セックスアピール(その五)・ネアンデルタール人論145

人類はいつごろから障害者の「介護」という行為をするようになったかといえば、考古学の証拠としては10万年くらい前のネアンデルタール人はすでにそれをしていたといわれている。彼らは死をもいとわないような大型肉食獣との肉弾戦の狩りをしていたから、骨折などで満足に動けなくなることも珍しくなかったのだが、そんなものでもみんなの介護で老人になるまで生きていることができたらしい。
人類の赤ん坊は、極端に未熟な状態で生まれてきて、まわりの介護なしに生きることはできない。そんなことはもう100万年以上前からはじまっていたのだから、そのときからすでに介護をしていたともいえる。いや、鳥だって雛に餌を運んで来て与えている。哺乳動物はみな、母乳を赤ん坊に与えている。介護をすることは、生きものとしての本能のようなものかもしれない。まあ、その行為を障害者の介護まで延長してゆくことができたのは人類だけだろうか。
人は、生きられない弱いものに対する親密な感慨をより豊かに持っている。二本の足で立つ存在である人にとってのこの生の自然・本質は「生きられなさを生きる」ことにあり、そこから人間的な知性や感性も育ってくる。「生きられなさを生きる」ことの「悲劇」こそ人間性の自然・本質であり、人の世は「悲劇」の尊厳や美を共有している。
人は障害者を「神」のように崇めてゆく視線を持っているわけで、ネアンデルタール人はすでにそういう視線を持っていた。氷河期の北ヨーロッパに置かれていた彼らこそ、そのころの地球上でもっとも「生きられなさを生きる」人々だった。まあ誰もが「生きられなさを生きていた」のであれば、誰もが他者に対して神のような存在だったともいえる。すなわち、セックスアピールはその気配にこそある。
生きられなさを生きているから男は「やりたくてたまらなくなる」し、女は「やらせてあげてもいい」という気にもなる。
女は、男の「やりたくてたまらない」という気配を感じれば、「やらせてあげてもいい」という気分になったりする。女にも性衝動があるとするなら、そういうかたちで起きているのだろう。そのようにして「娼婦」という職業が成り立っているのだろうし、鳥だって、オスのけんめいな求愛行動に負けてやらせてあげている。
「娼婦」は人類のもっとも古い職業のひとつだともいわれているが、それは、文明社会になってやりたくてたまらないのにその機会を持てない男が増えてきたという、その需要にせかされて生まれてきた職業だともいえる。
「やりたくてたまらない」という願いは、「非日常」の世界に超出してゆこうとする衝動の上に成り立っている。
まあ基本的に男と女はこの生の外の「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」を共有しながらセックスしているのであり、生きてあることのいたたまれなさのさなかに置かれていたネアンデルタール人の男と女はそういう関係を豊かに持っていた。その「遠い憧れ」が、他者の身体にに対するどうしようもない懐かしさになり、そこからフリーセックスのダイナミズムが生まれてきた。そしてその憧れは死に対する親密さでもあり、人のセックスは「もう死んでもいい」という無意識の感慨の上に成り立っている。
平和で豊かな現代社会が合唱する「生命賛歌」というこの生に対する執着は、男と女の関係におけるセックスアピールの機能を不調にさせている。
「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」は、生きられないこの世のもっとも弱いもののもとでもっとも豊かに息づいている。
生きられないこの世のもっとも弱いものは、この生の外の「神」に近い存在でもある。
ネアンデルタール人は、誰もが「この生の外に立っている」という「非日常の気配」を持っていた。すなわちそれは、他者の存在に「神」を見ていた、ということだ。究極のセックスアピールは「神」のもとにある。
女は、この生の外の存在である「神」に対して「やらせてあげてもいい」という気分になる。
女は、「非日常」の気配を持っていない男に対しては、「やらせてあげてもいい」という気分にならない。
この生に執着・耽溺している男にセックスアピールはない。
セックスアピールを持った男は、この生のいたたまれなさを知っている。
究極のセックスアピールは「神」のもとにある。


近ごろ、『五体不満足』で有名になったサリドマイド障害者の乙武洋匡君による複数の不倫スキャンダルが話題になり、多くの男たちが彼のどこにセックスアピールのかといぶかったが、彼こそまさにこの世でもっとも「神」に近い存在のひとりであり、女たちはそこにセックスアピールを感じていったのだろう。
不倫相手の女たちにとって彼はもう、「神」そのものだったのかもしれない。
乙武君は手足がほとんどないに等しいから、マスターベーションができない。人並みの機能のペニスを持っていながらマスターベーションができないことがどれほど絶望的なことかは、健常者にはわからない。自分の体に対する感覚が人とは違う。まあ自分の体を動かすということができないし、ほとんどの生きるいとなみを人にやってもらって生きてきた。それはこの生の外に置かれているという絶望であると同時に、「神」として生きているということでもある。誰もが彼の異様な姿を畏れ、誰もが彼に献身しようとする。
彼は、女の体を触るテクニックなんか持っていないし、抱きしめるということもできない。それでも女は、「やらせてあげてもいい」と思ってしまう。彼にセックスをさせてやることによって、女はどれほど深いカタルシス(浄化作用)が体験できるのだろうか。
神とのセックスの恍惚……それがどれほどのものかは、われわれにはわからない。乙武君のペニスやテクニックがどうだったかというような問題ではない。女の体が勝手に蕩(とろ)けていったのだろう。
女は男の何倍もセックスの快感を汲み上げている、などといわれるが、女の性衝動の方がずっと精神的であり、精神的だから快感が深い。
女のセックスの快感は、男のペニスやテクニックだけですむ問題ではない。女がどれだけその気になっているかという問題なしにはすまない。
女はどのようにしてその気になってゆくかということの具体的な状況はいろいろあるのだろうが、「神」とのセックス以上に女をその気にさせる状況もないに違いない。
女は、男が思うほど男のペニスやテクニックにこだわっているわけではない。男がそなえている「非日常の気配」にセックスアピールを感じながらその気になってゆく。
乙武君は、究極の非日常の気配をそなえている。それによって、女の体が勝手に蕩けてしまう。
世の多くの男にとっては悔しいことかもしれないが、それはもう、きっとそうなのだ。
乙武君は明るくてポジティブな性格だからとか、たぶんそんなことでやらせてもらえたのではない。そんな「生命賛歌」の正義がセックスアピールになるなんて、いじましい小市民の幻想にすぎない。
また、乙武君は女と仲良くなると下ネタの話ばかりしてくる、という噂話もあるし、彼が見境なく不倫しまくったとしても、それを小市民的な正義で裁いてもしょうがない。とにかく多くの女たちがその気になっていったという事実があるのだ。
乙武君は、下ネタの話ばかりして、「セックスがやりたくてたまらない」ということを訴える。そして女は、「そんなにやりたいのならやらせてあげてもいいかな」という気持ちになってゆく。「やりたくてたまらない」ということは「この生の外の非日常の世界に超出したい」という願望であり、乙武くんがどれほど深くこの生のいたたまれなさを実感し自覚しているかということはわれわれの想像の及ぶところではないが、乙武君の異様な姿を目の前にしてそのことを想えば、女はもう「やらせてあげてもいい」という気にならずにいられなくなる。つまり、「乙武君と一緒にこの生の外の非日常の世界に超出してゆこう」という期待で胸が震え、体が蕩けてゆく。そのとき女の恍惚は、人類の「生贄」になっている心地としてやってくる。自分が触ってもらえなくても、自分が触ってやれば同じことなのだ。そのとき女は「神」に触っている。そんな体験はもう、普通の男とのセックスでは絶対できない。乙武君は、絶世の美男よりももっとラディカルな「非日常性=神性」を持っている。
乙武君の性格がどれほど通俗的であろうと、彼はもう存在そのものにおいて「神」なのだ。そして彼における人並みのセックスに対する喪失感や渇望感の深さは、われわれ健常者にはわからない。もしかしたら彼は、覚せい剤の効果のように、何度射精してもすぐまた勃起できる能力があるのかもしれない。ともあれ男のペニスが勃起するということは、ほとんどメンタリティの問題なのだ。彼にはそうやって「非日常」の世界に超出してゆく心の動きのダイナミズムを持っているし、女にとって「非日常」の存在そのものである彼とセックスすることはそういう世界に誘われる体験なのだろう。
女の性衝動は、「もう死んでもいい」という勢いとともにある。
古事記に出てくるオトタチバナヒメが神の怒りを鎮めるために嵐の海に飛び込んでゆく話だって、本質的には「神とセックスをする」ということなのだ。神とセックスすることは「生贄」になるということ、女は「生贄」になる度胸を持っており、じつはそこにこそもっとも深いエクスタシーがある。「生贄」としてわが身を「神」に捧げることこそ、最高のエクスタシーかもしれない。