セックスアピール(その六)・ネアンデルタール人論146

「生きられなさを生きる」ことの恍惚というものがある。この世のもっとも本格的な学者や芸術家は、「わからない=生きられない」という状態に身もだえして生きながら、そこから新しい真理や色や形や音に「気づく=発見する=感じる=ときめく」という体験をしてゆく。「すでにわかっている」ことに満足しながら生きているのではない。そんなことにはなんの価値もない。「わからない=生きられない」ということに憑依してゆくことができることこそ、彼らの才能なのだ。
人間的な知性や感性の本質=自然は、「生きられなさを生きる」ことにある。それを「才能」という。学問であれ芸術であれ、彼らは「未知の荒野」に分け入ってゆく。そしてそれは、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の生きてある状態と、けっして別のものではない。弱いものたちだって、「この生の荒野」を生きている。明日も生きてあるかどうかわからない状態を生きている。その悲劇性の輝きを持っている。彼らこそ、今ここの世界の輝きにもっとも深く豊かにときめいている。みずからの生き延びる能力に執着・耽溺しているものたちとは、今ここに対する切実さが違う。
世界の輝きは、今ここの一瞬として出現する。その一瞬をとらえることができるはたらきを、知性や感性という。そしてそうした「気づく=発見する=感じる=ときめく」という心の動きが起きることもまた、一瞬の体験なのだ。この生もこの世界も、一瞬一瞬の積み重ねとして生成している。
人間的な知性や感性は「一瞬」を生きている。それは、明日も生きてあることを勘定に入れていない心に宿っている。「朝(あした)に道を問わば夕べに死すとも可なり」というが、まあ本格的な知性や感性はそのようにはたらいているのだし、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」もまた、「今ここの一瞬」にしかみずからの生きてある場所はない。そういうものたちこそもっとも豊かに「今ここの一瞬」と出会っている。
「ときめき」とは、「今ここの一瞬」に気づいた心のはたらきのこと。人間なら誰だってそういう心のはたらきを持っているし、そういう心のはたらきが停滞・衰弱して心を病んでゆく。
「ときめく」という体験をしてしまえば、人はどうしても「今ここの一瞬」を生きるようになってゆく。そうやって知性や感性が育ってゆく。であれば、生きられない知恵おくれ(精神障害)の子どものほうがずっとすれっからしの大人よりも豊かな知性や感性の輝きを持っている、という場合も多い。
昔のこの国には、「知恵おくれの子供は神の子だからみんなで大切に育てる」という習俗もあった。そういう子供こそ人間としての究極の知性や感性を持っている、ともいえる。


「生きられない」という「悲劇」を生きるところにこそ、人間性の自然がある。そして人間性の尊厳というものがあるとすれば、それは「生きられないこの世のもっとも弱いもの」のもとにある。原始時代に「神」という言葉や概念があったはずもないが、原始人はそういう存在に「神=神性」を見ていたのであり、その視線とともに「介護」という習俗が生まれてきた。つまり彼ら自身が「生きられなさを生きる」ためのよりどころとして、そういう存在をけんめいに「介護」していったのだ。彼らの生は、そういう存在に支えられていた。
人類の「介護」は、氷河期の極北の地で生きられなさを生きていたネアンデルタール人によって本格化してきた。
人類の「介護」は、生きられなさを生きているものたちによってなされてきたのであって、生き延びる能力を持ったものたちの「施し」として進化発展してきたのではない。
「介護」は、生きられなさを生きるものこそ、もっとも熱心にしているのだ。彼らは、介護の対象に「神性」を見ている。
たとえば昔の人の乞食に対する「施し」は、神に対する「捧げもの」でもあった。そしてそういう習俗は、貧しい庶民ほど熱心だった。
人類は、「生きられなさを生きる」ためのよりどころとして「介護」という行為をするようになったのであって、べつに生き延びる能力を持ったからその余裕でそういう行為を覚えていったのではない。
そのとき原始人は、介護の対象に「神性」を感じていった。
で、その「神性」とは何かといえば、「この生の外の<非日常>の世界の気配」だった。生と死の境目(裂け目)の向こうの、生でもなく死でもない世界。「生きられないこの世のもっとも弱いもの」である介護の対象は、そういう世界に立っている。


二本の足で立って「生きられなさを生きる」存在である人の心は、この生の外の世界に対する「遠い憧れ」を持っている。人類が「神」という概念を見出していったことの起源は、このことにあるのではないだろうか。
自分を忘れて何かにときめいたり夢中になったりはしゃいだりしてゆくことは、心が「非日常」の世界にワープしてゆくことであり、すなわちこの生の外に超出してゆくこと。そういう体験を繰り返しながら、しだいにそうした異次元の世界をイメージできるようになっていったのではないだろうか。
いきなり「天国」や「極楽浄土」や「生まれ変わり」を発想していったわけでもあるまい。そういう概念が生まれてきたのは、おそらく氷河期明けの文明の発祥以降のことだ。そしてそれとともに「神性」に対するイメージも変質していった。そのとき「神」は、もはや人間(=他者)ではない存在になっていた。
この問題も、いろいろ考えさせられて、一筋縄ではゆかない。
ともあれ日本列島では起源としての天皇がすでに「神」であったように、人間(=他者)に神性を見る原始的な心映えを残しながら「神=かみ」という言葉を生み出していったのかもしれない。
日本人は今でも、人に神性を見る原始的な心映えを残している。そうやって今どきの若者たちが「神対応」などといったりするのだし、天皇を神にしているといっても、そもそも西洋人とは「神」という概念に対するイメージが違うのだ。
この国の天皇は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」のイメージを「神性」にまで昇華していったところに成り立っている。この国の天皇は、神であって神ではなく、人であって人ではない。天皇も「生きられないこの世のもっとも弱いもの」も、そうやって人が「生きられなさを生きる」ためのよりどころとして存在している。
それは、この国の固有の文化というよりも、人類普遍の原始性なのだ。
人は「生きられなさを生きる」ことによって、心が華やぎときめいてゆく。そうやって人間的な知性や感性が進化発展してきた。
原始人の「神」は、「生きられなさを生きる」ためのよりどころだった。ネアンデルタール人の社会に生き延びる能力を持ったものなどひとりもいなかった。したがって現代人のように、生き延びることに執着・耽溺しているものもひとりもいなかった。彼らは「生きられなさを生きる」というその人間性を果てまで体験していった人々だった。
人類史の99パーセントは生きられなさを生きてきたのであり、それによって人間的な知性や感性を進化発展させてきた。そして現代社会においても、つまりはそういうかたちで人や世界にときめく人間的な知性や感性が生まれ育ってきているわけで、そこにこそ人間性の自然がある。
人は、生きられなさを生きようとする本能のようなものを持っている。
原始人は、生き延びる能力がなかったというより、あえて「生きられなさ」の渦中に飛び込んでゆくような生き方をしていた。まあ、そうやって二本の足で立ち上がり、地球の隅々まで拡散していったのだ。拡散してゆかなければ、その地で生き延びてゆく能力を上げてゆくこともできたはずだが、それでもあえて拡散していった。
原始人にとっての「神」というか、彼らが感じていた「神性」は、生き延びる能力だったのではなく、「生きられなさを生きる」ためのよりどころだった。


人類史700万年のの99パーセントの時代は生きられなさを生きてきたのであれば、今さら生き延びることの「幸せ」に執着・耽溺する必要もないのではないだろうか。
原始人は。生き延びる能力がなかったということ以前に、あえて生きられなさのの中に飛び込んでゆこうとする衝動を持ってしまっていた。そうやって二本の足て立ち上がり、地球の隅々まで拡散していった。
生き延びるためなら四本足の猿のままでいたほうがよかったのだし、拡散なんかしないで住み慣れた土地にとどまっていることがいちばん賢明な選択なのだ。
世の置換説の研究者たちは、7〜4万年前の氷河期のアフリカは地球気候の乾燥寒冷化によって住みにくくなってしまったからそこに住んでいたホモ・サピエンスが世界中に拡散していったのだという。何をバカなことをいっているのだろう。住みにくければ、なんとか工夫して住み着いてゆこうとするのが「生きられなさ」を生きようとする人間の本性であり、それが人間的な「知能」のはたらきの本質・自然なのだ。
それに氷河期のアフリカは、気候的には気温が下がって地球上でもっとも住みよい温暖な土地になっていたのだ。もともと拡散しないメンタリティの文化を生きてきた彼らはそこで、さらに拡散しないで、「部族」という限定された集団だけで世界を完結させてしまう文化を確立していったのであり、その文化がその後の文明社会の繁栄に取り残される足かせになっていったのだ。それは「知らないものにはときめかない」という文化であり、より生きやすくなった気候の中で、彼らはそれでもそういうかたちでさらに「生きられなさ=生きにくさ」をコーディネイトしていった。まあ生きやすくなったからこそ、そういう文化をつくらないと、身近なものにすらときめくことができない状況になっていたのだろう。そうやってアフリカのミーイズムが進行していったし、現在のこの国だって、戦後社会の経済発展とともに生きやすくなって、どんどんミーイズムが進行してきた。ミーイズムに閉じこもらないと身近なものにすらときめくことができなくなっているし、今どきの知識人たちは「ネットワーク」という部族意識みたいな集団の必要性を大合唱している。まあそうやって健常者どうしのセックスや、金や知能や容姿に恵まれたものどうしのセックスしかイメージできなくなっているから、乙武君という「神」にしてやられるのだ。それは、アフリカのミーイズムや部族意識とどれほどの違いがあろうか。健常者どうしや、金や知能や容姿に恵まれたものどうしのセックスしかイメージできなくなっているなんてずいぶん不自由な話だが、そういうかたちで「生きられなさ=生きにくさ」をコーディネイトしないと生きられない世の中になっているのだろう。
われわれの中には生きられなさを生きようとする遺伝子がはたらいているのだし、人間的な知性や感性はそこから生まれ育ってくる。
生きられなさを生きることによって、世界は輝いて立ちらわれるのだし、その輝きに驚きめくという「カタルシス(浄化作用)」を体験することもできる。けっきょく人は、その体験がなければ生きられない。
われわれのこの生は、幸せであればいいというだけではすまない。平和で豊かな社会だからこそ、そのことを称揚する一般的な気分と並行して「それだけではすまない」という気分も露出してきている。
今どきの若者が、バブル世代の大人たちと違って「着るものなんかユニクロでじゅうぶん、食うものもコンビニ弁当や居酒屋でけっこう」といっているのは、それだけで幸せを感じられるというよりも、「幸せだけではすまない」という気分をあらわしているのではないだろうか。それは、大人たちのように自分の幸せに執着・耽溺するよりも、自分なんか忘れて「世界の輝き」にときめいていたいという気分であり、彼らなりに「生きられなさ」を生きようとしているのではないだろうか。
「生きられなさを生きる」という悲劇。不条理、と言い換えてもよい。そこに人間性の自然があり、人類はそうやって二本の足で立ち上がり、地球の隅々まで拡散していった。
幸せだけではすまないし、幸せに浸っている今どきの善良な「市民」たちに人間的な知性や感性、すなわち「世界の輝き」に対するときめきが豊かに宿っているのでもない。むしろ、そういう善良な市民たちの「ときめく心の停滞・衰弱」という病理が露出してきている時代なのではないだろうか。


今やハリウッド的なハッピーエンドの物語では、人々の心に「カタルシス(浄化作用)」をもたらすことができなくなってきている。
ハッピーエンドは「バーン・アウト(燃え尽き症候群)」をもたらす。ハッピーエンドを目指すことによって肥大化したきた自意識(=欲望)が、そこで行き場を失ってしまう。だから、つねに新たな目指すべきハッピーエンドの物語が必要になり、そうやって「バーンアウト」を繰り返しながら、しだいにときめく心が停滞・衰弱してゆく。
戦後社会は、ハッピーエンドの物語を繰り返し生産し続けることによって心を病んでいった。
消費社会とは、人々が欲しいものを手に入れるハッピーエンドの物語に浮かれている社会のこと。今どきの若者たちは、「それはもういい」といっている。そうやって会社を辞め、昼飯はコンビニ弁当でけっこうという。高度経済成長の社会であくなき消費行動にうつつを抜かして生きてきた大人たちの顔つきやいうことや考え方や行動のみすぼらしさや醜さの、そのセックスアピールのなさにうんざりしている。彼らは、全共闘世代のように大人たちに反抗しない。なぜならそんな怒りや憎しみによっては、「世界の輝き」にときめく心は生み出さないからだ。
人は、「世界の輝き」という「神性=セックスアピール」を感じていないと生きられない。人類はそのことを体験しながら文化の進化発展の歴史を歩んできたのであって、生き延びようとする欲望によってではない。
人類史の99・9パーセントの期間は、今どきの大人たちのように生き延びることができる幸せにうつつを抜かして生きてきたわけではない。つねに「生きられなさ」を生きながら「世界の輝き」にときめいてきただけだし、今どきの若者たちはその人間性の自然を取り戻そうとしている。
人類史に進化発展をもたらしたのは、生き延びるための衣食住すなわち政治や経済の問題ではなく、「セックスアピール=神性」の問題であり、その「神性」はまた、文明社会の宗教や呪術の「神」や「霊魂」や「天国」や「極楽浄土」や「生まれ変わり」という問題でもない。たんなる「セックスアピール」、されど「セックスアピール」、という問題。「色気」と言い換えてもよい。どんな真理であれ、人はそこに「色気」を感じなければ納得しないし、多くの人々に共有されてゆくこともない。
右であれ左であれ、今どきの大人たちの語る「正義」には「色気=セックスアピール」がない。そもそも「正義」を語るようになったらおしまいなのだと僕は思う。神のまねをして人や世界を裁く「正義」を語るようになったら、その人の知性や感性はすでに停滞・衰弱してしまっている。