立っている存在である人類は、普遍的に、生と死の境目に立っているものにひざまずいてゆく視線を持っている。そうやって人類は、「介護」や「献身」の文化を育ててきた。
生きられない障害者として生まれてきた子供を「神の子」として村中で大切に育てるというような風習はこの国でも昔からあったし、神は乞食姿に身をやつしてやってくるというのは伝承神話のひとつの定番になっている。その神が「恩恵」や「災厄」をもたらすというのはあくまで付け足しのことで、人はそういうこの生の外の「非日常」の存在に対して畏れや憧れを抱いている、というところから生まれてきた話なのだ。


つまり、この世でもっともセックスアピール持ったものとは、神のような存在のことをいうのだろう。
神は、この生の外の「非日常」の世界の住人だ。
神とセックスするという伝説は、世界中にある。
マリアは神とセックスしてキリストを生んだ、ともいえる。
神とセックスすることは女たちの理想であり、それこそが究極のセックスであるのかもしれない。セックスがこの生の外の「非日常」の世界に超出してゆく行為だとすれば、とうぜんそういうことになる。
この国の古代の「新嘗祭」は、新しく収穫した米を神に捧げる行事であると同時に、その夜は家の者は全員外に出て女が一人だけ残り神を迎えて神とセックスする、という習わしでもあった。まあたてまえはそういうことで、実際には、その夜だけは女房に不倫を許す、あるいはよその家の女房や娘と寝てもいい、という暗黙の了解事だったのかもしれない。
いずれにせよ、神とセックスするという理想を免罪符として掲げながらそれが許されていったのだろう。まあ一度くらい許さないことには陰で乱れに乱れてしまうという現実のなりゆきがあったのかもしれない。
チベットなどでは、今でも女房の不倫なんか当たり前らしい。旅の男をセックスでもてなすとか、それは神とセックスすることなのだ。いや、未開社会の女たちはどこでもそういうことをしたがる、という文化人類学の証言もある。
セックスアピールとは、「非日常」の気配のこと。そういう気配を漂わせた男や女がモテる。そういう「非日常」の世界に向かって男は「やりたくてたまらなくなる」のだし、女は「やらせてあげてもいい」という気分になる。
この生のいたたまれなさを知っているものでなければセックスアピールは持てない。それは、心の中に「非日常」の世界を持っているもののもとに宿っている。
平和で豊かな社会でこの生に執着・耽溺している現代人のセックスアピールはあいまいだし、他者のセックスアピールに気づいてゆく心の動きも鈍い。
未開人がただ環境世界(自然)と調和しながらのんきに生きていると考えるべきではない。彼らは、環境世界(自然)にほんろうされながら、生きがたい生を生きている。現代人より彼らのほうがはるかにこの生の外の「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」を切実に抱いているし、そこに向かって彼らなりにセックスアピールを感じている。そうやって彼らは、旅人をセックスでもてなす。
おそらくネアンデルタール人だって、旅人をセックスでもてなしていた。彼らこそ、この生のいたたまれなさをもっとも深く知っている人々だった。この国の江戸時代だって、宿の「飯盛り女」が旅人をセックスでもてなしていた。彼らにとって旅人は、この生の外の「非日常」の世界の住人としての「神」だった。
彼らはもう、本能的にセックスアピールを感じていた。
原始時代に「神」という概念などなかったが、他者に「神」を感じていた。他者に「神」を感じていたから、人間ではない存在としての「神」という概念を持つ必要がなかった。
人類がこの生に執着・耽溺するようになったのは、つい最近の近代になってからのことかもしれない。それとともにこの生の外の「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」が薄れ、セックスアピールを持ったり感じたりする能力があいまいになり、死が怖いものになってきたし、同時に男と女の関係も不調になってきている。