よいお正月を・ネアンデルタール人論250

といいつつ、全然関係ないことを書きます。
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人類が住みにくさがいやで逃げだすような存在であったのなら、「人類拡散」は起きていない。むしろ、住みやすさに倦んで拡散していったのだ。それは、より住みにくい土地より住みにくい土地へと移動し住み着いてゆくいとなみだった。なぜそんなことができたかといえば、その新しい土地には人と人が他愛なくときめき合ってゆく関係が生成していたからだ。それさえあればどんなに住みにくくても住み着いてゆくことができたし、その「もう死んでもいい」という勢いの「ときめき」こそが人類史に進化発展をもたらした。
この生や自分に執着してしまったらというか、そうやってこの世界が完結してしまったら、心は停滞・衰弱してゆく。そのことに耐えられなくて人類は拡散していったのだし、その現象の果てに氷河期の北ヨーロッパネアンデルタール人が登場してきた。人類史上、彼らほど他愛なくときめき合っていた人々はいないし、その関係なしに誰があんな苛酷な土地に住み着いていったりするものか。
住みやすければそれでいいというわけにはいかない。住みやすさにまどろみながら、心は停滞・衰弱してゆく。平和で豊かな社会の現代人は、そうやってこの生に居座りながら、ますます知性や感性を停滞・衰弱させてゆき、認知症やインポテンツや発達障害等のさまざまな社会病理を生み出している。
何より、大人たちがどんどんブサイクになってきている。彼らは、自分が正しく清らかな人間のつもりでいて、そんな自分に対する執着のぶんだけ、世界や他者に対する「反応」が鈍くなってしまっている。世界や他者を自分の意味や価値の物差しでいけしゃあしゃあと吟味分析したり裁いたりすることは熱心だが、生まれたばかりの赤ん坊のように無条件で世界や他者の存在そのものの輝きに他愛なくときめき反応してゆくということはない。そうやって「観念で裁く」ことばかりして、「体ごと反応してゆく」ということができない。だから、顔つきがブサイクになってゆくし、知性や感性も停滞・衰弱してしまっている。
彼らには、「出会いのときめき」というものがない。そしてそれは、「別れのかなしみ」がないということでもあるわけで。

原始時代に戻れというのではない。
まあ今どきの世の中でも、エリートの本格的な学者や芸術家であれ、下層の名もない庶民であれ、若者や子供たちであれ、そういう「他愛ないときめき」を持っている人は持っているが、その中間のマジョリティを形成する「大衆」とか「市民」と呼ばれる層に、そうした停滞・衰弱が蔓延してしまっている。そうしてそんな「大衆」や「庶民」の代表として、あれこれのマスコミ知識人が跳梁跋扈して時代や国について語り合っている。
それにしても、彼らはどうしてあんなにも政治や経済というものを信じられるのだろう。そこのところが僕にはよくわからない。国の政治や経済が安定すれば、人と人が豊かにときめき合う社会が生まれてくるのだろうか。そこのところで僕は、国などというものは信じていない。人と人は、「国=集団」からはぐれた心を持ち寄ってときめき合ってゆくのではないだろうか。思春期の少年と少女は、家族という集団からはぐれた心を持ち寄ってときめき合ってゆく。
「ときめき」は、集団からはぐれてしまっていることの「心細さ」から生まれてくるのであって、集団の安定にまどろんでいるその横着な心のもとにあるのではない。
どんなに平和で豊かな社会になっても、人の心は避けがたくその安定と繁栄からはぐれていってしまう。
だから僕は、国なんか信じない。僕の心の中では、「理想の国家」などというものは未来永劫存在しないし、そんな国家の建設を目指すのが人間性の自然・本質だとはぜんぜん思わない。
どうして国などいうものを信じられるのだろう。彼らは、国の政治や経済が安定すれば人の世のすべての問題が解決されるかのような言い方をしてくる。とくに団塊世代は、そう信じている人が多い。国の政治や経済の問題がすべてに最優先される、と。まあそう信じることができるということは、それだけ図式的なものの見方しかできないということであり、それが彼らの思考の底の浅さというか限界になっている。
民主主義だろうと国家・民族主義だろうと、そんなことをいわれても、人は誰もがつまるところ「人情の機微」の中で生きているわけで、われわれの日々はその問題に翻弄されながら流れていっている。国の政治や経済のことを考えているどころではないのだ。

一流の画家や小説家が、人から「儲かるのでしょうね」といわれて、「私はお金のために描いている(書いている)わけではありません」と答える。理科系の国立大学の教授の給料は、私立大学の教授のそれの3分の1以下だともいわれている。それでも彼らが私立大学からの誘いを断っているのは、世界に通用する本格的な研究がしたいからで、国立大学でないと世界から相手にしてもらえないという状況があるらしい。そして、若くて貧しいシングルマザーが、日々の暮らしのつらさやかなしみを分かち合える友達が欲しいと願う。選挙に行ってこの国の政治や経済を変えようとする行動を起こせ、といわれても、彼女の心はすでに国という集団からはぐれてしまっている。自分がこの国の一員だとも思っていない。本格的な研究をしている大学教授だろうと貧しいシングルマザーだろうと、お気楽な「市民・大衆」と違って、彼らは「それどころではない」というところで生きている。
いや「市民・大衆」だって、つまるところ国という集団からはぐれたところに息づいている心でときめいたり感動したりしているわけで、じつは誰もが集団からはぐれた「ひとりぼっち」の心を抱えている。おそらくそこにこそ、人間性の自然・本質がある。そこに立って、人は人にときめいてゆく。幸せであろうとあるまいと、心を「集団」に売り渡してしまったらおしまいなのだ。彼らの心は、楽しく集団と一体化しつつ、じつは誰にもときめいていない。誰もが集団と自分の関係をまさぐっているだけで、他者との一対一の関係なんかない。集団に心を売り渡してしまうことは、「自分」をまさぐっていることでもある。まあそうやって「国の政治や経済が安定すれば人としての生のたいていの問題は解決される」という思想になってゆく。
つまり彼らは、国の政治や経済が安定しなければ人としての生は成り立たない、といっているのだ。団塊世代には、そういう雑駁な思考の持ち主がじつに多い。なにしろ「団塊世代」というくらいだから、彼らは「国=集団」を信じている。国の政治や経済の安定こそこの生の第一義的な問題だと思い込んでいる。
しかし、国の政治や経済が極めて不安定な戦時下だろうと、平和で豊かな時代のわれわれよりもずっと「この世界の輝きにときめく」という人間らしく豊かな心映えで生きていた人はいくらでもいるのだ。
今話題の『この世界の片隅に』という映画は、そういうことをわれわれに思い知らせてくれている。そこでは、ご飯を食べるとか野の草や花をめでるとか、ひたすら「片隅」の「世界の輝き」にときめく心が表現されている。「片隅」と「国」、どちらにこの生の「真実」や「輝き」が宿っているのかという問題を、この映画の監督は差し出している。
理想の国家などというものはない。国家など信じない。
「国」の代わりに「時代」と言い換えてもよい。今の世の中は人々の心を操作する仕組みがとても複雑で高度で巧妙で、われわれの心はかんたんに「時代」と「一体化」させられてしまう。そうやって表面的には浮かれているように見えても、ときめく心はどんどん停滞・衰弱していっている。誰もが、「(時代=集団と一体化している)自分」をまさぐりながら浮かれているだけで、世界や他者の輝きにときめいているわけではない。『この世界の片隅に』という映画は、そういう「時代=世の中」に対して、それでも人の心は「片隅=ひとりぼっち」の場に立って世界の輝きにときめいてゆく部分を持っている、ということを描いてみせてくれた。
「ひとりぼっち」の心こそが、他者や世界との一対一の関係を結んでときめいてゆく。
「一体化」するのではなく、「一対一の関係」になるということ。それはもう、他者に対しても世界に対してもそうで、けっして「一体化」することのできない「心細さ」こそが人としての自然な心であり、そこに立って「遠い憧れ」とともにときめいてゆく。

団塊世代は、国の政治経済の安定と一体化してまどろんでゆくことを夢見ている。しかし、そんなところに人の心の自然があるのではない。一体化してしまったらおしまいなのだ。そんな心理機制は、ただの自閉症にすぎない。そうやって自分の頭の中に神に抱かれた世界というか神に支配されている世界を持っている。自閉症の頭の中は、神との一体化した関係で世界が完結している。団塊世代の頭の中も、政治経済が安定した理想の「国=世界」との一体化した関係で完結してしまっている。彼らは、自分の頭の中の世界が壊れることに耐えられない。「よりよい社会を目指す」というが、それは、自閉症と同じで自分の頭の中の世界を必死に守ろうとしているだけなのだ。まあだから、そのちんけな脳みそでこの国の未来がいかにあるべきかということを決定できるつもりでいる。
僕なんか、そんな大それたことなど皆目見当もつかない。自分の頭の中に「完結した世界」など持ち合わせていない。世界は、あくまで自分の外の出会うべき対象であって、自分の頭の中にあるのではない。頭の中はすっからかんでございます。
どんなに「幸せ」という政治的経済的な安定や神との一体化した関係にまどろんで生きてこようと、誰だって死んでゆくときは「ひとりぼっち」の心に浸されてしまう。そこでうろたえ悪あがきをしようと、そこでこそさらに深くこの世界の輝きが心にしみてこようと、死んでゆくことはつまるところ「自分との別れ」を果たすことに違いないわけで、現代社会には「別れる」ということができない心の病が蔓延している。なぜならそれは、世界や他者の一体化した関係として築かれた自分の頭の中の世界が壊される体験だからだ。そういう自己撞着が蔓延している。まあそれは、現代社会の、という以前に、文明社会の歴史の普遍的ななりゆきかもしれないのだが。
彼らは、死んでゆくことができない。自殺して死後の世界に旅立ってゆこうとすることはあっても、「別れる」ということは永遠にできない。 
人は、心の中に「別れのかなしみ」を持っているからこそ、「出会いのときめき」を体験する。われわれは、「旅立つもの」であると同時に「置き去りにされたもの」でもある。心は、そのさびしさやかなしみとともに華やぎときめいてゆく。
みなさん、よいお正月を。