セックスアピール(その七)・ネアンデルタール人論147

現在の人類学者をはじめとする歴史家は、人類はどのようにして「神」という概念を見出していったかという問題に対する考察がおそらく間違っている。それは、人類の文化の起源の契機に対する認識の問題でもあり、そこのところで根源的な誤解というか錯誤があるように思える。
そんな問題設定で人類の文化の起源に推参できるはずがないし、さらには「人間とは何か?」ということの通説のほとんどを書き換えてしまいたい。
宗教の起源は現在の地球上の未開人のような「呪術」や「精霊信仰」にあるだなんて、おそらく大嘘なのですよ。ほとんどの歴史家がそういうものだと決めてかかっているが、そんなことがあるものか。マルクスヘーゲルのような偉大な天才たちだってかんたんにそう思い込んでしまっているらしいが、そんなことはありえないのだ。それは、この生を支配する何か(=霊魂)があると思い、それに訴えてこの生を支配してゆこうとする作為的な欲望(=呪術)の上に発想されているわけだが、原始人はこの生やこの世界にそんな「作為」がはたらいているというような世界観や生命観は持っていなかったはずだし、この生やこの世界をどうこうしようとする発想もしなかったはずで、彼らはただもうこの生やこの世界に「反応」して生きていただけだろう。
現在だって乳幼児はこの世界の現象にそんな作為性を思い浮かべることはないだろうし、われわれ大人にしてもその無作為の感受性を残して生きているわけで、その「反応」する感受性をどこまで洗練発達させてくることができたかがその人の知性や感性の豊かさの尺度になっている。
人は、そんな作為的な発想ばかりしていると、インポテンツや不感症になってしまう。原始人がインポテンツや不感症になっていたら、人がかんたんにどんどん死んでゆく彼らの集団の存続は成り立たなかった。とくにネアンデルタール人などは、乳幼児の半数以上が死んでゆき、大人たちだって30数年以上生きられない状況であったのなら、男と女が他愛なくときめき合ってセックスし続け、子供を産み続ける以外に、集団が残ってゆくどんな方法もなかったに違いない。呪術や精霊信仰で男と女のときめき合う関係なんかつくり出せるはずもないのだ。みんな、生き延びたいと思っても生き延びることができない状況を生きていたのだ。だったら、生き延びようとする欲望なんか捨てて「もういつ死んでもいい」と思い定めて生きているのが人の心の自然ななりゆきというものだろうし、そんな人たちがどうして「呪術」や「霊魂」などというものを発想するものか。彼らは、「もう死んでもいい」という勢いで大型草食獣との肉弾戦の狩りに熱中していたのだし、死と隣り合わせのような困難なお産を引き受け続けていたのだ。
もちろん彼らに死にそうな病人に対する「生き返ってくれ」という願いはあったにせよ、そこで懸命に看病し見守ることと、呪術で生き返らせようとすることのあいだには、千里の隔たりがある。自然にそういう発想になってゆく、というような問題ではない。彼らは人類史上もっとも深く豊かに死に対する親密な感慨をを抱いていた人々であり、「生き返ってくれ」という願いで懸命に看病し見守ると同時に、「死んだら楽になれる」という思いもあった。彼らは「死者の尊厳」というような視線を持っていたから「埋葬」という行為をはじめたのであり、彼らにとって死は、文明社会のような「けがれ」という意識ではなく、逆にそれこそがもっとも完結した「みそぎ」という「カタルシス(浄化作用)」の体験だった。そういう人々にとって呪術で無理やり生き返らせようとすることは、とても罪深い行為であり、死者の尊厳に対する冒涜であったはずだ。もしも彼らがそういう呪術をしていたとすれば、それは死をたんなる「けがれ」としてとらえていたということであり、だったら「埋葬」なんかしないでどこか遠いところに捨ててきたはずだ。
彼らが「埋葬」という行為をはじめたということは、それほど死に対する深く親密な感慨があったということを意味するのであり、死を「けがれ」ととらえがちなわれわれ現代人がそれでもそれだけではすまない葬送儀礼をしているのはその起源においてそういう感慨があったおかげであり、原始人が死んでゆく病人を呪術で無理やり生き返らせようとしていたということなどありえないのだ。もしそうだったのなら、たとえば死んだら霊魂だけの存在になって天国に行くのであって死体そのものはただの抜け殻にすぎないと考えている欧米人は、わざわざ埋葬するということもしないだろう。また死者の尊厳を想うから死んだら天国に行くという観念も生まれてきたのだろうし、その起源においては、死ぬのが怖くてそういう世界を思い浮かべたというわけでもないだろう。
人類は、あとの時代になればなるほど死が怖くなってきたのだ。したがって死に対する恐怖や「けがれ」の意識が宗教の起源の契機になったということは論理的にありえない。
つまり、宗教の起源に「呪術」も「精霊信仰」もなかったのであり、「神」も「霊魂」も「天国」も「極楽浄土」も「生まれ変わり」もなかったのだ。
もしも原始時代の「埋葬」という集団の習俗が宗教の起源だといえるのなら、それは、「死(あるいは死者)の尊厳」に気づいていったことにあり、べつに死が怖かったからとか幸せになるためとか、そんな現代的な理由が契機になっているのではない。生老病死の「苦」を解決するためとか、そんなことではない、そんなことは文明社会になってから起きてきた自意識の問題であって、原始人はその「苦」をそのまま受け入れていた。あるいは、自分を忘れて世界の輝きにときめいてゆくというかたちでその問題をすでに解決していた。


人類が「神」という概念を生み出したのはこの生の外の「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」を持っていたからであり、「神」という概念を持たなかった原始人だって、世界や他者の輝きのその「非日常性」に「神性=セックスアピール」を見ていたのだ。
起源としての「神」という概念というか言葉は、現在のようなこの世界の「創造主」としてではなく、この世界の輝きそれ自体、あるいはそれに対する感動=ときめきをあらわしていただけだろう。
聖書では「はじめに言葉ありき」という。
人類史において「神」という言葉が生まれてくる契機はどこにあったのか?
人類の言葉は、世界中どこでも、人間ならではの「やあ」とか「おお」とかの思わず発してしまうさまざまな音声、すなわち「感慨の表出」の機能として生まれてきたのであって、ものごとの名称を説明・伝達する機能として生み出されてきたのではない。最初はそうした「感慨の表出」の音声=言葉が、おそらく数百万年単位のとても長い年月をかけて洗練発達してゆき、その結果として、そのような音声=言葉をものごとの名称に転化していったのだ。
たとえばやまとことばの「くま」は、最初「怖い」という感慨をあらわす言葉だったのであり、それが動物の「熊」や端っこをあらわす「隈」という物事の名称の言葉に転化されていった。そしてもともと「心細い」という感慨の表出だった「はし」が、「危なっかしい」というニュアンスを持った「橋」「箸」「端」「嘴」等の物事の名称をあらわす言葉になっていった。
では、語源としての「かみ=かむ」という言葉は、どんな感慨をあらわしたのか。
語源としての「噛む」は、食い物を噛み砕く行為をあらわしたのではなく、噛み砕くことによって食い物の味に「気づく」ことをあらわした。
「か」という音声は、心が鮮やかに強く動くことによって発せられる。「ときめき」や「怒り」や「絶望」の音声。
「む」は、心が「落ち着く」ことや「停滞して動かなくなる」ことによってこぼれ出る音声。だから、判断停止に陥ることを「むむむむ?」などとあらわしたりする。そこから、「組む」とか「踏む」とか「沈む」とかの「完了」のニュアンスを持った動詞の語尾として使われるようになっていった。
「かむ」とは「気づく=納得する」という感慨をあらわす言葉だった。すなわちもともとは、この世界の森羅万象の出現に気づき感動して(ときめいて)ゆく体験をあらわす言葉だったのだ。
仏教伝来とともに「神」という概念を知った日本列島の住民は、それはきっと「森羅万象の輝きのもとになっている存在」のことだろう、と解釈していったわけで、だったらそれはもう「かみ」と呼ぶしかない。たとえ漢語で「じん」というのだとしても、自分たちは「かみ」と呼ばないと腑に落ちて納得してゆくことはできない。「神」と呼べば、「なるほどそうか」と納得できる。だから「古事記」では「かみ」という表記にこだわった。「じん」とはいっていない。「古事記」は、その当時の日本列島の住民が外来の「神」という概念の解釈を模索しながら生まれてきた物語だった。森羅万象の輝きや出現に驚きときめく体験ならわれわれだってしている、と納得していった。だから、「じん」ではなく、「かみ」と呼ばないことにはしっくりこなかった。
やまとことばの「かみ」は、森羅万象に対する「感動=驚き=ときめき」をあらわす言葉だったのであって、森羅万象を支配する存在をあらわしていたのではない。
つまり、文明社会の制度性に対するなじみが薄くまだまだ原始的な感性を残していた古代の日本列島の住民はそこで、人類普遍の「かみ」という概念というか言葉の「起源」を体験していったのだ。


西洋の「神=ゴッド」という言葉だって、起源においては「この世界の創造主」という意味だったとはかぎらない。
原初の人類は、思わず発するその音声の一音一音にこめられた感慨のニュアンスに気づきながら言葉を育ててきたのであり、それはもう世界中どこでもそうだったのではないだろうか。
「こと」というやまとことばがある。「もの」と「こと」の「こと」。それは、もっとも基本的なやまとことばのひとつに違いなく、多くの古代文学研究者や言語学者や哲学者がその言葉の本質について論じている。
僕だって、僕なりの解釈がある。それを「一音一義」の問題設定で考えてゆけば、「もの」とは「まとわりつくもの」であり、「事物にまとわりついている先験的な与件」というようなニュアンスをあらわし、「こと」は、逆に森羅万象の「出現」をあらわしていることになる。
「わたし、女だもの」というときの「もの」は、女であるという先験的な与件にまとわりつかれていることをあらわしている。「ものものしい」といえば「大げさな気配がまとわりついている」ことで、「ことごとしい」といえば「大げさな気配を騒ぎ立てる(=出現させる)」こと。
「まとわりつく<もの>」と「出現する<こと>」。「生まれるもの」といえば赤ん坊ををあらわし、「生まれること」といえば「誕生」という現象の生起(=出現)をあらわしている。例を挙げればきりがないのだが、ひとまず僕は、この解釈ですべての「もの」と「こと」の用例の説明がつくと考えている。
で、「こと」を大げさに強調していえば「ゴッド」になる。
「ゴッド」だって、起源においては「出現」をあらわす言葉だったのではないだろうか。森羅万象の出現、そしてそれに対する驚きときめく心が生起・出現すること。原始時代はその「出現する」ことの「神性」にときめきながら歴史を歩んでいただけだったが、文明社会になってその現象を支配している存在を考えたとき、「ゴッド」と大げさにいったほうがしっくりきたのかもしれない。
古代ギリシャやローマでは「神」のことを「テオス」とか「デウス」といっていたそうだが、やまとことばの「て=で」は「照る」というように「輝き」をあらわす音声で、古いギリシャ語やローマ語にもそういうニュアンスがあったかもしれない。まあ古代ギリシャ最高神は太陽の神なのだから、「輝き」こそ「神性」だという意識があってもおかしくない。そして彼らはこの世界の森羅万象を「神」にしていたのであれば、その起源もまた「森羅万象の輝きの出現」に「神性」を感じていったことにあったのかもしれない。
「きらきら輝く」とは、一瞬一瞬「出現」と「消滅」が繰り返されているような気配のこと。「隠れている」ものが「出現する」のであって、「ない」ものがいきなり「ある」に変わるのではない。その現象が「出現した」ということは、その現象が「隠れていた」ということ。
直立二足歩行の起源以来、人類は、「隠れているもの」に対する「遠い憧れ」と「現れ出るもの」に対する「驚き=ときめき」によって歴史を歩んでいた。
「神」は森羅万象の向こうに隠れている。すなわち「非日常性」という「神性=セックスアピール」に気づいていったこと、何はともあれこれが、人類史における「神」という概念=言葉の起源の普遍的な体験ではないだろうか。そうやって人類は、一年中発情している猿になっていった。
マルクスは、宗教はいずれ人類史から淘汰されてゆく、といったそうだが、それでも人がこの世界の輝きに「神性=セックスアピール」を見る知性や感性はなくならないだろう。
「認識する」とは「ときめく」こと。ときめかなければ、納得することはできない。ときめきながら知性や感性が育ってゆくのだし、ときめき合いながら人と人の関係は深まってゆく。
人間性の基礎は、「ときめく」という心の動きを持っていることにある。ときめきの薄い高知能者よりも、ときめく心が豊かな知能障害者のほうがずっと本格的な知性や感性を持っている。偏差値で計量されるいわゆる「知能」などというものは低くてもかまわないのだ。知能障害者だって人間性としての「ときめく」心はあるし、彼らのほうがわれわれ健常者よりもっと深く豊かにそれを持っていたりする。
人は、本質根源的に「生きられない弱くて愚かな存在」なのだ。
みずからの「知能=偏差値」にうぬぼれたりひけらかしたりしている凡庸なインテリに比べたら、超一流の学者のほうがずっとみずからの「愚かさ=わからなさ=生きられなさ」に身もだえしている。


内田樹は最近『日本の反知性主義』という、現在のこの国における「反知性主義的状況」を批判する本を出したが、この凡庸なインテリは「知性」とは何かということが何もわかっていない。知性とは「愚かさ」あり、「ときめき」なのだ。彼がもっともらしいことをいってもけっきょく口先だけであり、その文章をよく読んでみれば、いたるところにその凡庸さがにじみ出ている。たとえば……

他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。(『日本の反知性主義』より)

「自分の内側をみつめて判断する」なんてことは、「得心がいかない」「腑に落ちない」「気持ちが片付かない」ときであり、人の知性は「自分=身体」を忘れて納得してゆくのだ。だから知的障害者にだってときめく知性や感性がはたらいているわけで、彼らは知的障害であるがゆえにこそ、「自分=身体」を忘れてゆく契機を豊かに持っている。したがってその知性や感性のはたらきは、根源的であると同時に、究極の知性や感性でもあるのだ。
何が「身体反応」か、身体反応が鈍くさいものほど、そういう口先だけのカッコつけた言い方をしたがる。数学者の岡潔は「どんな高度な数学でもけっきょくは<情>で納得している」といっているのだが、それを聞きかじって「身体反応」などという言葉を持ち出してくるところが、かえって内田樹本人の自己撞着による知性や感性の底の浅さを露呈している。
この「いたたまれない生」を生きている人間という存在は、「自分=身体」を忘れて「世界の輝き」にときめいてゆく。そこにこそ「納得する=認識する」という人間性の自然・本質があり、人間的な知性や感性はそうやって「気づく=発見する」というカタルシス(浄化作用)汲み上げてゆく。
まあ知的障害者の「自分=身体」を忘れた「ときめき」はひとつの「神性」であり、人類の歴史は原始時代以来、その「神性」を崇め祀り上げてゆくとということをしてきた。そうやって「介護」ということをするようになり、それを契機にして「神」という概念が生まれてきた。
原初の「神=かみ」は、この世界の神羅万象をつくり支配している「創造主」でもなんでもなかった。この世界の森羅万象の「出現」それ自体を、そして森羅万象の出現に驚きときめいてゆく体験を「神=かみ」といっていただけなのだ。
やまとことばの「かみ」は、「驚きときめいてゆく感慨」の表出として生まれてきた。そのとき日本列島の古代人は、この言葉によって「出現する=隠れている」という「森羅万象の本質」を表現しようとしていたのであって、「森羅万象の創造主」のことを思い浮かべていたのではない。そしておそらく、人類は世界中どこでもそうやって「神性」というものに気づいていったのだ。
つまり、「神性」の起源は「セックスアピール」にある、ということ。原初の人類が一年中発情している猿になっていったこと、それこそが「神」という概念=言葉が生まれてくる契機だった。