穢れと聖性・ネアンデルタール人論99

人類の歴史は、世界中のどこでも「生贄」という習俗を持っているらしい。
 かつてのインカ帝国やマヤ帝国では罪人の生首を神に捧げていたとか、そんな伝説は、この国の歴史においてもいくらでもある。橋をつくるときに人柱を埋めたとか、そういう習俗が実際にあったかどうかということはさておき、まあ人類はそんな話が好きなのだ。そんな話を語りたがるし、聞いておもしろがる。
 貧しい民衆が娘を遊郭に身売りさせるということはつい最近まで続いていたし、今どきの娘たちは自分からフーゾクの世界に飛び込んでゆくことも多いらしく、女が娼婦になること自体がひとつの生贄になる行為だといえるのかもしれない。
 人類社会は「生贄」をつくりたがるし、人は人間性の自然として「生贄」になろうとする衝動を持っている。だから貧しい家の娘は、身売りさせられることを承諾する。
 なぜ娘を身売りさせるかということは、単純に貧しいからだということだけでは説明がつかない。この国には「遊女礼賛」の伝統文化があり、江戸吉原や京都島原の花魁は、この世の最高の女としてもてはやされてもいた。
 古代や中世には、山の中に遊里があった。そのころ、人里離れた山の中は、ひとつの聖地だった。
 縄文時代は山の中に女子供だけの 小さな集落が日本中のあちこちに無数に点在し、そこでの女たちは、山道を旅する男たちに宿を提供し、セックスでもてなしていた。つまり男たちは、そうやって聖地巡礼の旅をしていたのだ。おそらく古代の「ツマドイ婚」はそこからきているのだろうし、四国八十八カ所をはじめとする寺巡りの巡礼の旅の習俗は今なお続いている。また神社を森の中につくることだって、山の中を聖地にしてきた伝統の上に成り立っているはずだ。そこはひとつの「他界」であり、神が棲む聖地だった。そして山の中の遊里の女たちは神に仕える存在だったのであり、そのようにして「巫女」という存在が生まれてきた。
 まあ縄文人にそうした宗教的な意識があったかどうかは極めて疑わしいが、とにかく山の中に住む女だけの小集落はひとつの遊里だったし、聖地でもあったのだ。
 古代以前は女権社会で、セックスも女がリードしていた。しかしそれは、べつに女の性欲が強くて女上位でセックスしていたというのではなく、女は「やらせてあげる」聖なる存在であり、男は「やらせてもらう」存在だった、ということだ。古代の男はつねに「やらせてもらう」ために女の家を訪ねていって歌を差し出し、女の返し歌を待たねばならなかった。
現在のこの国のフーゾク産業の「裸で抱き合っても最後の一線は許さない」などという極めてあいまいで危うい独自の営業システムだって、そのような男と女の関係の伝統とともに「遊女」が聖なる存在だったことの上に成り立っている。だから、貧しい家の親が娘を身売りさせ、娘もそれをあんがい素直に承諾するという習俗が生まれてきたのだ。
 まあ人間性の自然において、男と女のセックスは、女の「やらせてあげる」という「生贄の衝動」の上に成り立っているのであり、モテない男ほど「女にも性欲がある」とか「娼婦は性欲が強い」などという幻想を抱きたがる。女は性欲がない存在だからこそ、セックスにおいて深く豊かにエクスタシーを感じるのであり、いわばそれは「生贄」となって死んでゆく体験なのだ。どんなにやりたがっても、女にとってセックスはあくまで「やらせてあげる」という体験なのだ。
 生きものの本能(のようなもの)は、「個体」としてみずからの身体の輪郭を確かにしておこうとする。そうしないと動けないからだ。であれば、他の個体と接触することはその「身体の輪郭」があいまいになってしまうことなのだから、そうした事態を避けようとすることの方が自然なはずだ。にもかかわらず雌雄が発生し、オスとメスが接触するようになっていった。生きものは「個体」であろうとしつつ、オスとメスという「個体」どうしが接触してゆく。おそらく「個体」であろうとするがゆえに接触してゆくのだ。ともに不完全な存在であるために、接触しないと「個体」になれないのだ。接触するまいとしつつ接触してゆくかたちとして、性欲を持たないメスと性欲の強いオスという関係が生まれてきた。鳥などの世界では、メスは何度も何度もオスを追い払い、それでもオスは執拗に求愛行動を繰り返してゆく。
 生きものの世界でオスにもメスにも同じだけ性欲があるなどいうのは極めて不自然なことであり、接触したがらないものどうしが接触してゆくというかたちで「交配=性交」の関係が成り立っている。まあセックスなどという行為は、その起源においても究極においても、ひとつの自殺行為であり自傷行為なのだ。「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに心が華やぎときめいてゆきながらなされている。
生きものの世界において、メスにも性欲があったらオスの性欲はこんなにも強く激しくなる必要はないし、どちらもくっつき合おうとするなんて、自然の法則としてありえないのだ。オスもメスも「もう死んでもいい」という勢いでやりたがり、やらせてあげている。「もう死んでもいい」という勢いがなければ、生きもののセックスは成り立ない。それは、接触するまいとする本能を持った「個体」どうしが接触してゆくことなのだ。
生きもののセックスは、「死」が介在することによって成り立っている。生き延びるためにするのではない。「もう死んでもいい」という勢いでするのだ。
 男にとっても女にとっても、セックスをすることは「生贄」になって死んでゆく体験であり、そこにこそ、もっとも深く豊かなエクスタシーがある。


 娼婦になることは悲惨なことであると同時に、その悲惨さの中に「生贄」になることの恍惚が起きているし、人類社会は「生贄」になることの「聖性」を合意している。
 人類社会の「生贄」は、穢れた存在であると同時に聖なる存在でもある。
「穢れ」と「聖性」は表裏一体のものだというのは民俗学の大きなテーマの一つだが、乞食は穢れた存在として見られていると同時に、神が乞食姿に身をやつして人間社会にやってくるという話も世界中で枚挙にいとまがない。
 死体はひとつの穢れた対象だが、死者の尊厳として丁重に埋葬しようとするのも人類普遍の習俗になっている。
 現代社会では生き延びようとする欲望が旺盛だが、何かのきっかけで「死にたい」という思いになるのも人の心模様の自然だといえる。そんな思いは、誰だって体験している。こんなにもだれもが生き延びようとする欲望をふくらませて生きている社会なのに、どうして自殺者がこんなにも多いのか。それはたぶん、死に対する親密さが人間性の自然だからだ。
「死ぬほど好きだ」とか、「死にたくなるほどつまらない」とか、「死ぬ気でがんばれ」とか、「目が死んでいる」とか、限界のことを「デッドゾーン」といったり、「サドンデス(=突然の死)の方式でゲームの決着をつける」とか、この世の中にはそんな慣用句がたくさんあり、それほど人間は死に対する親密さで生きている存在なのだ。
 人は、死を忌避しつつ、死に対する親密さも人間性の自然として持っている。人類は、死に対する親密さとともに知性や感性を進化発展させてきた。人間社会のダイナミズムというか、人間的な文化としての学問も芸術もスポーツもセックスも祭りも、死に対する親密さの上に成り立っている。それらは、「もう死んでもいい」という勢いでダイナミックになってゆく。
「もう死んでもいい」という勢いを持っているものが、それらの果実を豊かに収穫している。それが人の知性であり感性であり、そしてその気配こそが人間的な魅力とかセックスアピールというものにもなっている。
 死に対する親密さこそが人の生を豊かにしているし、それがないと生きられない。「生贄になる=献身」というのは、まあ自傷行為のようなものだ。そうやって人は、人は学問や芸術やスポーツや祭りや恋やセックスをしている。
 女が出産子育てすることだって自傷行為のようなもので、ひとつの「生贄になる=献身」の衝動の上に成り立っている。そうやって人は、「自分=この生」を忘れてゆくいとなみとともに生きている。
生き延びようと「自分=この生」に執着することによって心を病んでゆくし、自殺してしまったりもする。死を意識することは生を意識することと同義であり、自殺しようとするほどにそういうことに執着しなければならないのは不幸なことだ。生き物も人も、生き延びようとするのでも死のうとするのでもない。死も生も忘れてしまいながら生きている。ここでいう「自傷行為」とは、死のうとすることではない。「もう死んでもいい」と思うことであり、死も生も忘れてしまうことだ。それこそが、人が生きてあることの基礎になっている、人間ほど死や生を意識している存在もないし、だからこそ人間ほど死や生を忘れてしまうことの「官能=カタルシス」を豊かに体験している存在もない。
 道で向こうから歩いてくる人とぶつかりそうになったら、思わずよけてしまう。その「思わず」ということは死も生も忘れている状態であり、一般的にいわれている「個体維持の本能」などというものではない。「個体維持の本能」など忘れて「思わず」よけるのだ。彼らのいう「個体維持の本能」など、たんなる近代合理主義的な「観念」であり、表層的な意識としての「欲望」の別名にすぎない。
よけることは、自分が歩いてゆく方向を変更する行為であり、つまりそうやってこの生からはぐれてゆきながら、この生を忘れている。なぜそうするかといえば、人間性の自然というか本能のようなものとして、「もう死んでもいい」という無意識の感慨を持っているからだ。まあ「本能」というのならそれが本能であり、それだって「自傷行為」のひとつだといえる。そうやって「もう死んでもいい」という勢いで貧しい家の娘は身売りしているのであれば、そこにだって人間性の自然があり、尊厳があり、心の「華やぎ」があるのだ。
 「自分=この生」に執着するだけが人間じゃない。人は、「自分=この生」を消してしまおうとする衝動を、無意識の本能のようなものとして持っている。道でぶつかりそうになって思わずよけることだって、相手の前から消えようとする行為なのだ。
「自分=この生=この身体」が消えてゆくことのカタルシスというかエクスタシーがある。「ときめく」とは「われを忘れる」体験であり、心は、人間性の自然として「自分=この生」を消そうとする衝動を持っている。「もう死んでもいい」という無意識の感慨は、「自分=この生」を消そうとする衝動の上に成り立っている。心は、そうやって生き延びようとする自意識が消えてゆく体験とともに深いカタルシスを汲み上げてゆく。
 人の心は、生き延びようとすることによってそのはたらきが停滞し、病んでゆく。「もう死んでもいい」という感慨とともに活性化してゆく。そうやって人の世で「死ぬほど好きだ」という慣用句が流通している。


 
 まあ、若い娘が身売りして娼婦=遊女の境涯に堕ちてゆくということは悲惨なことに違いなかろうが、この国の伝統としてそのことの尊厳や美が合意されていたし、本人自身にもそれなりのカタルシスがあった。
 それは、「自分=この生」を消してゆく体験であり、その消えてゆくことのカタルシスが人を生かしてもいる。心はそこから華やぎ、世界の輝きにときめいてゆく。
 いいかえれば、世界の輝きにときめいているものは、「自分=この生」が消えてゆくことのカタルシスを知っている。
命の活性化というか、この生の華やぎは、この生が消えてゆくことのカタルシスとして体験される。そうやって命が活性化するという逆説の上に成り立っている。
「自分=この生」が消えてゆくなんてむなしいことで、そこに「生の充実」などあるはずがないではないか、と考えている人たちも多い。たしかにそれは「むなしい」ことだ。
 しかし、「むなしい」ことのカタルシスを知らなければ、この国の美意識の伝統など成り立たない。「むなしい」とは「無常」ということであり、「あはれ」とか「はかなし」とか「わび」とか「さび」とか「幽玄」ということだ。
 つまり、若い娘が身売りして娼婦=遊女の境涯に堕ちてゆくことは、そういう美意識の伝統に殉じてゆくことであり、この国では客もまた彼女らをそうした「美の殉教者」あるいは「人間性の尊厳を体現している存在」のように見る歴史を歩んできた。
 娼婦や乞食に「聖性」を見るのは、十字架のキリストを崇めるのと同じで、人類普遍の意識だともいえる。若い娘が身売りして娼婦=遊女の境涯に堕ちてゆくことの受難は、キリストが十字架にかけられることのそれ以上でも以下でもない。この世の弱く貧しいものたちはみな、受難を生きている。ガンを宣告されることの受難も、身体障害者として生まれてくることの受難も、キリストの受難と同じだけの尊厳を持っている。さらにいえば、われわれがこの世界に生まれ出てきたこと自体が、キリスト以上でも以下でもない受難なのだ。
 べつに、キリストだけが偉いわけでもない。
 幸せで充実した人生を生きているものよりもむなしく不幸な人生のもとに「生の充実」がある、という場合もないとはいえない。
 死んでゆくことなんか、それまでの生きてきたいとなみがすべて無に帰して、むなしいこと以外の何ものでもない。誰の生だろうと、あはれではかなくむなしいものでしかない。むなしいことが生きることで、しかしそのむなしさの中に生きてあることのカタルシスがある。むなしく消えてゆくことこそカタルシスであり、エクスタシーなのだ。むなしく消えてゆくことのカタルシスを汲み上げることができなければ、人は生きられない。
 この生を生ききるとは、「生きられなさ」を生きることであり、その「受難」においてこそ世界が輝いて立ちあらわれ、生きてあることのカタルシスが汲み上げられる。われわれの心は自分を忘れて世界の輝きにときめいてゆくのであり、自分という存在のむなしさを感じることこそその体験の契機になる。そうやって原初の人類は一年中発情している猿になっていったのだし、人間的な知性や感性もそうやって進化発展してきた。人類が地球の隅々まで拡散していったことは、「生きられなさ」という「受難」を生きてこの生をむなしくしてゆく体験だったのであり、そこでこそ世界の輝きにときめいてゆく心模様が豊かになっていった。そうやってより住みにくい土地に住み着いてゆくことによって、人と人はより豊かにときめき合っていった。
「むなしさ」を生きることこそ人間性の基礎になっている。
 たとえば、男にとってセックスは、射精したあとのもぬけの殻になってしまったような心地のむなしさを体験することでもある。そのとき、もう二度と勃起することがないであろうような脱力感に浸されてしまう。それはまあ、祭りのあとのむなしさと同じであり、それでも人類は祭りの文化をさまざまに進化発展させてきた。じつは、その「むなしさ」こそが生きてあることのカタルシスでもあり、そうやって明日からも生きていられるような気分になってゆく。人類史における祭りの文化の進化発展は、「むなしさ」の再生産の歴史でもあった。「生きられなさ」という「受難」の、その「むなしさ」の「カタルシス=消失感」を生きる存在だからこそ、祭りが盛り上がる。「もう死んでもいい」という勢いで盛り上がる。
 男のペニスだって、「もう死んでもいい」という勢いで勃起する。「むなしさ」のカタルシスを生きる存在だからこそ勃起する。言い換えれば、生き延びようとする欲望を募らせるばかりで「むなしさ」のカタルシスを知らない男から順番にインポテンツになってゆく。そうやって平和で豊かな社会になった現在において、インポテンツが社会問題化してきている。今どきは、勃起をうながす薬やサプリメントがおおいに売れているらしい。平和で豊かな社会の今どきの大人の男たちは、生き延びようとする欲望を募らせ、生き延びる能力を持った「自分=この生」の充実に耽溺・執着しながら自滅していっている。人生の勝者も敗者も、そうやって自我の欲望を膨らませながら自滅していっている。
 そりゃあそうさ。われわれの命は、この生からはぐれ自分を忘れながらその「むなしさ」から活性化してゆく、という逆説の上に成り立っている。今どきの多くの大人たちのように自我の欲望をふくらませてばかりいたら、ときめく心を失ってインポテンツにもなってしまうさ。
 男であれ女であれ、この生からはぐれ自分を忘れながらその「むなしさ」を生きるタッチ持っているものを魅力的だとかセックスアピールがあるというのであり、まあそうやって貧しい家の娘は身売りさせられることを受け入れてゆくのだ。


「むなしさ」とは「別れのかなしみ」だともいえる。人と人はこんなにも豊かにときめき合う存在なのに、どうしてこんなにも「別れる」という体験を繰り返してしまうのか。そうやって人類は地球の隅々まで拡散していったわけで、その「むなしさ」という「別れのかなしみ=喪失感」にも、より深い生きてあることのカタルシスが体験されてきたのだ。
まあ原初の人類が二本の足で立ち上がったことだって、猿としての生き延びる能力を喪失する体験だったのであり、その「むなしさ」ととともに人類は歴史を歩みはじめた。「もう死んでもいい」という心地にならなければ、そんな不安定で危険な姿勢を常態にすることができるはずがないわけで、そのときから人類はすでに「むなしさ」を生きる存在になっていた。
 人にとって生きることはむなしいだけのことであり、そのむなしさからカタルシスを汲み上げてゆくのがこの生の基礎にも究極のかたちにもなっている。
 われわれのような虫けら同然の存在など、生きていてもむなしいだけだ。しかし因果なことに、その「むなしさ」こそが生きることのカタルシスであり、この世のもっとも高度な知性や感性の持ち主である学者や芸術家だって、人の現実生活には何の役にも立たないむなしいことに熱中していたりする。
人は、「むなしさ」に憑依してゆく心模様を持っている。
この世に生まれ出てくることなんかむなしいことであり、生まれてすぐに死んでゆこうと100まで生きようと同じことなのだ、この生の意味や価値などというものはない。したがって、生き延びねばならない理由もない。それでも生きてあるのは、むなしさそれ自体から生きてあることのカタルシスが汲み上げられているからであり、心はそこから華やぎときめいてゆくからであり、世界が輝いて存在しているからだ。この生に意味や価値があるから生きているのでは断じてない。この生には意味も価値もないむなしいものだからこそ、世界の輝きにときめく心が起きて生きているのだ。
 平和で豊かな社会を生きている現代人は、何かを得ようとする欲望ばかりが肥大化して、何かを喪失する「むなしさ」からカタルシスを汲み上げることができなくなって心を病んでいる。
「むなしさ」とは喪失感のこと、死に対する親密さのこと。原初の人類は、生き延びる能力を失うその喪失感とともに世界の輝きにときめきながら、二本の足で立ち上がっていった。
 生き延びる能力を失っている存在の「もう死んでもいい」という感慨のもとに、世界はより豊かに輝いて立ちあらわれる。
 まあ、若い娘が貧しい一家の生贄になって身売りされてゆくときの消えてゆくような心地のカタルシスというのはあるわけだし、まわりも、そのはかなくむなしい行為に人間性の尊厳を見ている歴史風土がこの国にはあった。なにはともあれ、そうやって娘は「聖なる存在」になっていったのだ。それは、道徳の問題ではない、人間であることの官能性の問題なのだ。
 平和で豊かな時代の現代人は、そういう「むなしさに憑依してゆくことの官能性」を失っている。
この生は「今ここ」にしかない、ということの官能性。自分を消すということ、消えてゆくということ、「今ここ」に消えてゆくことのカタルシス(浄化作用)に身を委ねながら娘は、「生贄」となって身売りされてゆく。たとえそれが悲惨なことであったにせよ、その聖性と表裏になった官能性こそが、この国の「身売り」という習俗を成り立たせていた。「あはれ」とか「はかなし」とか「わび・さび」とかの無常感の美意識は、消えてゆくことのカタルシスの上に成り立っている。そしてそれは、そのまま普遍的な人間性としての「もう死んでもいい」という「むなしさに憑依してゆく」心の動きの問題でもある。


 この生は、むなしい。生きることのカタルシス(浄化作用)は、何かを得ようとする欲望を満たすことではなく、失うことの「むなしさ」に憑依してゆくことにある。現代人は、そのことを見失って心を病んでいる。そして現代人だって、そのことを知っている人は魅力的だ。それはもう普遍的な人間性なのだもの、いつの時代にもどこにでもそういう人はいる。この世の中に「おはよう」という挨拶があるということは、人間性の普遍として「自分を消して他者に献身してゆこうとする衝動」を誰もがどこかしらに持っているということを意味するのであり、そのことに気づいたときにわれわれは、「この世の中も捨てたものではない」と思う。くだらないというか鬱陶しいというか、そういう人間がたくさんいる世の中だが、それでもときには、そうした普遍的な人間性としての「献身」の衝動を豊かに体現している魅力的な人と出会うこともある。
 まあ、見知らぬ人に道を聞かれたとき、知っていればたいていのものが教えてあげようとする。それだって「この世の中も捨てたものではない」という体験だ。ただ、こういうときに多くの大人たちが自分は優しい人間だという自意識で教えようとするのに対して、若者や子供たちは、自分なんか意識しないで、相手の「道がわからない=生きられない」というその気配に無邪気に他愛なくときめいてゆく心模様を持っている。そうやって彼らは「むなしさ」に憑依していっている。そういうときにこそ、尋ねたものも、より深く「この世の中も捨てたものではない」と思う。
 人は、生きられないものを生かそうとする。それは、生きることに意味や価値があるとかということではなく、「生きられない(=むなしい)もの」にときめいてゆくからだ。その対象が存在しなければときめいていることができないからだ。自分なんか忘れてときめいているのだから、自分なんか「死んでもいい」のだ。
 まあ、若者や子供のほうが、あわれではかなくむなしいものにときめいてゆく心を豊かに持っている。大人になると、意味や価値にとらわれてときめきそのものが薄れてくる。「今ここ」を置き去りにして明日のことばかり考えている、ということもある。
 ときめくとは、自分が「今ここ」に消えてゆくこと。そのカタルシス(浄化作用)とともに「消えてゆくもの=むなしいもの」に「聖性」を見るのが日本列島の文化の伝統になっている。
 日本列島の伝統においては、娼婦=遊女は「聖女」だった。そのようにして古代には「巫女(みこ)」と呼ばれ、中世には権力層に寵愛される「白拍子」と呼ばれる高級娼婦があらわれ、さらに近世には「歌舞の菩薩」などと称賛されたりしていた。歌舞伎の創始者だといわれている「出雲阿国」だって、もとはといえば出雲大社の「巫女」だったのであり、そこからまさに「白拍子」になり「歌舞の菩薩」になっていった。
 娼婦=遊女は、その聖性と官能性により、「歌舞の菩薩」になってゆく資質を豊かにそなえている。
 僕は本格的な「娼婦論」が書けるほど娼婦に詳しいわけではないが、この国の歴史において娼婦はつねに卑しく悲惨な存在だったという俗論などほんとにくだらないと思う。この国には娼婦に聖性を見る精神風土が古代以来の伝統としてあるのだ。この国の女たちは、原初においてはみな「娼婦」だったのであり、一夫一婦制の「人妻」などという存在は中世以降の歴史の新参者にすぎない。古語としてのやまとことばの「つま」とは、「刺身のつま」とか、何かを付け加えるときに「つまり……」といったりするように、「添え物」という程度の意味だった。もともと「聖なる存在」だった女が「添え物」の地位に零落して「人妻」が登場してきたのだ。若い娘があんがい素直に身売りすることを承諾してしまう精神風土だって、「娼婦は聖なる存在である」という歴史の伝統があったということもあるに違いない。


 人類の無意識は、「むなしいもの」に「聖性」を見ている。「生きられなさ」こそ「聖性」なのだ。そしてそれは宗教の問題でもなんでもない。神や仏だけが「聖なる存在」であるのではない。娼婦や乞食だって「聖なる存在」なのだ。まあ、神や仏はこの世に存在しない対象なのだから、極めつけの「むなしい存在」なのかもしれない。そうやって人の心は神や仏に憑依してゆく。それだけのこと。神や仏の聖性は、「この世に存在しない」という「むなしさ」にある。
 マルクス主義者は「宗教は人間性の本質から外れている、だからいつかはなくなる」というが、そうともいえない。人の心が「むなしいもの」に憑依してゆくということは、人が人であるかぎりおそらく永遠に続く。それは「死に対する親密さ」と言い換えてもいいわけだが、そこにこそ生きてあることのカタルシス(浄化作用)がある。
 日本列島は、「むなしいもの」に「聖性」を見る歴史を歩んできた。おそらく仏教が入ってくるまで日本列島には「宗教」などというものはなかった。それでも人々は、それ以前の時代からつねに、心に浄化作用(=カタルシス)をもたらすものとしての「聖性」に憑依してゆく歴史を歩んできた。
 まあ僕からしたら、この世にいない神や仏よりも、娼婦や乞食というこの世のむなしい存在、すなわち「生きられないこの世のもっとも弱いもの」にこそ、もっとも豊かな「聖性」を感じる。
 なにはともあれ人は、「ときめく心」があれば生きられる。「ときめく心」がなければ生きられない。正しく生きるとか、何かを獲得して充実して生きるとか、そんなことはさしあたってどうでもいい。人生の勝者だろうと敗者だろうと、「ときめく心」を失ったものから順番に病んでゆく。自分の正しさとかこの生の充実などということに執着しているものから順番に病んでゆく。
「聖性」とは「むなしさ」のこと、この生を生きることはこの生からはぐれてゆくことだという逆説を「聖性」という。その「他界性=官能性」の輝きを見失ったものから順番に病んでゆく。べつに大げさなことじゃない。もらい泣きをするとか、素敵な笑顔だとときめくとか、そういう体験があれば人は生きられる。それだけのことさ。それだけのことだが、しかしそれこそがもっとも本質的・本格的な「聖性」の問題なのだ。
神や仏なんかどうでもいい。いいかえれば、そういう本質的・本格的な「聖性」が俗化したところで神や仏がイメージされているだけのこと。
日本列島には、仏教が入ってくるまで宗教というものがなかった。しかしそれでも「聖性」ということはつねに意識されている歴史を歩んできた。だからかんたんに仏教を輸入できたし、この国ではどんな宗教だって輸入できるということは、もともと宗教がない歴史を歩んできたということの状況証拠になっている。宗教なんかなくても、むしろもっと純粋なというか本質的なかたちで「聖性」ということを意識している歴史を歩んできたのだ。この国では「鰯の頭も信心から」といったりするが、娼婦や乞食という「むなしい存在」に「聖性」を見るのは、人類の普遍的な視線でもある。
 いやもう、人とぶつかりそうになって思わずよけるという行為自体に、そうした「いったん死んで生まれ変わる」という「聖性」が潜んでいる。べつにキリストの復活だけが偉いんじゃない。人の心が世界の輝きにときめくということ自体が、「いったん死んで生まれ変わる」というひとつの聖なる体験なのだ。しかしたったそれだけの人間性の基礎ともいえる他愛ない心模様をうまく持つことができない。そんなの、生まれたばかりの赤ん坊でももてる心模様だというのに、現代においてはもしかしたらそれこそがもっとも困難なものになっている。そしてその心模様がもっとも希薄な存在である大人たちが、えらそうに自分の正しさや人生の充実を恥ずかしげもなく自慢し合ってばかりいて、この世の生きられない弱いものたちを追いつめている。
「聖性」とは、生きられないことであって、生き延びる能力のことではない。

 人と人は、「生きられない」という「むなしさ」を共有しながらときめき合ってゆく。ほんとに、生きてあることなんかむなしい徒労だと思う。しかしその「むなしさ」が人を生きさせている。そこから心が華やぎ、世界の輝きにときめいてゆく。
 その「むなしさ」こそが「聖性」なのだ。
 今どきは生き延びようとする欲望を肥大化させた「市民正義」とやらが大手を振って闊歩している時代らしいが、現代人はまさにその欲望によって病んでいるのではないのか。それとは逆の「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともにある「むなしさ」こそが、じつはこの生の本質になっているのではないだろうか。なにはともあれ原初の人類は、そうやって二本の足で立ち上がったのだ。



7

死んだら無に帰するだけだ、と思う。思うが、死んだことがないのだから、ほんとうのところは誰もわからない。わからないが、人の心のはたらきは、何もかもさっぱりとなくなってしまうことのカタルシス(浄化作用)を持っている。そこでこそ心はいきいきとはたらき、華やぎときめいてゆく。そうやって人類の知性や感性は進化発展してきたし、そこにこそ人が感じるというか人類が普遍的に共有している「聖性」がある。まあこれは僕が個人的にそう思うというのではなく、人間性の自然について考えた場合の必然的な論理の帰結としてそうなっているのではないだろうか。
 世界の輝きにときめくことは、「自分=この生」を忘れてしまう心模様であり、いわば「いったん死んで生まれ変わる」という体験なのだ。そこにこそ「聖性」があり、そうやって娘は身売りされることを受け入れる。そうやって人類は二本の足で立ち上がったし、そうやって地球の隅々まで拡散していった。
 いやもう、人とぶつかりそうになって思わずよけるという行為自体に、そうした「いったん死んで生まれ変わる」という「聖性」が潜んでいる。べつにキリストの復活だけが偉いんじゃない。人の心が世界の輝きにときめくということ自体が、「いったん死んで生まれ変わる」というひとつの聖なる体験なのだ。しかしたったそれだけの人間性の基礎ともいえる他愛ない心模様をうまく持つことができない。そんなの、生まれたばかりの赤ん坊でももてる心模様だというのに、現代においてはもしかしたらそれこそがもっとも困難なものになっている。そしてその心模様がもっとも希薄な存在である大人たちが、えらそうに自分の正しさや人生の充実を恥ずかしげもなく自慢し合ってばかりいて、この世の生きられない弱いものたちを追いつめている。
「聖性」とは、死と生のはざまの「生きられない気配」のことであって、生き延びる能力のことではない。
それは「官能性=セックスアピール」の問題でもある。
 娘が身売りされてゆくことの聖性と官能性、それはまた日本列島の伝統の「無常感」という美意識や世界観の問題でもあるわけだが、そこから「サービス=おもてなし=献身」の文化が生まれ育ってきたのであり、つまるところ人類普遍の人間性の自然の問題でもある。
 とにかく、いろいろ考えさせられる。戦後の日本がアメリカから憲法第九条を押し付けられてそれを受け入れていったことだって、身売りされる娘と同じ「無常」の感慨だったのだろうし、とにもかくにもそうやって原初の人類は二本の足で立ち上がっていったのだ。
 直立二足歩行の起源は、人間性の自然としての聖性と官能性の問題であって、それによって生き延びる能力を獲得していったのではない。逆に、「喪失」したのだ。その「むなしさ」のカタルシス(浄化作用)を携えて人類は歴史を歩みはじめた。
 まったく、今どきは、どうしてこうもくだらない言説ばかりがのさばりかえっているのだろう。「生き延びる能力の獲得」などという問題設定では、直立二足歩行の起源の問題も、現在の人間社会の問題も、人間性の自然とは何かという問題も、解き明かせるはずがないのだ。