都市の起源(その三十九)・ネアンデルタール人論190

その三十九・「支配されるもの」になる、という文化

人間社会における支配と被支配の関係は、どのようにして生まれてきたのだろうか?
これは、大問題だろう。
猿の群れにはボスという支配者がいて、その他のすべての個体どうしのあいだにも順位制という支配と被支配の関係が機能している。
しかし原初の人類は、その関係をいったん清算して二本の足で立ち上がっていった。そしてその清算した関係によって知能をはじめとする人間的な進化発展を遂げてきた。
世の多くの人類学者やサル学者たちは、原始人の生態が猿の時代の延長としてあるかのように考えているが、もしそうであったのなら、二本の足で立ち上がることも地球の隅々まで拡散していったことも言葉を獲得したことも起きてこなかったのだ。
猿の生態をどこまで延長しても、人間にはならない。猿の生態のまま二本の足で立ち上がることができるのなら、チンパンジーやゴリラだってすでにそうしている。
猿の生態を清算したから、二本の足で立ち上がっていったのであり、さまざまな人間的な生態が生まれてきたのだ。
猿の惑星」という映画はそりゃあ面白いけど、そんなことは起きるはずがない。もちろん「絶対にない」とは誰にもいえないけど、そのとき二本の足で立ち上がるべき奇跡的な「条件」があったわけで、放っておいてもいつか必ず立ち上がるようになる、というものでもないのだ。猿の延長として立ち上がったのではない。
そうして文明社会になって猿のような支配と被支配の関係が生まれてきたことだって、そういう「条件」というか「状況」があってのことで、放っておいても自然にそうなってゆくというものではない。
たとえば、アフリカ中央部の人々はいまだにミーイズムが強く、そのために支配と被支配の関係の上に成り立った「国家(共同体)」の運営にもたついてしまっている。彼らは、それぞれの家族的小集団が移動生活をしながら「部族」として「結束」してゆくという生態は持っているが、支配と被支配の関係で定住し結束してゆくという共同体の歴史を持っていない。
ミーイズムが強ければ支配しようとする衝動も起きてくるだろうが、みんなミーイズムが強いのであれば、「支配されるもの」はどこにもいないことになる。だから彼らは、大きな集団をつくることができない。そんな人たちのあいだでひとりの支配がおよぶ範囲は、家族的小集団のレベルでしかない。

集団が限度を超えて膨らんでしまえばとうぜん混乱が起きて収拾がつかなくなるはずだが、支配と被支配の関係が、ともあれひとつの「秩序」をもたらす。
あるときひとりの支配者が現れてみんなを従わせたのかといえば、そうかんたんにはいかない。民衆だって抵抗するし、民衆のほうが圧倒的多数なのだ。
国家という無際限に大きな集団で、「ひとりの<王>の支配と大多数の民衆の被支配」という関係になることができるのは、民衆のほうに「支配されるものになる」という意識が用意されていることによってはじめて成り立つわけで、人類史で最初にその関係による大集団を生み出したのは、エジプト・メソポタミアの中近東の地域だった。
いったいなぜ中近東のアラブ世界だったのか?
この問題はやっかいだ。うまく核心に迫ることができる自信もないが、とても気になる。昨今は、イスラム世界によって引き起こされる残虐な事件のニュースが連日のように飛び込んでくる。
イスラム世界はどのようにして生まれてきて、どこに行こうとしているのか?
それは、人類が生み出した「文明(制度)」の問題でもある。
この国にだって、イスラム的な傾向というか気質の人はたくさんいる。
支配と被支配の関係の一体感を生きようとする……文明社会はそんな傾向=気質の人々を不可避的に生み出してしまう。
そしてそれは、都市の問題でもある。都市生活の人と人の関係の作法の基本は、たがいに「支配されてしまう無防備なもの」になってときめき合い連携してゆくことある。だから、そこに付け込んで支配しようとしてくるものも少なからず生み出してしまうし、そういう人間はおおむね成功者になるか嫌われ者になるかのどちらかであるのだが、成功者はとうぜん多くの人の憧れの対象になってメインストリートを闊歩している。そうして、支配と被支配の関係の中で「結束」してゆくのが人間社会の理想であるかのように思われている風潮にもなってくる。彼らは、イスラム世界の傍若無人な残虐性を非難しつつ、じつは彼らこそもっとも忠実にイスラム世界のコンセプトをなぞっている。
つまり、アラブ的・イスラム的な「結束」の論理が、現代社会で暮らすものたちの心に、見えない圧迫感となって覆いかぶさっている。それによって成功するものもいれば、まさにそれによって心を病んでしまっているものもいる。「いじめ」とか「DV」とか「セクハラ」とか「ストーカー」とか「クレーマー」といったって、アラブ的・イスラム的な「結束」の論理に脳内を汚染されて起きてきているのではないのかと思える。人は、人間性の自然として「支配されてしまう無防備な心」を持っているから、どうしてもそうした「支配欲」の餌食にされてしまう。
人間的な知性や感性や官能性の源泉は、それこそ生まれたばかりの子供のような「避けがたく支配されてしまう無防備な心」にある。その心を共有しながら人と人は「連携」しているのだし、その心が、唯我独尊の自閉的な支配欲の餌食になってしまう。
アラブ・イスラム社会の人々は、とても支配欲が強い。だから男は女を強く支配しているし、世界に対して自己主張して暴れまくっている。そしてわれわれの社会だって、まあそういう支配欲の強い人のほうが成功し、またそれゆえに嫌われ者になったり心を病んだりもしている。自閉的な心の持ち主ほど、「愛」とか「正義」とかいう旗印を掲げて他者に干渉したがる。まったく、「かなわんなあ」と思うわけですよ。