都市の起源(その三十八)・ネアンデルタール人論189

その三十八・愚かであるということ、この生は幸せかどうかという損得勘定だけではすまない

根源的にはというか人間性の自然においては、人は、「生き延びる」という目的で生きているのではない。この世界の輝きにときめきながら「生きてしまっている」だけのこと。生きてあることなんか愚劣で苦しいだけのことなのに、それでも生きてしまっている。人間なんて、愚かな生きものだ。猿のほうが、ずっと賢い。そして今どきは、猿並みの賢さで「生き延びるためのノウハウ」や「幸せになるためのノウハウ」を語るマスコミ知識人が、内田樹をはじめとしてたくさんいる。
しかしわれわれは、そんな「未来」のことなどうまく考えることができない。
「愚かな反知性主義」だなんて、笑わせてくれる。おまえらの猿並みの知性なんかたかが知れている。愚かでけっこう。われわれは、生き延びねばならないほどの立派な「自分」も「命」も持ち合わせていない。そのときその場の世界や他者の輝きにときめきながら、そのときその場をやり過ごしているだけだ。
野垂れ死にしたってしょうがないさ。
まあこの国には、「無常」という野垂れ死にの文化の伝統というものもある。
彼らのいう、未来の社会の「平和と繁栄」なんか、知ったこっちゃない。まあ彼らは、そうやって意識が「未来(のスケジュール)」に憑依してばかりいるから、「今ここ」の「世界の輝き」に鈍感になってしまう。そうやって現代人は、認知症やインポテンツになってゆく。


マスコミ知識人はひとまず学問をしたり考えたりすることが仕事になっているわけだが、「より良き未来」の社会や人生のためにそんなことを考えているのだとしたら、彼ら自身に「自分」や「命」をかなぐり捨ててそういう行為にのめりこんでゆくという態度も心意気もない。彼らの知性や思考なんて、そのていどなのだ。そのくせ、誰よりも豊かな知性を持ち深く思考しているという自覚(うぬぼれ)だけは強い。人間は生き延びようとする生きものだと決めてかかっている彼らの人間理解には、限界がある。人間性の自然は、その向こうにある。
「平和と繁栄(幸せ)」の名のもとに安楽に生き延びようとするのは「共同体」の本能のようなものだが、それが必ずしも人間性の自然であるとはいえない。共同体がそういう本能を持っているということは、人間性の自然がそういうところにはないということの「不在証明(アリバイ)」なのだ。共同体のそうしたコンセプトに踊らされているというか脳内を汚染されているものほどそれが人間性の自然であるかのように考えたがるし、人は、共同体の動きからからはぐれていったところで、恋や友情を見い出してゆく。つまり、人にときめいてゆく。
抱き合ってときめき合っていれば、未来のことなんかどうでもよくなってしまう。そういう無防備な心を持たなければ、結婚なんかできないし、恋もできないし、友情だって成り立たない。
人は、幸せになるために結婚するのではない。無防備にときめいて結婚してしまうだけのこと。
誰だって無防備のままに生きていたいが、こんなにもたくさんの人が集まって暮らしていれば、そうもいかない。そのためにひとまず外部に対する警戒と緊張の上に成り立った共同体の秩序をつくり、その中でわれわれは、無防備にときめき合う人と人の関係を温存しようとしている。人と人が無防備にときめき合っているとき、共同体の秩序からはぐれてしまっている。
猿のセックスの後背位の体位は、まわりを警戒しながらすることができる。だから原初の人類も後背位でセックスしていたといわれているのだが、おそらくそうではない。二本の足で立ち上がって人間になるということは「無防備になる」ということであり、そのときからすでに無防備極まりない正常位のセックスをはじめていたはずだ。
人間性の自然は、「無防備になる」ことにある。平和とか繁栄とか幸せとか、そんなことはさしあたってどうでもいいのだ。どうでもいい生き方をしてしまうところにこそ、人と人の豊かなときめき合いをはじめとする人間ならではのダイナミズムがある。そうやって無防備になりながら知性や感性を進化発展させてきた。


「未来の社会の平和と繁栄(幸せ)」などということをスローガンにしてものを考えるなんて、それがこの社会の正義であるにせよ、知性や感性の停滞・衰弱以外の何ものでもない。人の心は、この社会の正義なんかどうでもいいところ、すなわちこの社会の正義からはぐれていったところで「世界の輝き」にときめいてゆくのだ。
共同体の制度に踊らされて(脳内を汚染されて)生きているから、そういうスローガンでものを考えるようになってゆくし、彼ら自身が先頭に立って安楽に生き延びてゆきたいのだろう。それが彼らの知性や感性の限界であり、この世の本格的な科学者や哲学者は、幸せであろうとあるまいと、「それどころじゃない」ところで「探究する」ということをしている。恋する名もない庶民の男女だって、「それどころじゃない」ところでときめき合っている。
人間性の自然としての、人と人のときめき合う関係の本質は、この社会の正義という制度性からはぐれていったところで生成している。そうやって人類は、正常位のセックスをするようになっていった。人は、人間性の自然において、そんな正義=制度性に執着してゆく警戒心など持ち合わせていない。
原初の人類は、未来の生の充実や幸せなど忘れて無防備になりながら二本の足で立ち上がっていったのだ。
今どきのマスコミ知識人なんか、この生は幸せで充実しているか、と損得勘定ばかりしていやがる。そんないじましい警戒心に人間性の自然があるのではない。
「自分」も「この生」もどうでもいい。人の知性や感性は、そんなことは忘れてこの世界の輝きや真実に驚きときめいてゆく。


人間性の自然は「愚かさ」にこそある。
人間や社会のことがわかっているつもりの、あなたたちのその「賢さ」こそ、あなたたちの知性や感性の限界なのだ。あなたたちには、「何だろう?」と問うてゆく探求心がない。
この生もこの社会も、いろいろやっかいで、こうすればいいという正解などない。「今ここ」のこの世界をまるごと肯定してゆくしかない。本格的な科学者や哲学者は、そうやって「探究する」ということをしている。世界はどうあるべきかということなど、彼らの眼中にない。彼らだけではない、そういう無防備な心模様が、人間性の自然として誰の中にも息づいている。そうやって人と人はときめき合っている。
無防備になったら生きられないが、無防備になることができなければ生きられない。そんな生のさなかで都市住民は、無防備になってときめいてゆくことができる「あなた」との出会いを待ち焦がれている。まあ「あなた」でなくても、「美しいもの=世界の輝き」との出会いがなければ都市では生きられない。
自分の生の正当性や幸せをまさぐってばかりいたら、「世界の輝き」に対する「感動=ときめき」なんかどんどん薄れてゆく。そんな鈍感な人間が魅力的なはずもなく、「あなた」との出会いなんかついにやってこない。そうしてけっきょく、人を支配して、人をけなしてさげすみ、自分から離れていった相手に対する憎しみをいっぱいにためこみながら、自分の生というか存在の正当性をまさぐりながら生きてゆくしかない。
人を支配することなんか、かんたんなことだ。なぜなら人は、無防備な支配されてしまう心を抱えている存在であり、そこに付け込んでいけばいいだけだ。そうやってマスコミ知識人と読者との関係が成り立っているし、一般庶民のあいだにも、人の無防備な心に付け込んで支配しようとしたり、自分の正当性をまさぐったりしたがる人間はたくさんいる。そしてそういう人間はおおむね人の心のあやに鈍感なところがあり、支配と被支配の関係の秩序こそ人と人の関係の本質だと考えている。内田樹なんかまさにそうだし、多くの読者もそのように考えて生きているらしい。