異論と反論・ネアンデルタール人論・97

 もちろんここでの現在のテーマは「ネアンデルタール人論」ではあるが、ネアンデルタール人のことだけを論じているのではない。基本的な問いは「人間とは何か?」ということであり、そのための「ネアンデルタール人論」です。
 というわけで、ここまで書いてきてじつは今、ネアンデルタール人のことだけでなく、世の中に流布しているいろんな言説に対して「そうじゃないだろう、そんなことがあるものか」と反論したくてたまらなくなっている。
 2ちゃんねる的な揚げ足取りや罵り合いなどごめんこうむりたいが、ちゃんと言葉を尽くした議論ができるものならしてみたいものだと切に願っている。打ちのめされてもいい、それによって「人間とは何か」ということ「真実」に対する展望がさらに拓けるのではないか。
 先日「slow wave」というハンドルネームの人からそのような議論のコメントをもらい、何をくだらないことをいってやがると思いつつもいそいそと返信してみたが、観客席の第三者の人はどのように見ていたのだろうか。
 このブログは仲間を持たない孤立無援の立場で書いているが、芸術家が自分だけの美の世界を追求しているのとはわけが違う。自分に閉じこもっているだけでは「真実」か否かということはわからない。
 できれば、プロの研究者や評論家と議論がしたい。
といっても僕はネット社会の仕組みについては全く無知で、誰と議論ができるのかよくわからない。
 そんな状況で、以前、偶然に見つけた二人の評論家のブログにコメントを寄せたことがあったが、あっさりと門前払いを食わされてしまった。その相手は、芹沢俊介氏と小浜逸郎氏。前者は「若者の凶悪犯罪の心理」という記事内容で、後者は「倫理の起源」、どちらもそれに沿って相手の土俵に上がってゆき、「そうじゃないでしょう」とコメントしていったのだけれど、削除されたり無視されたりしただけだった。
 二人ともコメントの返信にはマメで、特に小浜逸郎氏などは、素人の拙劣な抗議に対してだってちゃんと「それじゃあ全然だめだ、それはこうなのだ、勉強して出直してきなさい、私はあなたていどのレベルでものを考えているのではない」と切って捨てるような反論の返信をし、シンパの読者たちもその「公開処刑」に拍手喝采しているのだから、僕のコメントに対しても堂々と受けて立ってくれると思ったのだけれど、けっきょくなしのつぶてだった。「その読者と同じように<公開処刑>してくれてけっこうですよ」といったのだけれど、反応してもらえなかった。
 まあそうされたらされたで、「だったら僕としても無限に反論し返す用意がありますよ」ともいったわけだが。
 まったく、内田樹上野千鶴子だけじゃなく、どいつもこいつもアホばかりだなあ、と思う。しかしこちらは名もない庶民で、向こうは世に知られた知識人なのであれば、こちらがどんなにそう叫んでもただの「負け犬の遠吠え」ということでしかない。
 負け犬であることが僕の定位置で、向こうは僕と議論をする気などさらさらない。まあこちらは負けても失うものなど何もないが、向こうは負けるわけにはいかない、勝って当たり前の立場で議論しなければならない。だから、そんな煩わしいことなどしたくないだろう。何が真実かという以前に、自分の社会的な立場を安定させておきたい。
 僕は今、どんなに打ちのめされてもいいから、議論がしたい。それが自分にとって「真実に殉じる」ことではないか、と思う。自分が打ちのめされることなんかどうでもいい、「人間とは何か」ということの「真実」と出会いたい。
 もちろん僕のコメントの書きざまがよくないということもあったのだろう。僕は世の中の議論の作法というものをよく知らないから、きっと、無礼でぶしつけな書きざまになっていたのだろう。
 しかし、ひとまずおたがいに真実に殉じようという思考態度で生きているのだから、無礼もくそもないだろう、とも思う。。おたがい真実こそが大切で議論において百戦錬磨のインテリなら、せめて「公開処刑」して見せるくらいの誠実さはあってもいいだろう、と思う。ともかくこちらは、ほかのコメントの何倍何十倍もの長文で言葉を尽くして自分の考えを差し出していったのだから、最低限の仁義だけは通したつもりでいたけど、世の中そんなに甘くなかった。


 じつは先日、何か月ぶりかでまた小浜逸郎氏のブログ『ことばの闘い』にコメントを入れた。
最初はただ久しぶりにのぞいてみようかと思っただけだったが、その『日本語を哲学する』という新しい連載記事に接して、見過ごせなくなった。やまとことばの起源と本質については僕としてもずっと考えてきたことであり、読んでいるうちに「そうじゃないだろう、そんなことがあるものか」という気持ちをどうしても抑えられなくなってしまった。
 この人は吉本隆明の影響を受けて登場してきた評論家で、その後たもとを分かったといっても、二人とも自意識過剰のことばかりいっているのが癇に障る。まあ自意識過剰の評論家なんてべつにこの二人だけでなく、内田樹上野千鶴子梅原猛だってそうだし、もっと若い世代にしても今どきの評論家なんてそんな連中ばかりで、そんな連中の世の中だ。戦後のこの国はそういう自意識過剰の人間ばかりを生み出し、右翼であろうと左翼であろうと、そういう自意識過剰のインテリにリードされて世の中が動いてきた。「もっとよい社会をつくろう」とか「もっとよい生き方をしよう」とか、やめてくれよと思う。そんな自意識過剰の欲望を満たすことが人間存在の本質であるかのようなことばかり合唱していやがる。そうして、この生やこの世の中の動きからはぐれてしまったものたちを追いつめている。
 はぐれてしまったものたちに未来はない、生きてある「今ここ」しかない。せっぱつまって「今ここ」のこの生が成り立つかどうかと問うている。未来の人生や未来の社会どころじゃないのだ。この世のもっとも追いつめられたものにとっても、もっとも自由でもっとも豊かに生きているものにとっても、未来なんかどうでもいいのであり、そこにこそ人間性の基礎と究極のかたちがある。根源的には、人類はそういうところに立って歴史を歩んできたのであり、そういうところに立って「今ここ」を嘆き、同時に「もう死んでもいい」という勢いで「今ここ」の世界の輝きにときめきながら人間的な知性や感性を育ててきたのだ。
人の心の「死んでしまいたい」という嘆きの感慨を否定するべきではない。そこにこそ「もう死んでもいい」という勢いを持った豊かなときめき=感動が体験される契機が潜んでいる。そういう体験があってこそ人は生きられるのだし、それこそが人間的な知性や感性が育ってゆく原体験にもなっている。
いやべつに、優秀な学者や芸術家になるための素養がどうのこうのという話ではなく、誰の生もそういう体験の上に成り立っているのであり、それによって人と人の関係が深くも豊かにもなってゆくのではないかということだ。
人は、「いまここ」のこの世界の輝きにときめいてゆく体験がないと生きられないし、それは、未来のよりよい社会やよりよい人生どころではないということでもある。未来によりよい社会やよりよい人生があるということは、われわれが生きてある「今ここ」を否定していることでもある。そういう自意識の欲望を膨らませながら現代人は、「今ここ」に対するときめき=感動を失ってゆく。
 よい社会であろうと悪い社会であろうと、それはもう受け入れるしかない。たとえ生きられないひどい社会であっても、それでも「世の中捨てたものじゃない」という体験をして人は生きているのであり、その体験がないと生きられない。その体験が人を生かしているのであって、未来のよりよい社会に対する希望・欲望によるのではない。
 人やこの社会は、みずからが生き延びることの正当性の獲得を目指して存在しているのではない。
 人は、根源において、生き延びようとしているのではなく、生きてあることに気づいてゆく存在なのだ。この生もこの社会も、その存在に気づかされる対象であって、根源的にはそれをどうこうしようとする衝動ははたらいてない。だから多くの人がつまらない人生を生きてしまうのだし、世の中はいつまでたってもろくでもないものでしかない。
 しかし、それでも人は「世の中捨てたものじゃない」という体験を「今ここ」でしているのであり、その体験がないと生きられない。
 われわれの心は、自分なんか忘れて「今ここ」の世界の輝きにときめいてゆく。その「世界の存在に気づく」という体験が、「この生に気づく」という体験でもある。世界の存在に気づくという体験が人を生かしているのであり、だから「世の中捨てたものじゃない」という体験がなければ生きられない。
 どんなにひどい社会でどんなにつまらない人生であっても、それでも生きてある「今ここ」は肯定するしかないし、肯定しないと生きられない。未来なんかない、「今ここ」を生きて「今ここ」に消えてゆくだけなのだ。心は点いたり消えたりしているはたらきであり、そうやって「今ここ」を生きて「今ここ」に消えていっているのだ。
 デートをしている恋人たちが、終電車の時間になっても「まだ帰りたくない、このままずっと一緒にいたい」と思うとき、明日のことなんか頭の中から消えている。人の「ときめく」という体験に、未来なんか勘定に入っていない。
 人間なんか誰だって死ぬ。だから恋人たちはそういう「今ここしかない」という心持になってゆく。おそらくそれが死を意識している人間存在の普遍的な心の動きなのだ。われわれに未来なんかないのだ。現代人は未来のスケジュールで頭の中をいっぱいにしながら、よりよい人生やよりよい社会を目指そうと合唱して生きているが、まあそれは、そういう社会に踊らされて生きてきた人間たちの身にしみついた習性であって、べつに人間性の普遍でも本質でもなんでもない。そりゃあいつの時代にも、そんなことなんかどうでもいい、と思う人間だっているさ。よりよい人生や社会を目指して大合唱している今どきの「市民」のところにだけ人間性の本質や普遍があるとはいえない。そんなスローガンなど、社会や時代に踊らされているただの俗物根性さ。
 まあ吉本隆明氏も小浜逸郎氏も、そういう戦後社会において肥大化してきた自意識過剰の俗物根性であれこれのカッコつけた言葉を弄しているだけであり、そこのところが癇にさわる。


「負け犬の遠吠え」だろうとなんだろうと、僕としてはもう「そうじゃないだろう、そんなことがあるものか」といいたいことがたくさんある。
 今回、小浜逸郎氏のブログに反論のコメントを書いたことがいいのかよくないのか、よくわからない。まあ、どうせ相手は、カッコつけているだけの凡庸な評論家なのだ。だからこのブログを支持してくれているある東大の先生は、「かわいそうだからやめた方がいい、生暖かく見守ってやりなさい」という。
 しかし僕は、そんな優雅な態度を取れるような恵まれた場所にいるわけではないし、自分の方が正しいというか本質的だという確信があるわけでもない。できることなら第三者の目にさらして第三者に判断してもらいたい、という誘惑がどうしてもある。何しろ相手のいうことにはたくさんの支持者がいて、こちらはほんの一握りの人にしか支持してもらえていないのであり、このままでは永久に「負け犬の遠吠え」でしかないではないか、という焦りがあるし、俺があんな連中に負けたら真実が滅びる、とも思う。
 僕は、芸術家でもなんでもないのだから、「自分を信じて我が道を行く」ことなんかできない。
 自分を守りたいとも思わない。打ちのめされもかまわない。
 これは、「自殺願望」の一種だろうか。そういうこととは、たぶんちょっと違う。この十年、何もかも打ち捨てて必死に考え続けてきたのだ。この考えが世間に通用するとも思えないが、僕と同じようなテーマで考えている世間の知識人に対して、おまえら俺と同じだけ考え続けることができるか、できるものならやってみろ、といいたい思いはないでもない。ここまで来たらもう、打ちのめされてみせることが自分の考えを世間に問うことになるのではないか、と思ったりする。気取っていえば「この世のもっとも弱いもの」に変わって打ちのめされてみせようではないか、という気にもなってくる。
 ネアンデルタール人が原始人に生きられるはずのない氷河期の極北の地に住み着いていったように、「もう死んでもいい」という場に立って人は生きはじめるのだと思うし、そこに立てなければ「人間とは何か」ということの真実は見えてこない。
 僕なんかこの先いつまで生きていられるかわからない身だし、脳のはたらきも日々衰えてきている。人生の店じまいをするのなら一敗地にまみれてどさっと倒れてしまいたいし、あの評論家がただのアホだとしても、かわいそうだと思って生暖かく見守ってやれる余裕なんかない。カッコつけてくだらないことばかり吹きまくっている評論家に僕が負けるわけにはいかないし、負けて葬り去られてもそれはそれでかまわない。僕の屍の上に誰か新しい「人間論」「起源論」「ネアンデルタール人論」「やまとことば論」を打ち立ててほしいとも思う。
 せめてそのための問題提起だけはしておきたい。
 僕は2ちゃんねる的な相手の人格を罵る芸なんか持っていないし、それを受け流すこともへたくそだが、どちらが真実に迫っているかということを競い合う場において言葉を惜しむつもりはない。
 どうせ相手は「あんな雑魚の相手をしている暇なんかないよ」とまわりに触れ回っているのだろうし、そこでは僕の考えなんか無視したい人種がほとんどなのだろう。なにしろ、戦後社会に踊らされながらうまく生き抜いてきた自意識過剰の連中の集まりなのだもの、「市民」や「生活者」や「生き延びる」なんてくそくらえだといっても、聞く耳持たないだろう。
 それでも世の中はそんな人間ばかりではないし、人間であることの真実が彼らのところにあるとも思えない。過去の偉人たちの考えをコピペするだけの能しかないくせに、それをちょいと口当たりよく言い換えて受けを狙っているだけのあの連中の空騒ぎに、どうしてこの世の弱いものたちが追いつめられねばならないのか。おまえらがが生き延びるためのおまえらが語る人間性の尊厳とか真実など、目障りなだけで、嘘っぱちだらけだ。人はこう生きねばならないとか、社会はこうあらねばならないとか、おまえらのその安っぽい屁理屈の合唱にこの世の弱いものたちが追いつめられている。
 生きものは、生き延びねばならない存在ではない。そして、「生きられない」というそのことが生命のはたらきなのだ。「もう死んでもいい」という勢いで命は活性化してゆく。この生は、そういう逆説の上に成り立っている。
 したがってこの生の真実は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」のもとに宿っている。生き延びる能力を自慢するお前らの我田引水の屁理屈など、あまりにも愚劣で通俗的で、あまりにも思考のレベルが低すぎて聞くに耐えない。
 直立二足歩行の起源論にしろ、ネアンデルタール人論にしろ、やまとことば論にしろ、僕の考えることは、どうしてこうも彼らとかけ離れてしまったのだろう。僕も彼らのように先人の後追いをしていれば彼らを尊敬しあこがれることができたのだろうが、今となってはもう、「嘘だろう」という違和感ばかりが募る。
 もともと僕の思考は「それは違う、そんなことあるものか」というところからはじまっている。彼らのいうことを鵜呑みにしてわかったような気になることは、僕にはできなかった。
 まあ僕は、最初から世の中の動きからはぐれてしまっていた。その場所から、世の中に受け入れられている彼らのいうことを眺めれば、どうしても違和感が湧いてくる。べつに自分のことを「アウトサイダー」とは思っていないが、「置き去りにされている」という気分はある。
アウトサイダー」だと思っているのは、彼らの方だろう。社会=時代に踊らされている人間ほど、自分のことを「アウトサイダー」だと思いたがる。なぜなら社会=時代とは、「今ここ」の社会=時代を否定して「よりよい社会=時代」をつくろうとすることによって動いているからだ。社会=時代を否定することそれ自体が社会=時代の動きにほかならない。
 吉本隆明内田樹の「アウトサイダー」ぶったものいいなど、反吐が出そうだ。
 みんなして「アウトサイダー」ぶっている世の中かもしれない。平和で豊かな社会では、誰もが「アウトサイダー」ぶる。「自分は悪くない、悪いのは他人であり世の中だ」と、今どきは、そういう自閉症的な空気が蔓延している。そうやってみずからの生き延びる能力の正当性を自慢したり、追いつめられてしまったり、認知症鬱病やインポテンツになっていったり。


 そういうわけで僕は、恥知らずにも、ちょいと世間に知られた評論家のブログに「負け犬の遠吠え」みたいな反論のコメントを書きつけてしまった。
 しかし小浜逸郎というその人はきっと、これまでと同じように、あくまで無視してくるだけでしょう。おまえみたいな雑魚を相手にしている暇はない、といわんばかりに。
 で、第三者がその人の記事と僕のコメントを読み比べて、どちらが「人間」についての思考の深みを持っていると判断するのだろうか。文章の長さは、その記事と拮抗するように書いた。そりゃあ向うの方が書き慣れて上手に書いてあるのだろうし、僕の文章なんか行き当たりばったりに書き散らしているだけのただの幼稚で拙劣な悪文ですよ。しかし、それと思考内容の豊かさや深みとはまた別の問題でしょう。
 そうして、僕が負けたら「真実」が滅びる、と思う。
 議論がしたい……僕がそう思ったらいけないだろうか。それは、身の程をわきまえない恥知らずなことだろうか。
 だってほんとに、「そうじゃないだろう、そんなことがあるものか」と思うのだもの。向こうは社会的に認知された評論家かもしれないが、こちらだってこの十年、何もかも投げ捨て、寝る間も惜しんで命を絞るように考え続けてきたのだ。その間に支払ったものの重みや、たどり着いた思考の深みについては、彼らに負けるとはぜんぜん思わないし、そう認めてくれる人がいないわけでもない。
直立二足歩行の起源やネアンデルタール人のことに関してなら、世界中を敵にしている気分で考えてきた。このことについて議論ができるのなら、東大教授だって怖くないし、集団的置換説の世界的な権威であるストリンガーなんか、ほんとにアホだと思う。「人間とは何か」ということの思考のレベルが、話にならないくらいどうしようもなく浅薄だ。人類学の研究者なんか、東大だろうと世界的権威だろうとこの程度の思考しかできないのかと、いつもうんざりしている。
たぶん、「人間とは何か」ということについての思考が、彼らとは根本のところで違ってしまっている。彼らは「人類の進化発展は生き延びようとする努力の結果だ」といい、僕は「そんなことがあるものか、人間は根源においてそんな作為的な存在ではない、<もう死んでもいい>という無意識の感慨から生まれてくる<ときめき=感動>とともに進化発展してきたのだ」とここまで書いてきた。一般の人類学フリークは彼らを追いかけて思考し発言しているが、僕は追いかけてなどいない。どうしようもなくくだらないと思っている。だから僕のこの考えの成否は、彼らとの議論にさらさないと検証できないような気がする。
僕はべつに、老後の暇つぶしの「生涯学習」としてこんなことをしているのではない。「NHK放送大学」でお勉強をした結果を発表しているのではない。あくまで裸一貫の徒手空拳で四苦八苦しながら「思考実験」を重ねてきたのであり、裸一貫で「人間とは何か」ということの「真実」に殉じたいのであり、「真実」を掬い上げたいのであり、世の中に定着してしまっている彼らのくだらない合意から「真実」を取り戻したいのであり、人類の歴史を塗り替えたいのだ。
 ここまで来たからには、死ぬまでに一度くらいは、命のやりとりをするような真剣勝負の議論というか論争がしてみたい、と思う。
 打ちのめされてもかまわない。生き延びたいとなんか思っていない。ぶざまに野垂れ死にしてしまってもかまわない。
 ろくに考えもしないで「人類の歴史は戦争の歴史だった」といって平気な顔をしている連中から「人間とは何か」ということの「真実」を取り戻したい。ろくに考えもしないで何もかもわかっているかのようなことばかりいいたがる連中が金持ちになったり政治家になったり評論家になったりしている世の中で、そういう連中の声がこの世の中の空気をつくり、誰もがものを考えなくなっていったり感じなくなっていったり、弱いものが追いつめられていったりしている。
 小浜逸郎というその評論家先生に対してだって、「自分じゃ救世主のつもりかもしれないが、あんたのその薄っぺらな思考がこの世の中をだめにしているんだぞ」といいたい思いもないわけではない。人がどんなに生きようと、どんな世の中になろうと、よけいなお世話だ、おまえらが勝手に決めるな。人生も社会=時代も、なるようになってゆくだけだ。いい人生とかよくない人生とか、いい社会とかよくない社会とか、おまえらが勝手に裁くのはやめてくれよ、と思う。おまえらのちんけな脳みそで勝手に決めてくれるな、と思う。
 最後に、これはいうべきではないことかもしれないが、いってしまうことにする。もしも理想の死に方があるとすれば、「この世のもっとも弱いもの」の生贄になって死んでゆくことではないか、と思ったりする。
内田樹とか上野千鶴子とか吉本隆明とか小浜逸郎とか梅原猛とか右翼とか左翼とか市民とか生活者とか、その他もろもろのあんなアホたちのいうことにひれ伏して生きてゆくつもりはない。あんなアホたちが生き延びるためのお手伝いをしなければならない義理もない。
 僕は、「生きられないこの世のもっとも弱いものの」の生贄になりたい。人間であることの本質や自然は、彼らのもとにこそある。