パンクな精神・ネアンデルタール人論77

 ネアンデルタール人の世界に戦争はあったか?というか、原始人の世界に戦争はあったか?
 アフリカだろうとアジアだろうとヨーロッパだろうと、原始人の世界では、それぞれの地域環境によって身体形質の差異はあったにせよ、文化水準にそれほど大きな開きはなかったはずです。どこかで言葉を話していたのなら、世界中で話していただろうし、どこかで戦争をしていたのなら世界中でしていたことでしょう。原始人の世界で、何万年何十万もたてば、そう大きな文化水準の差はなくなってゆく。それぞれ進化するし、伝播もする。
 戦争の起源の考古学の証拠としては、中近東に、氷河期明けの一万年前くらいに戦争をしているところを描いた壁画が残っているらしい。
 氷河期明け以前の原始時代に戦争をしていたという確たる証拠はない。
 ただ、多くの人類学者には「戦争をすることは人間の本能だ」というような思い込みがあって、たとえばネアンデルタール人の遺跡から出てくる人骨にはときに刃物のような石器で頭の皮を剥いだような痕跡があったりして、それを戦争の証拠だと決めつけている研究者もいる。
 しかしそれは、たんなる葬送儀礼だったのかもしれない。原始人は、骨だけになることによって死が完結するというような思いがあり、この国の古代以前にも、骨だけの姿になってから骨を洗ってあらためて埋葬する、という「もがり」の習俗があった。
 ネアンデルタール人が死者の頭の皮をはぐことをしていたとすれば、それは、残虐な殺戮の証拠ではなく、死者の尊厳を祭り上げようとする行為だったのかもしれない。
 戦争で殺した相手をいたぶり生贄にして共同体の結束を確認しようとするなんて、文明社会になってから生まれてきた儀式だ。原始時代に「共同体」などというものはなかった。
 原始人に、そうしたサディズムがあっただろうか。猿にはある。彼らは、たがいにサディズムをぶつけ合って戦うことによって群れの中の「順位」を決めている。そうしてチンパンジーなどは、他の群れの個体が自分たちのテリトリーにまぎれ込んでくれば、思い切り残虐になぶり殺しにしてしまう。サディズムこそが彼らの社会の秩序を成り立たせている。
 しかし人類は、そうした猿としてのサディズムと決別して二本の足で立ち上がっていった。その姿勢はとても不安定で、しかも胸・腹・性器等の急所を外にさらしているのだから、攻撃されたらひとたまりもなかった。そうしてその不安定で危険極まりない姿勢は、たがいに向き合う関係になってゆくことによって安定した。その二本の足で直立して前に倒れやすい姿勢は、向き合っているときの相手の体が心理的な壁になることではじめて安定した。そうやって攻撃されたらひとたまりもない姿勢を相手に向けていった。つまり、そのときたがいに相手のための生贄になっていったのであり、それはむしろ、たがいのマゾヒズムの上に成り立っている関係だった。
「もう死んでもいい」というマゾヒズム、そこに二本の足で立っている人間の本性がある。そのマゾヒズムによって、より住みにくいところ住みにくいところへと地球の隅々まで拡散していった。
 狩りのための殺傷能力のある石器を生み出したこと自体が「戦争の本能=サディズム」を持っている証
拠だという考えもあろうが、ネアンデルタール人にとっての大型草食獣の狩りは死と背中合わせの危険な行為で、その証拠にそこで骨折したり死んでしまったりするアクシデントはつねについてまわったのであれば、それは、「もう死んでもいい」というマゾヒズムを持っていなければ成り立たない行為だった。
 人類は、文明社会になって他者を殺して自分が生き延びようとするサディズムで戦争をするようになったが、氷河期のネアンデルタール人クロマニヨン人は「もう死んでもいい」というマゾヒズムで狩りをしていた。
 そのとき、草食獣も人間も、ともに死の前に立っていた。そうやって彼らは、草食獣と命のやりとりをしていたのであって、一方的な殺戮とはいえない関係だった。まあそれが「戦争」の前段階だといえても、「戦争」そのものだともいえない。


 戦争は、「集団(=共同体)が生き延びるための正義」を掲げて起きる。
 サディズムとは生き延びようとする衝動であり、自分が生き延びることというか、自分の存在を正当化しようとする衝動なのでしょう。自我の肥大化。ナチスユダヤ人大量虐殺だって、ゲルマン民族の正当性を掲げてなされたのだろうし、それをしないとユダヤ人に対する優位を保てないところに追い詰められていた。第一次大戦の敗戦によって国民生活が極度に困窮化し、国の政治も経済も学問も芸術もユダヤ人優位の状況がいっそう意識されていった。
 個人の人生においても、肥大化した自我が自我存続の危機にさらされることによってサディズムが突出してくる。それがヒットラーによってリードされたことにあったにせよ、国民の多くが困窮化し、自我存続の危機にさらされていた。
 現在のこの国のサディスティックな「ヘイトスピーチ」の問題も、自我存続の危機にさらされているものたちによって叫ばれているのでしょう。
 困窮化するから自我が肥大化するというよりも、肥大化した自我が困窮とともに自我存続の危機を意識することによってサディズムが突出してくるのであり、はじめに肥大化した自我がなければサディズムも突出してこない。サディズムとは肥大化した自我である、ともいえるのでしょう。自我を少なくして「もう死んでもいい」と思い定めれば、サディズムも起きてこない。
 モテない男や女ほど自分はいい男や女だという自意識が強いところがある。彼らは、そういう自我存続の危機を生きてきたのであり、その自意識によるルサンチマンサディズムになってゆく。そうやって自分を人より優位の立場に置こうとする欲望だって、ひとつのサディズムなのです。サディズムは、人が生き延びようとするところではたらいている。
 それに対して「もう死んでもいい」という無意識の感慨ととも歴史を歩んでいた原始人の自我は、現代人よりもずっと薄かったはずです。原初の人類は、「もう死んでもいい」と思い定めて二本の足で立ち上がった。それは、自我を薄くして誰もが他者の生贄になろうとするマゾヒズムを持っていなければ成り立たない姿勢だった。原始社会は困窮したその日暮らしだったが、原始人の自我は薄かった。
 猿の自我は強い。他者を押しのけて生き延びてゆくのが彼らの社会の「順位性」であり、現代の文明社会も、そういう避けがたく自我が肥大化してゆく構造を持っている。もともと人類はそうした猿社会の「順位性」から決別して歴史を歩みはじめたのだが、文明社会になって「共同体」という集団を定着・存続させようとするなら、生き延びようとする自我の欲望の肥大化とともに「順位性」の構造になってゆくほかなかった。文明人は、そうやって猿の時代に先祖返りした心模様も一方に避けがたく持たされてしまっている。しかしそれはあくまで「先祖返りした」心模様であって、猿であることから決別して歴史を歩みはじめた原始人の心模様の中心であったとはいえない。
 猿のようなサディズムは、原始人よりも文明社会の現代人の方がずっと強い。したがって原始人も文明人と同じように戦争ばかりしていたとはいえない。つまり、戦争をすることが人間の本能だとか人間性の自然だとはいえない。
 現代人の、自分は正しく生きていると思い込むとか、自分はいい男やいい女だと思いたがるとか、いい男やいい女になろうと努力するとか、まあアンチ・エイジングの風潮にしても、それ自体がひとつのサディズムであり戦争の衝動でもあるのだ。


 現代人の心は、自我の肥大化と希薄化の二つの逆方向に分裂している。
 誰の中にも、猿のような生き延びようとするサディズムと、人間性の自然としての「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに「生贄」になろうとするマゾヒズムとがはたらいている。そうして、競争や戦争の生態とともにある現代においては、どうしても前者のサディズムが肥大化してきてしまう。
 戦争や競争の生態は、けっして人間性の自然ではない。原始人もそのような生態で歴史を歩んでいたとはいえない。
今どきは生き延びようとする自我の欲望が肥大化した時代だからこそ、「天然」という無邪気な自意識の薄いキャラクターがもてはやされてもいる。そういう無邪気なときめきとともにある自我の薄さは人間なら誰の中にもあるし、それがこの国の文化の伝統であり、人間社会の普遍的な伝統でもある。そういう無邪気なときめきは自我の強い欧米人にもあり、ときによって彼らの方が無邪気だったりする。まあ彼らの方がネアンデルタール人の伝統を濃く引き継いでいるし、その無邪気なときめきは、じつは他者や集団の生贄になって死んでゆこうとするマゾヒズムであり、原始人の生はその心模様なしには成り立たなかった。
 生き延びようとするサディズムと、生贄になって死んでゆこうとするマゾヒズムは、現代の文明社会を生きるわれわれの誰の中にもある。
 しかし生き延びようとするサディズムが誰の中にもあるからといって、それが人類普遍の心模様で原始人も戦争ばかりしていたと決めつけることはできない。現代人の尺度で原始人の心模様を決めつけることはできない。彼らは、生き延びようとする欲望をたぎらせて生き残ってきたのではなく、誰もが「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに他者や集団の生贄になろうとすることによって生き残ってきたのであり、その衝動こそ原初の人類が二本の足で立ち上がったときにもたらされた人間性の自然だった。
猿にはない人類ならではの高度な連携プレーは原始人=ネアンデルタール人の遺産としてひとまずわれわれの現代社会でも今なお機能しているのであって、べつにわれわれ現代人の方がそうした関係性を豊かに持っているというわけではない。
 まあ、現代人の方が原始人よりも高度で豊かな知性や感性や人間性を持っているという前提で考えたがること自体が、現代人の思い上がりであり、サディズムなのだ。そんな前提など、そう考えたがっているというだけのことであって、客観的な真実でもなんでもない。
 原始人の暮らしが困窮を極めたものであったとしても、彼らは生き延びようと必死になって生きていたのではなく、だからこそ生きることを「もう死んでもいい」という感慨になってゆく一つの「お祭り」にしていたわけで、その「お祭り」のダイナミズムによって生き残ってきたのだし、そこから人間的な知性や感性が進化発展してきたのだ。
 今どきの人類学者による、人間性や知能のはたらきの本質を生き延びるための「未来に対する計画性」にあるとする問題設定は、根底的に間違っている。そんなスケベ根性で人類の知能や感性が進化発展してきたのではない。
「未来に対する計画性」を豊かに持っているということは、そのぶん目の前の「今ここ」に気づいたり感じたりする知性や感性のはたらきが鈍くさいということなのですよ。それが人間性の自然・本質なのですか?冗談じゃない。そんな作為的な生き延びる能力をどんなに自慢しても、けっきょくは深く豊かに目の前の「今ここ」に気づいたり感じたりしながらそのつど他愛なく率直に「反応」してゆく「天然」の心模様を持った人間には、知性や感性においても人間的な魅力においてもかなわないのだ。
 どんなに生き延びる能力を持っていることやその幸せを自慢しても、あなたの知性や感性や人間的な魅力は、あなたが思っているほどではなく、たかが知れている。人間的な知性や感性や魅力=セックスアピールの本質・自然は、生き延びる能力にあるのではない。
 すなわち人間にとっての生きるいとなみの本質・自然は、「生き延びる」ための「労働」ではなく、「もう死んでもいい」という「お祭り=遊び」なのだということです。
 

 われわれが生きてあるのは、生きることができるエネルギーが体にあるからでしょう。そんなことは当たり前すぎるくらい当たり前のことだが、そのエネルギーを消費してゆかないことには生きるいとなみにならないということもまた、当たり前のことでしょう。しかしその当たり前の「エネルギーを消費する」ということがうまくできなくなって生きることがぎくしゃくし、精神を病んだりする。
 われわれの心がこの世界や他者にときめくということは、「エネルギーを消費する」はたらきであって、「エネルギーをため込む」というはたらきではない。
 現代人は、「未来に対する計画性」とともにエネルギーをため込むことには熱心だが、そのぶんエネルギーを消費するはたらきがあいまいになりがちなところがある。そうやって脳の神経回路の流れが滞って、認知症鬱病発達障害やインポテンツなどのさまざまな社会病理が起きている。
 エネルギーを消費することは、「もう死んでもいい」という無意識の感慨というか生きものとしての本能(のようなもの)の上に成り立っている。その本能的な衝動がはたらかなければ「エネルギーを消費する」という現象は起きない。
 原始人が他愛なくときめき合いながら誰もが他者や集団の生贄になろうとする衝動を持っていたといっても、それはただたんに身体的にも精神的にも「エネルギーを消費する」はたらきがスムーズで豊かだったということであって、文明の成熟度や今どきの倫理道徳の観念とはなんの関係もないこと。
 エネルギーをため込むからエネルギーを消費できるのだといっても、エネルギーをため込もうとするはたらきが強くなれば、エネルギーを消費するはたらきが鈍くなる。エネルギーをため込むことなんか、体が勝手にやってくれる。わざわざそんな欲望をたぎらせなくても、誰もが自然に息をしているし、腹が減ったら自然に飯が食いたくなるし、心はそこからエネルギーを消費しようとするようにはたらきはじめる。まあ息をすることも飯を食うことも体の一部を動かすことであり、生き物の体が動くということはエネルギーを消費することだ。どんなにエネルギーをため込んでも、エネルギーを消費するはたらきが滞れば、命のはたらきも心のはたらきも活性化しない。そうしてエネルギーを消費することは、「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともにある。
 誰の中にも「もう死んでもいい」という無意識の感慨が息づいている。そこからしかエネルギーを消費するはたらきすなわち生きるいとなみは起きてこない。
 現代人は生き延びるためのエネルギーをため込むことによって、かえって命のはたらきや心のはたらきをぎくしゃくさせてしまっている。
 歳を取って心がときめかなってきたと愚痴をこぼしてもしょうがない。それは歳を取ったからではなく、命をため込むことばかりして生きてきたからだ。たとえ命のはたらきがしぼんでしまった老人であれ、人の心は、死んでゆくときにこそもっとも鮮やかに世界や他者にときめいている。それは、たとえ歳を取ってもときめいている人はときめいているということを意味する。たとえ歳を取ってもちんちんがちゃんと勃起する老人はいくらでもいる。自分がときめかなくなったからといって、自分を人間の物差しにして考えるべきではない
 この世のもっとも弱いものとして「もう死んでもいい」という無意識の感慨ともに集団や他者の生贄になってゆこうとする衝動を持っている人は、たとえ歳を取ってもこの世界や他者にときめいている。「ときめく」とは、そういうマゾヒズムなのだ。
 たとえ見ず知らずの相手でも他愛なくときめいてゆくことができるのが人間性の自然であり、原始人はそうやって地球の隅々まで拡散していった。たとえ歳を取っても世界や他者に他愛なくときめいてゆくことができるのが人の心の自然であり、そうやってわれわれは死んでゆく。
 釈迦だって、涅槃に際しては「この世界はなんと美しい輝きに満ちていることか」と詠嘆した。
「ときめく」とは、「自分を忘れる」という、いわば「自分の死」の体験なのだ。そういう心の動きを人間性の自然として持っていた原始人の社会に、はたして戦争があっただろうか。
 乳幼児も人間性の自然をそなえた老人も、他愛なく世界や他者にときめいている。その「ときめき」こそ、人間のはじまりであり、究極の心模様でもあるのだ。


「正義」だとか「人類の理想」だとか「生命の尊厳」だとか「自分という存在のかけがえのなさ」とか、そうした通俗的な価値意識で世界や他者を吟味したり裁いたりしてばかりいる現代人の、その肥大化しきった自我意識で原始人の心模様の何がわかるものか。世界や他者にときめくということは、そういう自我意識が壊れてしまう(=自分を忘れて夢中になってゆく)体験であり、そういう「小さな死」を繰り返してゆくことが生きるいとなみなのだ。
 そのような「価値」などどうでもいい。「価値」も「価値に執着する自分」もどうでもいい。人の知性や感性は、そのような「価値」や「自分」をいったん壊し、そのつど生まれたばかりの子供のような心になって他愛なく世は界や他者にときめいてゆくところから育ってくる。
 まあ人類史の文化の進化発展というかイノベーションは、既成の「価値」を壊してゆくことの繰り返しとして起きてきた。
 個人の人生においても、苦労をしようとするまいと、「自分」に執着するばかりで「自分を壊す」ということを支払ってきていない人の知性や感性は、どんなにお勉強の偏差値が高くても限界がある。苦労してきたからといって、「自分」という存在に執着するほどの値打ちが与えられているわけではない。「自分」などどうでもいいというところから知性や感性が育ってゆく。「自分」などどうでもいいというところに立たなければ世界や他者にときめくことはできないし、世界や他者にときめいていれば「自分」なんかどうでもよくなってしまう。
 ときめくとは「自分」が壊れる体験であり、原始人はその体験の醍醐味をよく知っていた。彼らは、現代人のような「生きられる自分」など持っていなかった。誰もが「生きられない自分」とともに生きていたのであり、そんな「自分」を忘れてゆく(=壊してゆく)ところからカタルシスを汲み上げていた。
 この国の縄文時代は、1万年も続いた。彼らはどうしてそんなにも長いあいだ、自分たちの生きる作法や社会のかたちを変えようとしなかったのか。それは、たえず「自分」を壊し「自分」を忘れて生きていたからです。彼らには、生き延びようとする「自分」や、生き延びるために社会を変えてゆこうとする計画性も持っていなかった。彼らは、「自分」を忘れてゆく(=壊してゆく)カタルシスをよく知っていた。それは、退屈な社会だったということではなく、自分を忘れて夢中になってゆく体験が豊かに生成している社会だったからであり、そうやって彼らは野生のコメを見つけてそれを栽培してゆくことや、漆の木から漆を精製することを自力で覚えていった。それらは、世の歴史家がいうように大陸から伝えられたのではない。自力で覚えてゆくだけの知性や感性や自分を忘れて夢中になってゆくことができる「ときめき」を持っていたのであり、人と人の関係のあやも現代人よりもずっと細やかに感じていたかもしれないし、セックスの快楽だってわれわれが想像する以上に深く豊かに体験していたのかもしれない。
 まあ彼らは、現代人のような生き延びようとしたり世の中を変えようとしたりするような閑人ではなかった。
 縄文時代はある意味でとても「パンクな」社会だったのであり、日本文化にはそういう伝統がある。そして「もう死んでもいい」というところから心が華やいでゆくのは、ネアンデルタール人以来の人類普遍の伝統でもある。そこにこそ、人間性の自然がある。
 何が「未来に対する計画性」か。現代社会に踊らされているだけの一部の現代人のごときそんな俗っぽいスケベ根性で人類史の文化が生まれ育ってきたのではない。
 現代社会にも、「もう死んでもいい」という心意気とともに何かに命を懸けて夢中になっている人はいくらでもいるし、そういう態度に対するあこがれや共感は誰の中にもある。それは、大冒険とか大発明とか社会の変革とか、あれこれ大騒ぎして社会的な名声を得ようとする自己顕示欲のもとにあるのではない。それ自体、生き延びようとするスケベ根性にすぎない。
 なにはともあれ、パンクな精神は、生きられないこの世のもっとも弱いものの「もう死んでもいい」という感慨のもとに宿っている。生きることに上手なものたちのかっこつけているだけの恋愛よりも、生きることが下手なものたちのはにかみやくるおしい嘆きやなやましさの方がはるかに人々を感動させる場面になる。
 パンクとは、ぶざまで無能であること。現代社会ではそういうかたちで生きることのむずかしさがあるわけだが、だからこそそのことの深さと豊かさと人間性の自然に人々が気づきはじめている時代であるともいえる。生きることの上手な人間たちがちっとも魅力的ではないことに気づきはじめている。
 人は生きられないことの嘆きに共感してもらい泣きをする。映画や小説の感動の場面なんか、だいたいそういうパターンではないか。感動とは、ひとつの「小さな死」の体験であり、生きられなさこそ人の心に感動をもたらす契機になる。心は、生きられなさに身を置いて華やぎときめいてゆく。


 ネアンデルタール人の集団のメンバーは固定されていたか?
 彼らはひとまず、人類拡散の果てに氷河期の北ヨーロッパに登場してきた人々であり、そのとき地球上のどの人類よりも「拡散=漂泊」の生態を色濃く持っていたはずで、その遺伝子には「拡散=漂泊」の歴史が刻まれていた。
 それに対して同じころのアフリカ中央部のホモ・サピエンスは、人類発祥以来一度も拡散してゆかない歴史を歩んできた人々だった。
 一般的には、アフリカ人はすらりとした体型で走る能力が発達しているし、移動生活をしているから、精神的にも身体的にも「拡散=漂泊」の能力を色濃くそなえている、といわれているのだが、なんのかのといっても彼らは、人類発祥以来の700万年間を一度もアフリカの外に出てゆかなかった人々だったのです。この歴史の事実を、世の人類学者たちはどう考えているのだろう。そんな歴史を歩んできた人々が、700万年後にいきなり地球の隅々まで大拡散していっただなんて、どう考えてもつじつまが合わない。荒唐無稽すぎる。彼らは、拡散してゆかない遺伝子の持ち主だったのだ。
 移動生活をしているといっても、同じ地域をぐるぐる回っているだけで、その生態がそのまま「拡散=漂泊」のメンタリティや行動習性になるはずがない。
 旅に出ることなんか、どんなにずんぐりした体型だろうと、そのメンタリティさえあれば誰でもできる。人類の直立二足歩行は、どこまでも歩いてゆける機能を持っている。人は、体型のアドバンテージで旅に出るのではない。集団からはぐれてゆく心を携えて旅に出るのだ。
 集団からはぐれてゆく心模様は、アフリカのホモ・サピエンスよりも、人類拡散の歴史をその遺伝子に刻んでいる北ヨーロッパネアンデルタール人の方がはるかに色濃くそなえていた。
 アフリカ人はすらりとした体型で速く走る能力があるから拡散の生態も色濃くそなえているだなんて、よくそんな漫画チックな発想をして平気でいられるものだ。あほじゃないかと思う。
 人類は、すらりとした体型で地球の隅々まで拡散していったのではない。最初に人類発祥の地であるアフリカを出ていったのは、非アフリカ的な、背が低くずんぐりした体型のものたちだった。これはもう考古学の証拠としてちゃんと確認されていることで、彼らは、アフリカでは生きられなかった。だからアフリカを出ていった。つまり、そういうぶざまで無能なものたちがアフリカを出ていったのであり、この事実をあなたたちはなんと考える?
 人類拡散の歴史は、ぶざまで無能なものたちがつくったのだ。
「住みよい土地を求めて」だの「すらりとした体型で歩く能力が発達していたから」だの、何を漫画みたいなおちゃらけたことをほざいてやがる。
 拡散していった先はつねにもとの土地よりも住みにくい土地だったし、人がどこまでも歩いてゆくことができるのは「漂泊」の心を持っているからであって、体型の問題なんかではない。どんなにすらりとした体型を持っていようと、「漂泊」の心を持っていなければすぐ歩くのをやめてしまう。すらりとした体型を持っているウマやシカが、人間よりも遠くまで歩いて拡散してゆく生態をそなえているか。それと同じことです。
 生きる能力があれば、拡散なんかしてゆかない。生きる能力を豊かにそなえたアフリカのホモ・サピエンスがヨーロッパに移住していっただなんて、まったくこの上なくとんちんかんな思考なのだ。
 氷河期の北ヨーロッパは、人類なら誰もがぶざまで無能な存在になるほかない苛酷な環境だった。そして、ぶざまで無能であることそれ自体を生きることによって人類は生き残っていったのだ。生き延びる能力によって生き残っていったのではない。置換説の学者たちは、そこのところの問題設定ですでに過ちを犯している。ほんとにアホばっかりじゃないか。「人間とは何か」と問うてゆく想像力が決定的に欠落している。
 そしてその過ちは、「アフリカ人が移住していった」ということだけじゃない。洞窟壁画をはじめとするクロマニヨンの文化がどのようにして花開いてきたかということに対する解釈も、「未来に対する計画性」がどうのこうの、「象徴思考」がどうのこうのと、おしなべて置換説の研究者ほど陳腐で薄っぺらなことをいう傾向がある。
 そりゃあ、そうさ。彼らは、「人間とは何か」と問うてゆく思考を持てなくて、机上のパズルゲームのような安易な空想ばかりしている。
 「人間とは何か」と問うなら、4〜3万年前の氷河期にアフリカ人がはるかな旅をしてヨーロッパに移住していったということなど、あるはずがない。


 原初の人類は、生きられない猿だった。そのぶざまで無能な生態やメンタリティともに生き残り、人間的な知性や感性を進化発展させてきた。人類史は、そういう逆説の上に成り立っている。
 人は、生き延びる能力を持ったり持とうとしたりすることによって、知性や感性が停滞・衰弱し、人間的な魅力も失ってゆく。
 生き延びる能力を自慢したり、生き延びることができる幸せに執着したり、生き延びようとがんばったり、そうやって生き延びることの価値が称揚される社会では、人々の知性や感性が停滞・衰弱し、人間的な魅力も失ってゆく。戦後日本は、平和で豊かな社会を実現することによって、そういうジレンマに陥ってしまった。多くの人たちがそれなりに平和で豊かな暮らしをしているが、なんだか知性や感性も人間的な魅力も中途半端な人ばかりの社会になってしまっている。そうしてけっきょく、本格的な知性や感性や人間的な魅力はそういう社会からはぐれてしまっている人のもとにある、という状況になっている。
 きっと人々は、そういうことに気づきつつある。気づきつつある段階の混乱はあるにせよ、なんのかのといっていっても人は、生きられなさの嘆きに感動してもらい泣きする存在なのだ。だから生きられないものの「介護」をするのだし、ぶざまで無能であることを生ききってみせるパンクな精神がカウンターカルチャーとしてもてはやされたりもする。まあ「天然」という他愛なさも、ひとつのパンク精神だともいえる。
 誰だって平和で豊かな暮らしの幸せを欲しがるのだとしても、そこに知性や感性や人間的な魅力が生まれ育ってくる契機があるわけではない。それを欲しがることによって、知性や感性や人間的な魅力を失ってゆく。そういう現代社会のジレンマがあって、そこから認知症鬱病発達障害やインポテンツなどのさまざまな社会病理があらわれてくる。そういう社会病理は、われわれに知性や感性や人間的な魅力はどこにあるかということに気づかせてくれる。
 なんのかのといっても、生き延びる能力や幸せ自慢を繰り返している内田樹上野千鶴子をはじめとする今どきのオピニオンリーダーたちの知性や感性や人間的な魅力などたかが知れているのですよ。そしてそんな言説をありがたがっている読者の知性や感性や人間的な魅力だってそれなりのものでしかないし、そんなことを合唱しながら認知症鬱病発達障害やインポテンツが溢れてくる社会になっている。
 生き延びる能力やその幸せを称揚し自慢するということは、生きられないものを差別しているということであり、それもまたひとつのサディズムだといえる。あなたたちは、内田樹上野千鶴子のいうことにグロテスクなサディズムを感じませんか。生きられないものを生きられるようにしてやるというその正義ぶった態度そのものが、生きられないことを差別し否定しているひとつのサディズムなのだ。
 たとえば現代人は、この世の「弱いもの」の無防備で無抵抗な姿を前にするといじめたくなるという傾向を持ってしまっている。その衝動はもう現代人なら避けがたく誰の中にも多かれ少なかれあって、そうやって幼児や老人や障害者に対する虐待が起きている。そのサディズムは、生き延びる能力や幸せを称揚し自慢し合っている平和で豊かな社会の情況から生まれてくる。
 あまりいい気になって生き延びる能力や幸せを自慢するものではない。その態度が、あなたの知性や感性や人間的な魅力の限界を示している。平和で豊かな社会は人類の理想になりえないし、理想そのものを持たないのが人間性の自然なのだ。人は、ぶざまで無能であっていいし、そのこの生からはぐれてしまっている心模様にこそ本格的な知性や感性や人間的な魅力が育ってくる契機がある。
 パンクな精神は、ひとつのマゾヒズムである。「地獄でなぜ悪い」とはうまいことをいったものだ。
 正義ぶって幸せぶったあなたたちの知性や感性や人間的な魅力が何ほどのものか。
 人の知性や感性や人間的な魅力は、ぶざまで無能な生きられなさを生ききってみせることにある。
 ネアンデルタール人は、ぶざまで無能な生きられなさを生ききって歴史を歩んでいた。人類の知性や感性や人間的な魅力の基礎は、そこにおいてつくられた。
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