都市の起源(その三十七)・ネアンデルタール人論188

その三十七・もう生きられない

なんかもう、何もかもいやになった……そんな気分で会社を辞めてゆく若者はたくさんいるのだろう。何ごとにおいても、「いやになる」とは「もう生きられない」ということだ。この世の中を生きていれば、「いやになる」という事態はいくらで起きてくる。
人にけなされ罵られて傷つく、ということだって「もう生きられない」という事態にほかならない。
傷つきやすい人は、「もう生きられない」という気分で生きている。そんな弱い心ではだめだ、といっても、そういう敏感な心を持ってしまっているのだからしょうがない。その敏感さで、この世界の輝きに深く豊かにときめいてゆくという体験もしている。そういう心を捨ててしまえ、という権利がいったい誰にあるのか。そういう心を持っていることこそ、人が人であることの証しであるともいえる。
「生きられないもの」になること、それが都市生活の作法の本質であり、そこから人間的な豊かな「連携」が生まれてくる。「生きられないもの」になることによって命が活性化する。この生は、そういうパラドックスの上に成り立っている。
氷河期の北ヨーロッパという苛酷な環境で暮らしていたネアンデルタール人は、意図しないでもすでに誰もが「生きられないもの」だった。「生きられないもの」として生きることこそ、人間の本能(のようなもの)というか人間性の自然であり、そうやって原初の人類は二本の足で立ち上がっていった。
生き延びようとすることが本能の文明社会は、人間性の自然から逸脱してしまっている。しかし人類の歴史は、文明社会になってゆかなければ人間性の自然を維持できなかったともいえるわけで、文明社会の不自然を嘆くのが人間性の自然であり、その「嘆き」とともに文明社会において人間性の自然が生成している。「生きられないもの」である人間は、不可避的に生きられないシステムの文明社会を生み出してしまった。
人類は、「生きられなさ」にあえぎあえぎしながら生きるいとなみの文化を進化発展させてきた。そうやってより生きられない土地生きられない土地へと地球の隅々まで拡散してゆきながら、たがいに「生きられないもの」としてたがいに生かし合う「連携」の文化を発達させてきた。
そうして氷河期が開けて気候が温暖化し、しかも生きるいとなみの文化を発達させた人類は、どんどん生きられるようになっていった。その「生きられるようになった」ことこそ人間性の危機だったのであり、そのとき文明社会を生み出したことは、いわばさらなる「生きられない新天地」への「拡散」だった。
まあ人類学の常識ではそれを「定住生活の確立」などといっているわけだが、定住することそれ自体が「新天地への旅」だったのだ。
人類は、無際限に人口が膨らみしかも「支配=被支配」の関係に覆われた「国家(共同体)」という、どうしてこんなにも生きにくい社会をつくってしまったのだろう。おそらく「生きにくさ=生きられなさ」の中でしか生きられない存在だからだろう。そこでこそ人間的な「連携」や「知性」や「感性」が深く豊かになってくるのだ。


この世の無防備で愚かな弱いものたちは、「もう生きられない」と嘆き、多くのマスコミ知識人が生き延びるため幸せになるためのノウハウ(=ルーティンワーク)を指南しているのだが、あんがいその御利益は少なく、逆にかえって迷える読者を追いつめてしまっていることも少なくない。
生き延びることの幸せを得ることによってというか、得たことに満足したり得ようとあくせくしたりしながらその人の人間的な魅力も知性も感性もどんどん貧弱になっていっている、ということは多い。
生き延びる能力があろうとあるまいと、幸せであろうと不幸であろうと、魅力的な人や知性や感性が豊かな人はみな、「生きられなさ」を生きている。彼らはみな、この世の生きられない愚かな弱いものとして生きている。
人は、「生きる」ことを目的にして生きているのではない。世界の輝きにときめく体験に引き寄せられながら生きているだけだ。
「生かされてあることに感謝しなさい」だなんて、冗談じゃない。生きてあることなんか、ありがたくもなんともない。ありがたさは、この世界が輝いていることにある。生きてあることをありがたがらねばならないほどのご立派な「自分」など持ち合わせていない。「命」なんか大切なものでもなんでもないのだけれど、それでも世界は輝いている、ということ。
われわれにとってこの世界は、警戒し緊張しなければならない対象ではない。人は、「自分」が大切なぶんだけ、この世界に対して警戒し緊張している。そうして、警戒し緊張しているぶんだけ、ときめく知性や感性を衰弱させている。
自意識で凝り固まったマスコミ知識人のご託宣など、ありがたがっていてもしょうがない。
あなたたちの「自分」は、そんなに立派なのか?あなたたちの「命」は、そんなにも大切なものなのか?
彼らの知性や感性など、たかが知れている。
人間的な自然で本格的な知性や感性は、「もう生きられない」と嘆いている愚かで弱いものたちにこそ宿っている。
現代人は、「自分」や「命」に執着・耽溺しながら、人間的な知性や感性を摩滅させている。そんなものに執着・耽溺していたら、「ときめく」ことも「連携」することもできない。人と人は、たがいに「自分」も「命」も忘れて、「もう死んでもいい」という勢いで「連携」してゆく。まあこれは「無意識」というか、現象学でいうところの「超越論的主観性」の問題であり、そうやって人類は700万年の歴史を生きてきたのであり、それが都市文化の伝統にもなっている。