人類を生き残らせたもの・ネアンデルタール人論98

 前回の記事の最後に、僕自身の願いとして、「<生きられないこの世のもっとも弱いもの>の生贄になりたい」と書いた。
 現実にはそんな素敵な生き方や死に方ができるほどの身でもないが、願いとしては、まあそういうことだ。
 それはたぶん、僕の個人的な願いというよりも、人間なら誰の心の奥にもそういう感慨が潜んでいるのではないかと思える。そういう「献身」の衝動こそが猿よりも弱い猿だった原初の人類の歴史を支え、人間的な進化発展をもたらした。
 人類は、生き延びる能力を進化発展させてゆくことによって生き残ってきたのではなく、誰もが他者を生かそうとする「献身=サービス」の衝動を持ったことによる。人は、根源において「生きられない」存在であり、その与件の上に他者を生かそうとする「献身=サービス」の文化を育て、生き残ってきた。
 原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、意識しようがしまいが現象的には他者の生贄になってゆく体験だったのであり、それはもう普遍的な人間性というか人とと人の関係の基礎だともいえる。
「生きられないこの世のもっとも弱いもの」こそこの世のもっと美しい存在であり、あるいは、人間性とは「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になってゆくことにある、といういい方だってできる。
 人は、「生きられなさ」を生きることができる。そうやって知能が進化発展してきたのだ。
 人は、根源・自然においてというか、無意識において、「生きられなさ」を生きようとする衝動を持っている。生き延びようとすることなんか、死の恐怖が肥大化した文明人の、たんなる観念的な欲望にすぎない。
 人類の知能は、「わからない」すなわち「生きられない」という状態に身を置いてけんめいに問うてゆくことができる。その結果として「発見する」とか「気づく」とか「ときめく」という体験をする。猿にはそんな体験はない。彼らは、わかっていること以上のことを知ろうとしないし、生きられる状況でしか生きようとしない。人間のように、生きられない状況を生きて、生きられない状況そのものに憑依耽溺してゆくということはない。
「わかる」という達成感が人を生かしているのではない。人の心の自然は、そんなところで燃え尽きてしまったりしない。無限に「わからない」ことを生み出し、「ひたすら「わからない」ことを問い続けてゆく。
 ひとつのことが「わかる」ということは、そこでさらに三つの「わからないこと」と出会うということだ。そうやって人は、「わからない=生きられない」ということそれ自体を生きている。そうやって人類の知能はどんどん進化してきた。べつに生き延びようとする欲望を募らせたからではない。そしてそれは原始時代の歴史の問題だけではなく、現在だって本格的な知性や感性の持ち主は、むやみに生き延びようとする欲望を募らせているのではなく、「今ここ」の「わからない=生きられない」という問題を深く豊かに抱え込み、それに憑依耽溺しながら生きている。
 スポーツ選手だって、そういう「うまくできない=生きられない」ということそれ自体に熱中しながら毎日練習を繰り返している。
 「生きられない」という「嘆き」こそが人類の歴史に進化発展をもたらした。心も体も、「生きられない」という「嘆き」から華やぎときめいてゆく。言い換えれば、「生きられない」という「嘆き」を生きることができないものには「ときめき=感動」もない。そうやって生きられる平和で豊かな時代を生きている現代人は、「ときめき=感動」も「生命力」も失ってゆく。
 われわれは「生きられない」という「嘆き」を生きているのだから、とうぜん「死にたい」とも思う。しかし心はそこで世界の輝きと出会って華やぎときめいてゆく。そうやって「死にたい」と思いながら死にきれないし、「死にたい」と思いながら心や体が活性化してゆく。そうやって人は、死と生のはざまで生きている。死と生のはざまで、心も体も活性化してゆく。
 人は、根源・自然において、生き延びようとして生き延びる能力を得ようとしている存在ではない。死と生のはざまの「生きられなさ」を生きているのであり、それが結果として人間的な進化発展をもたらした。そしてそれは生き物としての根源=本能に遡行するいとなみだったのであり、「進化論」の問題もじつはそこにこそある。生きものは生き延びようとして進化するのではない、「生きられなさ」を生きようとした結果として「進化」ということが起きる。そして人間的な生態のダイナミズムも、じつはそこにこそある。
生き延びようとする欲望が人間を生かしているのではない。人は根源・自然において、「もう死んでもいい」という勢いのときめき=感動から生きはじめる。そのときめき=感動がないと生きられない。それを失って現代人は認知症鬱病やインポテンツになったり、発達障害を起こしたりしている。
 人は、根源・自然において、未来のよりよい社会やよりよい人生を目指して生きているのではない。「今ここ」のときめき=感動がなければ生きられない。どんなにひどい社会であっても、「よりよい社会を目指す」という欲望だけでは生きられない。どんなにひどい社会であっても、「今ここ」の「世の中捨てたものじゃない」というとときめき=感動がなければ生きられない。そしてそれは、どんな社会かという問題ではなく、目の前の「今ここ」においてどんな人と出会うかという問題なのだ。目の前の「あなた」が輝いていれば人は生きることができるし、それが「世の中捨てものじゃない」という体験になる。人類の歴史に進化発展をもたらしたのはそういう「今ここ」の世界の輝きに対する「ときめき=感動」だったのであって、生き延びようとする欲望だったのではない。
 生き延びようとする欲望を募らせながら人は「ときめき=感動」を失ってゆく。
「生きられなさ」を生きることにこそ人間であることの証しがある。だから人は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」に献身して生かそうとする。いや、鳥だって生きられない雛に餌を与えて生かそうとする。それはもう、生きものの本能のようなものであるともいえる。「生きられなさ」を生きることにこそ、命のはたらきの根源・自然のかたちがある。
 「生きられなさ」を生きている「この世のもっとも弱いもの」はどうしてあんなにも美しいのだろう、愛おしいのだろう。
 生き延びる能力を持っていることを自慢したり、生き延びようとあくせくしていたりする一部の現代人の姿のなんとみすぼらしいことか。よりよい社会を目指すとかよりよい人生や人格を目指すという今どき盛んな言説など、グロテスクで気味悪いだけだ。
 しかし人間なら誰だって「この世のもっとも弱いもの」として「生きられなさ」を生きるタッチを持っている。心はそこから華やぎときめいてゆくのであり、そこでこそあなたの笑顔は輝いている。
「生きられないもの」にとって、未来なんかない、「今ここ」しかない、心も体もそこから輝いてゆく。
「生きられないこの世のもっとも弱いもの」は「この世のもっとも豊かに輝いて生きているもの」でもあり、まあそれはこの世にいない神のような存在だというのだとすれば、一般的なこの世の人間存在はその中間のグラデーションに置かれているのかもしれない。「生きられなさ」を生きるタッチを豊かに持っている人もいれば、生き延びようとする欲望に邁進してときめきを失っている人もいる。
 われわれは、原始人や生まれたばかりの赤ん坊ほどには、他愛なくときめいてゆく心を豊かに持つことはできない。しかし誰の中にも、人の自然としてのそういう「生きられないこの世のもっとも弱いもの」として世界の輝きにときめいてゆくという無意識の感慨がはたらいている。
 心は、生き延びようとする欲望を募らせた緊張感によって歪んでゆく。現代社会における「大人になる」ことはそうやって生き延びる能力を獲得してゆくことであり、そうやって心が歪んでいったり停滞したりしてゆくことだ。なのに現代社会は、大人であることや生き延びる能力の正当性を恥ずかしげもなく吹聴するばかりで大人になることはそうやって汚れてゆくことだという自覚のない大人たちがあふれている。そうやって今どきは、生きものの本能は生き延びようとすることにあるという倒錯した屁理屈が、まるで疑うことのできない真実=定理であるかのように大手を振ってまかり通っている。


 生きものの「進化」は、「生きられなさ」を生きるところから生まれてくる。これは、生きものの命のはたらきの根源の問題であると同時に、人類のもっとも高度な知性や感性のはたらきの問題でもある。
 人は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」をけんめいに生かそうとするし、自分もまた「生きられないこの世のもっとも弱いもの」として生きようとする。そうやって「もう死んでもいい」という勢いで献身することに熱中してゆく。学問や芸術やスポーツや恋に熱中してゆくことだって、そういう「献身」の衝動なのだ。
 生き延びようとする欲望をたぎらせている人間の学問や芸術やスポーツや恋や知性や感性のはたらきなどたかが知れている。人の心は「もう死んでもいい」という勢いで何かに熱中してゆく。
 人は、存在そのものにおいて、すでに他者が生きるための「生贄」になっている。
 僕が「生贄になりたい」といっても、どうか「カッコつけてる」なんて思わないでいただきたい。人という存在は、もともとそういう感慨の上に成り立っているのだ。人間性の自然・根源というか、無意識的には、生き延びたい存在であるのではない。
 生き延びようとする欲望なんて、現代人の肥大化した「自意識」という観念のはたらきにすぎないのであって、生きものの本能でもなんでもない。もともと人類は、猿が持っているそういう「自意識」を捨てて二本の足で立ち上がったのだ。
「自分」などというしょうもない存在に、生きている意味も価値もない。だれかの生贄になって死んでゆけるのなら、望むところだ。
問題は、自分の生に意味や価値を持たせることにあるのではない。人は、世界の輝きにときめいているなら生きられる。「自分=この生」のことなんか忘れて体ごとときめいてゆけるのなら生きられるし、そのときこそもっとも豊かに生きている。つまり、「自分=この生」のことを忘れているのだから、そのとき「自分=この生」に意味や価値があるともないとも思っていない。
根源的には、この生には、意味や価値があるのでもないのでもない。そんなことなど忘れているのが、世界の輝きにときめいているこの生の正味のかたちなのだ。そしてその「自分=この生」を忘れるという体験の契機は、とうぜん「自分=この生」の意味や価値に執着したり満足したりしている状態ではなく、「自分=この生」を嘆いている状態にこそある。
人は、根源においてこの生に対する「嘆き」を持っている存在だからこそ、「自分=この生」を忘れて深く豊かに世界の輝きにときめいてゆくことができる。
人は、世界の輝きにときめきながら生き、そしてときめきながら死んでゆく。この生の意味や価値を携えて生きているのではない。この世界の輝きが、人を生かしている。それはもう、生きものの命のはたらきの問題でもあり、生きものの身体が動くのは、身体と意識が連結しているはたらきが世界(の輝き)に反応する(=ときめく)からだろう。それはまあ、どんな生きものにもそなわっているであろう「無意識」の問題であり、表層的な「意識=意志」が体を動かしているとは言い切れない。体が動くたびにわれわれは、「無意識」のはたらきを意識させられてしまう。われわれは、「無意識」に生かされている。意志とか欲望が人を生かしているのではなく、そんな意志とか欲望などというものは、どんなかたちにもなる。死のうとする意志や欲望もあれば、生き延びようとする意志や欲望もある。そんなものは、自意識によってどんなかたちにもなる。そんな自意識によって人は生きているのではない。自意識の通りに生きられる人間なんかどこにもいない。自意識の思う通りに体が動くわけでもないし、どんなに自分が正しく魅力的な人間だと思っても、その通りに他人が評価してくれるわけでもない。そんな自分の生き延びようとする意志や欲望が生きものの本能=無意識だとはいえない。
生きものは、世界に対する「反応」として生き残っていったり自滅していったりしているだけのこと。それは「この生を忘れてゆく」という体験なのだ。たとえば、ムカデが自分の足の一本一本のことを意識していたら足がもつれてしまうだけだろう。「自分の足=この生」のことなど忘れて世界に「反応」していっているだけだからこそ、その「反応」に沿ってたくさんの足がバランスよく勝手に動いてゆくということが可能になっている。そのときムカデは、「自分の足=この生」のことなど忘れている。
「生き延びようとする本能」などというものは、原理的に成り立たないのだ。
 生きものに生き延びようとする本能などというものがあるのなら、ネアンデルタール人もシロクマも、もっと生きやすいところに移住してゆく。しかし彼らの生は、その雪と氷の世界に「反応」してゆくことの上に成り立っており、また生きものの意識も身体も、因果なことにそういう「生きられなさ」に身を置くことによって豊かな「反応」が起きてくる。
 もしもシロクマがたくさんの獲物がいるもっと温暖な地に移住すれば、意識のはたらきも身体のはたらきも停滞して、それほど熱心にダイナミックに狩猟活動ができなくなるのかもしれない。
 われわれだって、かんたんに手に入るからといって安物の商品でいいというわけにはいかないときはあるし、自分に言い寄ってくる男(または女)とかんたんに確実に恋ができるわけでもない。「反応」する心すなわち「ときめき」が豊かにはたらかなければ欲しいという気にもならない。つまり、「関係」のダイナミズムが生まれてこない。
生きものの意識は「世界」に反応しているとき、みずからが生きてあることを忘れているのであり、生きてあることを忘れてゆくことが生きてあることなのだ。生きものは、そうやって生と死のはざまに立って、世界=環境と命のやりとりをしている。そうやってネアンデルタール人はしぶとく生き残ってゆき、シロクマは今滅んでゆこうとしている。
 この生は、生と死のどちらに転んでも紙一重なのだ。
 われわれのこの生は、世界に「反応」してゆくことによって成り立っているのであって、根源的には生き延びようとする意志や欲望が「本能=無意識」としてはたらいているのではない。現代人はそういう表層的な意識としての観念的な意志や欲望をたくさん抱え込んでしまっている、というだけのこと。
 原初の人類は「自分なんか死んでしまってもかまわない」という無意識とともに二本の足で立ち上がっていった。その猿よりも弱い猿になって生きられなくなってしまう姿勢を常態にすることは、そういう無意識がはたらいていなければおそらく実現しなかった。しかしそれは「死のうとした」ということとは違う。そこには、生き延びようとする意志も死のうとする意志もはたらいていなかった。ただもうそういうかたちで「世界」に反応していっただけのこと。そうやって生きることにも死ぬことにも無防備になって、生きてあることそれ自体を忘れ、ただもう世界の輝きにときめいていった。その「ときめき」が彼らをして二本の足で立ち上がらせた。世界が輝いていること、それが彼らを立ち上がらせた。もう無意識のうちに、気が付いたら立ち上がっていた。
 原初の人類は、生きてあることなんか忘れながら世界の輝きにときめき、二本の足で立ち上がっていった。その生まれたばかりの赤ん坊のような「ときめき」の豊かさと他愛なさによって人は、猿であることから分かたれていった。べつに、それによってすぐに猿よりも高度な知能や身体能力を獲得していったのではない。それはいったん「退化」したのであり、その「遅れ」を取り戻すのに3〜400万年という人類史全体の半分の時間を要した。そしてその進化の空白期間をどのように生き残ってきたかというと、ダイナミックな繁殖力と拡散の生態を得たことにあったのであり、取り立てて身体の発達も知能の発達もなかった。それは「生きられない弱いもの」として生きることによって生まれてきた生態であり、そこにこそ「万物の霊長」とやらになった現代にまで続いている人間性の基礎がある。
 200万年前にアフリカの外まで最初に拡散していったものたちだって、もっとも身体形質が貧弱な人類種だった。彼らは追われ追われしながら拡散していったのであり、しかしそれゆえにこそ、そうしたときめき合いながら繁殖してゆく生態をもっとも豊かにそなえていた。もともと人類はみな、そういう他愛なくときめき合いながらダイナミックに繁殖してゆく猿だったのであり、そのメンタリティこそが、じつはそののちの爆発的な知能の進化発展に結びついていった。
 人類は、生きられない弱い猿としての「嘆き」を共有しながら圧倒的な繁殖力を身につけていったのであり、その生きてあることの「嘆き」が極まったところから知能が進化発展してきた。そうやって、生きてあることを忘れながら世界の輝きにときめいてゆくメンタリティがさらに豊かになっていった。
 その人間的な豊かな「ときめき」こそ、「献身」の衝動の源泉にほかならない。自分を忘れ、この生を忘れて献身してゆくのであり、献身せずにいられないほど深く豊かにときめいてゆくのが人の心の自然であり、根源的には、それほどに深くこの生を嘆いている存在なのだ。この生を忘れてしまうほどに、この生を深く嘆いている。


 もしも5万年前のアフリカのホモ・サピエンス北ヨーロッパネアンデルタール人とどちらが生き残る能力を豊かにそなえていたかと問うなら、それは、どちらの知能が発達していたかという問題ではなく、どちらが他者を生かそうとする「献身」の衝動を豊かに持っていたかという問題であり、二本の足で立ち上がってもともと猿よりも弱い猿であった人類はまさにそのメンタリティによって生き残ってきたのだ。そのメンタリティの関係がなければ生き残れなかったし、そのメンタリティとともに知性や感性や人間的な連携が進化発展してきた。
 まあ世の人類学者の多くは、人類を生き残らせてきたもっとも重要な知能のひとつとして「未来に対する計画性」ということをよくいうのだが、そんなものは知能の本質でもなんでもなく、現代の文明社会を生きるものたちが共有しているたんなる思考習性にすぎない。
 そりゃあ、あくせく未来の計画やスケジュールを紡ぎながら生きている現代人にすれば、それが知能の本質であり人間性の自然だということにしておけばひとまず安心だし納得もしやすいことだろう。そうして、「夢はかなう」とか「大人になったら何になりたいのか?」とか「未来のよい社会をつくろう」とか、そんな未来志向一辺倒の発想に対する疑問なんかまるで持っていない。
 しかしそれでも人は、未来のことも自分のこともこの生のことも忘れて「今ここ」の世界の輝きにときめいてゆくという体験をしているのであり、その体験こそが人を生かしているし、その体験がなければ人は生きられなくなってしまう。その体験を基礎にして「献身」の衝動が生まれてくる。いやそれは、べつに大げさなことでもなんでもない。笑顔で「おはよう」とあいさつを交し合うこと自体がすでに「献身」という態度なのだ。その笑顔が魅力的か否かは、心の底にどれだけ深く豊かな「献身」の衝動を持っているかという問題で、そこにおいて現代社会では人それぞれの差が大きくなっているともいえる。なぜなら、その衝動を心の奥に封じ込めて、生き延びる未来にばかり向いてしまうような社会の仕組みになっているからだ。いまどきは、どんなに人格者ぶっても、そういう他愛なく世界の輝きにときめいてゆくという基礎的な「献身」の衝動が希薄になってしまっている大人たちがたくさんいる。そういう基礎的な「今ここ」のときめく心がないがしろにされ、未来に向かって生き延びるための方法論ばかりが追求されている世の中だ。それが正義だ、それが人間の本性だ、といわんばかりに大合唱している。
 そうやって今どきは、なんだかブサイクな表情をした大人たちが溢れ返っている。
 そういう人間性の基礎を問うことをしない大人がどんどん少なくなっているというか、そういう人間性の基礎に対する認識がゆがめられてしまっている。
 そうやって「未来に対する計画性」こそ人類の知能の本質である、という認識が疑うことのできない真理であるかのように独り歩きしてしまっている。
 そんなところに人類の知能の本質があるわけではないし、そんな文明社会の通俗的な思考が猿よりも弱い猿であった原初の人類を生き残らせてきたのではない。
 なにはともあれネアンデルタール人は、ろくな文明を持たない原始人の身で50万年のあいだ、極寒の北ヨーロッパの氷河期を潜り抜け生き残ってきたのだ。なぜそんなことができたのか?一般的にいわれている、それができる体型や体質を持っていたからだ、というような単純な問題ではない。もともと遺伝子や身体形質においてアフリカ人とたいして違いない人類だったのであり、それでも生き残ってゆくことができたのは、それができるメンタリティや生態を持っていたからであり、生き残ってゆきながら極寒の環境に合わせた身体形質になっていっただけのこと。文化としてのそのメンタリティや生態を持っていなければ生き残れなかったのだ。それは、どんなに驚いても驚き過ぎることはないだろう。現在の世界で、そこのところを本気で思考し検証している研究者がどれだけいるだろうか。現代社会を生きるわれわれだって、そんなネアンデルタール人から学ぶことはたくさんあるはずだし、そこにこそ「人間とは何か」ということの本質や自然を問う契機が潜んでいるのではないだろうか。
 また、現代社会にだって、身体的にも精神的にも、「生きられなさ」を抱えながらあえぎあえぎして生きているものたちがたくさんいるわけだし、いつの時代にも「どうすれば今ここを生きてあることができるか」という問題は存在しており、そういうものたちにとっては未来のよりよい人生も未来のよりよい社会もどうでもいいのだ。それどころではないのだ。そしておそらく、そういう「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の「それどころではない」ところにこそ人間性の本質と自然があるわけで、その本質と自然を携えてネアンデルタール人は生き残っていったのだ。
 彼らは、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」として、氷河期の極寒の北ヨーロッパで生き残っていった。最初は強くたくましい体を持っていたのでもなんでもない。あえぎあえぎ、それでも生き残っていった。そこでは、誰もが他愛なく豊かに他者ときめきながら、誰もがけんめいに他者を生かそうとしていた。そうでなければ彼らが生き残ってくることなどできなかったはずで、そうやって彼らは、人類史の「献身=サービス」の文化の基礎をつくり上げていった。そこのところを問わなければ、彼らが生き残っていったわけも人間性の本質や自然も見えてこない。
 集団的置換説の世界的な権威であるストリンガー先生、そしてこの国のネアンデルタール人研究をリードしているらしい赤澤威先生、ネアンデルタール人について考えることはそういうことなのですよ。あなたたちには、なぜネアンデルタール人が生き残ってきたかということに対す思考力や想像力がなさすぎる。彼らは、「たくましい肉体」によって生き残ってきたのではない、生き残ってきたからそんな肉体になっただけのこと。彼らは、氷河期の北ヨーロッパという「生きられない」環境に身を置きながら「死に対する親密さ」を深く豊かにしてゆくことによって生き残ってきたのです。そしてそれは、ネアンデルタール人だけのことではなく、人類史の普遍的な法則なのですよ。二本の足で立ち上がって猿よりも弱い猿になった人類が生き残ってきたことやその知性や感性が進化発展してきたことにはそういう「逆説」がはたらいているのであって、べつに生き延びようとする欲望をたぎらせながら生き残ってきたのではない。それは、あなたたちのそんな陳腐で短絡的な思考で解き明かせる問題ではない。
ほんとに、アホな研究者がいっぱいいて、いやになってしまう。