漂泊・ネアンデルタール人論75


 旅とは何か?
 そして旅の起源、人類はいつごろから旅をする猿になってきたのだろうか?
 旅とはふだんの生活圏の外に出てゆく体験のことだとすれば、猿は旅をしない。だからチンパンジーなどは生息域がいつまでたっても拡散しないまま、現在では絶滅の危機に瀕している。集団ごと移動してテリトリーが少しずつずれてゆくということはあるのだろうが、それは旅とはいえない。生活圏の外には出ていない。
 猿は集団ごと移動するが、基本的に個体が集団からはぐれてゆくということはない。若いオスが群れから追い出されるといっても、群れのまわりを衛星のようにうろうろしているだけで、いずれは群れに戻ってくる。メスはほかの群れに身を寄せてゆくことがあるが、それだって、「群れの中で暮らす」ということからは逸脱していない。どんな行動をとるにせよ、彼らの心はあくまで群れに属している。
 それに対して人間的な旅とは群れ(集団)からはぐれて群れ(集団)に属さない存在になってゆくことであり、その生態もまた猿から分かたれた存在になっていったことのひとつだった。
 今どきの人類学者は、たとえば「アフリカのホモ・サピエンスがヨーロッパに移住していった」という説を唱えるにせよ、つねに「集団ごと移住していった」ということを前提にしている。しかしそんなことは猿のしていることであって、人間的な生態ではない。
 人間は、個人が集団からはぐれて漂泊してゆく生態を持ったことによって人間になった。近代のヨーロッパ人がアメリカ大陸に移住していったことだって基本的にはそういうことで、はぐれ出てきたものどうしがそこで新しい集団をつくっていっただけです。まあ、漂泊の身であることの嘆きというか心もとなさを共有しながら新しい集団になっていった。猿は、けっしてこんなことはしない。嘆きを共有することも、はぐれ出てきたものどうしが新しい集団をつくってゆくということもしない。
 たがいに相手の心模様を感じ合うことなど、猿にはできない。人間どうしだからできる。人間はもともとそうやって人間になってゆき、そうやって言葉が生まれ育ってきたはずなのだが、なぜか現代人は昔の人ほどそういうことができなくなってきている。
 ネアンデルタール人が他愛なくときめき合っていつもセックスしながらたくさん子供を産んでいったということは、誰もがそれほどに相手の心模様を感じ取る感受性を豊かに持っていたことを意味する。現代人よりもはるかに豊かに持っていた。
 現代人なんか、たとえば親や会社の上司や学校の教師の多くが、こんなことをいったら子供や部下や生徒が傷つくということを何にもわかっていない。自分だってそういう言い方をされたら傷つくのに、相手が傷ついていることにはまるで鈍感になっている。いったいこの鈍感さはなんなのだろう。戦後の高度経済成長などで、社会の文化が壊れかけているのだろうか。傷つく自意識はたっぷり持っているのに、相手を傷つけているということにはまるで鈍感になってしまっている。他者よりも優位な場に立とうとする自意識(自我)が強くてそのことに執着しているから、知らず知らず鈍感になってしまう。自意識(自我)が強いということは、少しも相手にときめいていないし、相手の心を感じたいという願いも持っていないということ。だからとうぜん、相手からもときめかれない。平気で相手を傷つけて、ときめいてもらえるはずがない。自分はこんなにもいい男なのに、こんなにもいい女なのに、こんなにも清く正しい人格者なのに、と不満を募らせるばかりで、自分がうぬぼれているほどには魅力的な存在になりえていない。
 現代は、猿の社会のように「順位関係」をはっきりさせないとうまく機能しないようになってきている。たがいの心模様を感じ合い他愛なくときめき合ってゆくことができないのなら、そういう関係で機能させてゆくしかない。
 現代人は、猿のような「順位関係」を持とうとする欲望が強い。そうやって自己宣伝をするし、他者を説得しようとするし、教育しようともする。そして、人を見下して優越感に浸ろうともする。そうやって優位な場を確保すればひとまず安心するのだろうが、それを押し付けられて傷ついている相手の気持ちなどまるでわからないのだから困ったものだ。そういう病的な人が、けっこうたくさんいる世の中になってしまっている。
 猿のような「順位関係」からはぐれながら裸一貫の存在として他者の心模様を豊かに感じてゆくことこそ人間性の自然であるはずなのに、現代人はそういう「漂泊者」のタッチを失っている。


 旅をしようとするまいと、人間はもともと存在そのものがすでに「漂泊者」であるはずです。そういうこの世に「ひとりぼっち」で置き去りにされているようなひりひりした心地にならないと、他者の心模様を豊かに感じ取ってゆくことはできない。自分の存在の正当性などという幻想は、集団の中の「順位関係」によって確認される。そういう「優越感」によってしか確認できない。
 現代人がどれほど「優越感」のとりこになっていることか、それはもうあきれるほどで、たとえば「商品」は「優越感」を刺激するように宣伝されている。現代社会の消費衝動は、「優越感」を持とうとする衝動でもある。現代人は、自分の存在の正当性を確認する「優越感」がないと生きられない。
人は、自分の存在の正当性を見失って旅に出る。裸一貫の存在に、自分の居場所などどこにもない。そうやって生きられない存在になってゆくことが「旅に出る」ということだ。生きられなさを生きること、旅に出ることは、「自分探し」ではない。自分を捨てて世界や他者にときめいてゆくことだ。生きられなさを生きているものこそ、もっとも豊かに世界や他者にときめいている。
 原初の人類は集団からはぐれてしまった心を携えて旅に出たのであって、集団ごと移住していったのではない。文明社会の多くの集団は「集団で移住してきた」という伝説を持っているが、すべて集団の結束のためのただの作り話で、歴史の真実ではない。
 人類の集団は、不可避的に集団からはぐれてゆくものを生み出す。それが歴史の真実だ。人はもう、存在そのものにおいてすでに集団からはぐれてしまっており、集団からはぐれてしまった心でときめき合いながら集団をつくっている。人類の集団は、何よりこの生の正当性を見失っている「嘆き」が共有されていなければ成り立たない。
 人類にとって、生きてあることそれ自体がひとつの「漂泊」なのだ。
 人は、悲劇が好きだ。泣ける話、と言い換えてもいい。もらい泣きをする生き物だ。そういう生きてあることの嘆きによる感動を共有しながら集団が成り立っている生きてあることがいたたまれないことだから、笑ったり喜んだりもする。人は、おかしさや喜びがきわまると、泣いてしまう。この生やこの世界からはぐれてしまったひりひりした気分は、誰の中にもある。その気分を共有しながら人と人の関係が豊かになってゆき、そこから複雑で鮮やかな連携を持った人間的な集団性が生まれてくる。
 なにはともあれ、細かな「心のあや」を感じ合うことができなければ、そうした連携も豊かな集団性も生まれてこない。だから、感じることのできないものは嫌われる。そうしてその「心のあや」は、地域によってというか国や民族によって微妙に違ってくる。それが、それぞれの「文化」の違いになっている。
 今どきの大人たちは、自分の正しさを主張することに有能であっても、人の「心のあや」を感じ取ることにおいてとても鈍感だ。だから若者に嫌われるし、大人どうしでも鈍感な人ほど嫌われる。鈍感な大人が増えてきているということは、日本列島の文化が壊れかけているということでもある。
 そして、人の「心のあや」を感じ取ることができる知性や感性は、その人の集団での正しさや生き延びる能力によって担保されているのではなく、集団やこの生からはぐれて裸一貫の存在になってゆく「漂泊」のタッチのもとにある。そういうむしろ無能な、生きてあることのいたたまれなさを知っているひりひりした心とともにある。誰の中にも、そういうひりひりした心が息づいており、その心を共有しながら人間集団が成り立ち、それぞれの国や地域や民族の文化をつくっている。
 人の心は集団からはぐれて漂泊している。そして集団からはぐれて漂泊している心を共有しながら集団をつくっている。


 人類史を人間性の自然・本質に沿って考えようとするのなら、どうしても「人類拡散」すなわちこの生からはぐれてゆく「漂泊」という問題に突き当たる。
 ここでの「漂泊」という主題は、ただ単純に旅行をするとかしないというような問題ではなく、心はこの世界やこの生とどのように向き合っているかという問題です。
 人の心は、この生やこの世界と向き合いながらそこからはぐれてしまっている。それを、予定調和のあるべきかたちではとらえない。この生やこの世界は「自分」に先立ってすでに存在しているのであり、「自分」でどうこうできる対象ではない。心は、この生からはぐれながらこの生の外部のこの世界にときめいてゆく。そのとき心は、この生とこの世界のはざまに立って、この生とこの世界に向き合っている。
 原始人の世界には、生き延びる能力を持ったものがその能力を持たないものを支配し教育してゆくという関係などなかった。誰もが「生きられないもの」として向き合いときめき合っていただけです。猿とは違う人間的な連携はそういうたがいにはぐれ合っている関係から生まれてきたのであって、「伝達する」とか「説得する」というようななれなれしい関係から生まれてきたのではない。
伝達したり説得したりする能力は、生き延びる能力になるか?ひとまず生き延びようとする欲望が伝達したり説得したりする能力をもたらすのだが、じっさいにはそれが必ずしも生き延びる能力にはなっていないことも多い。なんのかのといっても人間は他者によって生かされている存在であり、そうした正義を伝達したり説得したりする能力を持った人間よりも、他者に好かれる(ときめかれる)人間の方が生き残っていったりする。
オオカミの群れだろうと人間の集団だろうと、もっとも強いものがリーダーになるのではない。統率力とかカリスマ性というような人格は、強さにあるのではない。自然界は厳しい。オオカミだろうと原始人だろうと、どんなに強くても生き延びかんたんにいえばられる保証にはならない。そのとき集団のものたちは、「このリーダーと一緒なら生き延びられる」と思うのではなく、「このリーダーと一緒ならいつ死んでもかまわない」と思ってゆく。
自然界には、生き延びようとする欲望よりも、心や体の「もう死んでもいい」という勢いによって生き残ってゆくという逆説がひとつの法則として存在している。その勢いの方が、心も体も活発にはたらく。スポーツ選手になぜ怪我がつきものかといえば、「もう死んでもいい」という勢いで体を動かしてしまうからだ。まあそのようなことで、「もう死んでもいい」と思わせてくれる人格をカリスマ性という。
自然界だろうと人間界だろうと、連係プレーによって成り立っている集団で生き延びようとする欲望の強いものがリーダーになっていたら、集団は混乱するばかりでけっして活性化しない。猿は連係プレーを捨てて「順位性」で機能しているから、いちばん強いものがリーダーになる。じつは、猿の集団では、あまり高度で複雑な連携プレーは起きていない。彼らは「自我」が強く、めいめいが勝手な行動をしながら集団をいとなんでいる。そのかわり「順位性」という先験的な集団の秩序を持っている。
チンパンジーは集団でコロブスという小さな猿の狩りをしているが、じっさいにはめいめいが勝手な動きをしているだけで、その肉の所有権も最終的に捕まえたものが握る。リーダーは、あまりがんばって狩りをしない。しなくても「順位性」によって上納してもらえるからだ。チンパンジーは、一頭だけでは捕まえられない大きな獲物の狩りはしない。
しかし原初の人類は、その「順位性」を捨てて「連携プレー」で生きる集団になってゆくことによって猿から分かたれていった。それはつまり、オオカミのように「もう死んでもいい」という勢いを持ったものがリーダーになっていったということを意味する。オオカミは、チンパンジーと違って、一頭では捕まえられない大きな獲物に挑んでゆくし、捕まえた肉はそのままみんなのものになる。ネアンデルタール人の狩りだって、それは同じだった。
オオカミや人類の集団では、生き延びようとする欲望の強いものはリーダーにはなれない。「もう死んでもいい」という勢いを持ったものがリーダーになってゆく。われわれの現代社会だって基本的にはそういう法則の上に成り立っているはずで、カリスマ性は、そういう勢いを持ったものにこそ宿っている。
かんたんにいえば、人に好かれる魅力を持っていなければリーダーにはなれないということであり、生き延びる欲望の強いものは、生き延びる能力があっても本人が思っているほどには人に好かれていないし、嫌われ者になってしまうことも多い。そういうものが女に逃げられて「あの女のは俺の魅力がわかっていない」といってもせんないことで、魅力がなかったから逃げられただけのこと、人間的な魅力は、生き延びようとする欲望の強さや生き延びる能力にあるのではない。「もう死んでもいい」という気配、すなわち強いにせよ弱いにせよ、死と生のはざまに立っている気配にこそある。


 オオカミの集団でも人間の集団でも、生き延びる能力を持ったもの、すなわち必ずしも強いものがリーダーになるわけではない。そして「もう死んでもいい」という勢い(気配)を持っているということは、リーダーになろうとするわけではないということでもある。みんなからリーダーにさせられ、それを受け入れてゆくだけのこと。「もう死んでもいい」という心を持っているから、受け入れることができる。人類史の集団のリーダーの起源は、誰かが名乗りを上げたのではなく、みんなから祭り上げられたことにある。だから、起源としてのリーダーは、サル社会のボスのような「支配者」ではなかった。「支配者」というより、集団の「生贄」だった。集団の「生贄」になろうとする衝動が豊かなものがリーダーになっていった。
 日本列島の歴史でも、起源としての「天皇」というリーダーはおそらく集団の「生贄」として生まれてきたのだろうし、今でも天皇はそういう性格を持っている。
 オオカミや人間の社会では、「支配者」よりも「生贄」の方がカリスマ性を持っている。強いにせよ弱いにせよ、「生贄」の気配を持っている人の方が人間的な魅力があって好かれる。「生きられる気配」よりも「生きられない気配」の方に魅力がある。強いにせよ弱いにせよ、男にせよ女にせよ、魅力的な人は「生きられない気配」を持っている。まあ女の方が「生きられない気配」を深く豊かに漂わせている場合が多い。だから文明史のはじまりは女権社会だったし、おそらくこの国の天皇のはじまりも女だった。女の方がが強くてリーダーになりたがったのではない。「生きられない気配」を深く豊かにそなえた女がリーダーとして祭り上げられていった。そこにこそ人間的な魅力(セックスアピール)の本質がある。
 人類は二本の足で立ち上がることによって「生きられない猿」になったのだし、われわれだって、「生きられない赤ん坊」として人生を歩みはじめる。
 人間社会のリーダーは、みんなに生き延びようとする欲望をもたらすのではない。「もう死んでもいい」という感慨から心が華やいでゆく体験をもたらし、それが集団のダイナミズムになってゆく。現代社会の企業組織だろうと、遊びのグループだろうと、人間集団のリーダー選びにはそういう無意識がはたらいている。
なにはともあれリーダーのことが好きになれなければ、人間の集団はうまく機能しない。そして、人間的な魅力は、必ずしも生き延びる能力をそなえていることにあるのではない。人間の集団は、「もう死んでもいい」という人間としての先験的な無意識の感慨を共有しながら、そこから心が華やぎときめき合ってゆくことの上に成り立っている。
 人間の集団は、根源的には、生き延びようとする目的を共有して成り立っているのではない。


 集団における人の心の自然・本質は、オオカミと同じでリーダーを選ぼうとすることにあるのであって、猿のようにリーダーになろうとすることにあるのではない。したがって、「支配者」というリーダーになろうとするものでさえ、その上のみんなに好かれる「生贄」としてのリーダーを祭り上げようとする。まあそれが、西洋では「神」で、日本列島では「天皇」が機能してきたのかもしれない。
 そういう意味で、猿のようなリーダーになろうとする欲望を持ったものも生み出してしまうのが人間の集団性だともいえる。猿から分かたれて人間になったのだから猿のように振る舞うのは不自然なことだが、もともと猿だったのだから猿のような振る舞いも残っている。そこのところに人間であることのややこしさがある。
 いずれにせよ人間はときめく心模様を持った存在であり、そこから人間的な生態のダイナミズムが生まれてくる。
 人間なんかけっきょく、人から好かれてナンボの存在であり、人を好きになってナンボの存在なのだ。その心模様が人間的な生態のダイナミズムを担保しているのであり、その心模様を持てなければ生きてゆけない。自分の生き延びる能力や正義など持っても人から好かれる魅力にはなりえないし、この世界や他者にときめいてゆくことができる知性や感性にもなりえない。
 人間的な魅力(セックスアピール)の普遍・自然は、生き延びる能力や正義を持っている支配者的な資質にあるのではなく、「もう死んでもいい」と「生贄」になってゆくことができる資質にある。
 人間であれオオカミであれ、根源的には、生き延びさせてくれるものをリーダーとして選ぶのではなく、「もう死んでもいい」という心地にさせてくれるものをリーダーとして選んでいる。「ときめく」とは「もう死んでもいい」という心地になる体験のことだ。その体験の歴史とともに人類は進化発展してきた。
 戦争の歴史であれ現在の企業活動であれ、人の集団は、根源的には、誰もが「もう死んでもいい」と集団の「生贄」になってゆくことによってダイナミックな動きが生まれてくる。
 太平洋戦争のときの「特攻隊」などほんとうに理不尽な作戦だったが、それでもそれが人間性の自然に外れたものだったともいえない部分がある。だから戦後には、誰もが、どうしてあんな理不尽な命令をしてしまったのだろうとか、どうしてあんな理不尽な命令に従ってしまったのだろう、と不思議がったのだが、人間性の自然には避けがたくそういうこともしてしまうような部分を含んでいる。ナチスがあんな理不尽なことをしてしまったのも、ユダヤ人がそれを受け入れてしまったのも同じようなことで、人類の集団は「生贄」を生み出してしまうような生態を避けがたく持っているし、人は「生贄」になろうとする衝動を持っている。それは、集団性の問題だけではなく、人間的な魅力はどこにあるのかという問題でもある。
 いくら正義や生き延びる能力を掲げてプライド高く生きても、そんなものはただの自意識過剰で、人間的な魅力にも知性や感性の豊かさにもなっていないことが多い。他者は、あなたがうぬぼれるほどあなたにときめいているわけではない。
 正義や生き延びる能力を誇示して他者を裁いたり見下したりしていればうぬぼれることはできるが、それが他者からときめかれる魅力になるわけではないし、そこにあなたの知性や感性の限界もある。そんな正義や生き延びる能力よりも、「もう死んでもいい」という「生贄」の気配を持っていることの方がずっと魅力的であり、そこにこそこの生が活性化してゆく契機があり、猿よりも弱い猿だったはずの原初の人類が生き残ってきたわけがある。
 人の心や脳や命のはたらきは、生きられなさを生きて「漂泊」しながら活性化してゆく。そこにこそ、人間的な魅力の所在も、人間的な集団性の所在もある。
 人は、生きられなさを生きようとする衝動を持っている。今どきの世の大人たちの、近代合理主義に汚染された生き延びようとする欲望や正義が持っている知性や感性や人間的な魅力が何ほどのものか。


 生きられないものは、伝達しようとする意欲もなければ、説得できる能力も持っていない。ただもう他愛なくときめいているだけであり、だからこそ他者の表現に感動したり反応したりしてゆくことができる。いいかえれば、相手にそういう心模様がなければ、伝達することも説得することもできないのです。自分の生き延びる能力だけで伝達したり説得したりすることなんかできない。そこのところを、今どきの教育者の多くは勘違いしている。自分が教育できるのではなく、子供自身の、感動したり反応したりする心模様とともにその知性や感性が育ってゆく。そういう心模様を持っている子供でなければ学ぶことなんかできないし、子供は教育しなくても勝手に学んでゆくともいえる。
 生きられない存在である子供は、大人よりもずっと勝手に学んでゆく能力をそなえている。
 つまり原始人の連携は、生きられないものどうしが勝手に学び合う、すなわち勝手に感動し反応し合うことによって育ってきた。生き延びる能力を持ったものが伝達し説得したのではない。少なくとも氷河期の極北の地という人が生きられない環境の下に置かれていたネアンデルタール人は、誰もが生きられない存在だったのだから、そのような伝達し説得してゆく関係などなかった。そのかわり、誰もが勝手に感動し反応してゆくという「学ぶ」能力を豊かにそなえていた。言葉を交し合うことをはじめとする人間的な連携の文化は、そうやって生まれ育ってきた。
 原始時代に生き延びる能力を持ったものなどひとりもいなかったのであり、誰も伝達・説得しようとする衝動は持っていなかった。そんな衝動は、世代や階層として生き延びる能力の格差が存在している文明社会で起きていることにすぎない。
 原始人は、誰もが「生きられないもの」としてこの生からはぐれて(漂泊して)いた。彼らにとって、生きることそれ自体がひとつの漂泊だった。
 漂泊とは、生きられなさを生きること。


 人類の歴史の進化発展は、伝達・説得して予定調和の世界を目指す「計画性」とか「作為性」によって生まれてきたのではない。社会であれ人と人の関係であれ、原始人はそれらの世界をつくろうとも変えようともしなかった。ただもう「すでに存在する」世界に深く豊かに感動し反応してゆくことによって進化発展してきた。そんなことをしようとしなくても人間的な文化は進化発展してきた。
子供は勝手に学んで育ってゆくのであって、大人の思う通りにはならない。時代の移り変わりもまた、オピニオンリーダーが扇動するようにはならない。
 世界をつくろうとすることは、世界に反応していないということだ。そうやって現代人は、たがいに伝達・説得し合って「共生関係=一体感」をつくりながら、社会的に成功したり、挫折して精神を病んだりしているのだが、成功しようと挫折しようと、そこに人間性の自然があるのではない。そこには、たがいに感動しときめき合う関係はない。
 オピニオンリーダーによるどんな立派な扇動よりも、「今ここ」で体験されている人々のときめき=感動こそが未来の新しい社会が生まれてくる契機なる。
 現代人の多くは、この生やこの世界をつくろうとして、この生やこの世界に「反応」していない。その「反応」は、世界や他者が「自分」に先行して「すでに存在するもの」として認識することによって起こる。しかし彼らにとってそれらはそうやって「反応」してゆく対象ではなく、「自分」のあとから生まれてくるところの「これからつくる」対象にすぎない。そういう「計画性」や「作為性」を称揚して文明社会が成り立っているのだが、時代はけっしてその通りにはならない。
 文明社会には世界や他者に対してどのような態度をとるべきかという「規範」があるから、「反応」する必要がない。文明社会の「制度性」は、人を「規範」にそったルーティンワークで生きさせようとし、そうやって人の心を飼いならしてゆく。そしてそれは、「神」が人間を支配しようとしていることでもある。
 しかしそれでも人は、「今ここ」に反応しながら生きてもいる。
「今ここ」はたえずうつろい変わってゆく。人の心もそれに反応しながら漂泊してゆく。
 文明人の多くは、神に支配されたがっている。神に支配された予定調和の世界のルーティンワークで生きようとしている。
 凡庸な人類学者は「人類の知能が進化発展したのは<未来に対する計画性>を持ったからだ」といっている。まあ多くの現代人も、社会の共同性に飼いならされながら「夢はかなう」などと合唱している。彼らにとってこの生もこの世界も、「自分に先行して<すでに存在している>対象」ではなく、自分がいじくりまわしてつくり上げるものだと考えている。つまり自分のあとから生まれてくるものだ、と考えている。そういう「未来に対する計画性」として「夢はかなう」と合唱している。彼らは、この生やこの世界からはぐれながらこの生やこの世界に「反応」してゆくということをしないし、できない。
 しかし誰だって、生きていればいろんなことと出会ってそのつど驚いたりときめいたり悩んだりしながら「反応」していっているわけで、「予定調和の世界」のルーティンワーク(=未来に対する計画性)だけで生きてゆくことなんかできない。
 この生のいとなみを何もかもルーティンワークにしてしまえる人は幸せか?その「夢はかなう」という「予定調和の世界に対する渇望」は、どこから生まれてくるのか?
 まあ現代は、その「渇望」を持たせてしまう社会の構造があり、その「渇望」だけで生きてゆくことによって社会的な成功を得る人もいれば、得ることができなくて精神を病んでゆく人もいる。どちらに転んでもそれは、不自然な精紳の病にちがいない。それによってこの生やこの世界に対する「反応」を失って、人間的な驚きもときめきもかなしみも体験することができなくなっている。つまり、心が豊かに動くことができなくなっている。
 すくなくとも直立二足歩行の起源からはじまった原始時代は、そのような生きのびようとする「計画性」や「欲望」によって動いてきたのではない。そんなことを忘れて目の前の今ここに焦点を結びときめいてゆくことによって人類拡散が起き、さらには知性や感性の進化発展が生まれてきた。
 生きのびようとするとは、自分を生きてあることが許された存在だと思おうとすることであり、そのことの無理で心が病んでゆくし、その無理を打ち消してしまう「リア充」という幸せ感がある。幸せな人はそこにこそ人間性の本質・自然があるといい、その自慢話に説得されて無理に無理を重ねながら心を病んでゆく人もいる。どちらにしても、彼らの心は停滞している。


 人の心は、生きてあることが許されない存在として生きるところから華やぎときめいてゆく。その「生きられなさ=わからなさ」という不幸こそが人間的な知性や感性の源泉なのだ。わからないから知ろうとするし、そうやって新しい発見を体験してゆくことこそ人間的な知性や感性の自然・本質であり、すでに答えがあることを前提にして生きることではない。
 人の心の自然は幸せなんか目指していない。そんなことを目指しているのなら、原初の人類は二本の足で立ち上がらなかったし、より住みにくい地住みにくい地へと地球の隅々まで拡散してゆくことも起きなかった。
人間性の自然は、たとえばネアンデルタール人のように生きられなさを生きることにあり、人は不幸だから心を病むのではなく、不幸を生きることができないから心を病む。幸せを目指すことや幸せに充足してゆくこともまた、不幸を生きることができない心の病にほかならない。
 不幸を背負って悩み苦しんだ、ということなんか自慢にならない。生きにくさ生きられなさ、すなわち生きてあることが許されていないというその不幸から心が華やぎときめいてゆくところに人間性の自然がある。たとえば、人は水の中では生きられない生きものなのに、海水浴に行ってはしゃいでいる。まあそんなようなことで、それは、生きられない不幸を生きながら心が華やいでいる状態です。人は、不幸の中でこそ心の華やぎを体験する。じつは、不幸な人の方が豊かに華やぎときめく心を持っている。
 人は悲劇に感動する、泣かせる話が好きだ。泣くとは、生きられなさの中に身を置くことによって命や心のはたらきが活性化する現象であり、人類は泣きながら嘆きながら進化してきた。人間的なな知能(知性)とは、「わからない」という「嘆き」のことであり、そこから心が華やいで知ろうとする「問い」が生まれてくる。もっとも深く豊かな知性は、もっとも深く豊かな問いを持っている。
 問う、という漂泊。
問いを持たなければ、学問なんかはじまらない。本を読んで何かがわかることなんか、学問でもなんでもない。豊かな知性や感性は、純粋で率直な「嘆き=問い」とともにある。そうやって生きられなさを生きることを「漂泊」という。


 ともあれここでは人類史の文化の起源について考えているわけだが、今どきの人類学の、生き延びるための「未来に対する計画性」こそ人間的な知能である、などという安直で通俗的な問題設定ではその真実が見えてくるはずがない。人類の知性や感性はそのようにして芽生え育ってきたのではない、そしてこれは、人と人はどのようにしてときめき合ってゆくかという問題でもある。人と人は「嘆き」を共有しながらときめき合ってゆく。ネアンデルタール人ほど他愛なく豊かにときめき合っていた人々もいない。彼らは「生きられない」という嘆きを共有しながらときめき合っていた。そういう人と人の関係がわれわれのこの生の基礎になっているのであって、生き延びようとする欲望の上に成り立っているのではない。
人の心は「もう死んでもいい」という無意識の感慨から華やぎときめいてゆく。その「ときめき=感動」こそが人類史の文化の進化発展の契機になっているはずで、生き延びるための「未来に対する計画性」だなんて、そんな近代合理主義の観念性制度性に踊らされているだけの安直な発想で人類史を語ることはもういいかげんやめてくれよ、と思う。それはつまり、人類の歴史は「未来に対する計画性」などというスケベったらしい思考が旺盛なひとにぎりの扇動家にリードされて動いてきたいっているのと同じで、だったらその他大勢の人間なんか彼らに踊らされる将棋の駒にすぎないのかという話になる。そうじゃない、かれらは、猿と同じで他者よりも優位な場に立とうとするから、そういう思考になる。人間社会には歴史をリードする優位な立場があると信じているらしい。しかし人類の歴史は人類全体でつくってきたし、これからもずっとそうなのだ。今どきの人類学者の観念的で薄っぺらな屁理屈を信じてばかりいたら、いつまでたっても生身の人間の歴史は見えてこない。
人の心は、根源的には、この生やこの世界からはぐれて「漂泊」している。その途方に暮れてさすらう心を持ち寄りながらときめき合い、社会という集団をつくっている。なんのかのといっても、人間社会はそのように動いてゆく。なんのかのといっても、人と人はときめき合っている。人類はそうやって猿から分かたれていった。原始人は猿の延長で順位争いや戦争ばかりして歴史を歩んできたのではないし、今でも人間社会にその本質=自然は機能している。
 たがいの生の正当性や生き延びる能力を主張し合って順位争いをするよりも、「もう死んでもいい」という感慨を共有しながら他愛なくときめき合っている方が、より高度で豊かな関係になってゆく。
 人がというか、自分が生きてあることなんかどうでもいいことで、どうでもいいと思い定めた心を共有してゆくところからより高度で豊かな人と人の関係が生まれてくるし、より高度で豊かな知性や感性になってゆく。まあ、そうやって人類は歴史を歩んできたし、これからもきっとそうなのでしょう。人類史の「起源論」にはおそらくそういう問題が潜んでいるわけで、そこのところが知りたいわけです。


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人間的な知性や感性の本質が「未来に対する計画性」にあるなどといわれてもよくわからない。
 人の心は、根源的には途方に暮れて「漂泊」している。赤ん坊はそういう存在であり、そこでもう人の心の基礎がつくられている。誰もが、そこから生きはじめる。そこから心が華やぎときめいてゆく。
人の人生というか生きざまは、順位争いに勝って満足しているだけではすまない。現代人の多くが必死に順位争いの勝利(=社会的な成功)を欲しがる存在だとしても、その争いから超越しているものや置き去りにされているものたちは、じつは「もう死んでもいい」と命を懸けてゆくものを持っているし、そこにこそ人間性の自然がある。命を懸けるものを持たないで何が人間かということは、確かにある。誰もが「それどころじゃない」という部分を持っている。人の心は、この生からはぐれて「漂泊」している。そこでこそ人は、恋をしたり学問をしたり芸術に命を懸けていったりしている。いやもう人が二本の足で立ち上がっている姿勢そのものが、「もう死んでもいい」と命を懸けている姿勢なのだ。
命を懸けることは、他愛ないことだ。他愛ないから命を懸けられる。その心意気を今ふうにいえば、パンクな精神、とでもいうのだろうか。そのとき心は、何も目指していないし、何も計画していない。ただもう「今ここ」の世界に他愛なくときめいている。利巧ぶって「人類の理想」だの「命の尊厳」だのを語っているものたちにはわかるまい。利巧ぶっているものたちの知性や感性などたかが知れている。
他愛ないときめきにこそ「もう死んでもいい」と命を懸けている体験の本質があり、人間的な知性や感性の本質がある。
人の心の根源・自然は、生きられなさの中を「漂泊」し途方に暮れている。心はそこから華やぎときめいてゆく。理想や正義を目指して「ときめいてゆく(=脳が活性化してゆく)」のではない。「もう死んでもいい」ということ、すなわち脳は、「今ここ」の中に消えてゆくようなかたちで活性化してゆく。
古代や原始時代の旅は、生きられなさの中に身を置いてゆく行為だった。心はそこから華やぎときめいてゆく。だから原始人は、どんな生きにくさもいとわずに「もう死んでもいい」という心意気(=パンクな精神)で地球の隅々まで拡散していった。
パンクな精神とは、他愛なさのこと。近代人の合理的な正義や生き延びる能力などくそくらえで、不合理をそのまま生きること。最近の若い娘たちに人気があるららしい「星野源」というシンガーソングライターは、『地獄でなぜ悪い』という曲の中で「ただ地獄を進む者が、悲しい記憶に勝つ」と歌っているが、こんなすごい歌詞が若い娘に受けるというのは、どういうことだろう?「かなしい記憶に勝ってそこから心が華やぎときめいてゆくことができる」ということでしょう。これもひとつの「パンクな精神」で、「ジャパンクール」の「かわいい」というときめきのことでもある。「かわいい」というときめきとは、「パンクな精神」のこと。
親鸞は「地獄は一定(いちじょう)住処なり」といった。日本文化の伝統は、けっこうパンクなのです。そしてそこにこそ、人間存在の普遍的な自然のかたちがある。
「命の尊厳」とか「生き延びる能力」とか「理想の社会」とか、現在の先進国のあいだで合唱されているそんな制度的な「正義」は、人間の世界の普遍にはなりえない。人類は、根源においてそんな概念など信じていない。そんな概念を超えていった「パンクな」ところにこそ、人間的で普遍的な知性や感性やときめきがある。
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