セックスアピール(その八)・ネアンデルタール人論148

人類はどのようにして「神」という概念を生み出したのかということは、人類史の大問題だ。
原始宗教(アニミズム)は「精霊信仰」や「呪術」として生まれてきたとよくいわれていて、それはまあ、現在のアフリカやアマゾン奥地の未開人の信仰がそうなっているからということらしいが、彼らは「未開人」であっても「原始人」ではないのだ。彼らのその信仰だって、エジプトやメソポタミアなどの文明社会の宗教的世界観や生命観が伝播していった結果として生まれてきたのかもしれない。陸続きであれば、いつの間にか伝播してゆく。人間世界の遺伝子と観念は、いつの間にか地球の隅々まで伝播してゆく。
原始時代に、人を裁く存在としての「神」という概念も、この生を支配している「霊魂」という概念もなかった。この国の縄文時代だって、国家も大きな都市集落も存在しなかったのであれば、そういう「精霊信仰」も「呪術」もなかったのだ。彼らの生を成り立たせていたのは人と人が出会ってときめき合う「祭り」の賑わいだったのだし、ネアンデルタール人だってそういう「祭りの賑わい」としてフリーセックスの社会をつくっていた。
まあここでいう「神性」は、「非日常性=セックスアピール」のたんなる比喩であり、キリスト教ユダヤ教の人間ではない存在としての「ゴッド」のようにとられても困る。
近ごろでは、若者たちのあいだで「神対応」などといういい方がよくされている。寛容な態度で人に接する、というようなニュアンスだろうか。他人を「正義」で裁くのではなく、許してゆく態度。であれば、原発や安保法制反対の市民運動も、嫌韓・嫌中国の右翼思想も、「神対応」とはいえない。それらのことにどんな感情や考えを抱こうとも、今どきの若者たちは、あの全共闘世代のような声高な反対はしない。大人たちに幻滅しているが、大人たちと戦おうとはしない。大人たちから追い詰められてはいるが、憎んでいるわけではない。「神対応」こそが彼らの理想であるらしい。そこのところが、全共闘世代とは決定的に違う。
すべてのものは赦されている、ということ。「神」の起源としての原始人が見ていた「神性」もそういうニュアンスであって、人間を神の正義で裁く「ゴッド」のようなことだったのではない。
今どきの多くの若者たちは、会社を辞めたりニートやひきこもりになったりしながら社会の動きから落ちこぼれてゆく。もちろんそれらの存在が少数派だとしても、そういう「時代の気分」はあらわれてきているのだろう。だから、「神対応」という言葉がはやったりする。彼らは、たとえば乞食姿に身をやつして村にやってくる神のような存在になろうとしているのだろうか。そうやってこの世のすべてを「裁く」のではなく、「許す=赦す」存在でありたいと願っている。
彼らは、「正義」よりも「セックスアピール=官能性」に心惹かれている。
セックスアピールとは「非日常」の気配のことであり、究極のセックスアピールは「神」のもとにある。
日本列島の古代の民衆は、戒律で人を裁く仏教の「仏」だけでなく、すべてを許している神道の「神」も大切にしていったわけで、現在の「神対応」という言葉もおそらくその伝統から生まれてきた。
それは、セックスアピール=官能性の問題なのだ。
ネアンデルタール人は、誰もが「もう死んでもいい」という勢いで生きていた。その気配こそが彼らのセックスアピールになっていたし、その勢いで毎晩のようにセックスしていた。それは、この生を忘れて「非日常」の世界に超出してゆく体験だった。彼らの「神」は「非日常」の世界に「誘う」存在だったのであって、どのように生きよと命じたり裁いたりする存在ではなかった。そしてそれは目の前の他者がそういう存在だったということで、彼らは目の前の他者に「神」を見ていた。
現代人にとっての「神」は人間ではない「ゴッド」のような存在だが、原始人は、人間そのものである他者の存在の気配に「神=非日常の気配」を見ていた。
いたたまれないこの生=身体に張り付いている意識(=けがれ)を引きはがしてくれる対象としての「神」、人類の「祭り」はそのような体験として生まれてきたのであり、そのような体験に誘われて人類は地球の隅々まで拡散していった。


人類の歴史はセックスアピールとともに流れてきたのであって、マルクス主義者たちが合唱するような生き延びるためのいとなみとしての「政治・経済=衣食住の問題」によって決定されてきたのではない。極端な言い方をすれば、猿よりも弱い猿だった人類は、だからこそ衣食住のことなどそっちのけでセックスしまくりながら生き残ってきたのだ。
世界の輝きとしてのセックスアピールが人を生かしているのであって、根源的には、生き延びようとする欲望によって生きているのではない。
人類史の99パーセントは満足に食えない時代だったが、食えるものなら何でもいいという生態で生き残ってきた。人類が雑食になったのは、食えるものなら何でもよかったからであって、美味い食い物を追求したからではない。原始人は、美食家ではなかった。何が美味いかといえば、身体生理的にも精神的にも、食い慣れたものがいちばん美味いに決まっている。だから馬や牛は草ばかり食っているし、ライオンは肉ばかり食っているし、日本人は米ばかり食ってきた。
人は、衣食住さえ満たされればそれでいいという存在ではないし、そんな満足や幸せに浸っているもののもとに人間的な知性や感性の輝きが豊かにあるのでもない。
人類は、地球の隅々まで拡散していった。旅をすれば、衣食住が不如意になる。食うものも着るものも住むところも、なんでもいいという心になければ原始時代の旅はできなかった。飢えることあるし、寒空の下で凍えるときもある。それでも旅をせずにいられなかったのは、人はこの生のかたちとして「ここにはいられない」という思いをどうしようもなく抱えてしまっている存在だからだろう。べつに、住みよい土地を目指したのではないし、食い物だって食い慣れたものがいちばんなのだ。旅をしていった先がたとえ住みにくくても、「ここにはいられなかった」のだ。
人間であるかぎり、どこかしらで「ここにはいられない」という思いがどうしても疼いている。そうやって今どきの若者たちは会社を辞めてゆく。大人たちに支配されて、ますますそういう思いになってゆく。そりゃあねえ、支配からは逃れたいですよ。そして、居心地のいい場所なんか、どこにもないですよ。人間性の自然として、人はそういう存在の仕方をしているのであり、だから他者の存在を許すことができるのであって、みずからを正当な存在として他者を支配しにかかるなんて、他者の存在を許していないと同じなのだ。
人と人は、「ここにはいられない」という思いを共有しながら「ここにいる」のだ。
この社会が居心地が悪いのは、われわれが貧しいからでも愚かであるからでもなく、支配されているという思いがあるからであり、支配しにかかってくる相手がどうしようもなく気味悪く見えてしまうからだ。「ここにはいられない」という思いを持っていないその鈍感さと傲慢さが気味悪いのだ。
みずからは「ここにはいられない」ものとして他者が「ここにいる」ことを許してゆく。人類が猿のレベルを超えて大きな集団をいとなむことができるようになった契機はそういう心模様を共有していったことにあるはずだが、現在の文明社会では支配制度の強化によって集団を維持しようとしている。支配に潜り込んでゆくことがこの社会で生き延びるための最上の方法になっており、それをうまくできないものが、「ここにはいられない」という思いに耐えて生きているのは、ほんとにしんどい。