抱きしめた感触・ネアンデルタール人論・100

 ネアンデルタール人の祖先が氷河期の北ヨーロッパに移住していったのが50万年前のことで、そのときはまだ屈強な体をしていたわけでもなんでもなく、アフリカに住むホモ・サピエンスの祖先と遺伝子的にはほとんど変わりがなかった。
 それでもその極寒の環境に耐えることができたのは、そのころはまだ猿のような体毛を持っていたかもしれないし、そこまで拡散してくる過程でそういう環境で生きることができる生態を徐々に進化発展させてきていたということもあるに違いない。なにしろ人類が熱帯のアフリカ中央部から極寒のその地まで拡散してくるまでには、数百万年の時間が経過していたのだ。もともと熱帯種だった人類がその地で生きることはそれほどに大変なことだったし、その数百万年のあいだにそれが可能になるだけの生態文化の進化があったわけだが、50万年前まで遺伝子に差異がなかったということは、それまでのあいだは遺伝子や体型体質の問題ではなくほとんど生態文化の進化だけでより住みにくい極寒のその地まで拡散してきたということを意味する。
 北ヨーロッパネアンデルタール人とアフリカ中央部のホモ・サピエンスは、人類700万年の歴史の650万年間は同じような遺伝子のままだった。まあその後に違ってきたといって目くそ鼻くその違いで、「ヒト」という種であることには違いなどなかった。
 それなのに、つい数年前までは、「両者が交配しても子供が生まれるはずがないし、生まれても長く生きられなかった」などという差別的なことを平気で発言している研究者がたくさんいた。そうしていまどきは「4万年前のヨーロッパで両者は交配しており、そのとき圧倒的な多数だったホモ・サピエンスネアンデルタール人を吸収していった」という解釈になっているのだが、そんな圧倒的多数のアフリカ人がいきなりヨーロッパになだれ込んでくるということなどありえない話であり、べつに両者がヨーロッパ中で入り乱れて交配しまくっていなくても、ネアンデルタール人うしの交配だけで現在のヨーロッパ人の遺伝子になってゆく可能性もないわけではない。
 とにかく700万年のうちの650万年は同じ遺伝子で歴史を歩んできたのだから、ネアンデルタール人うしの交配だけでも、同じような遺伝子の進化が起きる可能性はないはずがない。
 遺伝子の「突然変異」など、進化であれ退化であれ、いつの時代にもどの地域でも起きている。ただその「突然変異」した遺伝子が生き残って優勢になってゆくタイミングがあるというだけのことで、それ以外のときは淘汰されているのだ。
 ネアンデルタール人うしの交配だってホモ・サピエンスのような形質になる遺伝子の「突然変異」はいつだってどこかで起きていたはずであり、しかしその遺伝子では極寒の北の環境では生き残れなかったというだけのことだ。生き残ることができるタイミングがやってくれば、ネアンデルタール人うしの交配にだってホモ・サピエンス化の進化は起きてくる。とにかく50万年前までは同じ遺伝子だったのだから、ネアンデルタール人うしの交配にもいつだってどこでだってそういう「突然変異」は起きていたのだ。
 その氷河期の寒さがいったん緩んだ3万年前前後という「クロマニヨン」化の時代は、ホモ・サピエンス的な遺伝子のキャリアでも生き残ることができるタイミングだったらしい。
「状況証拠」をあれこれ考えてみれば、そのころヨーロッパにやってきたアフリカ人などひとりもいないのだ。まあ、集落ごとに手渡しされながらアフリカの遺伝子がヨーロッパまで伝播してきた、という可能性はあるにせよ、ネアンデルタール人うしの交配でそういう遺伝子の突然変異が起きてその遺伝子が広まってゆくタイミングになっていた、という可能性だって否定できない。
 世の人類学者や遺伝子学者たちは「両者の遺伝子は50万年前に分岐した」ということを強調するが、それは「50万年前までの650万年間は同じだった」ということでもあるのだ。


 考古学上のネアンデルタール人クロマニヨン人のもっとも大きな違いは、骨格が頑丈か華奢かということにあるのだが、ようするにアフリカでは50万年前にはすでに華奢な骨格でも生きられる条件が整っていたが、極寒の冬があるヨーロッパの歴史においては3万年前まで待たねばならなかった、ということだ。それだけのことかもしれない。
 まあ一般的には、アフリカ人は熱帯気候に適合してすらりとした華奢な骨格の体型になっていった、という認識になっているのだが、おそらくそうではない。たとえば、現在のマラソン選手などは、ヨーロッパ人よりもアフリカ人の方がずっと暑さに弱い。寒い冬でのスピード勝負のレースになればアフリカの選手の独壇場だが、暑いの夏のサバイバル的なレースになればヨーロッパ人の方が強かったりする。アフリカの選手は、かんたんに暑さにへこたれてしまうことが多い。彼らの身体は、「暑さに適合している」とは、けっしていえない。
 つまりアフリカでは、暑さに弱い個体が多くの子孫を残してきたのだ。暑さに弱ければ、熱帯のアフリカで生きることはできない。しかしその「生きられなさ」を抱えた不完全な個体の方が繁殖力を持っている。それはもう、生きものの雌雄の発生以来の原理原則に違いない。生きられない不完全な個体どうしだからこそ、雌雄がくっついて繁殖するということが起きる。
「生きられなさを生きる」ことが、生きものの雌雄の関係を成り立たせている。
 だから、アフリカのマラソン選手は暑さに弱い。彼らは、熱帯のサバンナで「生きられなさ」を生きながら、すらりとして華奢な骨格の体型になっていった。
 生きものの世界において「生きられる」ことは、種の存続の危機なのだ。人間の男は、そうやって生き延びようとする欲望を膨らませながらというか、みずからの生き延びる能力に執着しながらインポテンツになってゆく。
「生きられなさを生きる」からこそ、「進化」が起きる。人類はことにそういう傾向が強いから劇的に進化発展してきたし、猿は「生きられる」能力の範疇で生きているだけだから人間ほどの進化発展はない。
 まあ、氷河期のアフリカ中央部は、平均気温が下がって一年中温暖な生きやすい気候になる。それでも生きものとしてというか人類としての「生きられなさを生きる」かたちとして、すらりとして華奢な骨格の体型になっていったのだろう。
 すらりとして華奢な骨格の体型なら、エネルギーの消費量が少なくてすむ。だからマラソンが強いのだろうが、それを裏返せば、エネルギーをたくさん蓄えてたくさん消費してゆくシステムが脆弱だということでもある。そうやって、生きやすい温暖な気候の下でしだいに身体が退化していったのだ。
 そこのところでは、ネアンデルタール人の子孫であるヨーロッパ人の方がそうした「エネルギーをたくさん蓄えてたくさん消費する」というシステムを残している。だから、夏の暑さの耐久力勝負のレースになると強い。
 生きやすい環境に置かれると、それでも「生きられなさ」を生きようとして人の身体は退化する。
 現代社会においてファッションモデルのようなすらりとして華奢な体型は、女たちの誰もが憧れるところだが、それがもっとも「生きられなさを生きる体型」だからという、人としての本能的な無意識もはたらいているに違いない。もっとも生きやすい文明社会だからこそ、そういう「生きられない」体型にあこがれる。退化というか、ある意味でそれはもっとも悲劇的な体型なのだ。女たちは、そこに美しさを見ている。女の方が、「生きられなさ」を生きようとする本能(のようなもの)は強い。
そして男たちは、猿のように「生きられる」能力の範疇で生きようとして、インポテンツになってゆく。
 人類のすらりとして華奢な体型は、「生きられなさ」を生きようとする本能(のようなもの)とともに獲得されていった。それを「進化」というか「退化」というかは、人それぞれだろうが。


 3万年前のヨーロッパでネアンデルタール人に変わってクロマニヨン人が登場してきた、という考古学の通説は、アフリカ人がやってきてクロマニヨン人になったことを意味するのではなく、ネアンデルタール人の身体が以前よりもすらりとして華奢な骨格になっていっただけのことだ。
 そのころだろうと現在だろうと、すべての人類集団(あるいは人種)が、すらりとして華奢な骨格になってゆく遺伝子を持っている。そいう突然変異は、いつの時代でもどこでも起きている。生きやすい環境になれば、それでも「生きられなさ」を生きようとしてすらりとして華奢な骨格になってゆく。そういう「生きられなさを生きる」ものの方が繁殖力が旺盛だから、そういう骨格の子孫がどんどん増えてゆくのだ。
 ネアンデルタール人だって同じ人間なのだから、生きやすい条件下に置かれたら、そういう生きられないすらりとして華奢な骨格になってゆく。
 平和で豊かな時代の現在の日本人だって、100年前から比べると、ずいぶんすらりとして華奢な体型になってきている。それは、「生きられない」というか「生きられなさを生きる」体型なのだ。
 約5万年前から3万年前のそのとき、氷河期の寒さがいったん緩み、以前よりは生きやすい環境になった。それまで極寒の環境で生き残ってゆく生態文化を進化発展させてきたネアンデルタール人にとっては、とても生きやすくなって人口が急増していった。たぶん、ただそれだけのことなのに、多くの人類学者は「アフリカ人が大量になだれ込んできた」という。
 生きられない他者を生かそうとするのが、生きものの生殖の本質なのだ。セックスだろうと子育てだろうと、自分は「もう死んでもいい」という勢いで他者に「献身」し、他者の「生贄」になってゆく行為なのだ。
ネアンデルタール人の社会では、世界中のどこよりも「生きられなさを生きる」生態を色濃く持っていた。であれば、なおも「生きられなさを生きる」生態のまま急速に身体がすらりとして華奢になってゆくということが起きた。それまで淘汰されてゆくほかなかったそうした体型の個体でも何とか生き残れるようになっていった。彼らは、そういう生きられない個体を生かそうとする意欲が旺盛な生態を持っていたし、そういう「生きられなさ」をかろうじて生きている個体ほど繁殖力が旺盛だった。そしてそれまでの頑丈な骨格のままの個体は、「生きやすさ」とともにしだいに繁殖力を失っていった。
 クロマニヨン人が、アフリカ人ほどではないにせよネアンデルタール人よりもすらりとして華奢な骨格をしていたということは、彼らはもとのままの頑丈な骨格のネアンデルタール人よりも生き延びる能力がまさっていたのではなく、その比較的温暖な環境下(といっても現在よりは寒い)では彼らこそが「生きられなさを生きる」ネアンデルタール人的な生態の正当な継承者だったのであり、そのあと氷河期の本格的な寒さがぶり返してくるとさらに生きられなくなってゆき、その深く切実な「嘆き」の上に、壁画などの芸術表現をはじめとしたクロマニヨン文化が花開いていった。
 もとのままのネアンデルタール人よりもすらりとして華奢な体型になっていったクロマニヨン人の方が生き延びる能力を豊かに持っていたのなら、そのあとクロマニヨン人ばかりになってゆくということはおそらくなかった。もうクロマニヨン人でなければ「生きられなさを生きる」という生態文化を継承維持してゆくことができなかったのだ。「生きられなさを生きる」ことこそ人の自然・本質であり、その生態の上に直立二足歩行の開始から現在に至るまでの人類の歴史が成り立っている。
 僕は何も、「昔はよかった」などと感傷的なことをいっているのではない。人間性の真実は、いつの時代のもどこにでも存在するのだし、その真実に気づかなければ人は生きられない。それを言葉にして表現しようとするまいと、人が人にときめくことはそういうことに気づくことであり、まあいつの時代であれ人の魅力とかセックスアピールというのは「生きられなさを生きる」いわば悲劇的な気配としてあらわれている。
 生きものの雌雄は、「生きられなさ」を生きながら交配・繁殖してゆく。
 すらりとして華奢な体型は、生きられない悲劇的な気配を持っている。
 生きられない赤ん坊の可愛さだって、悲劇的な気配なのだ。
 もちろん今まさに死んでゆこうとしている人や障害者をけんめいに介護しようとすることだって、悲劇的な気配に対するひとつの「ときめき」の上に成り立っている行為に違いない。文明社会の倫理や道徳など、さしあたってどうでもいい。
 悲劇的な気配、むなしく消えてゆく気配、と言い換えてもいい。
 献身すること、他者の生贄なること、ネアンデルタール人は、そういう人類の普遍的な生態を極限まで生きた人々だった。


 まあネアンデルタール人の大人の男たちが屈強な体をしていたといっても、女子供までもがアフリカのホモ・サピエンスの男よりも屈強だったわけではもちろんないし、生まれたばかりの赤ん坊など半数以上が成長することなく死んでゆく環境だったのだ。だからこそそこでは、アフリカ以上に「介護」の文化が発達していた。彼らは「生きられない弱いもの」をけんめいに生かそうとしながら生き残っていった。
 男たちが寒さに耐えられる屈強な体をしていたといっても、進化論的にいえば、男は女よりも寒さに耐えられない体質だったからこそそういうきわだった体型になっていっただけのことで、それでも女よりも寒さに強かったかどうかはわからない。大型肉食獣との死を賭した肉弾戦を展開するには有利な体型であっただろうことはいえても。
 男たちの骨が太く頑丈だったということは、そのずんぐりとした体形のわりにはそれほど皮下脂肪は厚くなかったことを意味する。おそらく、寒さに耐えるための皮下脂肪は、女の方が豊かだった。
 いずれにせよそこでは、誰もが「生きられない弱いもの」だった。誰もがいつ死ぬかわからない環境だったし、「もういつ死んでもいい」という感慨を持たなければ生きていられなかった。その勢いで彼らは深く豊かに他愛なくときめき合っていったし、その勢いで誰もが他者に「献身」していった。誰もが他者の「生贄」として生きた。そういう倫理道徳があったというのではない。誰もがそのように生きるほかない環境だったし、そこにこそ人類史とともに育ってきた人間性の自然があった。
 かんたんに「人類の歴史は戦争の歴史だった」などといってもらっては困る。現代人の肥大化した自我がそういう発想をしてしまうだけのこと。
 人間性の自然は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに「生きられなさを生きる」ことにある。
 誰もがどこかしらに他者の「生贄」になって他者に「献身」してゆこうとする衝動を持っている。人間的な「ときめく」という心模様はそこから生まれてくるのであり、そこから人間的な知性や感性が進化発展してきた。
 したがって、ネアンデルタール人が同じころのアフリカ人よりも知性や感性において劣っていたということなど考えられない。もちろん体力おいて劣っていたということもありえない。であれば、ネアンデルタール人がアフリカのホモ・サピエンスに滅ぼされたという話などありえないし、そもそも今どきの人類学者たちは、人の知性や感性や命のはたらきの自然・本質とは何かということに対する考察がまるでなっていない。そしてそのことを証明するために僕は、そうした俗物の研究者たちの知性や感性や命のはたらきにコンプレックスを抱いているわけにはいかない。
 異論・反論のある人類学者の人たちは、どうかいってきていただきたい。まあいってくるはずもなかろうが、 どんなに陳腐でくだらない論理であっても、できるかぎり丁寧に受け答えする用意はあります。
 集団的置換説とか、しかし彼らの「人間とは何か」ということに対する思考は、どうしてあんなにも陳腐でくだらないのだろう。現代社会では、信じられないような倒錯した論理がまるで動かせない真実であるかのように定着してしまっていることがたくさんある。ちょっと考えれば嘘だとわかるようなデマゴーグが、たちまち野火のように広がって世の中の常識や良識の座に居座っていたりする。集団的置換説などまさにその好例だし、「人間は本能が壊れた生きものである」とか「人間性の自然は戦争をすることにある」とか「知能とは生き延びるためのはたらきである」とかという説もしかり、うんざりするほど蔓延しきっている。
 たとえ超一流の人類学者だろうと、コンプレックスなんかない。といっても僕としては、べつに自分の方が上だといいたいわけではなく、ただもう真実を掘り起こしたいだけだ。
 ほんとに「そんなの変だ、そうじゃないだろう」とここで何度繰り返しても、世の中の大勢は変わらない。
 まあね、いい人ぶって「娼婦は悲惨な存在である」などといっても、「じゃあお前はその娼婦よりもましな存在のつもりでいるのか」といいたいときはある。
平和で豊かな時代を生きているわれわれが、戦時中の艱難辛苦を生きた人々よりも充実した生を生きているという確証なんかどこにもない。他人の不幸や罪悪を、自分を正当化するための材料にするな。ネアンデルタール人は、誰もが生きてあることを深く嘆きながら、誰もが現代人よりもはるかに深く豊かにときめき合い献身し合う社会を生きていた。それはまあ、この国の戦時中や戦争直後の人々が生きた時代状況とある意味で同じだったのかもしれない。
 平和で豊かな社会を生きることは、そんなに幸せなことか。幸せなことに違いない。しかし、その平和で豊かな社会を生きている今どきの大人たちのなんとブサイクなことかと、たいていの若者たちが見ている。自分では正しく魅力的な人間のつもりで、他人よりも自分の方が正しく魅力的な人間だとうぬぼれていても、若者たちはそのようには見ていない。正しく魅力的な人間だと人から見られたくてうずうずしながら生きているのだが、それは、基本的には他人よりも自分の方が正しく魅力的だと思っているということであり、したがってすでにもう「他者の輝き」にときめいてゆく心模様は崩壊してしまっていることを意味している。そんなインポテンツあるいはインポテンツ予備軍の大人たちがあふれかえっている世の中だ。そうやって勃起のための特効薬やサプリメントの商売が大いに繁盛している。
 そんな生き延びることが約束された平和で豊かな社会の幸せなものたちよりも、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」たちは、もっと切実にもっと豊かに「今ここ」の世界や他者の輝きにときめいている。彼らの生は「今ここ」を生きて、「今ここ」に消えてゆく。「今ここ」しかない。生き延びる未来なんかない。まあ、ネアンデルタール人も戦中戦後のこの国人たちも、そうやって生きていた。
 ちっとも魅力的でもないくせに、自分のことを正しく魅力的な人間だと思ううぬぼれだけは人一倍強い大人たちがあふれかえっている。


 誰もが人に好かれたがっている世の中で、人と人がときめき合っていなければ世の中は成り立たない。しかしそんなことは誰もが人にときめいていればいいだけのことで、他人が自分のことを好きになろうとなるまいと他人の勝手だし、他人の心の中などわかるはずもない。
 他人に好かれたがるなんて、他人の心を支配しようとする欲望だともいえる。
「相寄る魂」を実感することなんか、永遠に不可能なのだ。
 自分が一方的にときめいてゆくことができるだけ。
 ときめかれることなんか当てにするな。ひたすら一方的にときめいてゆくしかないのだ。
 ときめかれることを当てにした瞬間から人と人の関係はぎくしゃくしてくるのであり、ときめかれたいという欲望が満たされない不満で人の心は病んでゆく。
 まあいまどきは、ときめかれたいという欲望が満たされない不満が渦巻いている世の中であるらしい。そうやって大人たちの心は停滞し、その表情が歪んでゆく。ちっとも魅力的な人間でもないくせに、厚かましく「ときめかれたい」などと思うな。そんな不満など持つな。そして、ときめかれている、といい気になるな。そんなことは永遠にわからないのだ。
 ときめかれたいという自意識の欲望ばかりを膨らませながら今どきの大人たちは、ときめく心を失ってゆく。そうやってインポテンツになっていった男たちが、僕のまわりにも何人もいる。ほんとうかどうか知らないが、いまどきは、60代の男たちの3分の2が真性あるいは仮性のインポテンツになってしまっているという説もある。
 で、大金持ちになってたくさんの美女を侍らせればその病は治癒されるかといえば、そんなものでもない。自分の中の「ときめく」という衝動がすでに崩壊してしまっているのだもの、ときめかれたって駄目なのだ。一方的にときめいてゆくことができなければ、心のはたらきも体(命)のはたらきも活性化しない。
 美女にときめかれる満足だけで勃起できるわけではない。勃起できるかできないかは、基本的には抱きしめた「感触」の問題であり、そこにおいては相手が美女であるか否かという問題は特に重要ではないし、美女ではないからといって悲観する必要もない。
 ときめくことなんか、目の前にいるたったひとりの古女房が相手でもできるし、できないときはどんな美女が相手でもできない。それは、人間性の自然としての「自分=この生」を忘れてゆくタッチ、すなわち「もう死んでもいい」という無意識の感慨を持っているかどうかという問題なのだ。その感慨が、抱きしめた「感触」に反応して勃起する。そういう「死=むなしさ」に対する親密さとともに心も命もはたらきはじめるのであって、「ときめかれたい」と「自分=この生」の充実に対する欲望ばかり膨らませているから自滅するほかないのだ。
人のせいにしたり人を当てにしたりしてばかりいてもしょうがない。そうやって「自分は悪くない、悪いのは他人であり世の中だ」という恨みがましいスタンスで生きていて、誰がときめいてくれるものか。
自分なんか生きていてもしょうがない存在であり、「もう死んでいい」という勢いで勃起してゆくのだ。
 生きることに途方に暮れている「この世のもっとも弱い存在」にならなければ勃起できないし、身売りされてゆく貧しい家の娘の「聖性」と「かなしみ」もそこにこそある。まあ人間なら誰もがどこかしらに、そういう「もう死んでもいい」という「自分=この生」からはぐれてゆく契機となる感慨を抱えているのであり、少年少女が性に目覚めるとはそういう感慨に目覚めるということだろう。人と人は、そういう感慨を共有しながらときめき合っているのではないだろうか。


 ネアンデルタール人は、人が生きることのできない環境を生きていた。彼らは生きる能力を持っていたのではなく、誰もが目の前の他者を生かそうとし、誰もが他者に生かされていただけなのだ。彼らは生きてあることに途方に暮れていたし、「もう死んでもいい」という感慨とともに日々を過ごすほかなかった。そういうものたちだったからこそ、他愛なく豊かにときめき合い、毎晩セックスして死んでゆくものの数以上に繁殖しながら生き残っていったのだ。
 まあそこは極寒の環境下だったわけで、男と女が抱き合う理由は、抱きしめた「感触」がすべてだったのであり、まあ男にとっては相手が美女であるか否かということなどどうでもよかった。下世話な言い方をすれば、見かけがいいだけの若い娘の体よりも、脂の乗った成熟した女の体の方がありがたかったのかもしれない。抱きしめたときの身のこなしだって違うだろうし。
 抱きしめるにせよ、抱きしめられるにせよ、その「感触」を味わうことは、みずからの身体を忘れて相手の身体ばかりを感じてゆく体験である。抱きしめている自分の体、抱きしめられている自分の体が気持ちいいのではない。それは「自分=この生」から解き放たれる体験なのだ。
 したがって彼らは、現代人のように「好かれたい」となんか思っていなかった。「生きられない」ものとして、ただもう「好きにならずにいられない」心模様を豊かに持っていただけだ。そうやって「自分=この生」から解き放たれる体験がなければ生きてあることができなかった。彼らは、未来に向かって生き延びようとあくせくしていたのではない。「自分=この生」が「今ここ」に消えてゆくような生き方をしていた。
「死=むなしさ」に対する親密さは「無常感」という日本列島の伝統の美意識=世界観であるが、ネアンデルタール人もまたそのような心模様で生きていた。それはもう、人類史の普遍的な心模様なのだ。人は、そのような心模様を持たないと生きられない存在であり、そこから人間的な知性や感性が生まれ育ってきたし、そこでこそ人と人がときめき合う関係が生成している。


 人間性の自然=普遍は、「生きられなさを生きる」ことにある。この生の根底のかたちはそのようにして成り立っているのであって、生き延びようとする欲望を膨らませているのではない。生きものに、生き延びようとする「本能」などというものははたらいていない。
心も体も「生きられなさを生きる」というかたちで活性化してゆく。われわれのこの生は、生と死のはざまで生成している。
ネアンデルタール人は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに、人が生きられるはずのない苛酷な土地に住み着いていた。そうして彼らは、世界中でもっともときめき合っている人々だった。人は「もう死んでもいい」という勢いで「自分=この生」を忘れて他者にときめいてゆく。そんな勢いで献身してゆくことができる人たちこそが人類を生き残らせてきたのだ。そもそもそんな関係なしに猿よりも弱い猿であった人類が生き残ってくることなどありえないのであり、ネアンデルタール人は、「生きられなさ」を共有しながらときめき合い献身し合ってゆくという、人と人の関係の自然・本質の極限を生きた人々だった。
 人間性の自然・本質、と言い換えてもいい。といっても僕は、そこから通俗的な「愛の賛歌」みたいなことがしたいわけではない。ネアンデルタール人が氷河期のヨーロッパで生きていたという事実の、そこにこそ人類史の言葉をはじめとする「起源論」を解くカギが隠されているに違いないのだし、生き延びる能力をむやみに欲しがったり自慢したがったりしている今どきの文明社会の倒錯した観念のさまをあぶりだしたいのだ。今どきのこの社会は「生きられないこの世のもっとも弱いもの」たちを助けてやると合唱しながら、ますます追いつめてしまっている。そうやって「生き延びる能力」ばかりが称揚されている世の中だ。そうして「生き延びる能力」を欲しがって自滅し、病んでゆく人のなんと多いことか。
「生き延びる能力」が称揚されるのなら、どうしてもその能力に差が出て、猿社会のような「順位」が生まれてしまう。そうして、避けがたくその能力を競い合う社会の構造になってしまう。べつに貧富の差とか出世競争とかということじゃなく、基本的な人と人の関係そのものにおいて、相手よりも優位の立場に立とうとする欲望を持ってしまっていることも少なくない。まあ、人に軽んじられて生きてきたものほどそのルサンチマンでそうした欲望を募らせていることも多いのは、それだけ人をランク(順位)付けしたがる社会だからだ。今どきの「かまってちゃん」といわれる人にちやほやされたがる人間とか、むやみに自慢したがったり威張りたがったりする人間とか、セレブの社会だろうと下層社会だろうと、そんな目障りな大人がどこにでもいる。
 上から目線で人を裁いたり、支配しようとしたり、下層の庶民の社会にだってそうやって「優越感」に執着してしまっている人間が吐いて捨てるほどいる。そんな現代社会の情況が「生きられないこの世のもっとも弱いもの」たちを追いつめている。
 であれば、いっそ「追いつめられるもの」になった方がいいのかもしれない。そこから、本格的な知性や感性の輝きを獲得してゆくことは不可能ではない。そうやって「乞食姿に身をやつした神」のように「この世のもっとも低いところに立った視線」によって、はじめて世界の真実や輝きが見い出されたりする。
 他人を見下そうとばかりして生きているから、「世界の輝きにときめく心」としての知性や感性がどんどん停滞していってしまうのだ。かなしいことに、下層の庶民の社会にもそんな人間がたくさんいる。下層の庶民だからこそ「この世のもっとも低いところに立った視線」を持てるかというと、あんがいそうでもなく、逆だったりする。この世の最高の知性の人が「わからない、わからない」と嘆いていて、下層の庶民のくせに何もかもわかっているかのような口ぶりをしたがる人間がたくさんいたりする。
 下層の庶民なんか、「生きるとは何か」というもっとも基本的な問いなど忘れて、「どう生きればよいか」ということばかり追求していたりする。
「この世のもっとも低いところに立った視線」とは、そういう「もっとも基本的な問いを持つ」ということでもある。たぶん、本格的な学者や芸術家は、そういう「乞食姿に身をやつした神」のような視線を持っているのだ。
 べつに学者や芸術家にならなくてもよいが、誰だって、何かに「ときめく」とか「夢中になる」とかという視線を持たなければ、心が病んで認知症やインポテンツになってしまう。
「世界の輝き」は、「この世のもっとも低いところ」に立ったもののもとにあらわれる。
 つまり、「他愛なく」ときめいてゆくことができればいいだけなのだろうが、誰もが自意識過剰になってしまって、その「他愛なく」がとても難しい世の中になっている。「自分の存在の正当性」とか「生き延びる能力」などに執着しながら自閉症的になってしまって、「自分を忘れて他愛なくときめいてゆく」ことができない。
 ときめいているふりをしても、なんだか作為的でわざとらしい。欺瞞的、と言い換えてもいい。
まあ、現実社会のことなどどうでもよくて忘れてしまいたいくらいだが、僕としては思考することが生きることであり、そういう欺瞞的な思考の知識人に「これが人間性の真実だ」などと語られると、やっぱり「そんなことがあるものか」といいたくなってしまう。