この生の愚劣を自覚する・ネアンデルタール人論251

ここでは今、ちゃんとした「ネアンデルタール人論」を書くための基礎的なことについてずっと考えています。まだ、スタート台に立つこともできていない。もしかしたらもう死ぬまで立てないのかもしれない、と思ったりもしています。
まあ、それでもいいのかもしれない。
自分が読んだ本のことをまとめるだけなら簡単だけど、ここではそれらの本の内容に対して「そんなことあるものか」と反論していきたいわけで、反論の土台のところを考えるだけで一生が終わってしまいそうです。
考えれば考えるほど、自分の言いたいことをはね返してくる世の中の壁の厚さを思い知らされてしまう。
「集団的置換説」なんてほんとにアホな空論なのだけれど、現在の世界はそういう説が優勢になってしまうような構造になっているわけで。
20〜15万年前以降のアフリカのホモ・サピエンスのことを「現生人類」と呼んだりして、おまえらみんなアホかいいたくなるばかりだけど、こんなふうに盾突いてばかりしていたら、どんどん友達を失くして孤立無援になってゆくばかりです。いや、孤立無援になってもかまわないけど、徹底的に盾突いてゆくのはかんたんなことじゃないし、盾突くための準備をしているだけで一生が終わってしまいそうです。なんだかやりきれなくもあるけど。

現在の人類学の世界では、多くの研究者が「ネアンデルタール人は滅んだ」と「集団的置換説」を合唱している。それはなんだか今流行りの「移民拒否」の右翼思想にも通じていて、まあ裏返しの「ジェノサイド(民族浄化)」の思考かもしれない。くだらない、どうしようもない思考停止だ。いじめだって、ジェノサイドみたいなものだろう。現代社会には、思考停止というか、知性や感性の停滞・衰弱が世界の隅々まで蔓延してしまっている。意味や価値を共有する相手と固まって、そこから外れているものを排除しようとする。考えることが一見合理的なように見えて、じつはただもう即物的・図式的なだけだ。
それが人為的であれ自然ななりゆきであれ、そういう「ジェノサイド=民族浄化」が起こったわけではないのだ。
まあ、ホモ・サピエンスネアンデルタール人の戦闘があったというような考古学的証拠は何もないし、現在では、文化=知能が遅れていたネアンデルタール人が勝手に生き残る能力を失って自滅していったということになっているのだが、同じ地域に共存していれば同じ人間なのだから文化=知能などすぐに追いついてしまうし、そのように解釈できる考古学的証拠はいくらでもある。それを集団的置換説では「ネアンデルタール人が真似をした」と安直にいっているのだが、真似ができるなら滅んでしまうことなどないだろう。
クロマニヨン人の骨が出てくる地層の下には、ほとんど必ずネアンデルタール人の骨が埋まっている。両者のあいだに戦闘があったり、ネアンデルタール人が逃げ出したり自滅していったりしたのなら、同じ地層から両者の骨が出てこなければつじつまは合わない。ネアンデルタール人クロマニヨン人へと進化していったからこそそうなっているわけで、「両者が混在している」という考古学的証拠など何もないのだ。そしてそれは、両者が同じような埋葬の仕方をしていたという証拠でもある。
集団的置換説の論者たちは、ネアンデルタール人クロマニヨン人の文化は異質だったというが、両者の文化的連続性を示す証拠は、次々に発見されてきている。

現在のゲノム遺伝子の解析研究の結果によって、現在のアフリカ以外の人類はみなネアンデルタール人の遺伝子を受け継いでいて、純粋なホモ・サピエンスなんかアフリカにしかいないということが分かった。それは、アフリカ人以外はホモサ・ピエンスではないということであり、アフリカ人以外をホモ・サピエンスというならアフリカ人はホモ・サピエンスではないということになる。
現在の古人類学では、5万年前のアフリカのホモ・サピエンスや3万年前以降のヨーロッパのクロマニヨン人のことを「現生人類」と呼んでいる。でもクロマニヨン人は、現代人と同じようにおそらくすでにネアンデルタール人の遺伝子をそなえていたのであり、アフリカ人のような純粋ホモ・サピエンスではなかったのだ。それが、現在の遺伝子学でいわれているところの「現生人類はネアンデルタール人と交配していた」という通説の意味するところではないだろうか。そしてそれは、ネアンデルタール人がアフリカで拾ってきたホモ・サピエンスの遺伝子を取り込んで勝手にホモ・サピエンス化していったというだけのことかもしれないのであり、アフリカ人が大挙してヨーロッパに移住してゆきネアンデルタール人の遺伝子をほんの少し取り込んだ、ということを意味するとはかぎらない。それは、基本的にはというか遺伝子学的には、ネアンデルタール人の男が(たとえ一人でも)アフリカのホモサピエンスの女と交配したことがきっかけになっているのであって、アフリカのホモサピエンスの男がネアンデルタール人の女と交配しながら広まっていった現象ではないのだ。アフリカのホモ・サピエンスの集団の勢いが優勢で、ホモ・サピエンスの男がネアンデルタール人の女と交配していたというだけなら、生まれてくるこのミトコンドリア遺伝子はすべてネアンデルタール人のそれのキャリアになってしまうのであり、それでは、ホモ・サピエンスの集団にネアンデルタール人の女が囲い込まれるということはまったくなかったということを意味するのであり、そんなことは常識的にありえない。ホモ・サピエンスの集団のほうが優勢であるなら、ホモ・サピエンスの男たちがネアンデルタール人の女を略奪してくることはいくらでも起きていたはずだし、ネアンデルタール人の女たちだってみずからの集団を逃げ出してホモ・サピエンスの集団に身を寄せてゆこうとするに違いない。「集団的置換説」の論者たちの言い分では、そうしないとネアンデルタール人の女が生き残るすべはなかったのであり、それくらいの知恵は猿でも持っている。集団的置換説によれば、アフリカのホモ・サピエンスの男のほうがずっと優秀で魅力だったといっているのだから、そうならないはずがないし、そうなればネアンデルタール人ミトコンドリア遺伝子は増えこそすれ、減るはずがないのだ。そうなれば、ホモサピエンスの男たちは競ってネアンデルタール人の女と交雑しようとするだろう。それは、ネアンデルタール人の女のほうが絶対的に魅力的だということ以前に、男というのは一緒に生まれ育った顔見知りの女よりも普遍的に見知らぬ女とセックスをしたがる傾向があるからだ。

5万年前のネアンデルタール人の遺伝子の組成が、アフリカのホモ・サピエンスとまったく違っていたのではない。ほんの一部分がネアンデルタール人固有のものになっていたというだけのことで、ほとんどの部分はアフリカのホモ・サピエンスと同じだった。同じ人間なのだもの、すべてが違うということなどありえない。チンパンジーと人間だって、1〜2パーセント違うだけだし、ヨーロッパのネアンデルタール人とアフリカのホモ・サピエンスは、もっと似ていた。
ヨーロッパのネアンデルタール人の祖先は50〜30万年前にアフリカ人と別れて固有の遺伝子を新しく獲得していったし、アフリカ人もまたアフリカ固有の遺伝子を新たに付け加えていった。
しかし人類の血は、いつか必ず世界中で混じり合ってしまう。同じ人間なのだからネアンデルタール人だってホモ・サピエンス化してゆく契機は持っている。まあ、生活の文化が発達して気候が温暖になってくれば、ネアンデルタール人だってホモ・サピエンス化してゆく可能性はないわけではない。遺伝子の突然変異はどの人類にもいつの時代にも等しく起きているわけで、50〜30万年前にアフリカ人とヨーロッパ人が分かたれていったのは、その変異した遺伝子が淘汰されてゆくか残ってゆくかの違いがあっただけだろう。ネアンデルタール人にだってホモ・サピエンス的な遺伝子の突然変異はつねに起きていたが、その遺伝子のキャリアが生き残って集団の中で優勢になってゆくには3万年前まで待たねばならなかった、ということかもしれない。
何はともあれ人類はより住みにくいところより住みにくいところへと拡散していったのだから、ネアンデルタール人的な遺伝子を持っていなければ住み着けるはずもなく、拡散してゆかなかったアフリカ中央部だけが、その遺伝子を持たなくても生き残ってくることができたのだ。そう考えることによって、はじめて現在の状況証拠とのつじつまが合う。
集団的置換説の研究者たちは、人類の文化の進化発展の基礎はアフリカのホモ・サピエンスにあるというのだが、僕としては、その基礎はネアンデルタール人のもとにこそあるのだ、といいたい。そして彼らだけでなく、味方の「多地域進化説」の論者たちだって、「人類は利益を求めて進化してきた」という問題設定というか人間観で考えているし、「3万年前には少数のアフリカ人がヨーロッパに移住してゆきそこでネアンデルタール人と交配した」ともいっているわけで、それはもう「3万年前にヨーロッパに移住していったアフリカ人などひとりもいない」というここでの仮説とも違ってしまっている。
いろいろ悩ましい。
この生は愚劣で、人は愚かな生きものだ。だからこそ、その文化を進化発展させてきた。「もう死んでもいい」という勢いで進化発展させてきた。
内田樹は「上機嫌」であることが人の生きる道だといっているらしいが、われわれはもう「嘆き」なしに生きてあることなんかできないし、人類の歴史はこの生の愚劣とみずからの愚かさの「嘆き」を共有しながら進化発展してきたのだ。
というわけで、僕もここであれこれ悪あがきというか悪戦苦闘しないといけないはめになっている。