セックスアピール(その四)・ネアンデルタール人論144

今どきの社会において、伊勢白山道や江原なんとかをはじめとするスピリチュアルの与太話がこんなにももてはやされるということは、病める現代人はそれほど切実に「神」必要としているということかもしれない。彼らは、それがなければこの生の外の「非日常」の世界に超出してゆくカタルシス(浄化作用)を体験できない。つまり「ときめく」心を持てない。まあ、他者の存在に「非日常性=セックスアピール」を感じる「ときめき」を失っているから、そうした絵にかいたような「神」が必要になってくるのだろう。
彼らがスピリチュアルに取り込まれてゆく契機となる不幸の体験は人それぞれ違うのだろうが、けっきょくそれによって心が停滞衰弱してゆくことに耐えられなくなっている。それは心が「この生=日常」に閉じ込められている状態であり、そこで彼らは「神」と出会うことによってときめく心を取り戻してゆくのだろうか。
現代人はこの生に執着・耽溺しつつ、この生に閉じ込められてもいる。そうやって大人の男たちはインポテンツになってゆく。ともあれセックスをしようとしまいと人は、この生の外の「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」とともにときめいてゆくという体験がなければ生きられない。しかし高度に文明が発達した社会では世界が予定調和のものになってしまい、その「遠い憧れ=ときめき」という心の動きが停滞・衰弱してくる。
現代社会の男たちは、このペニスを勃起させてくれる「神」を必要としている。そして女たちも、「やらせてあげてもいい」と思える「神」との出会いを待ち望んでいる。
いやまあ現代社会の男たちだって大多数はべつにインポテンツではないからそれなりに男と女がくっついたりしているのだけれど、なんだかセックスアピールがあいまいな男や女ばかりの世の中になってしまっているし、セックスアピールを感じる心の動きそのものがあいまいになっている。
ほんらい人は、誰だって存在そのものにおいて、すでにセックスアピールを持っている。というか、二本の足で立っている存在としての人間性の自然において、避けがたく他者の存在そのものにセックスアピールを感じてしまう心の動きを持っているはずだ。
現代社会においてセックスアピールが問題にされるということは、それだけセックスアピールを感じる心の動きが希薄になっているということであるのかもしれない。
ネアンデルタール人のことどころか、ひと昔前の男と女のことを考えただけでも、「現代社会の男と女の関係は絶好調に機能している」などというノーテンキで雑駁なことはいえない。
ときめく心が希薄になっている現代人は、セックスアピールの神を必要としている。
内田樹だって、けっこうスピリチュアルじみたことをいっているではないか。彼の思想というかその思考の世界は、「神=ゴッド」に支配されている。彼は、心の中に「神=ゴッド」を持っている。だから、あんなにも傲慢でひとりよがりのことがいえる。最近は、ますます傲慢でひとりよがりになってきている。
「神=ゴッド」は、人間を支配し裁いている。しかしここでいう「神」は、べつにそういうことではなく、「究極のセックスアピール」の比喩としていっているだけであり、現代人に必要なのはむしろそういう「神」ではないかとも思う。
彼らは、神に支配されつつ、神を見失っている。
人の心は「もう死んでもいい」という勢いで華やぎときめいてゆくのであって、「神=ゴッド」に支配され裁かれている脳みそで妙な生命賛歌をされても、ぜんぜんピンとこない。
この生を想うのではなく、この生の外の「非日常」を想う。自分を想うのではなく、他者を想う。自分の中の「神=ゴッド」を想うのではなく、他者の存在の気配に「神=セックスアピール」を感じてゆく。人の心の自然は、そういうかたちになっているのではないだろうか。少なくとも原初の人類はそうやって二本の足で立ち上がってゆき、やがて一年中発情している存在になっていったのだし、ネアンデルタール人の男と女の関係だって、そういう心模様の上に成り立っていたに違いない。
まあ現代人の脳みそは「神=ゴッド」に支配され裁かれているから、他者の存在の気配としての「神=セックスアピール」が見えなくなってしまっている。神を見ながら、神を見失っている。ときめいているつもりになりながら、ときめくことができなくなってしまっている。
ときめいているつもりなのに、ペニスは勃起しない。そういう大人たちが増えてきているらしい。それは、ときめいているのではなく、自分の脳みその中の「神=ゴッド」でその意味や価値を吟味し裁いているだけなのだ。ときめいているのではなく、そうやって「執着」しているだけなのだ。ときめいていないことは、その勃起しないペニスが証明している。
人間なら誰だってセックスアピールを持っている。存在そのものにおいてセックスアピールを持っている。セックスアピールを感じる心を持っているかどうかという問題があるだけかもしれない。ブサイクな女を相手に勢いよく勃起する男もいれば、美人を前にしながら勃起できない男もいる。
他者は存在そのものにおいてすでにセックスアピールを持ってわれわれの前に立ちあらわれているのであり、それが、二本の足で立っている人の心の自然なのだ。セックスアピールとは、「生きられない気配」であり「非日常の気配」のこと。この生と死との境目(裂け目)の向こうにセックスアピールがある。人は、「もう死んでもいい」という勢いで、他者の存在そのものにセックスアピールを感じ、ときめいてゆく。
生き延びるための保身術に執着したり生き延びることができる幸せに耽溺したりしていたら、セックスアピールを持つこともセックスアピールを感じることもできなくなってゆく。
われわれに必要なのは、「生きられなさを支えてくれる神」であって、「生き延びることができる幸せを与えてくれる神」ではない。
あなたの目の前の他者は、「生きられなさを支えてくれる神」として立ちあらわれているか?
わが身のこの生にいいことなんか何もなくてもいい。わが身のこの生なんかいたたまれないだけだし、それでもわが身のこの生の外の世界は輝いている。というか、わが身のこの生がいたたまれないものだからこそ、わが身のこの生の外の世界が輝いて立ちあらわれてくる。