都市の起源(その四十八)・ネアンデルタール人論199

その四十七・この生は「今ここ」にしかない

ネアンデルタール人の社会に「家族」という関係はなかった。生まれた直後の乳児との母子関係があっただけで、それ以後はもう集団のみんなで子供を育てていた。
基本的に、ひとりひとりが孤立して存在している社会だった。しかしだからこそ、出会ったそのときその場で他愛なくときめき合いながら豊かに連携してゆくことができた。
男と女は、毎晩のように抱き合いセックスして眠りに就いていた。氷河期のヨーロッパは、そうしないと凍え死んでしまう環境だった。そして人の性衝動は、「出会いのときめき」から生まれてくるのであって、一緒にいることの満足によるのではない。家族、とくに核家族という一体感の濃い空間で暮らしている現代人は、どうしてもインポテンツに陥りやすい。
連携と孤立、そしてそのときその場の出会いにおいて即興的に連携してゆくことができるエスプリ(機知)、これが、今なお続くヨーロッパ社会の伝統になっている。
現在の人類学では、「未来に対する計画性」が人類の歴史に進化発展をもたらしたということになっているのだが、それは文明社会になってからのことで、原始時代の段階では、ひたすら「今ここ」を生きていた。
「今ここ」に対する豊かな「反応=ときめき」こそ、猿にはない人間性の特質なのだ。現在だって、そのことこそが知性や感性や人間的な魅力の源泉になっている。
何をもって知能というのかはよくわからないのだが、本格的な学者や芸術家は、「未来に対する計画性」をはじめとする予定調和の脳のはたらき以前に、「今ここ」に対する「反応=ひらめき」としてのエスプリ(機知)を豊かにそなえており、そこが一流と二流の差になっていたりする。一般的な庶民においても、人間的な魅力というのは、そういうところにあるのではないだろうか。その、「今ここ」に対する「反応」の鮮やかさが、表情やしぐさや言葉になってあらわれる。
「今ここ」に対する「反応」の鮮やかさとしての「エスプリ(機知)」こそが、人類史に進化発展をもたらした。「石器」「火の使用」「埋葬」「言葉」等々の起源論は、そういう角度から問い直されてもいいのではないだろうか。

この生は「今ここ」にしかない、ということ。過去も未来もない。「今ここ」に憑依してゆく心の動きのダイナミズムが、人類に進化発展をもたらした。人の心は、「今ここ」がこの生この世界のすべてだという勢いでときめいてゆくことができる。「今ここ」の目の前の対象に深く豊かに気づいてゆくこと、そこに人間的な知性や感性の自然=本質がある。
だから原始人は、地球の隅々まで拡散してゆくことができた。それは、どんなに住みにくい土地でも「今ここ」がこの生この世界のすべてだと思い定めて住み着いてゆく現象だった。そうやって過去も未来もないもないと思い定めることができる「(人や世界との)出会いのときめき」があったから住み着いてゆくことができた。ネアンデルタール人という原始人が氷河期の北ヨーロッパという苛酷な土地に住み着いてゆくことなんか、過去の思い出をまさぐり未来に対する計画をあれこれ思い描いていたらできるはずがない。
「出会いのときめき」こそ人間的な知性や感性である、ともいえる。そうやって「発見」し「感動」する。「今ここ」に対する想いの深さと豊かさこそ人間性なのだ。
なにが「未来に対する計画性」なものか。
人類は、「今ここ」の「出会いのときめき」とともに地球の隅々まで拡散していった。
もちろん旅に出るということは「ここにはいられない」といういたたまれなさがあるからだが、それは「未来に対する計画性」ではなく、あくまで「今ここ」に対する想いの深さであり、そうやって生きものは体を動かす。気がついたらすでに体を動かしている。動かすのはあくまで「結果」であって、「目的」があってのことではない。
今どきの歴史解釈は、「結果」でしかないことを「原因」であるかのように決めつけていることが多い。
生きものが生きていることは、「気がついたらすでに生きてしまっている」という「結果」であって、生きようとする欲望が「原因=目的」としてあるのではない。
言葉の起源は「思わず音声を発してしまう」ことにあるのであって、その音声を「言葉」として自覚しているような「意味を伝達する」という「目的」があったのではない。
「住みよい土地を目指して」拡散していったのではない。「ここにはいられない」という想いとともに「思わず体が動いてしまって」拡散していったのであり、その「結果」としてどんな住みにくい土地でも住み着いていった。住みにくい土地なんか目指すはずもないが、それでもかまわなかったのだ。
「未来に対する計画性」で氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったりするものか。そしてネアンデルタール人はべつにいきなりそこで降って湧いてきたのでもなく、その当時の人類拡散の歴史をもっとも深く背負って登場してきた人々だったのだ。
10年前には、ネアンデルタール人がなにか人間以外の生きものであるかのようにいいたがる人類学者がたくさんいた。ネアンデルタール人は「現生人類」ではないと、格好つけてその「現生人類」という言葉を合唱している研究者や人類学フリークは今でもたくさんいるが、ネアンデルタール人こそその当時のもっとも本格的な「現生人類」だったのだ。
ネアンデルタール人が氷河期の北ヨーロッパという苛酷な土地に住み着いていたということは、人間性の自然=本質は「今ここ」にときめき憑依してゆくことにある、ということを意味する。
だから人類は、核兵器原発だってつくってしまう。「もう死んでもいい」という勢いで「今ここ」に憑依しときめいてゆくから、過去も未来も忘れてしまう。

人と人の関係の本質・自然は、一体感の中で過去をまさぐり未来を夢見てゆくことにあるのではなく、「出会いのときめき」にある。一緒に暮らしていてもたがいに孤立した存在として「出会いのときめき」が機能しているのであり、機能していなければ一緒に暮らせない。
一体感の中で過去をまさぐり合い未来を夢見合いながら、「今ここ」に対する「ときめき」が薄れ、関係が壊れてゆく。
ネアンデルタール人は、ひたすら「今ここ」の「ときめき」を生きようとしていた。夢もなければ思い出もなかった。だからこそ、豊かにときめいていた。そしてそれこそが、「都市」の本質なのだ。そこは、夢も思い出も共有していない見知らぬ人々の「出会いのときめき」の場であり、目の前に「あなた」が存在するということそれ自体にときめき合っている。そういう人と人の関係が純化してゆくいわば「結晶作用」が起きる場であり、そのための「エスプリ(機知)」なのだ。「ときめき」という「結晶作用」、それを体験している人は豊かな「エスプリ(機知)」を持っている、ということ。
他愛なくときめき合うことこそ、人と人の関係の基礎であり、究極のかたちでもある。豊かに「反応」し合うこと、人類の言葉だってそういうかたちで生まれ育ってきたのであって、「伝達」の道具であることが言葉の本質であるのではない。
ときめき合う関係においては、思わず「反応」してしまうのであり、「伝達」の「意図=目的」など忘れている。忘れていても、たがいに「反応」し合っているのだから、「結果」として伝達されている。
語り合うことのよろこびは、「伝達し合う」ことにあるのではなく、「反応し合う」ことにある。
相手と出会ってときめき、思わず「やあ」とか「おう」という音声がこぼれ出る。ヨーロッパの「ハロー」とか「ヘイ」とか「チャオ」という出会いの言葉だって、まあそのようなものだろう。これらが起源としての言葉だったとしたら、それは思わずこぼれ出る「反応」の音声であって、「伝達の意図」などほとんどない。その「ときめき」が純粋で無邪気であればあるほど、さらにない。これが、言葉の基礎=本質であり、言葉は、人の心の「反応=ときめき」の表出として生まれ育ってきた。

心が動いて、思わず音声がこぼれ出る。そういう体験の積み重ねとして、人類の言葉が生まれ育ってきたのだ。
その赤ん坊がどんなに賢くても、人やまわりの世界に対する警戒心や緊張を持った自閉症的な傾向が強ければ、なかなか言葉を覚えない。無邪気に「反応」しときめいてゆくことができる赤ん坊が、早く言葉を覚える。単純に知能が発達しているかどうかというだけの問題ではない。
人類史においても、人と人が他愛なく豊かにときめき合っている地域から最初に言葉が生まれ育ってきたはずだ。そしてその地域は、アフリカではなく、ネアンデルタール人がいたヨーロッパに違いない。
現在の人類学では、言葉はアフリカで生まれて世界中に広まっていった、と考えている研究者も多いのだが、その説は二重に間違っている。言葉は、アフリカで最初に生まれたのではないし、言葉の本質は「広まって」ゆくようなものではない。それぞれの地域社会で固有に生まれ育ってくるのであり、だから、それぞれに違う。同じ人間だし場所も近ければ、多少の似ている部分はとうぜんあるが、それでもそれぞれの地域で固有に発生してきたのだ。世界中どこでも、出会えば何らかの音声を交し合う人と人の関係の歴史を歩んできたのであり、言葉が発生してこない人間の集団などあるものか。
言葉は、それぞれの地域のときめき合う関係から、それぞれ固有に生まれてきたのだ。
まあ、言葉を「伝達の道具」として決めてかかっているから「広まってゆく」という発想になるのだろうが、言葉は、それぞれの地域の人々のときめき合う関係ともに、集団として「閉じられ」ながら生まれ育ってきたのだ。
ときめき合うものたちは「反応」し合っているのであって、「伝達」し合っているのではない。
「伝達」することは「支配」することであり、「広まってゆく」という、近ごろ流行りのグローバリズムでもある。文明社会は避けがたくそういう傾向を持っているわけだが、それは原始社会の傾向ではなかった。原始人だってすでに言葉を持っていたということは、言葉の本質が「伝達する」とか「広まってゆく」というような性格のものではないということを意味する。
原初の人類は「支配され合う」という関係になりながら二本の足で立ち上がっていったわけで、その生態から言葉が生まれてきた。「支配される」とは「反応する」ということ、それが言葉の機能の本質であり、じつは現代の都市の「エスプリ(機知)」の本質でもある。
言葉の本質は、人と人を他愛なくときめき合う関係にすることにある。だったらネアンデルタール人の社会から最初に言葉が生まれ育ってきたと考えなければつじつまが合わないし、それが今なお続く都市の「エスプリ(機知)」の伝統になっている。
都市住民の人と人の関係は、原始的なのだ。そしてネアンデルタール人の生態やメンタリティは、すでに都市的だった。都市のエスプリ(機知)は、「人と人がたがいに無防備になって他愛なくときめき合ってゆく関係になることができるセンス」として育ってゆく。「支配し合う」のではない、「支配され合う」関係になることができるセンスなのだ。