正義などどうでもいい・ネアンデルタール人論76

 たとえば原発はダメだといっても、切実に原発を必要としている国もあるし、原発によって発見される科学の真実もあるわけで、原発について研究したいという科学者がいてもだれもとがめることはできない。だからそれは、普遍的な世界基準の正義にはなりえない。
べつに先進国の正義が人類普遍の正義だともいえない。
というか、「正義」そのものが、人類普遍の概念ではないのだ。
世界中のどこの国も、世界中のどんな人と人の関係も、必ず「正義」を基準にして動いているというわけではない。
人が住む世界には、「正義などどうでもいい」という場面はいくらでもある。
他者や他の国と競ったり戦ったりしているところから「正義」という概念が生まれてくる。その生き延びようとする欲望とともに「正義」という概念が生まれてくる。
しかし人は、心の底に「もう死んでもいい」という無意識の感慨を持っている。心はそこから華やぎときめいてゆく。
原発があろうとあるまいとこの世に滅んでいけないものなど何もないし、人の思考や行動そのものが根源的には「もう死んでもいい」という滅んでゆこうとする無意識の感慨の上に成り立っている。人の心も命のはたらきもそこから華やぎ活性化してくる。
文明社会の生き延びようとする欲望=スローガンは、けっして普遍的な正義になりえない。原始人はそんな欲望=スローガンで生きていたわけではないし、文明人だろうと原始人だろうと、人は誰もが「もう死んでもいい」という感慨とともに死んでゆく。そういう感慨を持たなければ死んでゆけない。
レヴィ=ストロースの報告によれば、アマゾンの未開社会のリーダーに「リーダーであることのいちばんの特権とは何か」と聞いたところ、「戦争のときに先頭に立って突き進んでゆくことができることだ」と答えたという。つまり彼は、「もう死んでもいい」という心地になりきることこそ人としてこの世に生れ出てきたことのこの上ない快楽だ、といっているのだ。
生き延びようとする欲望=スローガンは、歴史という時間軸においても、地球規模の空間軸においても、けっして普遍的な正義になりえない。正義という概念そのものが、文明人のたんなる自意識の産物にすぎない。人の思考や行動の普遍的な基礎は、正義を止揚することにあるのではなく、「もう死んでもいい」という無意識の感慨にこそにある。われわれは、そういうことを、氷河期の北ヨーロッパという極寒の環境を生きたネアンデルタール人から教えられている。
現在のエスキモーなどの極寒の環境を生きている人々だって、その生きにくさを受け入れ、べつに住みよい土地に移住したいとも思わない、という。それは、アマゾンの未開人が、戦争のときに真っ先になって突き進んでゆくことこそ最高の快楽だといっているのと同じで、人の心は「もう死んでもいい」という無意識の感慨の上に立って華やぎときめいてゆく。「もう死んでもいい」のなら、生き延びるための正義などどうでもいい。正義などどうでもいいところに立って人の心は華やぎときめいてゆく。
「正義とは何か」という問題設定で哲学を語って人気を博したハーバード大の教授もいたが、正義は、人間性の普遍・自然になりえない。そんな問題設定で「人間とは何か」ということを語ろうとするところにその教授の知性の限界がある。


人が住む世界には、「正義などどうでもいい」という場面はいくらでもあるし、正義などどうでもいいことが正義になったりする。そうやって戦争や人殺しが起きる。「生き延びるため」という正義のためなら、正義なんかどうでもいい。正義なんかどうでもいいという無意識の感慨の上に、正義という概念を紡いでゆく。生き延びるために、「もう死んでもいい」という心地になって戦争をする。支配者は、民衆の「もう死んでもいい」という無意識の感慨を引き出し利用しながら、共同体が生き延びるための戦争をする。
生き延びるために必要なものを「正義」という。そして「もう死んでもいい」と思ったときにこの命はもっともダイナミックにはたらく。「もう死んでもいい」という無意識の感慨の上に「生き延びるための正義」という概念が捏造されてゆく。
人の心模様の自然は、「正義などどうでもいい=もう死んでもいい」というというところにある。
正義などどうでもいいから戦争ができるのだし、その「どうでもいい」ということが正義になる。戦争になれば、敵の命も自分たちの命もどうでもよくなってしまうし、その「どうでもいい」という心地になりきることが戦争をすることの醍醐味になっている。勇敢な兵士ほど、自分の命も敵の命も「どうでもいい」と思っている。人の心は、「どうでもいい」と思ってゆく自然を持っている。
人生なんか、幸せであろうと不幸であろうとどうでもいい。というか、生きてあることそれ自体がどうでもいいこと。この生もこの世界も、生き物のことであれ人間のことであれ、その「どうでもいい」ということの上に立ってもう一度考え直してみてもいいのではないだろうか。
世界や他者は、この生の不可能性から輝いて立ちあらわれてくる。それは、生き延びることができるという希望とともに輝くのではない。未来のことなんかわからない。「もう死んでもいい」と思っているものにとって、その輝きは、「今ここ」の「不意の出来事」として立ちあらわれる。そうやって驚きときめいてゆくことがこの国の伝統としての「無常」という世界観・生命観であり、それはまた人類が歴史の無意識として普遍的に共有している世界観。生命観でもあるのではないでしょうか。


人は誰もが「人間=二本の足で立っている猿」としての「もう死んでもいい」という無意識の感慨を持っている……このことは、「人間とは何か」ということを考えるうえで、とても大切な問題だと思える。
「どうでもいい」ということは、何にも心を動かされていない、つまり不感症とかニヒリズムというようなことではない。二次的俗世間的に装飾あるいは粉飾された「価値」なんかどうでもいい。人は、それ以前のそれが存在することの「本質」そのものにすでに心を動かされている。
 世界や他者が存在することの「本質」を問おうとするなら、正義をはじめとする通俗的な「価値」なんかどうでもよくなってしまう。
 人は、自然・根源において、誰もが「本質」を問おうとする心の動きを持っているのであり、人間的な知性や感性はそこにこそある。
 たとえば、お金をたくさん欲しいのは人情だが、同時に人間なら誰だってどこかしらで「お金とは何か」問うている。「お金とは何か」と問うたから、お金の機能がどんどん広がり発達してきた。そのとき人類は、「お金をこんなふうに使ってみよう」と発想したのではない。「ああ、お金にはこんな機能もあるのか」と、そのつど「発見」していったのです。「発見」したからこそ新しい使い方が生まれてきたのであって、新しい使い方を知らない段階で新しい使い方を発想することは原理的にありえない。人間はお金の本質を問う好奇心を持っているから、良くも悪くもお金の世の中になっていったのです。
「本質を問う好奇心」を「知性」とか「感性」という。
原初の人類が猿とは違う人間的な「石器」を生み出していったのは、それが何に役立つかという「未来」を計画したからではなく、石そのものの「本質」を問うていったからです。石と石をぶつけ合ったらどんな音がするかとか、硬い石を軟らかい石にぶつけると軟らかい方が欠けるとか、どんな欠け方をするかとか、そのような「本質」を問うてゆく好奇心があったからです。それが何に役立つかという発想なんか猿でもしている。猿はしかし、それだけの発想しかなくて、人間のような「本質」を問おうとする好奇心が欠落しているからあの程度の石器しか作れない。
「何に役立つか」と発想して人類の文化のイノベーションが起こってきたのではない。それ自体の「本質」を問い、「発見」していったからです。
 本質を問う、という基礎がなければ学問も芸術も成り立たないし、本質を問うことによって人類史の文化のイノベーションが起こってきた。
まあ学問などは、文科系だろうと理科系だろうと、「基礎学」の方がより高度な知性や感性を必要とするジャンルだとされている。お金をたくさん集めることを研究する「実学」と、お金とは何かとその本質を問うてゆく「基礎学」とどちらが学問としてより高度で本格的であるか。歴史の知識を集める学問と、歴史とは何かと問うてゆく学問と、どちらがより高度な知性や感性や思考力や想像力を必要とするか。そういう「基礎学」がなければ「何に役立つか」という学問など成り立たないし、「何が真実か」という検証もできない。
 

 原初の人類は、二本の足で立って猿よりも弱い猿になったことによって、生き延びることができる「未来」を失った。そうして「もう死んでもいい」と思い定めながら、目の前の「今ここ」の世界や他者に深く豊かにときめいていった。つまり、そうやって目の前に世界や他者が存在することそれ自体に深く豊かにときめいてゆき、猿のようなどちらが生き延びる能力において優位かという「順位性」の関係を捨てていった、ということです。そうやって他者の存在そのもの(=本質)にときめき問うてゆきながら、人間的な知性や感性の基礎がつくられていった。
 人類学者たちが人間的な知能のはたらきとして合唱している「未来に対する計画性」などという解釈は、ほんとにいいかげんで愚劣です。人間的な知能(知性や感性)のはたらきは、そんなところにあるのではない。その解釈は倒錯的だ。その「未来に対する計画性」を捨てたところの、「今ここ」に対する深く豊かなときめきこそ、人間的な知能(知性や感性)のはたらきのほんらいのかたちなのだ。
 人は、根源・自然において、生き延びるための正義や価値を追い求めている存在であるのではない。「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに、目の前の「今ここ」に深く豊かにときめいてゆく存在なのだ。正義や価値などという俗っぽいものよりも、純粋に「本質」そのものを問うているのが人の心模様の根源・自然なのだ。
 幼児は、正義や価値など問うていない。「本質」そのものに対して「何、なぜ?」という問いを果てしなく繰り返してくる。
 もしも人間が正義や価値を追い求める存在であるのなら、男と女の関係は美男美女のあいだにしか成り立たないはずです。しかしじっさいは、いろんな男女のカップルが存在している。ブスとブオトコだって恋をし結婚をする。老人どうしだってときめき合うし、障害者どうしのカップルもある。男と女の関係は、本質・根源においては、男が男であることそれ自体、女が女であることそれ自体にときめき合って成り立っている。美男美女という正義や価値の上にしか成り立たないのではない。もっとも今どきは、美男美女でしか成り立たないような幻想を抱いて、たいしていい男やいい女でもないくせにいい男やいい女になったつもりの妙な勘違いや悪あがきをしたりしている人も多い。
 彼氏や彼女がいるからといって、自分がいい女やいい男であることの「価値」の証明になっているわけではない。男と女は、本質・根源において、男であることそれ自体、女であることそれ自体にときめき合っているのだ。
 また、モテもしないくせに、自分がいい男やいい女のつもりでいる男女も多い。その過剰な自意識がウザったいからモテないのだし、モテないから、いい男やいい女のつもりになれる。彼らは、男と女が男であることそれ自体女であることそれ自体にときめき合っていることを知らない。本気で男と女の関係にのめりこんだら、自分がいい男やいい女であると思い込む余裕なんかなくなって、ただの男と女になってしまう。ただもう、自分が男であること女であることを思い知らされるだけだ。そうやって人間が「本質」を問うている存在であることを思い知らされるだけの関係になってゆく。
 人は、この世に他者が存在することそれ自体の「本質」にときめいている。
 誰だってけっきょくは男と女それ自体の「本質」で向き合う関係になってゆくのであって、よほどの自意識過剰の男女でないかぎり、いつまでもいい男といい女を演じ合って関係してゆけるはずもない。もちろんお金や家庭の平和という「正義」やいい男いい女という「価値」などの二義的装飾的な要素で維持されている関係も多かろうが、それでもどんな男と女も、男と女それ自体の「本質」で向き合っている部分を一義的に抱えている。
 人の心は、根源・自然において「本質」を問うている。それは、現在の本格的な学問や芸術の世界だけの問題ではない。世の男と女の関係や幼児の「なに、なぜ?」と問う態度であれ、人類史の文化の起源においても同じであり、「本質」を問うことにこそ人間性の基礎と究極のかたちがある。


「本質」を問うなら「正義」も「価値」も「どうでもいい」こと、人の心は、いつの間にかそういうところに「漂泊」してゆく。
 何もかもどうでもいい……人はそこから生きはじめ、そこにたどり着く。それが「漂泊」ということです。生き延びるための正義や価値にうつつを抜かしている今どきの大人たちは、三歳の幼児ほどにも「本質」を問うセンスを持っていない。
 この世に滅びていけないものなど何もない。すべてのものは滅びる。そんなことは、当たり前すぎるくらい当たり前のことだ。なのにわれわれは、どうして生き延びることにあくせくしてしまうのだろう。生きてあることなんか「どうでもいい」ことだ。この世に滅びていけないものなど何もないし、この生のはたらきは滅びてしまってもいいというかたちの上に成り立っている。そこから命が動きはじめる。そこから命が華やぎ活性化してゆく。
われわれは、肉や骨のはたらきが不調の時に「苦痛」としてそれを意識する。肉や骨のことを忘れているときがもっとも心地いい状態であり、生き物は肉や骨のことを忘れながら身体を動かしている。生きものの身体が動くということは、身体を忘れてゆくことの上に成り立っている。
息をするという身体の動きは、息苦しいというかたちで身体を意識することからの解放としてもたらされる。生きものの身体のはたらきは、身体のことを忘れてゆくはたらきであって、身体を意識するはたらきではない。
人類が二本の足で立って歩くことだって、身体=足のことなど忘れて歩いているのであり、そうやって歩きながら景色を眺めたり考えることにふけったりしている。そうして疲れてくると、身体=足の物性を苦痛として意識しはじめ、歩くことをやめて休息しようとする。身体=足のことを忘れていられるかぎり、どこまでも歩いてゆける。人類が猿と違ってどこまでも歩いてゆける存在であるのは、直立二足歩行が疲れない歩き方であるからではなく、身体のことを忘れてしまえる歩き方だからです。二本の足で全体重を支えてしかもけっして安定した姿勢ではないのだから、疲れないはずがない。しかしそれでもそれは、四本足で歩くよりももっとダイナミックに身体=足のことを忘れてしまえる。それは、身体の重心をほんの少し前に倒すだけで、自然に足が前に動いてゆく。不安定であるからこそ、そういう自動的な動きになってゆくことができる。そうして意識が景色を眺めることや考えることに集中しているかぎり、身体=足のことは忘れている。その、身体すなわち生きることの外に対する関心こそ、人間的な知性や感性のダイナミズムになっている。
まあ身体を意識して身体を支配しようとするスケベ根性が強いものほど、身体の動きが鈍くさい。身体のことを忘れながら身体が勝手に動いてゆくというタッチを持っていないから。
生きものの生のいとなみも身体の動きも、「生=身体」のことを忘れてゆくはたらきの上に成り立っている。
生きることなんか「どうでもいい」こと、そういうかたちで生きものの命は活性化してゆく。
 生き延びようとするスケベ根性が強いものほど、知性や感性が鈍くさい。そんな生き延びようとするスケベ根性すなわち「未来に対する計画性」によって人類史の文化が生まれ育ってきたなどということがあるはずがない。「何に役立つか」という「未来に対する計画性」など忘れ、無邪気に純粋に「本質」そのものを問うていったことによって人類史の文化が生まれ育ってきたのだ。
 生き延びるための正義や価値にあくせく執着ばかりして「本質」そのものを問わないで何が人間か。生き延びるための正義や価値に執着ばかりしてそんなことを振りかざしたがる人間にかぎって、「本質」を何も知らない。
自分がモテないことに不平不満を抱いている男や女にかぎって、正義や価値を振りかざしたがるし、自分のことをいい男だとかいい女だと思い込んでいるというか、思い込もうとしている。そんな男や女にかぎって、他人のこともいい男かいい女かと吟味ばかりして、相手の存在そのものにときめいてゆくということができない。そういう「本質を問う」というセンスを持っていない。そうやって現代人は認知症鬱病やインポテンツに堕ちてゆく。


 80年代の「ニュー・アカ」ブームのころ、蓮実重彦の「表層批評宣言」やそのネタ元であるフランス現代思想の「記号論」などが大いにもてはやされ、「本質を問う」ということがとても野暮ったく倒錯的なことのように言われていたのだが、その「記号論」こそがじつは病理的倒錯的な思考だったということが現在において露出してきている。彼らのその近代合理主義批判は、じつはその「表層=記号」に正義や価値を見ていただけで、正義や価値そのものを否定できていなかった。彼らの思考は、現代社会では世界や他者を「表層=記号」として解釈してゆくことが生き延びるための有利な方法になっているという時代の流れに踊らされているだけのことだったし、だからこそ多くの人がそれに飛びついていった。
 たとえば、われわれが人と出会ってどういう印象を持つかといえば、「記号」というかたちで印象に刻むか、この人はいったいどんな人だろうかと「本質」を問いながら印象を浮かび上がらせるかというひとまず二つの態度になる。美人とかブスとか、猿みたいな顔だとかミッキーマウスみたいな顔だとか、そういう「記号」として印象を刻もうとするのは、相手の人となりや心のあやに対する関心や感受性を持っていない人のすることです。かれらは、そういう「記号」でしか人を識別できない。自閉症の人は、人の顔をうまく識別できない。それは、相手の人となりや心のあやに対する関心や感受性を持っていないからです。そういう「ときめき」がないから、識別できない。人は、他者と出会えば、「ときめき」とともにいわくいいがたい他者の印象を心に刻む。その人の人となりや心のあやのいわくいいがたい印象が、その人の顔にあらわれている。誰の顔だって同じように目や鼻や口が並んでいるだけだから、そういう印象を持てなければ、誰の顔も同じになってしまう。だからそういう印象を持てない人は、「記号」として分類識別しようとする習性になってゆく。自閉症的な傾向の強い人は、ときどき普通の人にはできないような突拍子もない人の印象の識別の仕方をしていて、それが個性だと評価されたりすることも多いのだが、そんな発想はただ、普通の人のような「他者と出会ったときのときめきとともに感じられるいわくいいがたいニュアンスを汲み取ってゆく能力」を持っていないことの代替作用にすぎないことが多い。
 われわれは人と出会ったとき、目や鼻のかたちがどうかという以前にその人の人となりとしていわくいいがたいニュアンスをその人の「固有性」として一挙に感じ取ってゆく。そうやって「本質」を問うてゆく人類普遍の心の動きが彼らには希薄だから、「記号」として識別してゆく能力が発達する。
「記号」として世界や他者を識別するなんて、人間性の普遍でもなんでもなく、たんなる現代人の病理的な傾向にすぎない。
人類は、世界を「記号=意味」として識別するための道具として「言語」を生み出したのではない。目の前の世界や他者の存在の「固有性=本質」に対するいわくいいがたい印象が思わず「音声」となってこぼれ出てゆく体験とともに生まれ育っていったのだ。シニフィアン(意味するもの)だとかシニフィエ(意味されるもの)だとか、あのころのフランス思想の言語の「起源論」なんかぜんぶだめだと僕は思っている。「記号論」では言語の本質や起源には迫れない。蓮実重彦だって、小林秀雄のような一挙に本質をつかみ取ろうとするような知性や感性などまるで欠落したただの俗物にすぎなかった。
 目の前に存在する世界や他者の「固有性」を意味以前のいわくいいがたい「本質」として感じ取ってゆくことができないものたちが、それを「意味=記号」として識別・分類しようとする。
 生きてあることの本質を問うなら、生きてあることなんか「どうでもいい」ことだ。「自分」なんか「どうでもいい」存在にすぎない。そうやって心が「自分」からはぐれて「自分」の外の世界に憑依してゆくことを「ときめく」という。人の心模様における世界や他者の輝き(=固有性)は、この生や自分など「どうでもいい」ということの上に成り立っている。この生や自分に執着し、この生や自分の正当性(=正義)や価値を成り立たせるために世界や他者を「意味=記号」として解釈してゆく。そのとき人は世界や他者にときめいているのではなく、世界や他者を「意味=記号」として解釈できている「自分(の能力)」に満足している。そうやって自分の生き延びる能力に満足している。そうやって世界や他者の「本質=固有性=輝き」をいわくいいがたいニュアンスとして感じ取ってゆく「ときめき」を喪失している。
 人は、この生やこの自分を「どうでもいい」と思い定めたところから生きはじめ、そこにたどり着く。そういう「漂泊」の旅こそが生きるいとなみではないだろうか。
 人が生き延びるための「正義」などというものはない。あなたの自尊心(プライド)など「どうでもいい」のだ。人の知性や感性は、自尊心(プライド)を捨てていったところの、その無邪気な「ときめき」においてこそより深く豊かにはたらいている。
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