都市の起源(その四十一)・ネアンデルタール人論192

その四十一・都市のエスプリ(機知)

ネアンデルタール人以来の伝統を引き継いだヨーロッパの原始的な都市集落は、誰もが「支配されるもの」になりながら「連携」してゆく、という生態の上に成り立っていた。それがヨーロッパ的な都市生活の作法の伝統であり、彼らの「レディファースト」の作法は、なにはともあれそういうコンセプトの上に成り立っている。そのとき男も女も、そうやってひとまず「支配されるもの」になっている。彼らは、「<支配されるもの>になる文化」の伝統を持っている。そのかわりというか、だからこそというか、「支配されるものになること」すなわち「連携」できるかどうかということの、そういう「即興的な反応のセンス=機知(エスプリ)」に対する目は厳しい。まあ明治維新後に留学した日本人には、そのような、たがいに「支配されるもの」になることによって「連携」してゆく人と人の関係の作法を日本列島の文化の伝統として持っていたし、中国・朝鮮人やアラブ人の支配と支配の関係になって「結束」してゆこうとする性向は、ヨーロッパ人を大いに苛立たせる。
「サービスの文化」と言い換えてもよい。「連携」とは、たがいに「支配されるもの」になってサービスし合うことだ。ヨーロッパの商店では、お客に対して「メイ・アイ・ヘルプ・ユー?(私はあなたの助けになることができますか?)」という。そういう関係のタッチは、日本文化にもある。
ヨーロッパ人にとっては、「支配されるものになるセンス」を持っていることは、人間としてのあたりまえの前提なのだ。そういうセンスを持っていなければ、たがいに無防備になってときめき合ってゆく、という関係にはなれない。
人と人は、「たがいに<支配されるもの>になる」ことによって「連携」してゆく。
そして、「支配と被支配の関係になる」ことによって「結束」してゆく。
人と人の関係の本質=自然は、いったいどちらにあるのか。
まあぶっちゃけ、ユダヤやアラブや中国・朝鮮の商人は、相手を支配して「売りつける」ことが上手だ。ヨーロッパや日本のように、お客と売り手が「売ってもらう=買ってもらう」という関係になる文化はない。もちろん今どきは、ヨーロッパにも日本にも、そういう「売りつける」という商法が氾濫しているわけだが、文化の伝統として、人と人の関係の基層がそうなっているわけではない。その商法の本家は、ユダヤ・アラブ・中国・朝鮮にある。
「支配されるものになる」とは、自分を忘れて体ごと他者に対して「反応」してゆくこと。そうやってたがいに「サービス」し合いながら「連携」してゆく。ネアンデルタール人はそういう文化の生態を持っていたし、それがヨーロッパの伝統になっている。
もちろん彼らが、アフリカで奴隷狩りをしたことや南米のインディオを大虐殺したことがいいことであるはずもないが、アフリカ人やインディオの「支配されるものになれない」資質の文化は、ヨーロッパの「支配されるものになる」都市文化とは大いに異質であるということはいえる。そしてその中間の地域すなわち人類拡散の通り道の地域のアラブ人や中国・朝鮮人は、人類史においていち早く「支配」と「被支配」の関係の国家文明を築いていった人々であるが、彼らはその関係によって「一体化=結束」してゆく資質はあっても、たがいに「支配されるもの」になってサービスし合い「連携」してゆく文化の伝統は持っていない。ユダヤ人だって「連携」の文化を持っていないから、イスラエルパレスチナと共存できないでいる。まったく、ユダヤ人というのはどうしてそんなにも愚かなのだといいたくなってしまうが、それがアラブ世界の伝統なのだ。彼らは「結束」するが「連携」はしない。まあ「結束」することは、第三者を排除することによって、あるいは排除されることによって、より強固になってゆく。
中国人も朝鮮人もアラブ人もユダヤ人も、排除されることを望んでいるようなところがあり、ひとまずそれによって彼らの「結束」が強化される。


「連携」の文化と「結束」の文化、ヨーロッパとアラブ世界の違いは、そのまま日本列島と中国・朝鮮との違いでもある。人類拡散の通り道の地域と行き止まりの地との違い。行き止まりの地ではもう、第三者を排除することも第三者から排除されることもない。それはつまり、「結束」の文化が育たない地である、ということを意味する。そしてそれでもみんなでそこに住み着いてゆくための作法として「連携」の文化が育ってきた。
しかし、もともと原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、猿社会のような支配と被支配の関係で「結束」してゆくのではなく、いったんそれを清算して誰もが「支配されるもの」になって「連携」してゆく現象であったわけで、人類はその勢いで地球の隅々まで拡散していったのだ。したがって、拡散の果てに登場してきたネアンデルタール人=ヨーロッパ人も日本列島の住民も、もっとも原初的な人間性の自然に沿ったメンタリティをそなえている人々でもあったともいえる。
「支配されるもの」であることは、人間性の自然なのだ。ヨーロッパ人はそうやってたがいに「支配されるもの」になって「連携」してゆく文化を持っているがゆえに、ユダヤ人からそこに付け込まれて支配されてしまう。ユダヤ人は支配と被支配の関係で「結束」してゆく文化の伝統の上に立っているから、ヨーロッパ人を支配・説得してゆくことになんの後ろめたさもないし、もともと「支配されるものになる」文化のヨーロッパ人はだからこそかんたんに支配され説得されてしまうのだが、それでもなんだか詐欺にあったような心地で「なんか変だ」と苛立ちもする。まあ、キリスト教を植え付けられてしまったことが、最初の詐欺事件だったのかもしれない。今さらその信仰を払拭することは困難であるのかも知れないが、近代に入って彼らは、「神は死んだ」とさかんに合唱するようになってきた。
ヨーロッパの都市文化の伝統は、アラブ世界のような支配と被支配の関係による「一体感」で「結束」してゆくという関係性や集団性にはなっていない。彼らには「神との一体感」はない。
ヨーロッパ人は、「結束」しないで「連携」する。
アラブ世界の男と女は支配と被支配の関係で一体化し結束してゆくが、ヨーロッパの男とと女はたがいに「支配されるもの」になりながらサービスし合い連携してゆこうとしている。それが彼らの都市生活の作法であり、相手の「<支配されるもの>になる」という心の動きに付け込んで支配しにかかってゆくことの卑しさを自覚している。つまりそれは、人間を支配している神の態度であり、心の底ではそういう態度に対する拒否反応がある。だからユダヤ人に反発するし「神は死んだ」ともいう。彼らの信仰は、神と人間のあいだに「キリスト」というクッションを置いている。おそらく、そうやって神との一体感を回避しているのだろう。
人は、人間性の自然として「<支配されるもの>になる」という無防備な心の動きをもっている。それはつまり「説得」するセンスではなく「反応」するセンスであり、そういうセンスを持っているものどうしでなければ「連携」は成り立たない。「反応」するセンスすなわち「機知(エスプリ)」、それによって豊かな会話も生まれてくる。
文明社会の人と人の関係には、相手の「<支配されるもの>になる」という無防備な心に付け込んで支配しにかかる、という制度性がはたらいている。そういう関係性を人類最初に発見し発達させていったのはエジプト・メソポタミア文明を生み出したアラブ世界であり、それに対してネアンデルタール人の末裔であるヨーロッパの人と人の関係の流儀の伝統は、相手の「機知(エスプリ)」を尊重し、たがいにそれを試し合っているところがある。
たとえば彼らのオーケストラのアンサンブルは、そういう関係性の上に成り立っている。そのとき誰もが、自分を捨ててオーケストラのアンサンブルに支配されながら「連携」している。


「支配する=説得する」という能動性と、「支配される=反応する」という受動性。「避けがたく支配されてしまう無防備な心」を持っていなければ、豊かな「反応」は生まれてこない。
都市生活における人と人の関係の作法は、相手を「支配する」ことにあるのではなく、相手に「反応する」ことにある。都市は、人と「一緒にいる」場所ではなく、人と「出会う」場所であり、まわりにいるのは知らない人ばかりなのだから、「反応する」センスを持っていなければ生きられない。
たがいに「反応」し合うということ。それが、都市における人と人の関係の作法になっている。家族や恋人どうしのようなどんな親密な関係であれ、「見知らぬものどうしが出会う」ということが、人と人の関係の基本なのだ。
村落共同体とか、今どきもてはやされているネットワークのグループとか、会社とか、学校とか、家族とか、それなりに予定調和的な「結束」が機能している集団なら、能動的に「支配・説得・伝達」してゆく能力も有効だろうが、裸一貫の人と人の「出会い」の場においては、「反応する」センスが問われる。
出会ってときめく、ということ。都市生活者は、その心と、それを表現してゆくセンスが試されている。知識があろうとなかろうと、金や地位があろうとなかろうと、その心とセンスすなわち「エスプリ」のあるなしによって人に好かれたり嫌われたりしている。どんなに無知で貧しい庶民であろうとも、魅力的な人はそういう「エスプリ」を豊かにそなえている。
また、相手によって豊かに「反応」できたりできなかったりもする。相性が合うとか合わないとか、好き嫌いとか、豊かな「反応」ができる「出会い」というのは、そうめったにないともいえるし、いつどこでも豊かに「反応」できる「エスプリ」をそなえた人もいる。


エスプリ」は、どのようにして育つのだろうか。もちろん都市生活において育つのだが、誰でもというわけにはいかない。都市で暮らしているがゆえにこそ、他者の「支配されてしまう無防備な心」に付け込んで「支配欲」を肥大化させてゆく人もいる。ことに現在の核家族においては、そうやって親と子や夫と妻がが支配し合うような関係になっていたり、相手の支配欲の強さに辟易していたりする。
現代の文明社会には、支配欲を肥大化させてしまう構造があるのだろうか。こちらが無防備な様子を見せると、とたんに支配欲を向けてくる。そんな親との関係の下に置かれて警戒心や緊張感を募らせながら自分も支配欲を募らせてゆく子供も多い。支配欲を持たないと生きられない世の中になっているのだろうか。まあ、支配欲を募らせながら社会で成功してゆく人もいれば、それによって嫌われ者になったり心を病んでいったりする人もいる。そういう状況がある。
しかしそれでも人が人であるかぎり、みずからの支配欲から解き放たれたところで人向き合うことができなければ、ときめき合うという関係は結べない。そういう関係を結べなければ都市生活は生きられないし、そういう関係を結ぶことができる「出会い」を求めて都市に人が集まってくるのだろう。また、肥大化した支配欲を抱えてしまってそういう関係を結ぶことができなくなっている人がうごめき合っているのが都市であるともいえるわけで、現在の文明社会はいろいろややこしい。支配欲の強い人は、どこにでもいる。世の中だけじゃなく、家の中にもいたりする。そんな人たちとの関係の下に置かれたら、そりゃあもう、さっさとそこからはぐれた「員数外」の存在になってしまいたいとも思う。まあそうやって思春期の子供は、家の外に出てゆく。彼らは、本質において、家族からも社会からもはぐれてしまっている。そうやって恋や友情を見つけたり、手首を切ったり、ここでもいろいろとややこしい。
どんな世の中になろうと、人が人であるかぎり、「人間性の自然」ははたらいている。
「ときめき合う」とは、たがいに「支配されてしまう無防備な心」で向き合うこと。そこにこそ、人間性の自然としての人と人の関係の本質があり、そうやって原初の人類は二本の足で立ち上がったのであり、そうやって人類拡散が起き、そうやって都市に人が集まってきている。