生贄になる・ネアンデルタール人論74

ネアンデルタール人は、それぞれが氷河期の北ヨーロッパを生き残ってゆく能力を持っていたのではない。誰もが他者に生かされていたし、誰もが自分の命を捨ててでも他者を生かそうとしていた。
彼らに脂の乗った大型草食獣の肉はその極寒の環境を生き残ってゆくためにはぜひとも必要な食糧だったのだろうが、ろくな文明の利器を持たない原始人にとってのその狩りは死をもいとわない高揚した気分がなければ成り立たなかった。
現在までに発掘されているネアンデルタール人の男たちの骨は、ほとんど例外なく骨折などの傷跡を持っている。まあ彼らにとってその狩りは食糧調達ということ以上にひとつの「祝祭」だったわけだが、なんにせよそれは、自分の命を捨ててでも他者を生かそうとする行為になっていた。そうやって「もう死んでもいい」という高揚した気分を体験しなければ、彼らは生きていられなかった。
 また、女たちのお産だって、他の温暖な地域の人種たちのそれよもはるかに死の危険をともなう体験だった。ネアンデルタール人の胎児が胎内にいる期間はほかの人種よりも一か月くらい長く、しかももともと頭が大きめの体質だったから、お産をする母体にはつねに大きな苦痛と死の危険がともなっていた。それでも彼女らは、ほかの地域の女以上に多産だった。ほとんどの赤ん坊がかんたんに死んでゆく環境だったから、たくさん産まなければ集団の存続は成り立たなかった。そして簡単に死んでしまう命なのだから、けんめいに介護してゆかなければ育たなかった。それはもう母親だけの手に負えることではなく、おそらく集団の誰もがそれこそ自分の命などほったらかしにして介護していったに違いない。
 そんな生きられない赤ん坊の何割かでも無事に育ってゆかないことには、彼らの集団の存続は成り立たなかった。したがってそんな集団の情況であれば、たとえば食糧不足になったときなどは、自然に、生きられない弱いものから順番に食べてゆくという習慣になっていっただろうことが考えられる。


 犠牲的精神といえばなんだか俗っぽいが、人は誰もが心の底に「生贄」になろうとする衝動を持っている。
 人心は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨から華やぎときめいてゆく。
 ネアンデルタール人にとっては、大型草食獣の命懸けの狩りをして弱いものに食べさせることも、命懸けのお産をして赤ん坊を介護してゆくことも、「もう死んでもいい」という無意識の感慨から心が華やぎときめいてゆく体験であり、すなわち生き延びようとすることを捨てて「生贄」になろうとする体験だった。
 生贄になろうとする衝動は、誰の中にもある。ただ、人類史上ネアンデルタール人ほどその衝動が深く豊かに生成している社会をいとなんでいる人々もいなかった。そういう衝動を持たなければ誰も生きられない環境だった。人類普遍の生贄になろうとする衝動はネアンデルタール人のところで極まった。われわれはその遺産を引き継ぎながら、なんとかこの世知辛い社会での暮らしをやりくりして生きている。
 現代社会のお父さんが家族を養うために必死になって働くことだって、家族という集団の「生贄」になっている行為でしょう。
「ときめく」という心模様は、自分を忘れて(自分が消えて)夢中になってゆくという、ひとつの「死」の体験にほかならない。人が生きてあること自体が生贄になろうとする衝動の上に成り立っているともいえる。
 まあ「他者を生かす」ということほど命を懸けて夢中になってゆける体験もない。
 女のお産は、自分が生贄になって他者を生かそうとする体験だ。
 特攻隊だって、もっとも深く思いを寄せる他者が生き残ることを願って死んでいった。
 人間存在は「もう死んでもいい」という無意識の感慨の上に成り立っており、そこから生贄になろうとする衝動が生まれてくる。世界や他者に深く豊かにときめいている人ほど、生贄になろうとする衝動も深く豊かにそなえている。その、自分の命を捧げて他者を生かそうとする衝動によって人類は生き残ってきたし、人間的な知性や感性をはじめとする人類史の進化発展のダイナミズムの基礎になっている。


 生贄とか人柱とか人身御供とか、そういう伝説は世界中にあるが、それが実際に行われたという確証があるわけではない。集団の結束のためか、あるいは、そういうつくり話が深く人の心を動かしたから好んで語り伝えられてきただけのことであったりする。
 人は、生贄の話が好きだ。それがリアルに感じられるくらい、誰の中にも生贄になろうとする衝動が潜んでいる。その「もう死んでもいい」という無意識の感慨は、世界や他者の存在の輝きによって担保されている。それは、意識が「自分=この生」に閉じ込められてしまうことのいたたまれなさから解放してくれる。みずからの生がいたたまれないことだからこそ、他者の存在がより輝いて立ち現われる。人が猿よりももっと世界や他者に対するときめきを豊かに体験する存在だとすれば、猿よりももっと深くこの生のいたたまれなさを感じているからだ。そうやって人の心はこの生からはぐれてゆく。世界や他者の存在の輝きにときめきながら、この生からはぐれてゆく。それが生贄の衝動ではないだろうか。
 人は、親しい他者に対して、切に生きていてくれと願う。それは、他者の存在の輝きによってみずからの存在が消えてゆくことのカタルシスがもたらされるからだ。カタルシスというのかエクスタシーというのか、快楽とはひとつの「自己消失」の体験であり、他者の存在を鮮やかに感じながらみずからの存在(身体)が消えてゆく心地を体験している。「もう死んでもいい」という感慨に浸されることのカタルシスというのかエクスタシーというのか、おそらくそれが生贄の衝動の基礎になっている。
 ここでいう「生贄になろうとする衝動」は、じっさいに死ぬ体験だけを意味するのではない、われわれのこの生の根源・自然のかたちの問題なのだと思う。世界や他者の存在の輝きにときめくということ自体が、すでに「生贄」となって自分が消えていっている体験なのだ。お父さんが毎日会社に行って働くことも、女が子を産み育てることも、生贄になって自分を消している体験なのだ。まあ、生贄になりきれる人となりきれない人がいるのも世の中だが。
 欧米では、店員が客に話しかけるとき、「May(Can) I help you?」というらしい。「私はあなたを助けることができますか?」……おそらくこの言い方はネアンデルタール人以来の伝統であり、サービスの本質は自分を捨てて「生贄になる」ことにある。
 原始人が生きられるはずがない氷河期の極北の地に置かれたネアンデルタール人は、誰もが「生贄」になって助け合うことによって生き残ってきた。誰もが「もう死んでもいい」という感慨とともに他者を生かそうとしていった。
 ネアンデルタール人のことを考えるなら、どうしても人の自然としての「生贄になろうとする衝動」について問わずにいられない。彼らは、その衝動の究極を生きた人々だった。彼らは人類の生贄としてその苛酷な地を生きて死んでいった。そしてその歴史の遺産を引き継いで進化発展した現在の人類の生存がある。われわれはネアンデルタール人の遺産を食いつぶしながらやっと人間らしさを残しながら生きている、ともいえる。


 人の二本の足で立っている姿勢それ自体が生贄になっている姿勢だ、ともいえる。その姿勢になることによって人類は、いったん猿として死んだ。それは、とても不安定で、しかも胸、腹・性器等の急所を外にさらしており、攻撃されたらひとたまりもない姿勢だった。原初の人類は、そうやって猿としての生きる能力をひとまず捨てた。しかしそれはそれは身体が占めるスペースを最小限にする姿勢でもあり、それによって密集状態で行動してもたがいの身体をぶつけ合わずにすんだ。つまり、それによって集団ヒステリーが起こる事態が回避された。そのとき、強いものも弱いものも、誰もが他者あるいは集団の生贄になっていた。
 生贄になろうとする衝動=心模様は、人の自然であり、本能のようなものだといえる。
 生きるいとなみはエネルギーを消費することだとすれば、それ自体が生贄となって死に向かってゆくことだといえる。他者もしくは集団の生贄になろうとするとき、人の思考や行動はもっともダイナミックになる。自分が生き延びようとしてダイナミックになるのではない。それは「悪あがき」という。自分が生き延びようとしてヒステリーを起こす。
今どきは、ヒステリーで生きているだけのくせに、生き延びる能力があると自慢したがる人がたくさんいる。生き延びようとするヒステリーで生きた結果として、認知症鬱病やインポテンツになってゆくのだ。
しかしこの世の中には、生贄として死に向かって生ききっている人もいる。この世のもっともダイナミックに生きているものも、生きられないもっとも弱いものも、人類の生贄として死に向かって生ききっている。つまりどちらも、この生のエネルギーを消費しきって生きている。
中途半端な俗物ばかりが、生き延びようとする「未来に対する計画性」といういじましい悪あがきを、人間性の自然だの知能の高さだのと合唱している。現代社会では、その自己正当化の倒錯的な屁理屈が正論として闊歩している。
自我の肥大化、という病。彼らは、何もかも自分の物差しで裁定して、勝手にわかったつもりになっている。わかったつもりになってゆくことによって自我を安定させようとしている。彼らの、自我を安定させようとする意欲はすさまじく、その声高な発言に押されて社会的な合意が形成されたりしている。声高に発言するものと、激しく同意してゆくものたちがいて、彼らに勝手に決めつけられてゆく。彼らは、この生やこの世界からはぐれてゆくということがない。その肥大化した自我によって勝手にはげしく信じ込んでいるこの世界やこの生のかたちがある。
 だから彼らは、そうやってつくり上げた「自我の安定」を脅かされると、混乱してヒステリーを起こしたり、ひどく鬱に沈んでいったりする。
 彼らには、この世界やこの生の「新しい発見」という体験はない。「発見」とはひとつの「死」の体験であり、そこでそれまで信じていたものが崩壊する体験なのだ。発見とはつまり、自分を振り捨ててときめいてゆく体験のこと。たとえば、ふとした風の気配に新しい季節の訪れを感じることだって、ひとつの「発見」という体験であり、そういう体験がないから認知症になったり鬱病になったりインポテンツになったりしてゆく。


 認知症になるとさっき食事をしたことも忘れていつも食っていないと落ち着かなる、といわれている。彼らにとって食うことは生き延びようとするる欲望を満たす行為であり、だからしょっちゅう食っていようとするのでしょう。空腹かどうかなんか関係ないし、食っても食っても空腹だともいえる。
 つまり彼らは、そうやってつねにエネルギーを蓄積しようとするばかりで、エネルギーを消費するということを知らない。生き延びるためにエネルギーを蓄積しようとしている。彼らにとって生きることはエネルギーを蓄積することであって、消費することではない。彼らは、自分=身体のエネルギーを消費し尽し、すなわち自分=身体を忘れてときめいてゆくということを知らない。認知症になる老人の多くは、人間性の自然としての「生贄になろうとする衝動」が欠落している。世界や他者の存在の輝きに対するときめきがない。
 一般的に知能の向上とか脳の活性化というと、読み書きや計算をする能力のことのように考えられているが、そうじゃない、なにはともあれ「ときめき」がなければ知能の向上も脳の活性化もない。
 生き延びる能力があるとか知能指数が高いとかということと、認知症になるかならないかということとは何の関係もない。頭がよかろうと悪かろうと、金持ちだろうと貧乏人だろうと、なる人はなるし、ならない人はならない。
 生き延びようとする自我の欲望が強いと認知症になりやすいということはあるのかもしれない。現代人の多くは、そういう不自然を抱えてしまっている。現代社会は、自我の安定を得ようとして警戒し緊張しながら生きている人が多い。その絶えざる警戒と緊張の果てに脳が自滅してゆく。そうやって脳にむやみな負荷をかけて生きてきたから、脳が自滅してゆく。そういう人たちが「人類の歴史は戦争の歴史だった」と合唱している。
 原始時代は現代社会のような戦争も競争もなかったから、原始人にはむやみな警戒心や緊張感などなく、現代人よりもずっと無防備だった……のかもしれない。生き延びようとする自我の欲望が、戦争や競争を生み、警戒心や緊張感を肥大化させる。
 原始人は、誰もが他者や集団の生贄になろうとしながら自然界を生き残ってきた。
 猿の世界は、集団内の順位争いや集団どうしのテリトリー争いなど、生き延びようとする警戒心や緊張感の上に成り立っている。だから二本の足で立ち上がる姿勢を常態にできないし、言葉が生まれてくることもない。しかし原初の人類は、その緊張感や警戒心を捨てて無防備な存在になりながら二本の足で立ち上がっていった。それは「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともにあるとても無防備な姿勢であり、そうやって誰もが他者や集団の生贄になっていった。そこにこそ、人類史の進化発展の契機があり、人間的な知性や感性や人間性の自然がある。


生き延びようとしてエネルギーを蓄えてゆくことと、「今ここ」を生ききろうとしてエネルギーを消費してゆくこと。まあ、認知症鬱病やインポテンツになりやすい人となりにくい人のあいだには、そういう性向の違いがある。彼らは、生き延びようとエネルギーを蓄えることばかりして、「もう死んでもいい」という勢いでエネルギーを使い切ってしまおうとする人間性の自然としてのはたらきを持っていない。そうやって認知症の老人は食ってばかりいる。
 生贄になろうとする衝動とは、「もう死んでもいい」という勢いでエネルギーを使い切ってしまおうとする人間性の自然としてのはたらきのことで、べつに倫理や道徳の問題ではない。
 人にプレゼントをしたりおごってやったりすることは、人間性の自然としての生贄になろうとする衝動の上に成り立っている。そんなことくらい誰でもしているが、現代人はそれ以上に生き延びようとするる欲望をたぎらせてしまっている。たぎらせてしまう文明社会の構造がある。しかしそれが悪いというわけではない。そのような文明社会の構造に踊らされているからそうなるからで、そこからはぐれて生贄になってゆくタッチを豊かに持っている人は、認知症にも鬱病にもインポテンツにもならない。心が華やぎときめくということ自体が、ひとつの生贄になってゆくタッチなのだ。
 社会が悪いから心が華やぎときめいてゆかないのではない。社会に踊らされてばかりいて、社会からはぐれてゆくタッチを持っていないから、華やぎときめいてゆかない。よい社会になって誰もが社会に踊らされてばかりいたら、誰の心も華やぎときめいてゆかない。社会なんか「憂き世」と思い定めてその「嘆き」を共有していったところでこそ、人と人は豊かにときめき合っている。われわれは、そういうことをネアンデルタール人から教えられる。
よい社会になれば人と人が豊かにときめき合うようになるのではない。よい社会になって社会に踊らされてばかりいたら、心が華やぎときめいてゆく体験が希薄になってしまう。そういう人間存在の逆説がある。
 この国の戦後は「よい社会」になって、人が社会に踊らされるばかりで、人と人が豊かにときめき合う関係が希薄になってきた。今やこの社会は、社会に踊らされながら思考を紡いでいるだけの人間たちによる「よい社会をつくろう」というアジテーションに引きずられながら動いている。そうやって人と人が豊かにときめき合う関係が希薄になってきて、認知症鬱病やインポテンツが増えてきている。
 まあ、それでもこの社会を「憂き世」と思い定めてその「嘆き」を共有しながらときめき合ってゆく関係がなくなったわけでもない。そういう関係も、今なおたしかにある。誰もが多かれ少なかれそういう体験をしている。しているのだが、そういう体験を大切にする気分が希薄になってきている。そのとき人と人は「もう死んでもいい」という無意識の感慨を共有しながらときめき合っている。なのに現代は、生き延びようとする自我の欲望を満足させようとする声高な言説や思想が横行闊歩し、多くの人がそれに引きずられながら社会が動いている。
 ときめき合う関係が希薄になっているということは、細かな「心のあや」がわからなくなってきているということを意味する。わからないから、認知症鬱病やインポテンツになってゆくし、いじめとかなんとかハラスメントということも起きてくる。
 そりゃあ、生き延びるための表面的な仲良くする手続きは誰もがちゃんとやろうとしているのでしょう。昔以上にちゃんとやろうとしている。そうやって知識人は扇動しようとするし、庶民はそれにかんたんに踊らされてゆく。みんな「よい社会」という幻想に踊らされている。しかしそれは、「もう死んでもいい」と思えるほどのときめき合う関係ではない。ときめきがなければ、他者の「心のあや」を感じ取ることはできない。「よい社会」をつくろうと仲良く合唱しながら、ときめくことも「心のあや」を感じ取ることもできなくなっている。生き延びようとするスローガンを振りかざしてばかりいたら、心も人と人の関係もどんどん停滞し衰弱してゆく。仲良くしていても、何もときめき合っていない。
 仲良くすることなんか、大切なことでもなんでもない。そんな関係など、他者を生き延びるための道具にしているだけのことで、そうやって現代人は「ネットワーク」づくりに熱心になっている。今どきの俗物の知識人たちが合唱している「ネットワーク」が新しい社会の希望になるだなんて笑わせてくれる。人は、世界や他者に豊かにときめいてゆく心があれば、ひとりぼっちで野垂れ死にしてゆくことだってできる。今どきの孤独死している老人たちは現代社会の生贄であり、そのことの尊厳を思わずにいられないのが人の心の自然というものだ。そのことをさげすんで優越感に浸ったり、かわいそうと憐れみながらあってはならない不幸のように決めつけて正義ぶっているなんて、ときめく心すなわち知性や感性の停滞・衰弱以外のなにものでもない。
 生き延びるための「ネットワーク」を充実してゆくことが、そんなに素晴らしいことか?この世のもっとも弱いものたちは、ひとりぼっちのひりひりした心でこの世界や他者の輝きを祝福しながら死んでゆく。そのことの尊厳を思わないで、生き延びようとする自分のスケベ根性を正当化してゆくことが、そんなに素晴らしいか?自我の欲望をたぎらせて、他人を生き延びるための道具にしようと画策しているだけのくせに。
人間性の自然とは何かと問うとき、われわれは、ときめき合うことができるかと試されている。「もう死んでもいい」という無意識の感慨ともに他者の生存のための生贄になってゆくこと。ときめくとは、そういうことだ。そうやって人は他者の「心のあや」を感じ取ってゆくわけで、その知性や感性とともに言葉をはじめとする人類史の文化が生まれ育ってきた。
 

生贄になってゆくタッチは、誰の中にもある。その滅びてゆこうとする衝動こそが、人類社会の豊かさやダイナミズムを担保してきた。そこにおいてこそ人の心はダイナミックに動き、ダイナミックな行動が生まれる。
 人と人がときめき合って抱きしめ合うこと自体が生贄になってゆくタッチの上に成り立っているわけで、猿はそんなことはしない。「もう死んでもいい」と無防備にならなってゆかなければ、そんなことはできない。生き延びようと警戒し緊張ばかりしていたら、そんなことはできない。
 人と人が「おはよう」とあいさつを交し合うことだって、本質的には、たがいに無防備になってときめき合っているという、生贄になってゆく体験なのだ。
 まあこの世の中には、憎み合って殺し合う関係もあれば、ときめき合う関係もある。殺し合うことが人間性の自然だというなら、この世の中にどれだけの割合で人殺しが起きているというのか。誰もがどこかしらで殺意を抱くというなら、人生の長い時間の中のどれだけの割合のことか。殺意など持たない状態は、人間性の自然の状態ではないといえるのか。
 現代人というか文明人は生き延びるために警戒して緊張ばかりして生きているから「人類の歴史は戦争の歴史だった」という認識になる。
 しかしもともと人は、もっと無防備な存在だった。ネアンデルタール人は誰もが他愛なくときめき合っていたし、そうでなければその苛酷な地に住み着いてゆくことなどありえないし、生き残ってくることができるはずもない。強いものが弱いものを全部滅ぼして強いものだけが生き残ってきたのではない。生きられない弱いものを生きさせることによって生き残ってきたのだ。その生きられない弱いものが生きられるなら自分は死んでもかまわないと思いながら生きさせてきたのだ。
人に対して豊かにときめいてゆくことができる人は無意識の中にそういうタッチを持っているし、それこそが二本の足で立ち上がって以来の人類史の無意識であるのかもしれない。
 原始人も戦争をしていたとかんたんにいってもらっては困る。そう思いたい人は勝手にそう思えばいいが、それが人類史の真実だとはわれわれは認めない。人類史には、そういうことでは説明のつかないことがいくらでもあるし、この世の中には生贄になろうとする衝動とともに他愛なく豊かにときめいてゆくことのできる人がたくさんいる。そうして誰の中にもそういう心の動きは息づいているし、生き延びようとする自我の欲望が肥大化すると、そういう生贄になろうとする無防備な心の動きを抑圧してしまう。
 生き延びようと警戒し緊張して生きているか、それとも「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに無防備にときめいてゆくことができるか。いったいどちらに人間性の自然があるのか。ときめいてゆかなければ、文化の進化発展など起きるはずがないじゃないですか。人類史は、「未来に対する計画性」の通りに動いてきたわけではないし、これからもきっとそうでしょう。そんな意地汚いスケベ根性から人の知性や感性が生まれ育ってくるのではない。それこそが、知性や感性の停滞なのだ。
多くの現代人の心は、生き延びようとして警戒・緊張しながら意識の焦点がこの世界のあれこれに散乱している。それに対して無防備にときめいているものの意識の焦点は、「今ここ」の一点に集中している。現代人の意識は、そういう集中力が鈍磨している。
 脳の神経伝達回路がスムーズに素早く流れて一点に集中してゆく。それに対してあちこちの回路で滞留してむやみな負荷をかけていれば、その滞留した部分の脳細胞が次々に自滅してゆく。おそらくそうやって認知症になってゆくのでしょう。
 自分の思いたいように思おうとすれば、いろいろ無理があって脳のあちこちの部分にむやみな負荷がかかってしまい、全体のスムーズな流れが阻害される。脳の神経伝達回路がスムーズに流れて意識の焦点が一点に集中してときめいている人は、そうかんたんには認知症にならない。
 この「意識の焦点が一点に結んでゆく」という体験は、認知症自閉症人間性の自然・本質を考える上でのとても重要な問題だろうと思えるのだが、まだ本格的な研究はなされていないらしい。


 ひとまず原始時代は、認知症鬱病もインポテンツもない社会だった。文明社会になってそういう停滞を回避する装置として戦争が生まれてきたのかもしれない。
 古代の戦争は、「もう死んでもいい」という心をやりとりし合うひとつの「祝祭」だった。ネアンデルタール人だってそういう「祝祭」として大型草食獣の命懸けの狩りをしていたわけで、おそらくまだ人と人が殺し合う戦争が生まれてくる歴史段階ではなかった。彼らにとっては生きてあることそれ自体が命懸けの「祝祭」だった。
 文明社会になって生きてあることの祝祭性が希薄になり、戦争や宗教が生まれてきた。人は、「もう死んでもいい」と命を投げ出してときめいてゆく体験がないと生きられない。生き延びようと警戒し緊張ばかりしていたら生きられない。まあだから、他人を見下して優越感に浸りながらほっとしようとする心の動きもときに生まれてくるわけで、競争社会に置かれた現代人はそんなあれこれのことでごまかしながら生きてきたあげくに、認知症鬱病やインポテンツになってゆく。強いものも弱いものも、自分には生き延びる権利と資格があるという認識に執着しながらそうなってゆく。
 競争に勝って生きてきたものは当たり前のように人を見下しているし、競争から落ちこぼれて生きてきたものもより弱いものを探し出して必死に見下そうとしている。そうやって自分には生き延びる権利と資格と能力があると思おうとしている。そうやって心を病んでゆく。そうやって知性や感性が停滞してゆく。
人間性の自然は、世界や他者の存在の輝きにときめきながら生贄になろうとしてゆくことにある。世界や他者の存在の輝きにときめいてゆくことのカタルシスを知っているものは、もう無意識のうちに生贄になろうとしてゆく。その「もう死んでもいい」という心地のときめきこそが、人類の歴史の無意識であり、生きられない生を生きた人の乳幼児体験の記憶の痕跡でもある。
 この世に「介護」という行為があるということは、人は自分の命と引き換えにしてでも他者を生きさせようとする衝動を持っているということを意味する。他者を生きさせることのカタルシスは、もっとも生きられないものを生きさせることによってもっとも深く体験することができる。そうやって「死」を他者から受け取り、「もう死んでもいい」という感慨が宥められてゆく。
 人の生の根源・自然は「もう死んでもいい」という命を懸けたいとなみとしてあり、生き延びるために殺し合うことにあるのではない。
 命を懸けるだけのものを持たないおちゃらけた生き方をしているものたちが、自分の生き延びようとするスケベ根性や、他者を見下して優越感に浸っているその差別意識を正当化しようとして「人類の歴史は戦争の歴史だった」と合唱している。
 人は、死者や死のそばにいるこの世のもっとも弱いものにひざまずいてゆく。
 東日本大震災のとき、津波から逃れた多くの人々が、津波で死んでいった人に対して「自分が代わりに死んでやりたかった」と悔やんだ。つまり、自分が生贄になりたかった、と。
 現代人の肥大化した自我は、生き延びようとすることが人間の本性だと決めつけている。そう思いたければ勝手にそう思えばいいが、あなたたちの知性や感性などたかが知れている。あなたたちの、その生き延びようとする「未来に対する計画性」というスケベ根性が人の知性や感性の本質だなんて、笑わせてくれる。
 ネアンデルタール人は、もっとせっぱつまって生きていた。生き延びようとするスケベ根性などたぎらせている余裕はなかった。誰もが「もう死んでもいい」という心意気とともに命を懸けて他者や集団の生贄になろうとし、ときめき合っていた。彼らの知性や感性は、あなたたちが考えるよりもずっと本格的だった。彼らは、生きられないこの世のもっとも弱いものに向かってひざまずいていった。
 生活者の思想、などといって衣食住のあれこれに耽溺しながらみずからの生き延びる能力を正当化したり自慢したりしてもせんないことだ。人のもっとも自然でもっとも本格的な知性や感性は、生きられないことの尊厳に気づいてゆく。そうやって生きられないことを受け入れ、生贄になろうとしてゆく。だからホーキング博士は、あんなになっても発狂することなく世界最高の知性たりえている。
 生き延びる能力を持っていることが何ほどのものか。そういう能力を自慢し正当化しはじめた瞬間から、あなたの知性や感性は停滞しはじめている。個人的なことをいわせていただくなら、そういう俗物に囲まれて生きているのは、ほんとにしんどい。人間嫌いになってしまう。
 それでもまれに、この世の生贄のような輝きを持った人と出会うことがあるし、誰の中にもそんな輝きが潜んでいることを感じたりもする。
 生きてあることはいたたまれなく、そしてなやましい。
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