都市の起源(その四十七)・ネアンデルタール人論198

その四十七・それは、「神のしわざ(=支配)」か?

ネアンデルタール人の集団がつねに離合集散を繰り返していたということは、彼らには「監視する」という制度的なメンタリティすなわち支配欲が希薄だったことを意味する。
神の本能は人間を監視することにあり、そうやって宗教は「戒律」の上に成り立っている。
そして共同体=権力の本能は、民衆を監視することにある。
支配欲とは、監視しようとする衝動のこと。
人類の支配欲は、国家文明の発祥とともに本格化してきた。そこで登場してきた支配者=権力者の支配欲が肥大化していった果てに「神」という概念が見い出されていった。
支配者=権力者の「支配」を正当化する根拠として「神」という概念が見い出されていった。
文明人の支配欲が「神」という概念を発見した、と言い換えてもよい。
起源としての「神」は、この世界をつくり支配している存在(=創造主)だった。メソポタミア文明発祥の地から生まれてきたであろうユダヤ教は、世界でもっとも古い宗教のひとつであるのかもしれない。それは、現在の未開人のアニミズム(精霊信仰)よりももっと古いかたちの「神」という概念を持っている。アニミズムなど、「神=創造主」のバリエーションにすぎない。
「神=創造主」、これが起源としての宗教であり、現在においても、基本的にはそういうかたちで「神」という概念が信じられている。

人は森羅万象の不思議と出合うと「神=創造主」を想起する……などと彼らはいうのだが、それは「支配する」ということを知っていてはじめて可能なのだ。支配欲の強い人ほど「神=創造主」を強く信じている。だから、政治の世界は宗教あるいはオカルト(呪術)の巣窟になる。そして、分裂病とかアスペルガー症候群のような自閉的な傾向が強い人ほど支配欲も旺盛で、彼らは他人に対しても自分に対しても究極の支配欲である「殺意」を向けたがる。彼らは、心の中に、「神=創造主」を頂点とする「支配」のヒエラルキーを持っている。そうやって彼らの世界は「完結」している。
森羅万象の不思議が「神のしわざ」だと思えるのなら、それはもう不思議でもなんでもなく、世界は秩序を持って完結している。「わけがわからない、いったい何だろう?」と問う必要なんかなく、「神のしわざだ!」と感動し満足していればいい。それは、「支配欲」なのだ。
しかし人は、世界の果てまで「いったい何だろう?」という問いを積み上げてゆく存在であり、そうやって地球の隅々まで拡散していった。世界の果てに「神=創造主」がいるのなら、そこは「果て」でもなんでもない。
世界は完結していない、人は永遠に問い続けるし、「今ここ」のこの世界がそもそも「わけがわからない」という「問い」の対象としてあらわれている。
目の前に「あなた」が存在すること自体、どうしようもなくなやましくくるおしい「不思議」ではないか。いやもう、蟻一匹が存在することだって、「神がつくりたもうた」というだけではすまない「不思議」に満ちている。
人類はもともと誰もが「支配される」存在として生き、「支配する」ということを知らなかった。原始人の集団に、リーダーのような存在はいても、猿山のボスのような絶対的な「権力者=支配者」はいなかった。だから、つねに集団の離合集散を繰り返しながら、地球の隅々まで拡散していった。
人類史における「権力者=支配者」は、文明発祥とともに本格的に定住することを覚え無際限に人口が増えていったところから登場してきた。
「森羅万象の不思議と出合えば神が思い浮かぶ」などという単純な論理では説明がつかない。それは、「支配する」ということを知っていなければ思い浮かばない。
人は、支配欲の強さのぶんだけ神を信じている。あるいは、支配にすがっているぶんだけ神を信じている。さらには、神など信じていないといっても、無意識のところではちゃんと信じており、支配欲を募らせ神のように振る舞いたがる人もいる。今や神という概念は、人間社会に浸透してしまっている。
文明国家の発祥とともに「神=創造主」という思考が生まれてきた。つまりその思考は、文明国家の「支配者=権力者」たちのあいだから生まれてきたのであって、人間性の普遍として民衆の暮らしから自然に生まれてきたというようなことではない。

そんなことをいっても日本列島の「古事記」は民衆のあいだから生まれてきた神々の物語ではないか、という反論もあるかもしれない。しかし、そこで語られれている「神」は世界の「創造主」ではない。最初の神々は「アメノミナカヌシ」「タカミムスビ」「カムムスビ」等々、この世界の混沌の中から「生まれ出た=あらわれ出た=なりませた」のであって、「この世界をつくった」とは言っていない。そうしてなぜか、あらわれ出てすぐに消えていった。
まあ、あらわれ出て消えてゆくのがこの世界の森羅万象の本質だからだろうか。このことは、重要だ。古事記の基本的な世界観は、すべての森羅万象はそれ自体として生成しているのであって森羅万象をつくったものなどいない、ということにある。
古事記という物語は、それまで「神」という概念を知らなかった民衆が、仏教とともに権力の側から下りてきたそれをどんなものかと模索し語り合ってゆくところから生まれてきたのだろう。そのころの「神」は、仏の弟子として認知されていた。創造主としての仏についてはもう考える余地がないし、畏れ多いことでもあるし、いまいちしっくりこないところもあったが、創造主ではない天界の住人である「神」についてはいろいろ想像力がふくらんだ。そしてそれを日本列島のはじまりの物語として翻案していった。
日本人は、外来文化をデフォルメして自分のものにしてゆくのが好きだ。
乱暴者である神の「スサノヲ」は、「阿修羅」のような神が発想のもとになっているのかもしれない。
いずれにせよ古事記について語り合った民衆には、「創造主」という観念はなかった。それは、「権力者=支配者」が発想する。民衆にとっての世界はあくまで「混沌」だったのであって、「創造主」をヒエラルキーの頂点とする世界の「秩序」など思い浮かばなかった。
なぜなら民衆は、「支配されるもの」だったからだ。世界の輝きに「ときめいているもの」であり、支配され合いながらときめき合っているものたちだったからだ。そういう「受動性」を共有しながらときめき合ってゆく人と人の関係を生きていた。この世界をつくり支配している存在などイメージしたら、この世界それ自体の輝きが薄れてしまうではないか。この世界をつくり支配している存在などに興味がなかった。
「あなた」がそこに存在することは、「あなた」それ自体の輝きであって、その向こうに神の輝きを見るなんて、よけいなお世話だ。彼らにとって生きてあることは「嘆き」の対象だったのであり、だからこそこの生も自分も忘れて世界の輝きにときめいていった。
たぶん「神」という概念は、「自分=この生」や「この世界」に秩序と安定をもたらす存在としてイメージされていったのだろう。「自分=この生」に執着・耽溺する支配者=権力者たちは、「神」の支配のもとで永遠の生を得たいとも思ったのかもしれない。そうやって天国や極楽浄土を発想していった。
平和で豊かなこの社会では、意識が「自分=この生」に停滞してしまって、世界の輝きにときめく心がどんどん薄れてゆく。
お願いだから、むやみな「生命賛歌」や「幸せ自慢」ばかりしないでくれ。その正義の論理こそが、人を追いつめ弱らせてゆく。少なくとも古事記は、そんなコンセプトの上に成り立っている物語ではないからこそ、われわれの心を魅了するのだ。
誰にだって、世界や他者に他愛なくときめきながら生きてゆけたらという願いはあるに違いない。まあ「都市」という空間は、そういう願いを起こさせるような構造を持っている。そういう願いとともに都市の文化が花開いてゆくし、そういう願いや他愛ないときめきを喪失したころで都市の病理や犯罪が生まれてくる。
古代の奈良盆地という都市集落の民衆は、権力者や仏による「支配=監視」からの解放として古事記という「神」の物語を語り合った。そうして、話せば長くなるけれど、「支配=かんし」からの解放のよりどころとして「天皇という神」をみずから祀り上げていった。天皇はその本質において空虚な存在であり、民衆を「見守る」ことはしても「支配=監視」することはしない。すべてを許している。その起源においては、民衆から祀り上げられて登場してきた受動的な存在だったのであって、支配者としてどこかからやってきたのではない。とりあえず権力者よりも上の存在として祀り上げるためには、そういう話を捏造しておく必要があったのかもしれない。いや、このことには、今は深入りするまい。

人類はもともと誰もが「避けがたく支配されてしまう無防備な存在」だったが、それゆえにこそ誰もが「支配する」ということを知らなかった。したがって原始時代に「神」という概念などなかった。われわれの「意識」のはたらきは、根源において、この生やこの世界に「支配される」という受動的なかたちで生成している。つまりわれわれの「意識」は、この生やこの世界の存在を前提としてはたらいているのではなく、この生やこの世界からのはたらきかけによってその存在に気づかされるのだ。この生やこの世界の存在がなければ、「意識」が発生してくることもない。つまり「意識」は、この生やこの世界に「支配されて」生成しているというか、「先験的に避けがたく支配されてしまう無防備なはたらき」であり、それが人の心の自然ではないだろうか。
原始時代に帰れというつもりなど毛頭ないが、現代社会に生きていようと、人の心の根源というか自然はどのようなかたちになっているのかという問題はあるではないか。無意識の問題、と言い換えてもよい。そして、現代社会のすべての人間がまるごと「神」という概念を信じ切っているわけではないということは、原始時代にそんな概念などなかったということを意味するのであり、われわれの心は、神という概念を人間性の自然として信じているのではなく、神という概念に冒されてしまっているのだ。
自然の不思議を前にすれば自然に「神」という概念が思い浮かぶだなんて、嘘だ。それが「神」のしわざだと決定できるのなら、不思議でもなんでもない。そのとき人の心の自然は、「どうなっているのだろう?わけがわからない」と思うだけであり、そうやって驚きときめきながら人類の知能というか文化が進化発展してきたのだ。
文明人は、神のしわざ、すなわち神による支配、という観念を植え付けられているから「神」という概念が思い浮かぶだけのこと。神という概念を知っているから、神という概念が思い浮かぶだけのこと。「支配する」というはたらきを知っているから、「神が支配している」と思うだけのこと。
原始人は、「支配する」などということは知らなかった。誰もが「支配されて」存在していた。彼らは、究極の「支配される」というかたちを思い浮かべることはあっても、究極の「支配する」というかたちなど、思い浮かべようもなかった。
起源としての「神」という概念は、支配者の支配を正当化するための根拠として発想されていった。人間はもともと「避けがたく支配されてしまう無防備な存在」なのだから、その支配はたちまち定着していった。それはまあ、「パンドラの箱を開けてしまった」というようなことだったのかもしれないが、人の支配欲や「神」を発想することが人間性の自然だとはいえない。
人の心の自然は、あくまで「支配される」ということにある。「支配される」ことは「支配する」こととの関係の上に成り立っている、といわれそうだが、ここでは、そうは考えない。「支配される」とは「受動性」ということ。人の心の自然と本質は、そのようなかたちになっているのではないだろうか。
人類の歴史は、もともと誰もが「支配される=受動性」で生きていたのだが、文明発祥のあるときから、「支配する=能動性」が強く機能する世の中になっていった、
そうして今どきは、「能動性」すなわち生き延びようとする欲望のはたらきこそ人間性の豊かさのようにいわれているが、人類の歴史の進化発展は、あくまで「もう死んでのもいい」という勢いで自分=この生を忘れてときめいてゆく「無防備な受動性」としての「反応」の豊かさによってもたらされてきたのではないだろうか。世界は輝いているのだ。
人類の歴史は、生き延びるためにまわりの世界に対して警戒し緊張しながら進化発展してきたのではない。そういう警戒や緊張による能動性や支配欲が、心に停滞・衰弱をもたらし、だんだんときめかなくなってゆく。
「世界の輝き」が人類に進化発展をもたらしたのだ。「もう死んでもいい」という無防備な心で「世界の輝き」にときめいていったからだ。生き延びようとする欲望によってではない。
生きることなんか、執着・耽溺しなければならないほど大切なものでもない。どうでもいいことだ。人間性の自然においては、「死にたい」のでも「生きたい」のでもない。「世界の輝き」に引き寄せられてとりあえず「生きてしまっている」だけのこと。そういう「ときめき」がないから、生き延びようとする欲望を募らせないといけなくなる。自分=この生に執着しないと生きられないなんて、とても不自然だし、何か病んでいる。愛に飢えているのかねえ。愛される自分でありたいと能動的に画策しつつ、かえって人の心が自分から離れてゆく。相手が自分を愛しているかどうかと監視してゆき、かえって嫌われる。愛されることなんかどうでもいいじゃないの。「世界の輝き」に「反応」しときめいているのなら、そんな自己満足など必要ないはずなのに、彼らはどうしてもそれが欲しくて監視せずにいられないらしい。
正義が欲しいんだよね。正義で人の心を縛れると思っている。それは共同体=権力による「支配」の手法だが、人と人のときめき合う関係は、そこから解放されたところにある。
うんざりさせられることばかりの世の中だけど、それでも世界は輝いているから、われわれは生きてしまっている。