都市の起源(その四十九)・ネアンデルタール人論200

その四十九・えらそげに干渉してこないでくれ

人類史最初の「王」はおそらく、民衆から祀り上げられた受動的な存在だった。勝手に支配者として登場してくるということは、人間性の自然としてありえない。われわれの友人関係だって、自分勝手なエゴイストや支配欲の強いものは嫌われる。みんなに対して献身的なものがみんなから好かれてリーダーのような存在になってゆく。人類最初の「王」は、いわば民衆の「生贄」だったのだ。
オオカミの群れだって、もっとも献身的なものがリーダーになっている。オオカミの群れのリーダーは、メスを独占するというようなことはしない。むしろ他のものたちのほうが交尾の機会は多い。そしてネアンデルタール人は、リーダーを祀り上げてゆくことを、オオカミから学んだのであって、猿からではない。彼らは、オオカミを犬として飼っていたが、猿との関係などほとんどなかった。
人類史においては、みんなから祀り上げられているリーダーが「王」になっていったのであって、どこかからいきなり支配者=権力者がやってきたのではない。世界中どこの共同体にもそんな伝説を持っているが、王の支配=権力が生まれてきたことの「結果」として、その支配=権力を権威づけ正当化するためにそんな物語が紡ぎ出されていったにすぎない。
「王」という「権力者=支配者」は、自閉的な分裂病のような気質を持っている。「王」は、まわりが世話してやらないとうまく生きることができないし、「王」じしんがまわりに対して過剰に警戒し緊張している。だから「王」のそばには、つねに「王」を賛美したり笑わせたりする役目の「道化」がいた。
それは、「起源としての王」の気質ではない。時代が進んで生産力が高まり、その余剰の生産物を搾取し支配してゆくことができるようになった「結果」として、そういう気質になっていった。
生きることにかつかつなら、世界の輝きにときめくという体験以外に人を生かす契機はない。
余剰の生産物を持たなかった先史時代の「起源としての王」と民衆は、たがいに「支配される無防備な存在」として関係を結んでいた。それが人と人の関係の基礎=自然であり、日本列島の天皇は、そうした「起源としての王」のかたちを保ちながら奇跡的に2000年という長い間続いてきた。
世界の輝きにときめいてゆく心のよりどころとして、天皇が機能してきた。
「支配者=権力者」としての「王」は、いずれ別の「支配者=権力者」を目指すものよって必ず殺される。支配するものは、支配し返される。殺されるとはそういうことで、2000年も続いた王家など日本列島にしか存在しない。いろいろ歴史の紆余曲折はあったものの、基本的に天皇は「支配者=権力者」ではない。「支配されるもの」なのだ。つねに天皇の下に実質的な「支配者=権力者」がいて、天皇の本質はあくまで受動的な「祀り上げられるもの」であることにあった。
いいかえれば、日本列島の歴史において天皇はついに「支配者=権力者」になれなかった。日本列島は、「たがいに支配されるものになる」という人と人の関係の作法が歴史的な風土になっている。その、いわば原始的な風土性の上に天皇制が維持されてきた。
天皇は、人間性の自然の上に成り立ったもっともプリミティブな「王」であると同時に、究極の「王」でもあるのかもしれない。

「支配する」とは、他者を警戒し監視すること。監視するために、他者を自分のそばに置いておこうとする。そうやって干渉してゆくことが「支配する」ということではないだろうか。
恋愛なんて支配欲の上に成り立っているだけだ、ともいえる。
子供を育てるのは親の義務だといっても、同時に、子供をそばに置いておこうとする支配欲がはたらいている。
そして人は、その「被支配」という鬱陶しく苦しい立場をどうして受け入れてしまうのだろうか。
文明社会においては、支配と被支配の関係が、ひとつのアンサンブルとして成り立っている。
他者を警戒し監視=干渉したがるのは、ひとつの生き延びようとする欲望であり、他者に疎まれ無視されて生きてきたとか、親による完璧な支配のもとに置かれてまわりの世界に気づかないような状況を体験しながら育ってきたとか、まあそのようにして支配欲が肥大化してゆくのだろう。他者を警戒し監視=干渉していないとうまく生きてゆくことができない、ということ。そういうタイプの人間は、程度の差こそあれ、今どきけっこうたくさんいる。
アフリカのサバンナに放り出された原初の人類は、まわりの肉食獣の存在を警戒し監視しながら、そこを横切っていった。
シマウマならライオンに追いかけられても逃げ切ることができるからライオンがそばにいても平然と草を食んでいられるが、人類にそんな能力はなかった。つねに警戒し緊張していなければならなかった。そうして森の中に逃げ込めば安全ではあるが、もう森の外の世界は見えない。見えないところで暮らしていれば、「気づく」という能力も失ってゆく。「気づく」能力が希薄になっているから、サバンナに出たときはよけいに警戒し緊張しなければならなくなる。まあそうやってそこでは、「一夫多妻」という「支配」の生態が育ってきた。
そしてこれは、現在の核家族の問題でもある。親の支配に囲い込まれて育った子供は、まわりの世界に気づく能力が希薄なために、家族の外に出ると必要以上にまわりの世界を警戒し緊張していなければならなくなる。そのあげくに「ひきこもり」になったりするのだが、小学校の教室での落ち着きのない挙動の子供だって、緊張感がないからではなく、無意識のうちに過剰に緊張してしまっているからだろう。そういう子供は、親による過剰な「囲い込み」の中に置かれていることが多い。まあ、サバンナの中の小さな森に隠れて暮らしていた原初の人類と同じで、そうやって「ミーイズム」が育ってゆくし、その「ミーイズム」こそ「支配欲」でもある。

無防備なものは、どうしても支配したがるものの餌食になってしまう。
支配したがる者は、つねにそういう対象を狙っている。彼らは、まわりの世界に対する警戒心や緊張感が強いから、まわりの世界から逃れたがっている。まわりの世界から逃れて、支配の対象との一体感に潜り込みたいのだ。支配したがるものほど、支配されたがってもいる。とにかくその一体感の関係において、はじめてまわりの世界に対する警戒心や緊張から解き放たれる。彼らは支配されることの恍惚というものを知っているから、支配することのうしろめたさなど何もない。おそろしくというか、あきれるくらいうしろめたさがない。
もともと人は、まわりの世界に対して無力な「生きられない」存在であり、そこに立って無防備になりながらまわりの世界に「反応」してゆくか、警戒し緊張しながらまわりの世界を無化してしまおうとするか、そういう二つの態度があらわれてくる。
他者を支配しようとすることは、まわりの世界を無化して他者との一体感に潜り込んでゆこうとする衝動である。そして一方は無防備だからその支配を受け入れてしまうのだが、そのとき「一体感=恍惚」などはなく、その「生きられなさ」の「嘆き」とともに、あらためてまわりの世界の輝きに気づいてゆく。まあ、親に支配されている子供が、やがて家族の外で友情や恋を発見してゆくようなものだ。
健康な子供は、けっして親との「一体感=恍惚」など持たない。だから、幼児期の第一反抗期や思春期の第二反抗期がやってくる。子供は、親の支配を避けがたく受け入れてしまうが、それを嘆きつつ、あらためて世界の輝きにときめいてゆく。文明社会における支配者と被支配者である民衆との関係だって、このようなものだ。この世に支配されてしまう無防備で弱いものが存在するから、支配したがるものがあらわれてくる。支配したがるものが、支配されてしまうものを生み出すのではない。
人間なんて、もともとみんな「支配されてしまうもの」だったのだ。そういう「無防備な生きられない存在」として人類の歴史がはじまった。原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、そういう存在になることだった。したがって、支配したがるものがあらわれてくるのは、歴史の必然的な流れだったのかもしれない。
文明社会の人の世は、支配したがるものを生み出してしまうような構造を持っている。支配されることの「一体感=恍惚」とともに支配されたがっているものが、支配したがるようになってゆく。彼らは「支配=被支配」の関係の中でしか生きられない。

支配されることの「嘆き」を生きるか、それとも支配し支配されることの「一体感=恍惚」を生きるか。人類の歴史は、支配されることの「嘆き」を生きる道を選んでしまった。しかしそれは、そこから解き放たれてこの世界の輝きにときめいてゆく体験をするということでもある。
英雄だか救世主だか知らないが、支配者なんて、人類史のたんなる「スケープゴート」というか「お飾り」にすぎない。人類の歴史は、圧倒的多数の「被支配者」がつくってきたのだ。人は、避けがたく支配されてしまう無防備な心を持った存在であり、しかしまさにそのことによって知性や感性を花開かせてきたのだ。
言い換えれば、人は、支配欲の肥大化とともに知性や感性を停滞・衰弱させてゆく、ということ。他者に対して鈍感だから支配欲を発揮できるし、他者を警戒し緊張してばかりいるのだから、他者にときめき反応してゆくことなんか何もない。この世の中には、支配欲が肥大化して知性や感性が停滞・衰弱してしまっている人間が、けっこうたくさんいる。というか、程度の差こそあれ、誰の中にもそうした支配欲が疼いているともいえる。
文明社会は支配者を生み出してしまい、そのあげくに、その支配欲が誰の心にも染み入ってくるようになっていった。
支配者が人類の知性や感性をリードしてきたのではない。彼らは、リードできるような知性も感性も持ち合わせていない。彼らがリードしてきたのは、知性や感性の停滞・衰弱なのだ。
人類の知性や感性は、支配されてしまうような無防備な心の上に進化発展してきた。無防備だから、豊かにときめき反応できる。
支配されてしまう無防備な心を持ったものたちがいなければ、支配者は存在しえない。支配欲の強い人間なんか、ほんらいは不自然な心の持ち主として人類の世界から淘汰されてゆくしかないのだが、因果なことにその心は、「支配されてしまう無防備な心」に寄生しながら生き延び、増殖してゆく。これは、現代社会の人と人の関係のやっかいさの問題であると同時に支配の起源の問題でもあり、そうやって原始的な都市集落が制度的な「都市国家」へと変質していった。
文明社会の歴史とともに、人の心に「支配欲」が棲み着くようになっていった。
支配欲が強い人間はもう、本能的に「支配されてしまう無防備な心」に付け込もうとする。「愛」だの「やさしさ」だの「教育」だの「コミュニケーション」だのといっても、そういう欲望の上に成り立っていることも多い。自分だけはそんな卑しさとは無縁だと思うことはできない。いいかえれば、そういう欲望が強い人間ほど、それを正当化して恥じるところがない。用心しないと、その「支配したがる心」は誰の中にも住み着いており、そうやってこの世の人と人の関係がいろいろややこしく煩わしいものになっている。ともあれ、誰の中にも「支配されてしまう無防備な心」が息づいているからこそ、そういうことになってしまう。
この世は「憂き世」であるということ。しかしそれは、この世が間違っているからではなく、自分の中に「避けがたく支配されてしまう無防備な心」が息づいているからだ。
支配者とは人の世に寄生しているだけの存在であって、支配者が人の世をつくっているのではない。
人類の歴史は、「避けがたく支配されてしまう無防備な心」を持ったものたちの歴史だったのであり、そこにこそ人間性の自然や人間的な知性・感性の源泉がある。それはつまり受動的な「反応する」ということであって、舌なめずりして世界や他者を吟味したり裁いたりしてゆく能力のことではない。そうやって吟味したり裁いたりしながら「反応する=ときめく」という心の動きが停滞・衰弱してゆく。あるいは、停滞・衰弱しているから、吟味したり裁いたりする「支配欲」が肥大化してくる。
支配欲とは、他者の「避けがたく支配されてしまう無防備な心」に寄生してゆこうとする衝動のこと。そうやって人が人を教育し、扇動し、支配してゆく。そうやって出世をしたり金儲けをしたり、まあ文明社会の政治経済が動いているのだろうが、それでもこの世の人と人の関係の本質=自然は、そんなところにはない。たがいに「避けがたく支配されてしまう無防備なもの」になってゆくところでこそ、より深く豊かにときめき合っている。「裁き合う」のではなく「許し合う」ということ。
僕は、他者の人間的な魅力について考えたいのであって、その能力の高さや正しさなんぞに興味はない。他者に対する「影響力=権力」を持っている人間に人間的な魅力が深く豊かにそなわっているとはかぎらない。いまどきは他者に対する「影響力=権力」を持ちたがる人間ばかりの世の中であったとしても、それでも人の世であるかぎり、他愛なく無防備にときめき合う人と人の関係が生成している。他者に干渉してゆくのではなく、ただもう一方的に、他者に反応してときめいてゆくこと。そういうたがいの一方的なときめきが響き合うところにこそ、人と人の関係の基礎と究極のかたちがあるのではないだろうか。